全託ということ

 「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあるが、これはある段階の人に取っては良いことわざである。何もしないでのらくらしていて、それで運良く宝くじに当たったら、思い切り贅沢をしようとか、本来その学校又は会社に入る資格が無いのに親のコネとかその他不正な事をして、そこに入ろうとかという事ではなくて、自分として精一杯やれるだけやったら、後は結果は神にお任せするという解釈であれば、上記のことわざは良いことわざである。

 しかし、信仰する人の中でこれだけ自分が祈ったら、これだけ自分が行をしたら、これだけ自分が尽くしたら、それで後は神様に結果を良くして頂ける様にするという意味での神様に全託ではこれは本当の全託ではない。そこには無条件に、今、救って下さる神は存在せず、自分がこれだけ行をやって、自分がこれだけ祈って、潜在意識を清めたらという条件付きで救って下さる神という事になり、とても無条件に救って下さるという訳には行かなくなるのである。谷口雅春先生が悟られた時、何を悟られたかと言えば、「物質はナイ。心はナイ。実相のみがある。」と悟られたのであり、それはこれから清める潜在意識などナイというお悟りなのである。だから、我々は今、無条件に救われているのであり、完全円満なのであり、祈りや愛行や聖経読誦の蓄積によって、潜在意識を清めてから救われるのではなくて、「清めるべき潜在意識は今、ナイ」というのが雅春先生のお悟りであり、生長の家の真理であり、神髄である。

 そして、それは具体的にどういう事かと言えば、問題は私が自分の潜在意識を清めずとも神が無条件に解決して下さるという事であり、本当の全託即ち、自分の心を行で清める事が要らないで神が自分の心を清めてくれ、支えて下さるという事である。
 それをもっと端的に言えば、自分の心、この何とも制御し切れない様に感ずる自己の心というものは実は自分の心ではなくて、神の心であったのであり、それを自分の心であると思う事が迷いであり、だから、それを良くしよう、清めようなんていう錯覚に陥っていたのである。
 その錯覚の中で見る世界および過去は不完全極まりないという風に感じられ、心の法則というものを知っているものだから、それを全部自分の責任みたいに思って、自分を責めたりするのである。
 しかし、その自分の心なるものは存在せず、それは神の心であったのであり、それにより吾等は生かされ、守られ、導かれているのであり、過去においても一度も自分の心というものは存在せず、自分の心と思っていた心は神の心であり、その神の心が生きてきたのが自分の人生であり、従って自分の人生は神の生、即ち神生であるというのである。その悟りが実相独在の悟り、心もナイ、物質もナイの悟りである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-11-05 12:25 | 信仰 | Trackback | Comments(2)
トラックバックURL : http://joyfulness.exblog.jp/tb/8874917
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by ナオチャン at 2008-11-06 12:09 x
講習会まで数日ですね。最期の追い込みです、数字の運動ではなく信仰の運動です。ワカルヒトにはわかります。さあ勇気をもって邁進しましょう。ナイものはナイのでR。
Commented by koujihori at 2008-11-06 17:13
ナオチャン

 ナオチャンはもちろん講習会来ますよね。先生のお話を真剣に拝聴しましょうね。
<< 迷いは悟りが動き出したのである。 私の人生は生長の家そのものであった。 >>