生長の家の本に書いてある事にとらわれるな。

 生長の家の人はともすれば、生長の家の本に書いてある事にとらわれる事がある。それは無理もない。何故ならば生長の家は基本的には文書伝道であり、聖典「生命の実相」を始めとする実に多くの聖典が生長の家創始者谷口雅春先生、二代目の谷口清超先生の御著書により出ていて、生長の家の信徒はその聖典を熱心に読み、そして、その書いてある通りに生きようとするからである。

 しかし、谷口雅宣先生は過去の生長の家の教典に書いてある言葉にとらわれるのは良くないと仰っている。そして、教典解釈に一番大事なのは自らの良心であると言われている。いくら良いお言葉でもそれ自体が真理そのものであると思うとつまづくのである。本当の真理、即ち神の国は吾等の中のみにある。吾等は如何に生きるべきか、本当の真理というものはどういうものであるかは自分の中にある真理からそのヒントをくみ出す以外に無いのである。

 生長の家の本に書いてある事にとらわれるな。真理は吾が内にあり。

堀 浩二
by koujihori | 2008-11-17 12:30 | 信仰 | Trackback | Comments(46)
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Commented by 早勢正嗣 at 2008-11-17 20:58 x
堀さん、あなたの論旨からは、今、発せられている雅宣先生の言葉や文章にも、とらわれるなということになります。ところが、あなたは雅宣先生の言葉をまともに受けて論じています。これは矛盾ではないでしょうか。たぶん、あなたの説明不足が原因だろうと私は思います。簡単にとらわれるなと言うのではなく、とらわれていけない言葉は何なのか。なぜ、その言葉にとらわれていけないのかを説明することの方が大事ではないかと思いますが。
 どのような言葉にとらわれた結果、弊害があったのかを示してくだされば、検証ができ有益であると思います。
Commented by koujihori at 2008-11-18 00:02
早勢様

 私が今回の記事をアップしたのは雅宣先生のお言葉をまともに受けての事ではありません。私が内側から直感的に感じ取った事です。

 ところで、どのような言葉にとらわれたら弊害があるかと言えば、それは具体的に示すという事は今回は余り、意味が無い様に思います。何故ならそれは全般的に言える事であって、この言葉にはとらわれて良いがこの言葉にはとらわれてはならないという性質のものではないからです。
 すなわち、本当の真理は自分の外部の書物とか本とか、その他、全ての現象として出てきた言葉ではなくて、内なる神のコトバそのものであるからです。
Commented by 山P at 2008-11-18 06:05 x
>真理は吾が内にあり。
 
この内にあるものが、雅春先生の祈りのみによって聖典になったのです。 
>生長の家の本に書いてある事にとらわれるな
それでもこれをいいたいなら> 真理は吾が内にあり。

にも、とらわれてはいけないと思います。 

Commented by YAMADA at 2008-11-18 06:10 x
ブログのアクセス数を尋ねられて、雅宣さんの眼を意識しているのが見え見えで、笑える。
Commented by koujihori at 2008-11-18 09:48
山Pさん

 何か発言されるなら、お名前を書いて下さい。私は基本的に本名を隠すような発言は発言と認めません。

 でも、あえて、あなたの発言にお答えしますが、現象の言葉は内なる現象以前のコトバが形になったものです。だから、それは我らの悟りに導く為の指標にはなりますが、あくまで現象化した一つの具体性を持った限定されたものなのでとらわれてはいけないと書いたのです。
Commented by koujihori at 2008-11-18 09:52
YAMADAさん

 あなたの解釈は実に下劣ですね。私の意図(先生が一般信徒のこの様なブログにも目を向け、かつ認め、賞賛して下さっているという事を伝えたい)は分かる人(ashikabi様)には分かるのですが。
Commented by 早勢正嗣 at 2008-11-18 19:42 x
とらわれてはいけないというのは、書かれてある言葉を抜書きするように、その言葉だけにすべての意図が含まれているようなとらえ方はいけないということだと思います。本の中で著者が何を伝えたかったのか十分に理解することが必要だと思います。それができれば、堀さんの文章から感じ取られるマイナス面のとらわれから、プラス面のとらわれに変わるでしょう。生半可な理解や認識で物事を判断してはいけないということでしょう。雅春先生や清超先生は私たちに素晴らしい言葉を残してくれたのですから、「本に書いてある事にとらわれるな」と言うより、本に書いてある事を真に理解し、両先生の境地に近づいていこうということが大切であると思います。とりとめのない書き方になってしまいましたが、意をお汲み取りください。
Commented by 早勢正嗣 at 2008-11-18 20:56 x
ついでに本気で書いて置きたいことがあります。
雅春先生がいなければ、今の私はありません。私の考え方に重大な影響をあたえました。まだまだ浅い思考しかできませんが、目に見える存在と目に見えない存在のつながり(関係)を考えるとおもしろい限りです。なにしろ私は、、現象という世界でしか物事を認識できないのにも関わらず、目には見えない存在も知ろうとしているのですから。
脇道それてしまいましたが、雅春先生は生長の家をどのように思っていたのでしょう?
「こだわり」という言葉が適正かどうかわかりませんが、雅春先生は生長の家と日本の関わりにこだわっていました。生長の家人として生きることは「日本精神」「天皇国日本」を行じることとイコールと考えていたのではないでしょうか。目に見える環境問題も大切かもしれませんが、生長の家の発祥の礎として忘れてはいけないことが、今は忘れられているような思いがします。生長の家の一番大切なことが忘れられている思いがしてなりません。生長の家って一体どこから始まったのでしょう。見つめなおしてください。
Commented by 山P at 2008-11-18 21:32 x
>雅春先生や清超先生は私たちに素晴らしい言葉を残してくれたのですから、「本に書いてある事にとらわれるな」と言うより、本に書いてある事を真に理解し、両先生の境地に近づいていこうということが大切であると思います。とりとめのない書き方になってしまいましたが、意をお汲み取りください。
上記の書き方なら思考がプラスで聖典を貶めず、嫌な感じは持ちませんでしたね。 
Commented by koujihori at 2008-11-19 09:07
早勢様

>こだわり」という言葉が適正かどうかわかりませんが、雅春先生は生長の家と日本の関わりにこだわっていました。生長の家人として生きることは「日本精神」「天皇国日本」を行じることとイコールと考えていたのではないでしょうか。

 日本精神、天皇国日本というのは現象の日本という事ではなくて、実相宇宙という事だと思います。私はいつでもその事を中心に考えてますし、現在の生長の家の運動もそこからいささかもぶれていないと思います。
Commented by JUN at 2008-11-19 12:55 x
ペンネームで失礼致します。
いつもブログ拝見させて頂いております。
以前もペンネームで感想を書きこまさせていただいたのですが、ペンネームを忘れてしまいまして改めて投稿させて頂きます。

 「真理はわが内に有り」誠に誠にごもっともだとおもいます。聖典に我々が感動するのも「もともとあるわが内なる真理の言葉」が聖典に記された言葉に共鳴するからだと考えます。その共鳴により私達はありがたいことにいつも神の子を自覚させて頂けるわけです。

 「日本精神」という言葉にも我々日本人の中に眠るその言葉が共鳴するのです。しかし何処かで雅宣先生は「日本精神」という言葉は「死語」だと仰ったと耳にしました。それが本当かどうかはさだかではございませんが、本当であれば雅宣先生個人の心の中では「日本精神」という言葉が色々な現象的事情により死んでしまったといわれる方が正しいと思います。
 「日本精神」という言葉を目にした時「美しい」と感じる私は未だにそういう人種ですし、これからもそうありたいと思います。
 なぜならこの素直な気持ちを取り除こうとする事自体「とらわれて」いると思うからです。
Commented by JUN at 2008-11-19 12:56 x
あとこれはまったく批判でありませんが、
過去の生長の家の書物(雅春先生御著書)と、雅宣先生の御著書にどちらに頻繁に心が共鳴するかと言われると、やはり雅春先生の御著書です。
 それは過去の文章にとらわれているかと申しますと、そうではないとおもいます。なぜなら、雅春先生の御著書でも初めて拝読するもの未だに多々ございます。その都度、共鳴し感動しております。

 過去の文章に「とらわれる」とらわれない別として、現在(雅宣先生の御著書)と過去(雅春先生の御著書)どちらに今、共鳴できるかと問われた時、「雅春先生の方です」とおっしゃる方が多いというだけで、過去の文章にとらわれている人が多いというのは間違った認識なのではないかと思うのですがいかがでしょうか?

 勿論雅宣先生の著書に共鳴するという人の方が多くなる時代もくるかもしれませんが、現在の人をさして「過去の文章にとらわれている人々」とするのは自然でないような気が致します。
Commented by JUN at 2008-11-19 12:58 x
 長くなりましたが、感想述べさて頂きました。 合掌
 
Commented by koujihori at 2008-11-19 13:14
JUNさん

 ご丁寧かつ率直なコメント有り難うございます。文章にとらわれるというのはそれがキリストの文章であろうと釈迦の文章であろうと良くないと思います。しかし、文章というのは実相のコトバの表現体でありますから、それは一種の芸術でもあり、悟った方が悦びで表現されたお言葉はそれは格調も悦びも表現されていると思います。また、我々は日本人であれば日本語で考えたり、話したりしますから、それが心を左右する大きな力があるのは明らかでそれを生長の家では「言葉の力」と表現して、これを大事にしていますね。


 でも、それは反面、無形かつ無限の真理のコトバそのものではなく、その一つの限定された表現ですから、それにとらわれたらいけないと申し上げているのです。

 
Commented by koujihori at 2008-11-19 13:15
JUNさん

 ところでJUNさんは雅春先生の御文章により共鳴されると仰いますが、それは当然だと思います。雅春先生は何と言っても聖経「甘露の法雨」を書かれた方です。これはご存知かも知れませんが、先生の自由誌ですね。先生が悟りの悦びを表現したくて書かれたものです。だからその根底には悟りの悦びが溢れているのでそれを読む人に安心と悦びと共感を与えるのですね。だから、それはもう何十年も前に書かれたものだから、もう共鳴出来ないなんて事はあり得ないですね。

 雅宣先生は雅宣先生の御使命があって、それは現代に応じた生長の家の運動を展開させ、また生長の家の教えを現代の人達に分かりやすくお説きになるというのがそれだと思います。実際問題「生命の実相」などは現代の若い人たちにはちょっと難しく感じる人がいるのではないかと思います。それを雅宣先生は色々なイラストやその他の現代の人たちに分かりやすい表現でお話されているのだと思います。
 
Commented by JUN at 2008-11-19 14:52 x
 早いお返事ありがとうございます。あまりに早いので驚きました。(笑)

「文章にとらわれる」ということがどういう状態か考えてみました。
「とらわれる」とは束縛される事、すなわちその言葉を内に秘めていながら実際「生かせない」事だと思いました。後、言葉や物事に「とらわれる」事とそれらを「大切にする」事の違いも、「生かせるか生かせない」かにあると思います。
 そう考えますと(先生にここまで同意していただけるのなら)堀先生の仰りたい事を正確に読者に伝える為には、「過去の生長の家の経典に書いて有る事」に限定せず「現在の雅宣先生の御著書の言葉」にも「とらわれてはならない」と記述された方がよろしいのではないかと改めて思いました。(文章と言うのは記述されたその時点で過去のものとなると言う理由もございます。)
Commented by koujihori at 2008-11-19 15:14
JUN様

 「過去の生長の家の聖典に書いてある事にとらわれるな」なんて書いたかなと思ったら、雅宣先生のお言葉の引用としてそういう表現をしてましたね。

 もちろん、私は過去のものも現在のものもとらわれてはならないと思います。とらわれるという事は別の言い方をすると馬鹿の一つ覚えという言い方も出来ます。私もこれが真理だと思う事があるといつの間にかその事にとらわれている自分を発見します。
Commented by JUN at 2008-11-19 15:25 x
 ゆえに、たとえば「日本精神」という言葉も現在「生かす」事ができなければ「とらわれている」ことになります。
 「生かすことができない」と思った時人はそれを「死語」と呼びます。
しかし、日本精神という言葉に関しては「充分現代社会で有効に生かすことができる」と考える人は多くいらっしゃいますし現に生かしてらっしゃる方もいらっしゃることでしょう。
 別の立場で「歴史的に考えて、国際的に多くの支障があるから言葉の置き換えをした方がよい」と仰る方もいらっしゃると思います。
 しかし私は個人的に差別用語の置き換えにしてもその必要性・有用性に疑問をもちますし(根本は心の問題だとかんがえますので)、もしその言葉に国際的に誤解があるのなら、置換えるのではなく日本人として本来の意味を説明して行く使命があると考えますし、「日本精神」という言葉に美を見出し、未来の為に有効であると考えるのなら、使用をさけるべきではないと考えます。
 
Commented by jun at 2008-11-19 15:26 x
もし生長の家という組織が国際的に歴史的に考慮してという理由で「日本精神」という言葉の使用をさけるのなら、同じ理由から「神」や「仏」ということばも使用しない方がよいという事になりますが、そうはなっておりません。「神」「仏」同様その説明を続けて行き、その有効性も主張すべきです。もし本当に「死語になった」という立場にたつのだとしたら、「有効である」と主張する人々に対し、その無効性を説明するべきだと思います。しかし私は言葉という物はそれを「美しい」と感じる人がいるかぎり有効であるのだと思います。
 今後とも「日本精神」という言葉にとらわれることなく、この言葉を「大切に」し未来に生かしていくことを切に願います。
 勿論、すべての日本人が美しいと感じる言葉について申しあげたいのです。
Commented by JUN at 2008-11-19 15:27 x
ながながと失礼いたしました。合掌
Commented by ashikabi at 2008-11-19 16:46 x
JUN様

>>「とらわれる」とは束縛される事、すなわちその言葉を内に秘めていながら実際「生かせない」事だと思いました。後、言葉や物事に「とらわれる」事とそれらを「大切にする」事の違いも、「生かせるか生かせない」かにあると思います。


 堀さんが本文で表現されている「生長の家の本に書いてある事にとらわれるな」とは、書かれた言葉に拘束されて教条主義(dogmatism)に陥るな、という意味です。

 ですから、「とらわれるな」という言葉を、「生かせない」という意味で解釈し、真意を曲解していたのでは、その後の論旨がどんどん的から逸れてしまいますのでご注意ください。
Commented by 早勢正嗣 at 2008-11-19 19:11 x
皆さんが共有しなくてはいけないものがあります。
私が使った「日本精神」とは、雅春先生が使った「日本精神」と同じものです。雅春先生は「日本精神」について説明されておりますので、それを十分理解したうえで、論じていただきたいと思います。
日本精神にマイナス面があるというのなら、それは雅春先生が説いた日本精神を正しく理解していないということになると私は思います。「日本精神」がマイナス印象を与える思うならば、プラス印象を与える正真正銘の「日本精神」を言葉の力で伝えていけばよいのだと思います。雅春先生もそれを望んでいるのではないでしょうか。

ところで、堀さん
> 日本精神、天皇国日本というのは現象の日本という事ではなくて、実相宇宙という事だと思います。

そのような簡単な割り切り方を、雅春先生は説きましたか?
雅春先生は、なぜ「日本精神」について説いたのか。まずは、ここからみつめていかないと雅春先生が何を伝えたかったのか見えてこないと思います。
Commented by 早勢正嗣 at 2008-11-19 22:03 x
>そのような簡単な割り切り方を、雅春先生は説きましたか?

に対する補足です。
雅春先生は生涯を通して、現象の日本に対する愛国活動を行っていました。実際の雅春先生の活動を見て、論じなくてはいけません。あの精力的な活動から、日本人である私たちが引き継がなければならないものがあるはずなのですが、今の教団にそれを語る人はいるのでしょうか。運動が挫折したからといって、掲げていた灯火まで見えなくしてしまったように私は感じていました。せめて、灯火は捨てていないということは主張し続けて欲しい。(誤解しないでほしいのですが、私は、生長の家が政治と一線を画した以前の活動を復活すべきだとは思いません。雅春先生が何を伝えたかったのかを共有するためです。)
Commented by koujihori at 2008-11-19 22:10
早勢さん

 生長の家は実相独在の教えです。ですから日本国と言えど、それを現象日本という面から見れば、ナイのです。
 生長の家は宇宙の真理を説いていますし、それを生長の家とも言います。それは大宇宙という意味での生長の家ですね。そして、それは中心帰一の理念であり、それが具体的なものとして出てきたのが天皇国日本ですね。ですから、天皇国日本の本体は大宇宙の事であり、実相世界であり、中心帰一の理念の事です。雅春先生はそれを生涯を通じて述べられたのです。
 
Commented by 早勢正嗣 at 2008-11-19 23:21 x
堀さん、認識を共有することからはじめましょう。

雅春先生は、日本精神についてどのように説いていらっしゃいますか?
短くても、長くなっても結構ですから、答えてください。引用著書を書いていただければ、さらにありがたいのですが。
Commented by 山P at 2008-11-20 08:34 x
>先生が悟りの悦びを表現したくて書かれたものです
>雅春先生は何と言っても聖経「甘露の法雨」を書かれた方です。これはご存知かも知れませんが、先生の自由誌ですね。先生が悟りの悦びを表現したくて書かれたものです。だからその根底には悟りの悦びが溢れているのでそれを読む人に安心と悦びと共感を与えるのですね。



聖経「甘露の法雨」は生長の家の観音様が雅春先生を通じて書かれた貴重で奇跡で他の誰にも書けない聖経です。 雅春先生の人生経験や、血のにじむような精進努力、全人類を愛する深い深い祈りによって、貴方の言う無限のすべての全てがそこに凝縮され表現されている有難い得がたい尊い聖経です。 だからこそ、聖経により、霊界、現象人間の無限力が、奇跡が引き出されるのでないでしょうか? 単なる自由詩とか喜びの表現などと誰でも書けると言う様な軽々しく扱われるものでは決してありません。

Commented by JUN at 2008-11-20 09:46 x
asikabi様

 ご忠告ありがとうございます。
「とらわれない」という状態があまりにも漠然としているので,自分なりの解釈をしてみました。
 しかしアシカビさんは堀先生の「文章にとらわれるな」ということは、「教条主義に陥るな」と仰いますが、それは雅宣先生の御主張であって、堀先生の御文章とこれまでの他の方との御会話から「教条主義(=原理主義)におちいるな」との解釈は妥当ではないと判断いたしました。

 

 
Commented by JUN at 2008-11-20 09:47 x
ではなぜ妥当ではないと判断するかと申します。「教条主義におちいらない」という状態も漠然としておりますので、その対義語である「懐疑主義」という言葉をもちいますと、
「懐疑主義」というのは、教義(真理の言葉)のその正当性を疑うのですから、その「懐疑主義」と教えの一つの文章である「真理は一度掴んでも掴んだままでなく執着せず放さなくては成らない」というのとでは、教義(真理の言葉)の正当性を認めているか否かという点でまったく違う物と考えます。
 堀先生の仰りたい事は後者の方で「教条主義におちいらない=懐疑主義であるべき」との意味では仰ってないと判断いたしました。

 そこのところは堀先生ご自身が『私が申し上げたかった事は「教条主義=原理主義におちいるな」ということです。』と仰れば議論を終始致します。(教条主義と原理主義が現在の生長の家では同じ意で用いられていると解釈させていただきます。)
Commented by JUN at 2008-11-20 09:47 x
また現在副総裁が一部生長の家信者に対して用いられる「生長の家の中の原理主義者(教条主義者)」という概念は、過去の雅春先生の御著書を読んで共鳴している(納得している・真理を把握している)一般信者・読者に対し、「聖典のここの箇所には共鳴しても良いが、ここの箇所に共鳴したのであれば一度は懐疑主義的であれ(教条主義ではいけない)」というふうに逆に読者自身の理性による自由な判断を一部束縛しているのではと正直感じる時があります。
Commented by JUN at 2008-11-20 09:48 x
①-文章を読んで真理の言葉を懐疑する者に対し、「共鳴せよ」と強制すること。 
 これは世に言う洗脳でありますが。

②ー文章を読んで自分の自由意思でもってすでに「共鳴している」者に対し、その真理の言葉自体の正当性を「懐疑せよ」ということ。    
これもおかしいと思うのです。

 ①②両方不自然ですが、生長の家で雅宣先生が指摘される原理主義者という立場に置かれている人(の多数)は後者に属すると思うのです。(先生に対する反発があるとするならばこれが原因だと思います。)

 また③-文章を読んで懐疑するものに対し自由を尊重し「充分懐疑しても良いのだ」といったり、また強制的に「共鳴させられて」いる者に対し「懐疑したほうが良い」と開放してあげること。これらとも全く違うと思います。

この③番目をもし言うのであれば今一度雅宣先生ご自身、原理主義者だというレッテルを貼っている人々への再検討が必要であると思います。
(番号を後でつけたので読みにくいと思いますがあしからず)

Commented by koujihori at 2008-11-20 12:32
jun様

 私の考えとashikabi様の考えは同じです。また、私は教条主義や原理主義の反対が懐疑主義だなどと言う考えは持っていません。雅宣先生もそんな事は仰っていません。教典に書かれている一字一句そのものを真理の様に思って、その通り実行するものが原理主義者または教条主義者であって、その通り実行したのが9.11という訳です。
 雅宣先生は教典を理解するのに文字にとらわれることではなくて自らの良心に従う事が大事であると言われています。その良心とは私は自分の中にある神の心であると思います。
Commented by koujihori at 2008-11-20 12:41
早勢様

 信仰の本質というものは教典に書いてある事を全て、覚えている事ではなくて、教典の奧に流れている「久遠の生命」に触れる事です。だから、釈迦は多聞第一と言われた阿難ではなくて、「久遠の生命」に触れている迦葉に自分の後を継がせたのです。
 その「久遠の生命」とはハイの心であります。それは真理に対する全面的なハイです。それは中心帰一の心でもあります。
 そのハイの心、中心帰一の心というのが雅宣先生が仰る所の良心というものです。その良心に従って、信仰するのが本当の信仰であり、過去の教典にこう書かれているからこうするんだと言うのでは本当の信仰ではありません。
Commented by koujihori at 2008-11-20 12:43
早勢様

 私は自分の良心に従う即ち自分の中の久遠の生命に触れて、生長の家は実相独在の信仰であり、それが国家として具体的に現れたのが現象の日本であると申し上げているのです。そして、それは又、同時に雅春先生に教えて頂いた事でもあります。
Commented by JUN at 2008-11-20 12:57 x
>私は教条主義や原理主義の反対が懐疑主義だなどと言う考えは持っていません。

 堀先生御回答ありがとうございます。
 「懐疑主義」が「教条主義」の対義語として使用されるのは一般的なことですから、生長の家が原理主義や教条主義という言葉を使う事に対する一般的な誤解は免れないかもしれません。
 
Commented by 早勢正嗣 at 2008-11-20 14:26 x
堀さん、質問に対して答えていただかないと対話になりません。
日本精神にしても、認識が違うものを双方が論じても何も進展しないでしょう。あなたは、
>過去の教典にこう書かれているからこうするんだと言うのでは本当の信仰ではありません。
と書いていますが、過去に書かれている文章を掲示しなければ、それが今の時代に通用するものなのかどうか解からないと思います。
あなたの書き方は、私がさも、雅春先生の書かれたものはそうしなければいけないようなニュアンスを与えますが、私がいつ、そのような書き方をしましたか?

>私は自分の良心に従う即ち自分の中の久遠の生命に触れて、生長の家は実相独在の信仰であり、それが国家として具体的に現れたのが現象の日本であると申し上げているのです。

具体的にとは、どういうことですか。ここが肝心なところでもあるのです。
Commented by koujihori at 2008-11-20 15:37
早勢さん

 具体的にと言えば、宇宙の中心帰一の理念が現象として現れたのが天皇を中心とする中心帰一国家日本です。
Commented by 早勢正嗣 at 2008-11-20 18:44 x
>具体的にと言えば、宇宙の中心帰一の理念が現象として現れたのが天皇を中心とする中心帰一国家日本です

やっと、現象の日本もお認めいただいたようですね。堀さんの初めの方の書き方は、私には解かりにくかったです。それと、返答に枝葉がついて焦点がボケてしまう傾向があるように私は感じました。

日本精神について
「マコトを尽くす精神、数多くのものがひとつの中心にまとまる心」ということになるのでしょうか。日本精神を自覚していれば、とらわれるという状況も起こらないのでしょうね。

>日本精神、天皇国日本というのは現象の日本という事ではなくて、実相宇宙という事だと思います。


Commented by 仙川健一 at 2008-11-21 01:25 x
生長の家で神の啓示をうけられたお方は雅春先生唯お一人であります。雅春先生がお悟りになった実相世界は完全円満な世界であって、その真髄は不完全な言葉によっては伝え切れない、つまり不立文字の世界であります。しかし雅春先生は何とかしてこの真理を人々に伝えたいとの愛念から、言葉を尽くしてお説きくださったのです。私たちは虚心坦懐に先生の真理のお言葉を拳拳服膺すべきであります。お言葉にとらわれてはならないどころか、おおいにとらわれ、こだわり、お言葉の背後にある真理を理解すべく努めるのが信徒としての正しい姿勢でありましょう。


Commented by koujihori at 2008-11-21 12:20
仙川様

 コメント有り難うございます。生長の家は谷口雅春先生だけが悟りを得て、他の信徒は悟りを得る事が出来ないただの凡夫であるから、その凡夫はただ一人の悟りを得た雅春先生の教えを盲目的に従うという教えではありません。生長の家の真理とは神の無限の知恵は全宇宙、全人類に行き渡っていて、全人類が既に自分の中にある所の真理、即ち悟りを人生学校の学びの中からそれを磨きだして行くというものです。それをキリストは汝の内にのみ神の国はあるなりと表現されたのです。神の国とは真理の事であり、それ即ち悟りの事であります。人間神の子という事はその宇宙の真理の悟りが雅春先生だけではなくて全人類に既にあるという事であります。その実相を拝まれたのがまさしく谷口雅春先生であって、その拝み、祈りの中から数多くの先生の素晴らしい弟子が輩出していったのです。

 雅春先生は全ての人類の中に既にある悟り、神の生命を拝まれ、それが誰に頼る事無く独り立ちして自分の判断で自由に真理を表現して行く事を望まれたはずです。
Commented by 早勢 at 2008-11-21 12:39 x
堀さんの、仙川さんのコメントに対する認識はチョッと違いのではないかと思います。
仙川さんは凡人などという言葉はどこにも使っていません。凡人という言葉を使った時点で、堀さんは仙川さんのコメントの意図を逸脱しているように私は思います。仙川さんの意図は、文末の
>お言葉の背後にある真理を理解すべく努めるのが信徒としての正しい姿勢でありましょう。
に集約されるのではないでしょうか。
文中にある文字やコトバを、誰かが”マイナスの印象を与える「とらわれ」対象となる”と指定(?)したとしても、何故その文字やコトバが使われたのか、その文字やコトバに”おおいにとらわれ、こだわり、お言葉の背後にある真理を理解すべく努めるのが信徒としての正しい姿”であると言っているのではないでしょうか。
Commented by koujihori at 2008-11-21 13:33
早勢さん

 自分の中に真理を自覚し得ない人は凡夫であります。生長の家の真理は谷口雅春先生だけがそれを悟っていらして、その他の人はその先生のお悟りの言葉を何とか分かろうと努力するというのではそれは神になろうとしても神ではない凡夫という事になります。
Commented by 早勢 at 2008-11-21 14:05 x
凡夫がどうだ、こうだをここで話題にしているのではないのですよ。
雅春先生が残されたことばを大切にしたいから、あなたの発した”生長の家の本に書いてある事にとらわれるな”に違和感を覚えた人がコメントしているのだと思いますよ。
Commented by koujihori at 2008-11-21 14:16
早勢様

 これ以上のやりとりは水掛け論になりますのでもう止めましょう。
Commented by 仙川健一 at 2008-11-21 23:48 x
堀様
雅春先生は「人間神の子の真理を悟る者は少ない」と仰っています。人間はすべて神の子ですが、だからといって万人がそのことを悟っているわけではありません。雅春先生がお示しくださったこの尊い真理を本当に自覚し、深めるために先生が万言を費やしてお説きくださっている教えに謙虚に学ぶべきだと申し上げているのです。
Commented by koujihori at 2008-11-21 23:54
仙川様

 「人間神の子の真理を悟る者は少ない」というのは雅春先生の現象に対するお言葉ですね。私もそう思いますよ。でも、我々は本当の姿では神であり、万人がその実相を現す為に毎日、人生学校で刻苦勉励しているのです。雅春先生はその万人の生命の実相を拝まれたのです。
Commented by 解釈が下劣と言われた人 at 2008-11-22 20:48 x
>「人間神の子の真理を悟る者は少ない」というのは雅春先生の現象に対するお言葉ですね。私もそう思いますよ。でも、我々は本当の姿では神であり、万人がその実相を現す為に毎日、人生学校で刻苦勉励しているのです。雅春先生はその万人の生命の実相を拝まれたのです。

そんな拝んでくれる恩人の本に対してとらわれな等と偉そうに書くな!感謝こそすれあーだこーだ言わなくて良い!

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