死にきる

 「武士道とは死ぬ事と見つけたり」という言葉があるが、吾々は本当は何時でも死ぬ覚悟が必要なのである。死ぬというのは実際に自殺するという事ではない。自分の肉体を投げ出す事、投げ出すと言っても実際にビルから飛び降りたりする事ではなくて、心で身体を捨てるという事である。
 それは具体的に言えば、結果を良くしようとしない心、結果を求めない心である。仕事を完璧にしよう、スポーツの試合を必ず勝とう、その他の表現、行動を絶対成功させようとやっきになるのではなくて、結果は神様にお任せして、今の自分の中の神の声に従って、全力を尽くす事である。
 それが死にきるという事である。良くしよう、結果を出そうとすると体はすくみ、腕は縮み、およそ全力を出す事など出来ないのである。結果を良くしようという心を捨て、自らの身体を心で捨て、常に死にきる覚悟で全力を尽くすべし。結果の善し悪しは神様が与えて下さると知れ。

堀 浩二
by koujihori | 2008-11-21 12:39 | 信仰 | Trackback | Comments(26)
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Commented by シコク嫁 at 2008-11-21 13:03 x
>>具体的に言えば、結果を良くしようとしない心、結果を求めない心である。。。なるほど〜私には「死にきる」ということが今ひとつ、よく分からなかったのですが、今日のこの記事でスッキリいたしました。

また、17日のコメントのやり取りを拝見しました。私には難しくて途中で分からなくなってしまったのですが、初めに読んた時、堀さまの記事の最後の一文、「真理は吾が内にあり。」は肚にストンと落ちました。
いつも「自分は間違っていないだろうか?これで良いのだろうか?」と生活している私にとって有難いお言葉でした。
Commented by koujihori at 2008-11-21 13:19
シコク嫁様

 有り難うございます。真理というのは頭ではなくて、ハートでないと理解出来ないですね。シコク嫁様はそれをして下さって有り難うございます。それこそが幼子の心ですね。またこれをキリストは「汝ら貧しき者、神の国は汝のものなり」と表現されてますね。貧しいというのは富が無いという事ではなくて、色々な余計な知恵とかそんなものがなくて心が空っぽで美しい人という意味ですね。
Commented by JUN at 2008-11-21 17:36 x
>真理というのは頭ではなくて、ハートでないと理解出来ないですね

 まさにその通りだと思います。厳密に言うと「ハート」の定義も必要なのでしょうが・・・(笑)。
 逆に私は「国家の中心帰一」の真理をハートで理解せず、「絶対的中心は無い」という相対性理論という物理的論理にひっかかってその宗教的真理をお認めになられていないのが雅宣先生だと思っておりました。(ごめんなさい、こんな言い方しかできません・・・)
 正直いろいろな方々とこの事について水掛議論が起こるのは雅宣先生が原因だと思っておりました。
 雅宣先生は科学的な実証性を重視されている方だとお見受けしておりますので、科学的実証性のない国家の中心帰一については、おそらくはっきりかかれている物はないとおもうのですが、先生が天皇への中心帰一の真理をお認めになられている御文章があれば是非教えて下さい。
  私は、「信仰への道」等の先生の御文章一通り確認しております。

 
Commented by JUN at 2008-11-21 17:37 x
「民族主義が戦争の原因になるから」という理由もお聴きしたことがあります。しかしそれを理由に真理の言葉を発しないと言うのであれば、「人間神の子」という言葉も時と場所と人を間違えば、戦争の原因になります。
 ゆえに「天皇の中心帰一」も「人間神の子」と同様にもっと組織の中、書物では雅宣先生より発されてよいはずです。
   
 尚、今回私は議論するつもりで書きこんではおりません。
勿論、ただただ私の雅宣先生に対する誤解である可能性も充分考慮にいれて投稿しております。
また同じような見解または誤解を抱く人の存在も把握しておりますので、生長の家の先生方には一末端信者の雅宣先生に対する誤解がどういう所から生じているのかという研究材料にでもしていただければ幸いに思います。
Commented by koujihori at 2008-11-21 18:06
JUNさん

 そうですね。私の知る限りでは雅宣先生が天皇への中心帰一というお言葉を発せられた書物や講演は無いと思います。

 でも、先生は中心帰一の真理は説かれています。それは私はこの耳ではっきり拝聴しました。私はそれで十分だと思っています。先生が天皇への中心帰一をお説きにならないのは何らかの理由があると私は思っています。それはやはり、現在はそれを強調しないというのが神の御心であるからだと思っています。また、私は先生の御文章と講習会を拝聴して、直感的に観ずるのは先生は科学的表現は良くお使いになるのはそれは方便であって、その根底には宇宙の真理、生長の家の真理が脈々と流れているという事です。
Commented by 早勢 at 2008-11-21 22:16 x
事実だけをお知らせします。昭和55年の文献なので、その後訂正されているかもしれません。訂正されていることをお知りの方は、ご指摘ください。

“人間神の子”の生命の実相顕現を第一義とする私たちは、運動の三本柱として、「日本国の実相 天皇の実相顕現」を奉戴している。吾が祖国たるのみの理由ではなく、神意の地上顕現の真理国家たる日本、宇宙普遍の真理の継承実現者たる天皇の実相顕現である。しかも、この自覚は、生長の家の歴史を見ればあきらかなように、発祥の初めより使命づけられている。
(略)
では、「天皇国日本」実現のために私共は如何にすればよいか。
(略)
世にも比類ない天皇の御人徳、国体の特質を十二分に理会することである。そして次に、第三者に自信をもってお伝えすることである。
(生長の家祭務部 編著 「天皇国日本」 昭和55年出版)
Commented by JUN at 2008-11-22 05:55 x
>でも、先生は中心帰一の真理は説かれています

堀先生大変貴重な情報ありがとうございます。実際どういう風に説かれているのか私も拝聴させていただきたかった(いただきたい)です。

 私の家も実は3代にわたり生長の家なのですが、
 私も十数年前から世の中の社会問題に関心を寄せるようになりまして、
環境問題等の文献を読むうちに、「まさに昭和天皇が戦前から危惧されていたことが起こっているのだな。」と感じまして、本来の日本天皇のご意思と理念の到来の必要性を抱きそれを勉強するべく、改めて生長の家の門をたたいたのです。

 すると誰も天皇のご意思の事を口にする方がいらっしゃらない状況、むしろさらに減少方向に進んでいる・・・・正直、肩透かしにあいました。

 

 
Commented by JUN at 2008-11-22 06:09 x
最近「ナショナリズム運動」が戦争の原因だと仰るので、天皇思想を言わなくなったのはそれが理由っぽい?(はっきり仰っていないのでわかりませんが・・・)

 最近はイスラム原理主義の問題点を再びピックアップされている。
それを読んだとき、私はイスラム原理主義者といわれる人々が何故、文字に書かれた「原理」に忠実に行動しようとするのか、その心理について考えたのです。
 むしろ原理主義者の起こした行動より(文字通りしか動けないという行動の不自然さを指摘するより)、むしろその行動をおこすにいたった「心」に着目するべきではないかと考えるのです。
Commented by JUN at 2008-11-22 06:43 x
 自分達の行動を限定しなければならないというのは、やはり「自分達は本来弱い存在なのだ」という思想、少し飛躍させても良いと思いますが、結局「原罪思想」が原因になっていると思ったのです。(考察の途中経過はここでは省略させていただきます。)

 ゆえにテロ行為の主原因はやはり「原罪意識」であって「民族意識」や「愛国心」ではないのではないかと今現在考えております。

 つまり現代のテロ行為を消滅させるためには「原罪意識」の払拭、「人間神の子」の思想、「かんながらの思想」つまり天皇思想そのものである、と考えます。

 



 
Commented by JUN at 2008-11-22 06:43 x
「民族的な部分は必要ないのでは、逆に足枷になるのでは」と仰る方は勿論生長の家の先生の中にはいらっしゃらないとは思いますが、現在テロ撲滅の為に人類は単一民族国家である日本はその国家単位で行動しております。それだけが理由ではありませんが民族意識というものは、その実務性から考えても必要だと考えます。(機会がありましたら、その辺もじっくり生長の家の先生方とお話し、または講義していただきたいところであります)

 結論をいいますと、環境問題もテロの問題も「天皇思想」にその解決の糸口が与えられているのに(私はそれがすべてだと思ってはいます。雅宣先生はそんなに簡単ではないと仰るかもしれません、勿論天皇思想の探求が簡単だと思ってはおりません。ゆえに雅春先生の御著書で勉強させていただくのです。)なぜ現在の生長の家はそれを深く探求していかないのかという疑問を抱いているのです。

 また長くなりました、気になって早起きしてしまいました。
 文章のおかしな部分お許しください。

  合掌

Commented by ナオチャン at 2008-11-22 09:02 x
死にきる、なんて美学な響きでしょう。いまや自決に通じるきれいな日本語になりますでしょう。しかし死語にもなりつつ、自殺と同音意義語になってしまう。危惧を抱いております。べつにナショナリズムを賞賛為ている訳ではありませんのでほどほどに、実相真理は善の世界のみ、悪の世界は実在しない、と谷口雅春大聖師はお教えになられています 拝 合掌
Commented by koujihori at 2008-11-23 11:45
jun様

 >自分達の行動を限定しなければならないというのは、やはり「自分達は本来弱い存在なのだ」という思想、少し飛躍させても良いと思いますが、結局「原罪思想」が原因になっていると思ったのです。

 そういう解釈も出来るかも知れませんね。内に神の国を自覚しないから、聖典に書いてある文字にとらわれる、盲従するという事になりますから、それは自覚の弱さという事からそもそも来ているのですから。
Commented by koujihori at 2008-11-23 11:48
ナオチャン

 死にきるというのと自決はイコールじゃないと思いますよ。死にきるというのは自覚の問題で実際に自決する事じゃないですから。
Commented by yuko at 2008-11-24 08:56 x
 合掌、ありがとうございます。最近のコメントは複雑すぎて、私には理解できない事がたくさんあります。ただ私は信仰はシンプルだと思います。そして、感動することだと思います。私は堀さんのブログを拝見して単純に納得したり、感動したり・・・今の生長の家は私自身も疑問視することも色々あり(直接耳にすることがありすぎて)心が塞ぐ時がありますが、よくよく考えると、それは全て現象なんだということです。生長の家は、宇宙の真理で、「神はすべてのすべて。現象なし!」と立ち還ります。常に内なる神に帰り、完全に生かされていることを大悦びしましょうと心新たにしている今日此頃です。
Commented by koujihori at 2008-11-24 22:54
yukoさん

 コメント有り難うございます。仰る通りです。生長の家を現象的にあると思うと色々と疑問が出てきます。生長の家と言えどもナイのです。(誤解をする人がいるといけないので補足しますが現象としての生長の家がナイという事です)
Commented by 早勢 at 2008-11-25 00:56 x
堀さん、ナイものがどうしてあるように見えるのか(現象として現れるのか)を説明しないといけません。すばらしい現象に対しては賛嘆し、目を背けたくなるようなものに対しては「現象はナイ」で済ますのは、矛盾があると思いますが・・・・
現象といえども、そこには神の愛が現れていると言えます。疑問を抱く現象、否定したくなる現象、それらの中にも神の愛はあります。見ようとしないから見えないのです。感じようとしないから感じられないのです。本当に内なる神に帰っていますか? 神の愛が如何なるものなのか本当に感じていられるのですか? 神はすべてのすべてと言いますが、私たちは神のすべてを知っていますか。
Commented by JUN at 2008-11-25 09:49 x
YUKOさん御迷惑をおかけしております。
私も信仰はシンプルであるべきだとおもいます。

 「物事はそう簡単ではない」というのは、副総裁先生が良く使用される御主張です。そこから複雑な議論に展開している場面をよく拝見します。
 私は副総裁先生の複雑な御主張・状態を自分なりに理解しようと解説しているので文章が複雑化しています。
 実際、副総裁の講演を聴いたり文章を読んで、「何を仰りたいのか解らない。」といわれる方は多数いらっしゃいます。

 また私の前回までの文章は堀先生という生長の家の「講師」先生への質問なので、同意はできないと仰る部分はあるでしょうが、御理解はして頂けているように思います。

 私もシンプルな天皇信仰に立ち帰るべきだと主張しているのです。
 シンプルな日の丸を掲げたいのです。
Commented by koujihori at 2008-11-25 10:08
早勢さん
 
 素晴らしいものだろうが素晴らしくないものだろうが現象はナイのです。
それから現象というのは何かと言ったら、それは我々の認識が映っている世界です。ですから、我々は今、神の子として神に無限に生かされているにもかかわらず、それを認識していない人は不足だ、不足だと嘆いて暮らしているわけです。
 しかし、その奧には神の生かす力が流れている訳ですから、どんな現象の奧にも神の良き流れが脈ずいており、長い目で見れば、全て良かったという事になります。
 しかしながら、その現象をアルと思うとそれにとらわれ、それが正しいのか正しくないのかとかあれこれ悩んだり、疑問に思ったりします。それは自分の中にのみある本当の世界、神の国を外に求めるからです。
Commented by JUN at 2008-11-25 11:21 x
 今回、雅宣先生が総裁に就任されるにあたり、平和の祈りから「・・・中心帰一の真理を満たし給う」という言葉が削除されない事を祈ります。

 これが単なる私個人のばかばかしい危惧で有る事を願います。
Commented by 早勢 at 2008-11-25 16:59 x
>それから現象というのは何かと言ったら、それは我々の認識が映っている世界です。

堀さん、私が確認したいのは
“ナイものがどうしてあるように見えるのか(現象として現れるのか)”です。(言葉が足りなかったようです) 堀さんの言葉を借りれば、
「我々の認識が映っている世界として、なぜ現象が必要なのですか」です。
Commented by koujihori at 2008-11-25 17:05
早勢さん

 ナイものがあるように見えているのではなくて、実相世界を如何に認識するかが問題であって、その認識に歪みや曇りがあれば、今、ここにある完全円満の実相世界が歪んで見える訳です。それが色々な人生上の矛盾とか不幸とか災厄として自分に感じられる訳です。
Commented by 早勢 at 2008-11-25 20:30 x
堀さん、私は歪みや曇りの話に触れていませんよ。私が尋ねていることのみに答えていただけないでしょうか。そうでないと、主旨が散漫になり、対話が成立しなくなります。(水掛け論にはしたくないので)
それで、
「我々の認識が映っている世界として、なぜ現象が必要なのですか」
の答えは、
「実相世界を認識するため」ということで、よろしいでしょうか。
Commented by koujihori at 2008-11-25 21:43
早勢さん

 多分、ご存知だと思いますが、現象は実相の表現体ですね。それと同時に実相を如何に認識するかの投影が現象世界として自分に感じられている訳です。ですから、実相の表現は自己の内部の神の国を悟る事でもあり、又、実相を悟る事は自己の内部の神の国を表現する事でもありますね。それがどうしてそうなのかと言われればその悟りと表現の次元を高めて行く事こそが生長という事であり、それこそが生長の家であります。そして、その生長という事は我(が)がせっせと努力して、達成出来る事ではなくて、我々の中の神の生命が自分で出てきて行われるのであります。それこそが甘露の法雨にある「すべて真実の実在は神と神よりいでたるもののみなり」の言葉になっているのです。内なる神は無限であるが故に無限生長する、それが実相が自分で出てきて自分で表現するという事であり、それは同時に実相の悟りが自分で出てきて、その悟りの認識が深まって行き、今ここに神の国があるという事を認識して、その人の周囲に神の国の展開が為されて行くという事になります。
Commented by 早勢 at 2008-11-25 22:27 x
堀さん、どうも私の書いていることが理解できないようですね。今回の返答は「現象は実相の表現体」だけで結構です。それ以外は、今は話題にする必要はありません。
それでは、再び確認させてください。今、私たちは現象でしか、実相を表現(認識)できないのでしょうか。
Commented by koujihori at 2008-11-26 13:37
早勢さん

 相手が自分の言い分が理解出来ないなんて書くのは手紙として、ちょっと礼を欠いてませんか?

 私はあなた様の質問通りに答える義務は無いと思います。私は私なりにあなたの質問している意図をくみ取って、私なりの回答をしているつもりです。
Commented by 早勢 at 2008-11-26 19:00 x
【私なり】は、いずれ【他者】とのズレがでてくるのです。だからこそ、【私が尋ねていることのみに答えていただけないでしょうか。】と書いたしだいです。
>私はあなた様の質問通りに答える義務は無いと思います。
質問通りに答えていただかないと、対話の主旨からずれていくのも事実なのです。ただ、義務はありませんから、堀さんのおっしゃるとおりです。

現象が実相の表現体であるならば、現象の日本も日本国の実相の表現体であると思います。【それでは、現象上でどのように表現するのか。】これについて雅春先生は、生長の家の使命は日本国の実相顕現と言い切り、具体的に示されました。その中には時代の流れの中にそぐわないものあるかも知れませんが、生長の家が使命として主張していかなければならないことが、環境問題に対する主張と比較すると、どうしてもなおざりにされている感はあります。何といっても【使命】なのですから。でも、【使命】であることすら知らない人もいるのかも知れない。
今の教えは否定はしません。ただ、雅春先生が説いていた生長の家を忘れてはいけないと思います。

堀さん、長々とお邪魔いたしました。ありがとうございました。
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