相手は鏡である。

 私は先日、ある人物からある依頼を受けたのだが、私はそれを断ったのである。それは私なりの考えによるものだが、そうしたら、今度はその相手に対して、私が別のある依頼をしたのだが、その人物はこれまたその人なりの考え、主義があるらしく、私の依頼をすんなり受け入れてくれなかった。
 その時、如実に思ったのである。「ああ、これは自分の姿だ。」と。吾々は日頃、生活していて、あいつが悪い、あいつさえいなければとか考える事がある。しかし、一切の悪は存在せず、全部、自分の姿を鏡に映し出しているだけなのである。 
 一切の責任は吾が内にあり。自分の立ち向かう人は完全に自分の鏡である。だから、悪は存在しないのである。そして、その鏡との関わり合いで吾々の生長があるのであり、自己の心がまだ荒くて、ざらざらしていればざらざらする荒い相手が自分に荒い事をして来る。そして、その中で自分の心が練れて来て、滑らかになり、生長が進めば、自分の周囲の人、もの、事は皆、滑らかなものになり、自己の生長も滑らかに行われる。

堀 浩二
by koujihori | 2008-12-05 12:21 | 信仰 | Trackback | Comments(18)
トラックバックURL : http://joyfulness.exblog.jp/tb/9018901
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by 鈴木雅臣 at 2008-12-05 12:49 x
>私の依頼をすんなり受け入れてくれなかった。

 もし私の事であれば、先生の御依頼とは何のことでしょうか?
もし「所属・本名を明かせ」という御依頼でしたら、私は即お受けさせて頂いているのですが・・・

 私の事ではなかったら申し訳ございません。
Commented by koujihori at 2008-12-05 13:00
鈴木さん

 あなたの事じゃありません。
Commented by 鈴木雅臣 at 2008-12-05 13:21 x
堀先生

「あなたは私の文章に、何か少しでもつけいれると思う所があればつけいろうとしている感じがします。」

 私にはそのつもりはまったくありませんが、そう先生がお感じになること、本当に申し訳なく思っております。
 しかし、私も多く書き込んではいますが、正直人の揚げ足を取れるほどの時間の有る人間ではありません。仕事の合間を縫って、書き溜めて書き込んでおります。真剣さを感じられないとしたら,私の文章表現の未熟さから来るものだとおもいます。
 
  私は自分にとって、自分が抱く生長の家にとって重要であると思う箇所しか質問しておりません。(そのつもりでいます)
 そしてその回答を強要しておりません。
 堀先生にもお立場というものがございます。「迷惑であれば質問しない」と申しましたが、そのとおりです。

 本名・所属を明かしたとしても、今後質問したとしても先生からのご回答はえられないでしょうか?
 そうであれば質問致しません。
 この質問にもご回答なければ,そう受けとめたいと思います。
Commented by yukio aono at 2008-12-05 16:15 x
鈴木雅臣 さん
堀 先生のブログをお借りして、私の考えを聞いてください。
鈴木さん、周りのことえの関心が高いように私も思います。
谷口 雅春先生がこう言われている、谷口 雅宣先生は
中心帰一に関してあまり言わないとか、こう云うことも大切
ですが、失礼ですが、あなた自身はどう生きたいのですか、
どうありたいのですか、私の考える信仰は、周りのああだ
こうだは横に置いておいて、自分がどう生きることなのかを
問うことであり、自分探しでもあると思っています。
「自分はどうして生きているのだろう」こんな疑問から、
あなた自身の考えを見つけることから始めてはどうでしょうか
返答には、まわりにあれこれ付け加えないで下さいよ。
「自分はなぜ生きているのだろうか」こんな質問に変えて、
私えの返答ではなく、書き込みではなく、質問については
こうだとあなた自身の考えだけを、堀 先生にお尋ねして
みてはどうですか。

Commented by 鈴木雅臣 at 2008-12-05 16:27 x
yukio aonoさん

 ありがとうございます。
私は天皇に中心帰一されている方に中心帰一して生きていきたい。ただそれだけです。
Commented by 早勢 at 2008-12-05 22:33 x
生長の家創始者である谷口雅春先生が、日本国(日本国実相顕現でもよろしいです)についてどのように考えられたいられたかを再認識すればよいだけの話なのです。それには雅春先生の著作を読むしかないのです。現在の教団の方針が、雅春先生の示されたものと合致していれば、だれもが納得するのです。合致しているか、いないかの判断は、雅春先生の文章を示した上で、現在の教団の方針を検証するしか、方法はないのです。残念ながら、ここではこのような検証は行われていません。検証しなければ真実は見えてこないのです。
Commented by koujihori at 2008-12-05 23:17
早勢さん

 確かに谷口雅春先生の御文章を検証する事は大事ですね。これはないがしろに出来ません。でも、その言葉の奥に流れる久遠の生命の流れを我々はくみとらなくてはなりません。そして、その中で我々は祈りと真理の実践の中から、現在の生きた生長の家の運動即ち住吉の大神が主催される運動の流れをくみ取り、そして、それを生活にそして、運動に実践して行かなくてはなりません。それが生長の家の信徒としての道であります。
Commented by 早勢 at 2008-12-05 23:28 x
堀さん。客観的に検証すれば、その言葉の奥にあるものも読み取れるはずです。まずは検証することです。検証しなければその先は見えてきません!!
堀さんは、検証なしに結論を言います。それは自分が正しいと思っているからではないでしょうか。私も自分の言っていることは正しいと思います。その根拠に、雅春先生が残された言葉をここに掲示しています。しかし、誰かが、別の雅春先生の言葉を示して、私が間違っていると言うならば、素直に私は自分の否を認めるでしょう。
Commented by koujihori at 2008-12-06 00:25
早勢さん

 あなたの御自分の正しさを雅春先生の御文章に求めるのですか?それではあなたは雅春先生無しでは存在たり得ないという事ですね。雅春先生と言えど、それを自分の外部に認めて、それにより初めて、自分の生命が立つというのであればそれは真の自立、神の子の自覚には到底なり得ません。あなたは自立の道を放棄し、他の存在に頼るしかない存在になり下がります。

 雅春先生は弟子達に真に自分の足で自立して欲しいと願っておられるはずです。それが真の自立であり、自律であり、それが自律神経(おのずから律する神の経(みち))であります。
 そして、それを実践しておられるのが谷口清超先生であり、谷口雅宣先生であります。
Commented by 早勢 at 2008-12-06 07:02 x
今回の投稿の主題は「検証」です。
私は自立しています。
Commented by ナオチャン at 2008-12-06 08:59 x
わぁ~~大変だ~。ブログ炎上中だぁ。早く消せ~。今回の件について
広島教区栄える会の青年会の人がやっちゃった事は、小田見行先生と泉英樹先生の教化部長交換人事に反発為ているとしか見えない。金にうるさい小田先生と信仰に熱い泉先生では雲泥の差があるから。しかし栄える会は生長の家政治連合が流れを受けている団体だからかもしれないが愛国者が多いですね。谷口貴康氏みたいに生長の家を追放されなければいいですが。
Commented by yukio aono at 2008-12-06 10:25 x
鈴木雅臣 さん
私えの返答でしたので、又、堀 先生のブログをお借りして。

>私は天皇に中心帰一されている方に中心帰一して
>生きていきたい。ただそれだけです。

はい、分かりました。これはあくまでも私の考えであることを
前提に読んでください。自分探しであると言ったのは、自分を
見つめれば、自分が生きているのは、いのちがあって生きて
いると知り、いのちは、大自然の法則であると知れば、
その法則を神と呼べば、神によって生きていると知り、
生きているのは自分ではなく、神であるいのちが生きていると
思えるのではないでしょうか。
 


Commented by yukio aono at 2008-12-06 10:27 x
続き
肉体を越え、心を越えて神に生かされていると思えないでは、
心が残って、実相の大地に降りられません。心がなくとも
実在するものがある、その実在は、実相である神ですから
あるのは神のみです。神がいるから生きていると知ったのです
から、全ては神だと思えば、神が顕れて来ると云う教えだと
思うのです。全てが神だけなのですから、神が中心でここから
全てが展開する出発点です。出発点とは云え眞理は眼に見えない
のですが、創造の神がハッキリしたのですから「生命の実相」の
教えに学べば、自ずと自分の行き方も決ると思います。私も
教えを実践して生きていけたらと 思っています。
 
Commented by 鈴木雅臣 at 2008-12-06 13:24 x
yukio aonoさん、すばらしいとおもいます。
 
 やはり私は講師先生への質問のみに止めておこうとおもいます。しかし、ここでは回答が得られないことを納得いたしましたので、これより他の方々の意見交換の拝読のみにさせて頂きたいと思います。 合掌
Commented by koujihori at 2008-12-06 16:42
ナオチャン

 ふざけたことを書くものではありません。削除しますよ。小田先生は実力も信仰も素晴らしい先生です。(ちょっとこわいけど)
Commented by 初心者 at 2008-12-06 21:59 x
 「相手は鏡」を逆からみると、自分は相手の鏡ということになる。ある日いちにち鏡になりきって行動してみたら、意外とおもしろいものに出会えるかも。
Commented by 初心者 at 2008-12-07 15:53 x
 自分の中の悪しき感情をおさえこんでいると、それが相手に投影されて、まるで相手がその悪しき感情をもっているような気になることがあります。鏡に写った自分の姿であるにもかかわらず、相手の姿であると勘違いして相手を裁いてしまうことになりがちです。いちど裁きはじめると、自分の中の悪しき感情はさらにおさえこまれて、相手を裁くこころはますますエスカレートして、ついには、あいつは憎いやつだということになる。これではまるで、鏡に写った自分との一人相撲でありますが、こんなわけで自分で自分を苦しめている昨今なのであります。相手の実相を拝むより、鏡に写った自分の実相を拝んほうがよさそうですね。
Commented by koujihori at 2008-12-08 09:14
初心者様

 コメント有り難うございます。面白い発想ですね。これからも宜しくお願いします。
<< 真理こそが感動を与える 人生は神生である。(2) >>