自分が神である。

 ashikabi様から教えて頂いたエピソードであるが、ある青年会の女子青年が、ある時、ある場所である人が榎本恵吾先生に「私は朝寝坊ばかりして、朝の時間が活かせません。こんな朝寝坊している自分は駄目だと思います。どうしたら朝早く起きられるのでしょうか?」と質問したら、先生は「誰が寝とると思ってるんですか!」と一喝されたのを端で聞いていて、その女子青年はそれでパッと悟ったと言うのである。

 朝寝坊しているのは肉体であって、それが増しなものになるには朝早く起きて、神想観するなりしないと駄目なのであると何となく、その質問をした人は思っていたのである。榎本先生は朝寝坊をしていてもしていなくてもその人の生命が神であると看破したのである。そこにどこから言葉を発しているのかどうかという事が問題になって来るのである。

 生長の家では神想観しなさい、愛行しなさい、聖典を読みなさいと言われる。しかし、以前も書いたが、それを誰がするのかという事が重大問題になって来るのである。
 自分が神であるのである。それが分からないと何も分からないのである。祈るのも愛行するのも自分ではなくて、神であると分からなくてはならない。

それが分かれば何をしても、何をしなくても良いという心境になるのである。自分が肉体という我(が)であって、自分の行動によって、尊くもなれば、悪くもなるのであったら、いつも自分の行動に対して、張り詰めていなくてはならないという事になり、何事かしたとしてもあれで良かったんだろうかなんて悶々と悩まなくてはならないのである。

 自分が神であると分かれば、女と戯れても良し、遊んでも良し、酒を呑んでも良しである。しかし、自分が神であると悟っている人は決して、道を根本的に外す事にはならない。それは神がそこに生きているからである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-12-10 12:25 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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