自分の心や行動を良くしようとしなくてよい

 生長の家で実相は完全円満であっても、それを現象界に持ち来す為には心のレンズを歪みや曇りの無いものにしなくてはならないと教わる。よって、大抵の人は自分の行動とか心を良くしようとするのである。しかし、それで良く出来る事は殆ど無い。迷うまいと思っても迷ってしまうのが人間であり、この事は悪事と知りつつ、犯してしまうのが人間である。そうすると「ああ、自分はまた悪い事を思ってしまった。悪い事をしてしまった。」と落胆し、その様に自分の心と行動をコントロール出来ない自分を責めるのである。それで又、何とか自分の心と行動を清めようとか気張ったりする。
 しかし、谷口雅春先生の一番の悩みはその心のコントロールが出来ないという事であったのであり、雅春先生は恐れる事は実現すると知ってはいたが、そう思えば思うほど恐れてしまう自分の心をコントロール出来なくて、ほとほと嘆かれたのである。その嘆き、悩みの果てに悟られたのが「現象はナイ。心もナイ。実相のみがある。」の実相独在のお悟りであったのであり、その様にして、初めて雅春先生は「実相の大地に降り立った。」のである。
 そして、それからは常楽の悦び三昧になられたのであり、その悦びの中から、生長の家の運動は始まったのである。即ち、生長の家の本質は実相独在であり、それは心を整えなくてはならないという境涯ではなくて、今、ここそのままが実相常楽国土であり、今、その実相浄土において、吾々は完璧に神に生かされ、幸はえられている完全円満の神の子であるのである。それが生長の家の神髄である。

 従って、吾等は自分の行動とか心を清めよう、正そうなんて事はしなくて良いのである。それによって、吾等は神になるのではないのである。自分の行動や心を良くしようとするのではなくて、自分が今、そのままで神であるというのが生長の家の真理である。自分が今、神であるという事は自分の行動や心がそのまま神の行動であり、心であるという事である。それが実相独在の悟り、現象も心もナイの悟りである。
 自分の心と行動が神そのものであったと分かれば、一切の後悔が無くなる。そして、その過去の行動によって、自分が悪く思われたのではないかとか悪い結果を引き起こすのではないかなんて悩む事も無くなる。又、自分の心とか行動を常に良くしていなければならないなんて焦りも消えるのである。
 しかし、そうなると自分の心や行動を正そうとか良くしようなんて思わなくなるから自堕落になるだろうと考えるのは早計である。自分が神であったと悟れば、神は完全円満、無限力であるから、根本的に道を踏み外す事は無くなる。それどころか常に最善の努力や気配りが出来る様になるのである。かつ、いざという時は勇気ある行動を取る事が出来るのである。それ全て、自分が今、そのままで完全円満の神であると悟るからである。
 人間は自覚が一番大事であり、自分を最上最尊の神であると自覚すれば、立派な思いやりのある行動を自ずとする様になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-01-08 12:35 | 信仰 | Trackback | Comments(10)
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Commented by ナオチャン at 2009-01-08 16:11 x
これはこれは、下ねたで笑いと幸せを運ぶナオチャンです。
この文章は自分自身を正当化するのに使えますな!。
特に女性関係(肉体関係)の浮気がばれて夫婦喧嘩になった時には効果適面であります。特に堀さんは石田純一ばりで女性にもてるから良いかもしれません。歳のわりにはメタボ体型ではありませんので、(テニスエルボーにはなったけど)。まあこれからも下ねたトークで辛辣コメント致します、神様に生かされている事に感謝しながら。
Commented by koujihori at 2009-01-08 16:19
ナオチャン

 さっき、電話で僕が言った事、分かりましたか?重ねて言いますが自己限定しさえしなければ吾々は生かされているのですからいくらでも生きる力が出てくるのです。

>特に女性関係(肉体関係)の浮気がばれて夫婦喧嘩になった時には効果適面であります。

 だから、自分が今、このままで神であると分かるとそんな事が逆に出来なくなるんですよ。それは体験から絶叫する!(雅春先生風に決めてみました。)

 ところで僕の事をメタボ体型ではないなんて言ってくれるのはナオチャンだけです。有り難うございます。
Commented by 読者(生命の實相第一巻より) at 2009-01-08 19:19 x
(前略)自己批判の足りない人は、よいかげんの現在の自分のままの低い人格であって、すでに高い「真我」ーほんとのわれーの正札値段に達していると慢心しているのであります。こんな人には「自分は神の子だ」という本当の自分がわからない。こんな人たちに「自分を尊べ」といいますと、不徳のままで大天狗になって不完全な「偽我」を尊ぶだけで「真我」に低い値段をつけて威張っているのでありますから、かえって「真我」を安く見くびっていることになり決して本当の自覚に達していないのであります。
「真我」に高い値段をつけるーーすなわち「自己の本姓」を本当に尊ぶ人とは、常に自己を反省して今の状態ではまだ本物の自分に達していない、これからどれだけでも向上の余地があるということを自覚して毎日精進を続ける人でなければならないのであります。
Commented by ナオチャン at 2009-01-08 21:23 x
はい・にこ・ぽんでわかりました。(^o^)(^o^)でありんす。電話の件は速やかに了承致しました。消防団の出始目式終わり次第儀式正装で向かいます。なるべく早く行きますが終わりはいつごろでテキストは一体なんでしょう?。そのあとのアルコールはご遠慮申し上げます(まさか制服着て居酒屋では飲めません。私はその点は非常に生真面目です)昔の青年会のメンバーとの再開を祈りつつ、楽しみにしています。でわ。
Commented by koujihori at 2009-01-09 09:24
ナオチャン

 分かってくれました?早いですね。もの分かりが。肉体の故障が医学的にどうのこうのなんて現象の話です。肉体や物質はナイのであって、それでは何なのかと言ったらそれは心の塊です。だから、心が悟れば、肉体も現象も改善されるのですよ。
Commented by koujihori at 2009-01-09 09:32
読者様

 これはあなたの言葉ですか?生命の実相第一巻とありますから、そこからの引用でしょうか?

 私は文中で人間に取って一番大事なのは自覚であると書きました。それはいい加減な肉体の不完全な自分を尊べという事ではなくて、そのままで完全円満の神である自分を尊べという事です。それが分かれば、自ずと神らしい行動が出て来ます。それは多分、生命の実相第一巻に書いてあると記憶してますが。

 ところで何か語るなら自分の言葉で語って下さい。それが如何に偉大な人のお言葉であってもそれを受け売りするのではあなたはただの傀儡という事になりますよ。それから、真理の言葉というものは本来、無形の真理を表現するために局限された状態で出て来ます。だから、表面の字面だけ読むとさっき言った事と今、言った事とまるで逆な事を言っている様な事もよくあります。大事なのはその奧にある無形の真理をつかむ事です。だから、一つの真理の表現だけを切り取って来て、それを相手にただ投げつける様な事は止めた方がいいです。
Commented by 読者 at 2009-01-09 21:17 x
 堀さんは講師なのですよね。私が書き記した雅春先生の文章に「文字面だけでなくその奥に真理がある」というならばお聞かせください。私は雅春先生の言葉通りが「生長の家の真理」を分かりやすく解き明かしてくださっていると思います。
 無形の真理・・・という漠然としたいかようにも解釈される言葉で誤魔化しているような気がします。
 私共が講師をしていたときは、必ず聖典の雅春先生のご文章を引用して真理を語るように指導されましたが、今はすっかり変わってしまったのでしょうか。驚きました。
 これからは貴殿が生長の家風の真理を自分なりに解釈して勝手にご活躍できるかどうか見守っています。貴方に雅春先生の文章を届けたのは(投げつけたのではありません)貴方が常に聖典に戻り勉強しながら書き込んでほしかったからです。
 なぜならば、貴方の文章の内容はいつも同じところをグルグルと回って居られる様で、先輩として心配だったからですよ。
 
Commented by koujihori at 2009-01-09 22:48
読者様

 無形の真理は生長の家のあまたある聖典をあなた自身がお読みになり、その中からあなたが御自分の生命で感じとらなくてはなりません。私という他に頼ってはいけません。
 察するにあなた様は私より年齢的にも年数的にも先輩の生長の家の方の様ですが、真理に関しては先輩も後輩も無いので失礼ながら言わせて頂きました。

 それから、雅春先生の御文章を引用して、講話をする事はもちろん、私もあります。でも、私は自分の生命の中から自分の言葉で真理を語っております。そうでないと重ねて申し上げますが、それは単なる受け売りになり、真に相手の心を打つ講話になり得ないのです。もっと端的に言えば、生長の家の真理と自分の生命が分離したものとなってしまうのです。自己の生命の本質が生長の家の真理と一体である、その自覚の中から本当の講話が出来ると思います。その中から、先生の御文章を引用させて頂く事はありますが、それは単なる受け売りではないです。
Commented by 読者 at 2009-01-10 01:54 x
 堀さん。申し訳ないが「単なる受け売り」という言葉にとても違和感を感じます。自分の言葉で語ることは当然でありそうでなければ講話など出来るわけがありません。
 中心には当然、谷口雅春先生の言葉をおき、解説として自分の身の回りのあるいは自分の信念を語ることが普通ではないでしょうか。今も昔もそのような講話が人を救ってきたと私は思います。
 ところが最近は、雅春先生の著書やお言葉を何故か避けていると感じています。機関紙・普及誌・そして貴方のような最近の地方幹部。古くから活動している私共から見ると不可思議なことです。

 それから、貴方はたとえば私が雅春先生の文章を紹介すると「受け売り」と感じ、貴方が講話するときは「受け売りでない」とする根拠を教えてくださいませんか。私は受け売りどころか雅春先生の言葉の書かれている聖典を自分自身の講話などよりも多く頒布することに「頒布」することに講師としての生きがいを感じておりました。
 そのような立場で活動しておりました立場からみると、貴方の今回の発言は「慢心・傲慢」だと感じます。
Commented by koujihori at 2009-01-10 10:34
読者様

 自分の言葉よりも雅春先生のお言葉を頒布する事が生き甲斐であるというのは分かりますが、それはやはり、突き詰めると受け売りになると思います。

 何回も申し上げますが講師たる者、生命の実相そのものに穿ち入って、生命の実相そのものから言葉を発しなければ駄目だと思います。その中から雅春先生や清超先生や雅宣先生のお言葉を引用する様でなくてはならず、それが無くて、ただ後はこれを読んで下さいでは駄目だと思います。自分自身の中にのみある神の国を見出し、そこから発する講話であれば、雅春先生のお言葉を引用しても受け売りにはなりません。でも、それなしに単に文章を抜き出したり、紹介するだけなら受け売りであります。
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