親に対する感謝について

 生長の家では親に対する感謝の重要さという事が強調される。「大調和の神示」にも「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」とあるから、真面目に生長の家をやろうとする人は両親に感謝しなくてはならないと思うのである。

 私も生長の家は幼い頃から信仰があったから、この両親への感謝という事が大事であるという事は良く知っていた。それで青年会時代は毎日、神想観の最後に両親への感謝の祈りをやったものである。
 私は神想観だけでは足りない、生長の家は親に感謝が大事だと思っていたものだから、必ず神想観とは別に両親への感謝の祈りをしていたのである。それは十年以上にも渡った。しかし、現実は私は両親への感謝という心に感情的にどうしてもなれなかった。それどころか心的対立を深めて行ったのである。それでこんな事ではいけない、いくら生長の家の運動や愛行をやっていても両親に感謝が出来なければ元の木阿弥であると焦り、ますます感謝の祈りをしていったが全然、効果が無かった。そうしている内に私は信仰に行き詰まり、精神の安寧を失い、夜は一睡も出来ない様になってしまった。
 しかし、それが良かったのである。そのお陰で私は宇治の道場に導かれ、そこでここで何回もご紹介している様に榎本恵吾先生の薫陶を受け、今、そのままで神の生命である自分の生命の実相を内に見出し、魂が救われ、健康を取り戻したのである。

 それと同時に私は両親、特に父親が最初から自分を愛してくれていた事に気がつき、そこで初めて感謝する気持ちになったのである。それまでは私が勝手に心を閉じて、両親の有り難さに目を閉じていただけであった為に始めからあった両親の有り難さが気がつかなかっただけであったのである。

 ただ、両親に感謝せよ、そうでないと神の心にかなわぬぞなんて言って、無理に感謝しようとしても本当の感謝など到底出来るものではない。現象を見れば、自分を虐待した親、捨てた親等々不完全な姿の親はいくらでもいるからである。そんなものをアルと思って、これに感謝しようなんてしても無理である。
 先日もちょっと書いたが、全ての鍵は自分の中にのみある神の国を見出す事である。現象はナイ、それならば全ての森羅万象はナイ、では親もナケれば、師もナイ、仏もナイと一切ナシと断じ切った時に自分の中にある神の国を見出し、そこに自分と一体としての師も親も仏も見出した時、初めて、親に対する満腔の感謝が出て来るのである。何故ならば現象の親は内なる神の愛が実際に目に見え、音で聞こえる姿で出て来たものであるから、内なる神を見出せば、現象の親が既に素晴らしい有り難い御存在であったという事に気がつくからである。

 不完全な親に自分に感じられるのは自分がまだ内なる神の国を見出していないその心の影として自分に認識されているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-01-16 12:30 | 信仰 | Trackback | Comments(4)
トラックバックURL : http://joyfulness.exblog.jp/tb/9208456
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by yuko at 2009-01-16 13:02 x
合掌、ありがとうございます。本当に我が内なる神を見出して悦んでいると、周りのどんな人も、どんな現象も“今そのままで完全円満”とキラキラ輝いて悦んでいる姿を拝むことが出来るのが不思議です。何にもとらわれることがなくて、シンプルに生きていけるんですよね。
Commented by koujihori at 2009-01-16 14:21
yuko様

 有り難うございます。そうですね。内なる神の国を見いだせば、全てが光りだった事が分かるのですね。本当に有り難い限りです。
Commented by ゆきえ at 2009-01-17 22:54 x
長女は成人しましたが、11歳の末っ子ちゃんに母への感謝を教えられています。毎日不機嫌な末っ子ちゃんに我が幼き日を垣間見ております。かわいくなかったなあ。私。娘にも母にもありがとうですね。
Commented by koujihori at 2009-01-19 09:33
ゆきえ様

 そうですか。末っ子ちゃんは毎日、不機嫌ですか。それでゆきえさんの姿をダブらしてらっしゃる訳ですね。でも全然心配要らないですね。神様が何時でも導いてくれてますからね。末っ子ちゃんはゆきえさんのように素晴らしい信仰者になりますよ。人は美貌も身分も学歴もある程度、必要でしょうけど一番大事なのは正しい信仰ですからね。
<< 課題だと思う事には向かって行く 問題はナイ(7) >>