改心しないままで救われる神が欲しい

 先日、私はある会合で内心、非常に激高した。相手の言っている事がナンセンスで無理な事に思えたのである。それでちょっと相手に反発した。(かなりかも知れない)
 生長の家の教えは相手と和解し感謝する事が大事であると教わっているから、その時の私の態度と心境は教えに反しているかも知れない。しかし、私は多くの場合、余り「こうでなくてはならない」と自分を規定する事は無い。比較的、そのままの感情に任せる事が多いのである。
 こんな事を書いては本当に僭越なのだが、谷口雅春先生も怒る時はかなり怒ったそうである。それも割合、他愛のない事でである。扇風機の設定が悪いとか講演の時のマイクの調整が良くないとかそんな事である。私が察するに雅春先生御自身、余り生長の家の教えに縛られていなかったのではないかと思う。

 吾々の人生は吾々の心で創られる。従って、心のコントロールというものが非常に重大な事とされる。特に吾々の中の完全円満の実相を現象世界に反映させる為には実相と言うフィルムから発せられる実相の光線が現象世界というスクリーンに投影される際、その光が通るレンズが吾等の心であると言うのが生長の家の教えであるから、吾等は常にこの心のレンズを歪み無く、曇り無いものにしなくてはならないのであるから、常に自己の心を良い状態に保たなくてはならないと思うのである。
 しかし、その心が思うようにコントロール出来ないのが人間なのである。だから、大抵、激高したり、恐れたり、卑怯な事を考えてそれを実行したりすると自分をその後、責めて落ち込むのである。

 しかし、谷口雅春先生の願いは「改心しないままで救われる神が欲しい!」という事であったのである。それは私の尊敬するA先生が御講話で再三、仰っていた事である。その事は聖典「生命の実相」の自伝遍を読めば良く分かる。谷口雅春先生は綾部の大本教におられた時、世界立て替え説というのが大本教にあり、それでは正しい行い、清い心を持ったもの以外は全て、最後の審判の日に焼き滅ぼされるという事であり、であるから大本教の修行者達は助かる方に入りたい一心で全てを捨てて、綾部に来て、そこで清貧の生活をして、修行していたそうであるが、雅春先生御自身は御自分の事を鑑みるにとてもではないが、そんな心が清くて、行いが正しかった訳ではないので、その助かる人々に入る資格が自分には全然無いと思って、恐れるばかりであったそうである。
 その後、先生は修行を重ね、遂に悟られ、生長の家の神を見出したのであるが、それは全ての人類が既に救われている神の子であるという真理をお悟りになり、遂に先生は神罰を恐れず、そのままで救われている自己の完全円満の生命の実相を見出したのである。

 生長の家は現象はナイ、心もナイ、実相のみあるという教えである。従って、自己の心のコントロールの良し悪しで自分が救われるか救われないかが決まるなんてそんな教えではないのである。吾々は神の責任において、今、無条件に救われるのであり、相手とも調和出来るし、感謝も出来る。(この表現も榎本先生が良く仰っていた)

 私は先日の会合で途中、激高して、相手と不調和になりかけたが、神様が最終的には話し合いをまとめて下さり、私の心にも調和が戻った。正に実相顕現に我(が)は要らないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-03-18 13:12 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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