信仰というのはどうしても生活化されるものである

 私は今から12年前に宇治の生長の家の道場で私の尊敬するA先生に薫陶を受けてから、魂が救われ、吾々は全て、今、神に生かされているのであり、本当の全託でよいという事を悟る事が出来た。そして、それまでのああしなければならぬ、救わなくてはならぬという焦りと悩みと不安が全て解消されたのである。

 そして、それ以降の現在に至るまでの12年間はその宇治で与えられた悟りを実生活で訓練する生活をずうっとし続けているのである。宇治で自分は神に完全に生かされていると悟ってから、もう12年も経つのであるから、もういい加減、その悟りが潜在意識に浸透していて、私は大部、潜在意識が清まって、大安心が板についただろうとは思うがまだまだ現象的には不安とかそうしたものがまだ残っている事が実感される時がある。
 自分のそのままの裸のままの生命がそのままで完全円満であると心の底から思っていないと吾々は他の人に良く思われたい、格好つけたいという虚栄心が出て来るが私は大部、その傾向が強かったと思う。しかし、私は自分は今、神であるという悟りを生きる中で自ずとそうした虚栄心とか見栄とかが破壊される機会が巡って来る事が多かった。そして、そうした中、自分に今、巡ってきている課題に対して、逃げずに向かって行く中、大部、精神的にしんどい経験もしたが、それは私の中の過去の迷いの自壊作用であるのである。

 真理は生活化されなければならないと言うが、本当に真理を悟っているならば、それが行動に表れなければ本物ではないのである。言うなれば、悟りはどうしても実生活化されなければならないのである。自分は無限力であると本当に信ずるならば、何故、自分に今、与えられた課題から逃げだそうとするのであろうか?自分が今、完全円満、無限力であると自覚する者は自分に巡って来た機会に対して、絶対に目を背けないで向かって行くのである。それが即ち真理の行動化であり、実生活化である。そして、それが実相が自分で出て来るという事であり、無限生長という事である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-03-30 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)
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