真理にもとらわれてはいけない

 生長の家の教えに「とらわれるな」という教えがある。それは「善」にさえもとらわれてはいけないと言うのである。

 私が以前、所属していた生長の家の教区で青年会のある女子青年が誰か良い結婚相手がいないかという事で生長の家の中でお見合い話が出て、お見合いしたらしかった。
 その話を青年会の人が当時のそこの教区の教化部長先生に何の気無しに報告して、その際、「その相手の男性は模範的な生長の家の信徒で日々朝から晩まで「生命の実相」の本に書いてあるとおりの生活をしようと励んでいる真面目な男性だそうです」と言ったら、教化部長先生はすかさず「君、そんな朝から晩まで生命の実相でやられてごらんよ。たまったものじゃないよ」と仰った。

 世の中には生長の家の教えが素晴らしいからという事でそれを家族に強要したり、又、それが出来ていないからと言って、相手を審いたり、又、自分自身もその生活法にがんじがらめに縛られている人がいる。

 生長の家の真理は実相独在、今、完全円満、無限力であると言う事であるがその最高究極の真理にさえもとらわれてはならないのである。その今、人間神の子無限力、完全円満という真理を心でつかんでその通りにしなければならぬ、あらねばならぬとやった途端にそれは我(が)となるのである。吾等は今、そのままで神であり、自ずから信仰し、自ずから悟り、自ずからその実行もするのである。だから、そのままでよいのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-04-03 12:31 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(26)
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Tracked from 御座候 at 2009-04-05 17:59
タイトル : ちょー気持ちいい!!
スッゲーー!! 疲れないし気持ちいいし何なのコレwwww 不感症だった俺が、お姉さんにまかせてるだけで一瞬でドピュっとしちゃったわwww イク瞬間思わず「なあぁぁうふ!!」って大声出たしwwwwww ... more
Tracked from 婚活・コンカツ at 2009-04-21 02:07
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婚活という話題の言葉。そもそもなんで婚活が必要なの?婚活をテーマにした話題の連ドラも2本もはじまります。私の婚活、あなたの婚活、あれこれ話しましょう。... more
Commented by 早勢 at 2009-04-03 14:21 x
「真理」にとらわれて、マイナス面の事象がおこることはないと思うのですが・・・・。
「真理」と思っていた事柄が、実は「真理ではなかった」ということなのではないでしょうか?

私たちが生きている現象世界では、「善」の発意から行った行為が、結果的には「悪(とみえる現象)」となってしまうことはあるのです。

余談ですが、先日テレビ番組で脳科学者の茂木健一郎が、「【後悔】は、未来のためにある」と話していました。【後悔】の気づきとなるものに、己に対する批判や意見(いわゆるマイナス面)がありますが、これらの行為を【日時計主義】なるものが許容するのか、私はわかりません。
※【日時計主義】が良いことだけしか記録(記憶)しないということならば、批判や意見という行為は無視されるという印象はあります。(実体験上)
Commented by koujihori at 2009-04-03 14:37
早勢様

 真理自体は素晴らしいのですが真理にとらわれるということが良くないという事です。真理というものは自ずから展開するものであり、それを是非こう真理の通りにしなくてはならないとする所、そこに我(が)が生じ、他人を裁いたり、又、それが出来ない自分を嘆いたりするという事になります。

 吾々は神に生かされているのであり、それにより全ての善は為され、救いが成就します。この善をこの救いを是非とも自分がやらなくてはならないと言う心境ほど苦しいものは無いです、それは同時に感謝もありません。感謝というのは生かされているという事の別名なのですから。
Commented by koujihori at 2009-04-03 14:43
早勢様

 日時計主義もとらわれると良くないと思います。良い所しか見てはいけないという事にとらわれれば仰る通り、何も反省も出来ないし、批判すべきものを批判する事も出来ません。

 日時計主義も自ずからなる自由な信仰から来るもので無ければならないと思います。
Commented by 早勢 at 2009-04-03 22:20 x
堀講師、対話を面白くするため、しばらく?お付き合いください。

>真理自体は素晴らしいのですが真理にとらわれるということが良くないという事です。

具体的な例をあげていただくとありがたいのですが。
私は↑でつかわれている【真理】が、【マコトの真理】なのか疑問なのです。だからこそ、最初の書き込みで

「真理」と思っていた事柄が、実は「真理ではなかった」ということなのではないでしょうか?

と問いかけた訳なのです。


Commented by koujihori at 2009-04-03 22:34
早勢様

 真理と心でつかんだ時点でそれは我(が)ですから真理そのものではないですね。
Commented by 早勢 at 2009-04-04 11:21 x
心でつかんだ時点で【真理そのものではなくなる“真理”】というものは、【はじめから“真理ではない”】のではないでしょうか?
Commented by なおちやん at 2009-04-04 12:06 x
この対話に少しちゃちゃをもって入れる『なおちやん』光明実践委員です。
堀講師、早勢殿
『朝の時間を活かせ』の言葉通りに『生命の実相』生活を実践するのはとても困難を強いられると思いますがいかがでしょう。
時の教化部長も知っているから『たまったものではない』と言っているのでしょう。
堀さん、私がこのあいだ堀さん家に電話した時の事を思い出してくださいな。このごろ忘れっぽくなっていますね。
Commented by 早勢 at 2009-04-04 13:56 x
理解するのに時間のかかる私でしたが、ようやく堀講師の書かれていることがわかったような気がします。これは私も考えていたのですが、

『朝の時間を活かせ』が“真理”とするならば、
【『朝の時間を活かせ』だけが全てではない】も“真理”である。

ということになるのではないでしょうか。
違うでしょうか?
Commented by 早勢 at 2009-04-05 07:46 x
>『朝の時間を活かせ』が“真理”とするならば

と例え書きしましたが、『朝の時間を活かせ』は真理ではなく、生活の指針であると思っています。
Commented by ポニョ1 at 2009-04-05 10:47 x
毎日楽しく拝見させていただいております。
禅画に「十牛図」というのがあり、禅の悟りにいたる道筋を牛(悟り・真理)とそれを探す童子を主題として十枚の絵で表したものです。
その画では、童子が牛(悟り・真理)を見つけて捕まえるのですが、しまいには「人牛倶忘」、「返本還源」といって、すべてが忘れさられ、無に帰一し悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づき、原初の自然の美しさがあらわれてくる段階が描かれています。結局、「真理にもとらわれてはいけない」とはその段階のことを指すのではないかと思います。この辺りになるとアルゴリズム的に思索を深めてもどうしようもないことのように思います。
Commented by ポニョ2 at 2009-04-05 11:01 x
>>「真理を心でつかんでその通りにしなければならぬ、
    あらねばならぬとやった途端にそれは我(が)となるのである。」

    まさしくそのとおりだと思います。
    真理に凝り固まるといわゆる「原理主義」になってしまい、
    多方面での軋轢や争いを生じてしまうと思います。
Commented by 早勢 at 2009-04-05 19:32 x
“真理”とは何ぞや。“善”とは何ぞや。なのです。
再掲しますが、

>真理自体は素晴らしいのですが真理にとらわれるということが良くないという事です。

ウィキペディア(Wikipedia)には、【キリスト教では、「真理はあなたたちを自由にする(ヨハネ8・32) 」と説かれている。】と書かれています。であるならば、上記で引用された“真理”は、人を不自由にさせることになるのですから、本当に【真理】と称して良いのか私は疑問に思う。
とらわれてはいけない“真理”とは、いわば不完全なものであると私は理解する。ならば、神は不完全なる“真理”を創ったということになるのではないだろう。しかし、神は完全であるから、真理もまた完全であるはずです。完全でない真理など存在しないのではないでしょうか。
真理という言葉が安易に使われているのではないかと思うのです。真理ではないものに真理という名称を使っているのではないか。
今一度、“真理”とは何ぞや。“善”とは何ぞや。


Commented by 三谷文人 at 2009-04-05 22:44 x
 有難うございます

 生活の中に「真理」を取り入れて、生活を光明化しようとする発想がいけないのですね。南泉和尚は「平常心是道」と説きましたが、当たり前を行ずる日常生活の中に、真理の花が咲く。
 その咲いた花を美しい、美しいと賛嘆しているのが生長の家でありますね。

 企業経営の中に「真理」を持ち込んで、業績を伸ばそうとする発想がいけないのですね。松下幸之助は「雨が降れば傘を差す」という例えを以って、当たり前を当たり前に行ずる道を説きましたが、当たり前を行ずる経営の中に、真理の花が咲く。
 その咲いた花を美しい、美しいと祝福しているのが生長の家でありますね。

 谷口雅春先生は、生命がそのままを行ずる中に、真理の花を見い出されたわけですね。そして、その美しさにただ感動された。その感動を仮に「生長の家」と呼んでいるだけですね。
 だから本当は、生長の家の御教えが素晴らしいのではなく、私達のそのままの生命の営みが素晴らしいのですね。

 
Commented by 早勢 at 2009-04-06 00:12 x
一書籍からの引用は、視点の偏りは危惧されるが、あえて「真理」第二巻から引用してみた。

“特に第二巻基礎篇は読者諸賢が自ら吾々の説く真理を生活に実践せられて、身に親しく地上に至福なる生活を営まれんがための基本的資料となるところのものを編集したのである。”

“本当の真理に近づくためには、人間の造った派閥的な解釈や形式的な儀礼を捨てて、ただ真理の真髄のみを求めなければならないのである。西方だけに通ずる真理や、地上には通用しないで天国だけに通用する真理では本当の真理ではないのである。本当の真理は普遍的であるから、地上に於いても真実のものでなければならない。”
Commented by koujihori at 2009-04-06 09:44
早勢様

 真理を行ぜよという教えは所謂、「親孝行せよ」とか「夫婦仲良くせよ」とかそうした道徳的な教えの段階だと思います。それは生長の家の奥義ではないと思います。釈迦も最初は最高の教えの奥義を説く事をされないで道徳的教えのみを説いたと伝えられています。
 でも、そのやり方でないと初心者はどう行じたらいいか分からないからそういう教えがあるのだと思います。

 それからとらわれたらがんじがらめになる真理ならそれは真理ではないのではと言う事ですが真理と言っても色々な表現、展開の仕方があると思いますが、とらわれるという行為が既に真理の展開ではないのでいくら素晴らしい教えとか行いでも「断じてそうしなければならぬ」と頑張ったとたん、それは我(が)になるのであり、その事自体が真理の正しい展開ではないと思います。
Commented by koujihori at 2009-04-06 09:49
なおちゃん

 > 『朝の時間を活かせ』の言葉通りに『生命の実相』生活を実践するのはとても困難を強いられると思いますがいかがでしょう。

 そうですよ。生長の家の生き方はその底に「人間神の子」の信仰が無くてはなりません。「人間神の子」が本当にそうだと分かったら、それは自ずと行いに出て来るので、そういう展開の仕方の中で「生活編」の生活の仕方が自ずと出て来る様でなくてはなりません。
Commented by koujihori at 2009-04-06 09:51
ポニョ様

 コメント有り難うございました。私の言いたい事を汲んで下さって有り難うございました。
 そうですね。これが真理であるとつかむと駄目なのですね。吾々は真理そのもの、悟りそのものですから「そのまま」でいいのですね。
Commented by koujihori at 2009-04-06 09:53
三谷さん

 >企業経営の中に「真理」を持ち込んで、業績を伸ばそうとする発想がいけないのですね。

 素晴らしいご指摘ですね。真理を繁栄の為の何かこう道具みたいに考える事は間違いですね。
Commented by 初心者 at 2009-04-06 15:09 x
たとえ話をいたします。
 ある町で大洪水があり、一人の男が家の屋根にとりのこされてしまいました。ボートが助けにきましたが、男は「神様が助けてくださるからいらない」といってことわりました。つぎにヘリコプターがきましたが、やはりおなじ理由でことわりました。そしてとうとう家ごと流されてしまったのです。
 天国にいった男は「信じていたのにどうして助けてくださらなかったのですか」と神様に文句をいいました。すると神様はこのようにお答えになったのです。「わしはお前を助けるためにボートをつかい、ヘリコプターまでつかったのじゃ。お前がそれを拒否しただけじゃ」。
 男は「神の救いとはこのようなものだ」という固定観念にとらわれていたのです。
 早勢さんがおっしゃられているように、真理はそれじたい完全なものであるはずですが、「真理とはこのようなものだ」と限定したしたとたんに、少なくともその人にとっては真理は不完全なものとなり、その完全なはたらきを拒絶することになるのではないでしょうか。
Commented by koujihori at 2009-04-06 15:20
初心者様

 素晴らしいたとえ話を有り難うございます。初心者さんが考えたのでしょうか?
Commented by 初心者 at 2009-04-06 17:56 x
私が考えたたとえ話ではございません。むかし読んだ本に出ていたのをたまたま思い出したので、知ったふうな感じで書いてみました。
Commented by シコク嫁 at 2009-04-06 20:43 x
御文章はもちろん、みなさまのコメントを興味深く、ありがたく拝読いたしました。胸に沁みる御文章ばかりで、日頃の自分を反省いたしました。
初心者さまの書いておられるたとえ話を先日、お寺のお坊さまから聞きました。近々、私のブログで御紹介させていただこうと思いました。その時は記事内リンクさせていただきますので、御了承くださいませ。
Commented by 早勢 at 2009-04-06 22:58 x
>それからとらわれたらがんじがらめになる真理ならそれは真理ではないのではと言う事ですが真理と言っても色々な表現、展開の仕方があると思いますが、とらわれるという行為が既に真理の展開ではないのでいくら素晴らしい教えとか行いでも「断じてそうしなければならぬ」と頑張ったとたん、それは我(が)になるのであり、その事自体が真理の正しい展開ではないと思います。

だからこそ「“真理”とは何ぞや」なのです。雅春先生が説いた「本当の“真理”とは何ぞや」なのです。総称として使われる“真理”は定義が不明確なのです。(おわり)
Commented by koujihori at 2009-04-07 09:06
シコク嫁様

 お久しぶりですね。お元気ですか?ところで私、長年苦しんでいたボールがまっすぐ投げられない状態がほぼ改善致しました。これは本当に嬉しい事です。

 私はボールを投げる神経を損傷したと思っていましたが、そうではなくて体が硬くなっていただけだと分かりました。やはり、病気とか故障なんて具体的に無い訳で勝手に自分で自己限定していただけだったのです。でも、それが分かるまでは本当にけっこう厳しい道のりでした。コロンブスの卵と同じで駄目だ、出来ないと言ってもちょっとした思い違いで出来なかっただけで今、出来るのであると分かりました。
Commented by 初心者 at 2009-04-07 11:43 x
早勢さまへ

言葉には、シニフィアン(意味するもの)、シニフィエ(意味されるもの)という二つの側面があるといわれていますが、言語学者のあいだでは、「日本語はシニフィエなきシニフィアンである」ということがいわれているようです。日本語には、意味するものはあっても意味されるものはない、ということです。
 日本人がつかう「真理」という言葉にはシニフィエは存在しない、つまり、「真理」という言葉に意味はないということです。これが日本語の本質ということになります。
Commented by 初心者 at 2009-04-07 11:44 x
ヨーロッパ系の言語にはシニフィエとしての「言葉の意味」が存在するといわれていますが、それはけっきょくキリスト教によって体系化あるいは序列化されたもので、いわば、キリスト教の思想によってがんじがらめにされたものだということになるわけです。
 言語学者のロラン・バルトは、こうしたヨーロッパ系の言語を嫌悪し、意味をもたない日本語を「記号のユートピア」とよび、このユートピアは天皇制によってささえられているということを看破しました。
「真理とは何ぞや」という問いは「言葉とは何ぞや」という問いと同じです。まず最初に言葉の問題を解決しないことには、「真理」にたいする問いは一歩も前進することはないようにおもいます。
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