そのままでよい(18)

 テニスのロジャー・フェデラーは最高のコーチは対戦相手だと言ったが正にその通りである。というのはテニスの技や力というのはテニスのレッスン書に書いてある通りにやってみたり、自分の頭で考えたりしてみてもろくな考えは浮かばないで迷いは深まるばかりで一向に上手くなる事は出来ないのである。それはどうしてかと言うとテニスを割合遅くから始めた人は先ず「自分は上手くない」という意識があり、それを上手くなろう、打ち方を分かろうと思うから頭で考えたり、レッスン書に書いてある事にとらわれたりするのであるが、その「自分は上手くない、やり方が分かっていない」というマイナスの意識から出発しているものであるから、それでもがいてもその元々の心の通り、一向にテニスのやり方も分からないし、打ち方も分からないので上手くなれないのである。

 しかし、既に自分は出来るのだ、上手いのだ、無限力だと思って、どんどん試合をやって行くとやっている中で自ずと自分の打ち方の課題が内側から経験と肌で分かって行き、試合中に修正して行く事で上手く打てて、試合にも勝てるのである。だから、フェデラーは「最高のコーチは試合相手である」と言っているのである。物心つく頃からテニスをやっている人は素直に指導者の指導を受けて、やって行くからどんどん上手くなる、それで大人になれば自然に「自分はテニスが上手い、出来る」と思っているから、どんどん試合をして、その中からどんどんやり方も分かって行き、どんどん更に上手くなるのである。しかし、遅くから始めた人はどうしても自分は下手だ、やり方が分からないと思うものだから、中々上手くならない。

 どうしてその差が出て来るかと言ったら、自分は上手い、出来ると思っているならば、人間の実相の生命というのは完全円満であり、無限力であるから、自分を今、そのままで既に無限力であると思っている人はその無限力であるが故に更にそれが無限に伸びて、生長して行くのである。要するに自分は今そのままで既に無限力であると思っている人は無限力は無限生長であるが故に更に生長し、伸びて行くのである。

 先日、ブログ仲間のsophyさんから「そのままでよい」を信奉している人が、そのままで良いのだから、仕事も辞めて、家でぶらぶらして奥さんに食べさせてもらっているという話を聞いたが、それは本当に「そのままでよい」という事が分かっている人ではない。今、そのままで完全円満であり、無限力であるという事は何もしないでのらくらしている事ではない、完全円満であるという事は同時に無限生長であるが故に、今そのままで既に完全円満を自覚している人こそ、無限に活動し、生長し、発展して行くのである。
 私は昔は「こうでなくてはならない」「人を救わなくてはならない」「運動目標を達成しなくてはならない」「家庭訪問をしなくてはならない」等々の事で死ぬほど苦しんだ。しかし、私の尊敬するA先生に「そのままでよいのだよ」と言われた時、一気に肩の荷が降り、神に全託出来た。それはそれは楽になったのである。そして、確かに前ほど、人を救う為にがつがつしなくなり、何もしないで放っておくという事も大部出て来た。昔はテレビで脳腫瘍の少女が出て来ただけでその人を生長の家で救わなくてはならないと思い、テレビ局に問い合わせて、その人に手紙と生長の家の本を送った事もあった位である。今はさすがにそんな事はしない。神様に全託しているのである。神様が既に全ての人類を救っている事を感謝し、大安心の心でいるのである。しかし、だからと言って、何もしないという事ではない。自分の中に無限があり、無限の救いがあるのであるから内側からの導きに従って、やるべきことは当たり前にやる。それだけである。それは既に全ての人類を救っている内なる吾が神が私を通して内側から自ずと働いているのである。
  
 そして、既に全ての人類が救われているという事を感謝し、祝福礼拝していれば、神様の世界は無限の躍動であるから、そういう気持ちで光明化運動をやって行けば、どんどん発展のアイデアが悦びの中から出て来て、活気が出て来て、更にその運動は伸びるのである。無限生長するのである。お陰様で当教区の壮年部の活躍はめざましく、私は大した事はしておらず、当たり前に毎月勉強会を開催し、当たり前に毎月壮年部会議を行う中で自ずと素晴らしい人達が出て来て、それぞれ個性と才能を生かして、素晴らしい光明化運動を展開して下さっている。手前みそで申し訳ないが、当ブログにリンクされている神奈川相愛会ホームページは神奈川の壮年部の作成によるものだがこれだけ充実したものは全国の生長の家の組織のホームページの中でもちょっと無いと思う。先日も、5月2日の相愛会全国幹部研鑽会で吾が神奈川教区は20人も壮年層が登壇し、「これからますますがんばるぞー!」のシュプレヒコールを私が先導してやったが、これが大部、全国の相愛会の人達を元気づける事が出来たと色々な人から聞かせて頂く。こういう活気も「すでにこのままで完全円満である」という大安心の中から嬉しくてどんどん出てくるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-05-16 19:26 | 信仰 | Trackback | Comments(6)
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Commented by なおちやん at 2009-05-16 20:39 x
堀さんに『下品』な下ネタを酷評された『なおちやん』でつ。
5/2の幹部研鑽会での壇上での壮年層のシュッピレッツコールに強制参加させられた『なおちやん』としてはいささか『あの時に』下品な下ネタを振り回してやろうと思いました。
Commented by koujihori at 2009-05-17 10:06
なおちゃん

 ええ!シュプレヒコールに強制参加させられたですって!いいじゃないですか。よくあることです。でも、当日来てくれて有り難うございました。
Commented by 三谷文人 at 2009-05-17 23:16 x
 有難うございます

 「そのままでよい」というのは、微妙な分かれ道があるものですね。人は誰でも自分に嘘はつけませんから、堕落した生活を送って詭弁を弄してみても、心の奥底ではそれを後ろめたく感じているものです。その後ろめたく感じている心が、そのままの自分ですね。
 相手のそのままを引き出す為には、観じて、拝んで、賛嘆して、全托する粘り強い愛念が要求されますね。
 そのままは自由自在、臨機応変ですから、現象の不完全を「そのままでよい」と思い上がっている人に対しては、時として「そのままではアカン」と叱るのも、そのままの心でありますね。

 誌友会で、先生がお話された体験談は素晴らしいですね。癲癇を治したい一心で長年苦しまれていたのが、とうとう疲れ果て、「自分は死んでもいい、愛行に尽くそう」と決意されたわけですよね。
 病気を治そうという心を捨てて、そのままの心になった時、癲癇が治っていたというのは、そのままのなせる業でありますね。
 堀さんに、素晴らしい後継者や仲間が現れたというのも、そのままの功徳なのですね。そのままは偉大なんだと、改めて学ばせて頂きました。
有難うございました。
 
Commented by koujihori at 2009-05-18 08:55
三谷さん

 誌友会、ご出席有り難うございました。そうですね。あの体験談は素晴らしかったですね。要は「この病気を何tかしよう」という心を捨てたのが良かったのだと思います。「この病気」と思ったとたん、病気を心でつかんでいるのですから、それでいくら行をやっても治りませんね。

(続く) 
Commented by koujihori at 2009-05-18 09:00
三谷さん

 ところで「そのままでよい」というのは微妙な分かれ道があるともとれますが、「そのまま」というのは正に「そのまま」であって、そんなに難しく考えなくても良いと思います。そうでないと「そのままでよい」っていう究極の境地が何かとてもとらえどころのない、難しいものになってしまうからです。

 「そのままでよい」と言うことでそれならもう仕事も何もしなくていいんだと思っている人は決して「そのまま」になっているのではなく、一種の「ねばならぬ」になっているのです。人間はそのままその本質が神であり、それは無限生長ですから、そのままであれば、決して、じっとしていられないですね。そのままであれば何かしたいと思って必ず何事かをしようとするのを「そのままであるから何もしない」という一種の「ねばならぬ」の心でそのままで無限の躍動である自分の生命を縛っていると「そのままでよい」を信奉しながら、このsophyさんの知人の様に何もしない人になってしまうのです。

(続く)
Commented by koujihori at 2009-05-18 09:01
三谷さん

>堕落した生活を送って詭弁を弄してみても、心の奥底ではそれを後ろめたく感じているものです。その後ろめたく感じている心が、そのままの自分ですね。

 さすが三谷さんです。素晴らしい信仰のセンスですね。
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