2009年 02月 03日 ( 1 )

生長の家の信仰について(4)

 生長の家は御存知の様に谷口雅春先生が昭和5年に創始され、その後、谷口清超先生、そして、谷口雅宣先生とその法燈が継承され、この3月には谷口雅宣先生が三代目の生長の家総裁に就任される。

 しかし、代が代わる毎に新しい法燈継承者に反発する人が必ず出て来て、近年は別団体を立ち上げてなにやらやっている様である。
 私は青年会から生長の家の組織にいて、もう26年位になるから、長い間、生長の家の運動をこの目で見てきたが、雅春先生が亡くなられて、二代目の清超先生になった時はそれはそれは批判と攻撃がすごかった。かく言う私も実は批判派の一人であり、一番おかしいと思ったのは生長の家が生政連を解散して、日本国憲法改正と優生保護法改正の目標を断念した時であった。

 だが、私は色々な人の導きにより、反発分子になったり、生長の家を止めたりせずに運動を続ける事が出来たのである。それを思うと当時、私を導いてくれた諸先輩には感謝したい。

 ところで現在、生長の家教団もっと端的に言えば、三代目の谷口雅宣先生に対する批判の動きがけっこうあって、前述のようにそういう人達の中には生長の家を飛び出して、勝手な名称の別派を作ってなにやら活動をしている人もいる様である。
 人間であるからその自由意志は尊重されるべきでそうした事をするのを絶対にしてはならないとか又は罰が当たるとかそんな事は私は言いたくは無い。
 しかし、吾々は生長の家をどうしてやっているのかという事の確認が大事であると思う。というのは生長の家というのは信仰であると私は思うのである。自己の頭脳による思考とか類推とか遊戯ではなくて、正に真摯なる信仰であると思う、と言うかはっきり言うが「信仰」なのである。 それは理屈抜きの真理そのものに対する全面降伏と言うか、絶対信頼と言うか、絶対のハイの精神である。それこそが真の中心帰一の心である。

 生長の家は自己の頭脳とか理屈ではなくて宇宙の絶対真理に対する理屈を超えたハイの信仰心なのである。それは生長の家の日常の運動即ち、普及誌愛行とか誌友会とかを地道にやる中で自ずと分かるものであると思う。
 私もたまに雅宣先生の仰っている事とか説かれている事が分からない時がある。しかし、そんな時は私はいたずらに批判したり、もちろんそれをでくの坊の様に鵜呑みにする事もなく、自分の頭で考える事を止めて、当たり前の日々の愛行、生長の家の地元のお世話活動に精を出す様にしている。そうすると後から先生の仰っていた事の意味が分かるという経験を何回もした。

 自分の方が先生より分かっているぞなんて思うから非難するのである。生長の家の法燈継承者として先代の法燈継承者から面授を受け、かつ生長の家の大神から直接、アイデアを受けて色々説かれ、運営されているのであるから、先生の仰っている事が分からない場合は自分がまだ先生の所までレベルが行っていないと謙虚に認め、それが分かる様に今以上に信仰を深めて行こうと精進努力する姿勢が真摯な信仰者として要求される事であると思う。
 そして、それは何も先生という肉体人間を盲信しているのではない。先生の奥に流れる生長の家の大神のお働きを私は信じるのであり、その教えにひたすら謙虚に虚心坦懐に従って行こうと思うのである。それが宇宙の真理に対する絶対ハイの信仰であると思うし、それが繰り返しになるが真の中心帰一の信仰であると思う。

 生長の家は何も肉体の谷口雅春先生が始められた訳ではなく、住吉大神の宇宙浄化のお働きの一環として、生長の家の大神が谷口雅春先生を通してこの地上に展開されたのであり、その継承者の先生ももちろん同様である。
 そして、その運動は時代に応じて状況に応じて自由自在に変化すべきものであり、その継承者たる方の生長の家の運動の展開の仕方は雅春先生とは当然変わって行ってしかるべきあるし、むしろ変わらなければ生きた光明化運動とは言えないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-03 12:32 | Trackback | Comments(8)