2009年 02月 17日 ( 1 )

生かされている(8)

 吾々は生かされているのである。それが生長の家の神髄である。吾々は自分の力で一秒たりとも生きる事は出来ないのである。呼吸をするのも心臓を動かすのも自分でやっている人はいない。この世に生まれてくるのも自分で生まれようと思って生まれる人はいない。吾々は誠にも自分で生きているのではなくて、神に生かされているのである。
 それは例えば、星が宇宙に浮かんでいるがそれは自分で力んでしがみついて浮かんでいるのではなく、神により支えられて浮かんでいるのであり、そして、その星が惑星だったら恒星の周りを一定の速度で公転するがそれもその惑星が力んで、恒星との距離をきちんと測って、どの位のスピードで公転し、かつ自転するかなんて考えながらやってはいないのと同じである。その惑星は神の御力により、宇宙に浮かび、丁度上手い具合に公転し、かつ自転しているのである。
 そのように吾等は自分で力んで生きようとして生きているのではなくて、生かされているのである。それは何に生かされているかと言ったら、全知全能、完全円満、無限力で宇宙の隅々までも遍満している神にである。だから、吾々は安心して、感謝して、悦んでおれば良いのである。
 
 吾々が生かされているという事は具体的にどういう事かと言えば、神により悩みも問題も消して頂けるという事であり、自分の進路も必ず神に完全に導かれ、歩ませて頂いているという事である。
 吾々は何か問題とか悩みが生じるとそれを何とか自分で解決しなくてはならないとか事に生長の家を学んでいる人は一切の責任は吾が内にありと教えられていて、全ては自分の心が創ると思うものだから、自分で問題を解決しなくてはならないとか心とか行動を清めなくてはならないとか思って、神様に生かされている事を忘れる傾向がある。
 そうなると自分で悩みとか問題を心でつかみ、それを何とか信仰の力で解決しようなんてするものだから、ますます大安心の全託の心は失われ、にっちもさっちも行かなくなるのである。そして、真理が実行出来ない自分、心を正念に保てない自分を嘆き、悩むという事になるが、これ全て吾々は神に生かされており、その迷いも問題も全て神に解決してもらえ、信仰も神に支えてもらえるという事が分からない所から来ている。

 要するに実相独在が生長の家の神髄であるが、それは神に生かされているという事であり、全ての問題、悩みは神に解決してもらえるという事である。それをそう思わないで自分が心を清めなくてはならぬ、自分が真理を実行しなくてはならぬ、自分が行をしなくてはならぬと力み、それにより、問題を解決しなくてはならないと思う心は実相の他に私という我(が)を認めている事になるのである。

 特別、我(が)が無理に勇気を出さなくても、吾等は今、そのままで完全円満であるという実相が自ずと明らかになって行く過程において、自ずと勇気と自信が出て来て、捨身も出来るし、力も発揮出来るのである。それが生かされているという事であり、それこそが実相独在という事である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-17 13:13 | 信仰 | Trackback | Comments(0)