2009年 02月 18日 ( 1 )

吾々は今、完全円満、無限力である。(4)

 私は昨日、教区のある誌友会に出講して、講話を行ったが今ひとつ自分としては調子が出なかった。こういう事はたまにある事でそんな時、昔の私はよく落ち込んだものである。何故落ち込んだかと言えば、自分の講話力に幻滅し、かつ受講者に失望を与えて残念だという気持ちがあったからである。
 しかし、私は現象はともかくその実相においては何時でも良き能力を発揮しているのであり、それを妨げるのは自己自身の自己限定に過ぎない事を知っている。私は現象的には昨日の講話は余りほめられたものではなかったかも知れないがその底には確かに真理の悟りの悦びがあり、それが過去の念の残像にちょっとした歪みがあった為に十分に現象的に出て来なかったに過ぎない。
 同様に吾々は今、完全円満であり、悟っていて、無限力であっても現象的には波があり、調子の良い時も悪い時もあるのである。

 吾々は内に無限の可能性を秘めている。それは神の生命そのものであり、完全円満で無限力であり、そして全知全能である。しかし、現象はそうではない。いくらでも不完全さや欠点がある。その違いを分かる事が重要である。

 吾々が神の子完全円満というのはその内に秘めたる実相の事であり、現象の事ではない。それならば吾等はその内なる神の生命の完全円満さを完全に現象に表現した時になって、初めて悦べるのであろうか?否々そうではない。吾等は今、完全円満であり、無限力であって、全知全能であって、今、悦べるのである。
 でも現象はまだこんなに不完全で能力も発揮してないじゃないかと言うかも知れない。しかし、現象はナイと吾等は教えられているのであり、それではそれは何なのかと言えば、それは吾等の過去の認識の残像に過ぎないのである。
 認識というのは吾等がこの自分自身をそしてこの世界をどう観るかの認識である。吾等の実相がまだ余り出て来ていない状態では吾等の認識自覚というものがまだ幼いのであり、それで自己の生命の実相の完全円満さを悟らず、自己をただの物質の塊と観たり、不完全な無能なものとしてしか認識出来ないのである。
 その認識というものは長い間掛かって、吾等の潜在意識に沈殿して、それが現象として投影されるまではある程度の時間が掛かる。従って、現在相当に自己認識のレベルが上がり、自己が今、そのままで神の完全円満の生命であると認識出来ていても、現象的にはずっと以前の自分が悟る前の不完全な弱い自覚の時代のその念の残像が今頃出て来る事があるのである。
 だから、現象というのは過去の念の残像に過ぎないのであって、それは一種の波動であるからゆらゆらと陽炎の様に良い時もあれば悪い時もあるという事になって来るのである。

 だから、そんなものの良し悪しに吾等は一喜一憂してはならないのである。力が発揮出来なくても良いのである。調子が悪くても良いのである。そんなものは過去の念の残像に過ぎないのであるから放っておくべし。無理にそんなものを今すぐ良くしようなんて思わないで今、自分が完全円満であり、神に完全に生かされて導かれて、無限力であるのであるから、その事を悦ぶべし。実相は実相して、完全円満は完全円満して自ら出て来るのであるから、それを楽しみに待つべし。そうであるならば、今、そのままで悦べるのである。

 それが実相独在、完全円満、物質はナイ、心もナイの生長の家の神髄である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-18 12:34 | 潜在能力 | Trackback | Comments(6)