2009年 02月 19日 ( 1 )

良くしようとする必要無し

 先日、テレビ番組「アンビリバボー」でヨットの世界一周の大会に出場したあるイギリスの男性がレース中、不正に不正を重ねて、それがばれるのが怖くて、大西洋上で遂にヨットから身を投げたと思われるという実話を採り上げていた。
 今から三十年ほど前の事で何でもこの男性はヨットの羅針盤か何かの製作技師で、かつその羅針盤製作で事業を興していたのが経営不振に陥り、ヨットのレースで実績を上げれば、自社の製品が世にヒットし、事業を立て直せると思って、そのレースに出場したらしいのである。
 しかし、この人は機械技術者としては優れた力を持っていたが、ヨットに関してはどちらかと言えば素人だったので、レース中、数あるトラブルに対処し切れず、反則を繰り返し、それがいよいよ隠しおおせなくなったと見て、それで人生を投げ出したらしいのである。(現在、この男性は依然として行方不明である。)

 この人は何ヶ月も一人で大西洋を航海して、色々のトラブルに見舞われる中、精神的に追い詰められ、正常な判断が出来なくなったのではないかとはその男性の息子の感想であるが、この人はヨット製作に出資してくれた人に対する借金返済の事とか、世界のヨットファンをだました事で自分が罵られる事とか、そうした事で妻や子供達にも見限られるのではないかとかそんな事がグルグル頭に去来して、もうどうにもならなくなったのではないかと番組では伝えていた。

 吾々はこのように人生ではこれ位はというちょっとしたボタンのかけ違いから、次々に人生が狂って行き、気がついた時にはもうどうにもならない様な窮地に陥る事もあるのである。だから、人は正直である事が一番大事であるとは生長の家の教える事である。
 しかし、本当の真理を言えば、どんなに人生がおかしくなって、泥沼に陥ろうともどうという事は無いのである。大丈夫なのである。何故ならば、最初からこの世界は一度も変になったり、軌道を外したり、不調和になったりした事は無いからである。同時に自己の人生も同様である。生長の家を学び、人間本来の生き方みたいなものを学ぶと今まで適当に済ませて来た事が重大な誤りであった事に気がつき、後悔の念にくれる様な事もあるが、吾等はその本質において神の生命であるから、吾等の行動も言動も実は神の言動であり、行動であったのであり、何ら後悔する必要は無いのである。
 それなら、何故、自分の今までの半生、そして現在、自分が陥った状態が不完全な失敗だらけのものに感じられるかと言ったら、それは一重に現在の自分の心のレンズが歪んでいるからである。どんな美人でも歪んだレンズの眼鏡をかけて見れば、その人の本来の美しい顔は歪んだ醜い顔に見えるのである。吾等の心のレンズの歪みというものはそういうものである。だから、吾等の人生は本来神の生、神生であるのにそれをそうじゃない、これは自分が生きてきた人生だなんていう風に迷いで心のレンズが歪んでいると自分という我(が)は不完全極まりないから自分の今までの人生、そして自分の環境、そして周囲の人達が全部、不完全な人生、どうしようもない窮地、意地悪な心がけの良くない人達ばかりに見えるのである。

 良くする必要は無い、自分自身も周囲の人も何もかも。今、始めから完全円満の自分が今まで生きてきたのであり、始めから何も問題のない状況にいて、完全に神に生かされた人生が今、ここに展開しているのであり、最初から思いやりもあり、分別もある人達だけが今、ここにいるのである。それを信じて、その信念から行動を発すれば自ずと全ての問題は消える。

 それが神想観の世界、真の祈りの世界であり、実相直視の事である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-19 12:57 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)