2009年 02月 20日 ( 1 )

実相は自分で出て来る(21)

 実相は自分で出て来るとはここで何回も言わせて頂いた事である。吾々は自分で生きるのではなくて、神に生かされているのであるとは生長の家の教えの神髄である。それをどう間違ったのか心を清めるのは私の仕事、この素晴らしい真理を伝えるのは吾々の仕事と思う様になったのが迷いである。
 例えば、人の光明面のみ観るという「日時計主義」も「私が、この私がやるのである」と、気張って、頑張って努力してそうするというのもそれはある段階の境地としてはあるだろう。しかし、そんな事をしていればその一つの事にとらわれてしまうのであり、そうなると相手に注意すべき時に注意する事も出来なくなるし、外敵が迫っているのにそれを追い払う事も出来ないのである。それ全て、私という我(が)が真理を実行しようとしているからである。それは実相独在の信仰ではない。実相の他に私という存在を認め、それを何とか良いものにしようとするのであるから、それは実相独在の宇宙遍満の完全円満の神を信じているのではなくて、私がやるのだ、私が偉いのだという考え即ち我(が)である。私はその考えで何十年と来た為にすっかり大安心の心が無くなって、神経衰弱になってしまった経験がある。

 吾々は生かされているのである。百%。それを悟る事が実相を悟るという事である。そこにこそ安楽、常楽の道がある。それは実相が出て来るのは自分で出て来るのであるという事に全託するという事なのである。無理に我(が)で真理を実行しようと頑張る事ではない。
 私は、だから、割合怒る時には怒ったし、責める時には責めた。それで周囲が不調和になった事はいくらでもあった。しかし、それで良いのである。実相が自分で出て来るのにお任せするのである。私は最近、人を愛するという事はどういう事かという事が本当に分かってきた。それは相手を責めない事、光明面を観る事であるという事が自ずと分かって来た。そして相手が理不尽な事をしているのはその人がまだ魂が幼いからかその人自身が自分が認められていなくて寂しい心を紛らすものであるという事が本当に自然に分かって来たのである。そうするとその相手を無闇に責める気持ちも無くなってきた。それが本当の善行であり、生長の家の真理の生活化だと思う。
 それが実相は自分で出て来るという事であり、その事が本当の実相顕現である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-20 12:26 | 信仰 | Trackback | Comments(6)