2009年 02月 26日 ( 1 )

常に死ぬ気で生きるべし。

 生長の家の信徒行持要目に「常に自我を死にきるべし。」という言葉がある。私は分かった様な分からない様な気がしていた。

 私は以前は臆病と言うか、完璧主義者と言うか、「石橋を叩いて渡る。」どころか大丈夫かどうか確認する為に「石橋を叩きすぎて、割ってしまう。」位であった。しかし、それだと能力を使う事にならず、能力が減退し、却ってものごとが上手く行かないという事が経験から分かって来たので、現在は結果とかを気にせず、常に思い切って何事もずんずんやる事にしている。それで自己の能力と生命が解放され、能力増進、魂の解放があり、悦びがあり、それで結果もいいのである。

 その為には常に死ぬ覚悟が必要である。良くしよう、助かろう、安全になろうとして姑息にものごとを恐れ、安全策ばかり採って、確認ばかりしている様では駄目なのである。

 先日もちょっと申し上げたが、私の一人息子が現在、大学受験のさなかである。というか正確に言うと今日が最後の受験日であるが。彼が受けたのがたったの三校であり、八校も受けた私などから見ると随分、思い切った受験の仕方だと思った。でも、私は一切息子には指図はせず、息子の方針を見守っていたが、私としては実の事を言うとひやひやものだったのである。
 息子は第一志望が一校と第二志望を二校受けたのだが、私の目から見て、第二志望が必ず合格する保証も無いから正直、内心かなり気をもんだ。その度にどんな結果になろうとそれが一番良い道であると言うことを思い出し、私は大部神への全託の信仰を息子の受験を通して鍛えられたと思う。

 それで一応お陰様で昨日、第二志望の大学の合格通知が我が家に届いた。これで一安心という事になるが、それでもう神への全託の信仰を忘れて、現象である大学合格という事にしがみついても駄目であると思う。

 吾々は何時如何なる時も死ぬ気でいなくてはならない。現象無しと一刀両断しなくてはならないのである。それが真の信仰であり、生かされているという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-02-26 12:27 | 家庭生活 | Trackback | Comments(2)