2017年 05月 10日 ( 2 )

完全主義とは

 昨日、私は大発見をした。それはもう一年以上前から組み立てているサンダーバード2号のプラモデルで2号本体の付属品とも言うべき救助メカの中の組立に失敗した時の事だった。
 このプラモデルは毎週少しずつ部品が売り出され、このサンダーバード2号と救助メカシリーズは丁度80週掛けて完成される。今、67週目だ。

 で、昨日、その救助メカの一台の組立に失敗し、模型として不完全なものが出来上がった。救助メカというのは十何台もあり、一つ一つは手の平に載るような小さいプラモデルだ。今まで十何台というその救助メカを完璧に瑕疵なく組み立ててきたのに昨日、初めて失敗してしまったのだ。 

 その時、私は非常に歯がゆい思いをした。今までずうっと完璧に組み立てて来たのに初めて失敗作が出来てしまったからだ。模型本体に付属する十何台もある小さな模型の組立に失敗しただけなのに。

 そして、私は自分が完全主義者であるという事を認識した。完全主義であると不完全だととても気持ちが悪い、嫌になってしまうのだ。いつまでもモヤモヤしてやる気が無くなってしまう。しかし、その時、その考えこそが自分の人生を不幸なものにするという事を悟った。
 完全主義というのは現象即ち外の世界に完全なものを求める主義の事でこれだと心の安定が得られない。そして完全にしよう完全にしようという衝動が出て来て落ち着かないのである。その心は利己主義であり我(が)である。
 そして、それはこの世には不完全あり、悪ありという自己の迷いの心なのである。その迷いの心があるから不完全を現象世界に映し出す。そしてそれが不運とか不幸になるのである。思ったら思った通りになる心の法則が働いているからである。

 この世に悪あり不完全ありの心が完全主義の正体であり、それは聖経「甘露の法雨」に書かれている
「神の国は吾が内にのみあり、外にこれを求めるものは永遠にこれを得ることあたわず」という事なのだ。

 神の国は吾が内にありというのは今ここそのままで神の国であり自分は神の生命そのものであるという自覚である。それこそが生長の家の信仰であり、それが無くて現象要するに外の世界に神の国を求めるというのが迷いの心でありそれが完全主義である。

 私はそういう心を今まで持っていたから現象的に不幸や不運が出て来ていたという事が昨日、プラモデル創作の過程で分かったのだ。

 だから、私は完全を求める心を放っておいて今を生きる、今与えられている事に感謝する心のトレーニングを昨日から開始している。

 この様に日常の何気ない所至る所に観世音菩薩の教えは響き渡っているのである。

堀 浩二
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by koujihori | 2017-05-10 17:30 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家は実相独在と心の法則。この二つしかない。

 生長の家の本は夥しいと言って良いほどの数があり、ことに雅春先生は著作数の多さのギネス記録保持者だそうです。来る日も来る日も朝から晩まで机に向かって執筆活動をされてたとの事。

 でその雅春先生の御本ですが繰り返しますが実に様々多岐に渡っての著作があり、「新しい結婚」では夫婦間のセックスのやり方まで指南されています。本当に人々の幸せを願われていたからその為に事細かに具体的にこういう時はこうしたらよいと言うお話をお書きになっています。

 その中で先祖供養のやり方も非常に懇切丁寧にご指導されていて、そこでは「迷った状態で霊界に行った霊魂が霊界で苦しんで子孫に助けて欲しいという念波を送って来てそれに感応した子孫に病気を現す事がある。こうした祖先霊を速やかに悟らせてあげる為に供養をするのが子孫の役目である。」と言う記述もある。
 また、「人間の現世の運命は前世の成績によるものが50%、25%が高級霊の導き、残りの25%が本人の努力」というのもある。だからこれを強調していくら努力しても1/4の効果しかないから先祖供養をしたら良いなどという人も生長の家の中に出て来る訳だ。

 しかしながらこれはおかしい。生長の家の真髄は実相独在。そして現象は心の影という事です。これは唯神実相と唯心所現要するに縦の真理と横の真理の二つ。これだけです。生長の家の教えは。他の色々の教えはそこから派生するものと言って良い。

 だから生長の家信徒たるものあくまで
「今ここそのまま神の国であり実相世界である。そしてそれを観ずればそれがありありと観じられる。その心の展開として現象世界がある。」という真理だけを求めそして吾がものとし、そして悦んでおれば良いと思います。

 要するにこの世界は完全円満の実相世界とそれが自分で出て来る事しかなくてその自分で出て来る過程で観世音菩薩によるお示しがあり、それが心の法則であり、そのお示しに従って自己の心を改めて行く中で現象的に実相顕現がある。という事ですね。その観世音菩薩のお示しというのは自己の心の過去の業を現象的に現して示して下さる働きだから、その過去の業が前世の業とも言えます。

 そして先祖供養はあくまで先祖に対する感謝の表明としてやるので迷った先祖の存在を認めてそれを救う為にやるのではないです。

堀 浩二
by koujihori | 2017-05-10 11:17 | 信仰 | Trackback | Comments(0)