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個性を伸ばす教育ということについて

 戦後は個性や自主性を重んじる教育という事が叫ばれ、日教組などでも盛んに個人の尊厳が大事だと言うことで生徒の自由、自主性を重んじるという方針で活動しているようである。その結果、学校でどういう授業が行われているかというと個性と自主性を重んじるのだから先生は生徒に教育してはならないというちょっとバカみたいな事がまかり通っているそうである。

 個性と自主性を重んじるという事自体は良いことであるが、それが間違った考え方が基盤であるならば単なる個人主義、利己主義というものになり、公の概念、公への奉仕という考え方が希薄になり、社会がバラバラな非常に乱れたものになって来る。

 何故、こういう問題が生じて来るかと言うと、生命というもののとらえ方を間違えているからである。
 戦後の個性尊重主義、自由主義というのは往々にして、我々の生命を唯の物質の塊に過ぎないというとらえ方での自由主義、個性尊重主義であるから、物質は自性無しであるから、物質がただ自由放任のままに置かれると無秩序、不調和、放縦という事になり、勝手にお互いの利害関係をぶつけ合うだけという事になるのである。
 また、肉体は各個人、個人お互い、バラバラのものであるからそれの個性を尊重するということは自分だけの利益を最優先し、他人や公の事など知ったことではないという事になり、またおのれの肉体の欲望を満たす事が第一であるという事になって来るのである。

 従って、人間を肉体という物質の塊に過ぎないという人間観の元での自由主義、個性尊重主義である戦後の教育方針というものはお互いの欲望をぶつけ合い、公の奉仕の心もない各自勝手なバラバラの行動しか出来ない人間を作るだけのものであったのである。
 現在の我が国ではおぞましい性犯罪とかがよく報道されているがこれらはこうした間違った戦後教育によるものと言わなくてはならない。

 真の個性尊重主義、自由主義というのは人間の生命というものは肉体という唯の物質ではなくて、死んでも死なない生き通しの生命であり、そこには神の秩序と智恵が存在しているものであるという事が根底概念になっていなくてはならない。
 従って、各個人の自由に任せるということは自ずと秩序ある、智恵ある行動を鍛え出して行くという面も併せ持たなくてはならないし、また我々の生命は単なる肉体の様に区切りのある相対的なものではなくて神を仲立ちとして、全ての生命がお互い自他一体の霊なるものであるから、おのれの希望、個性を生かすということは各自勝手なバラバラな行動をするということではなくて、他の人の役に立ちたい、公に奉仕したいという希望に自ずとつながって来るのである。

 だから、真の個性尊重主義、自由尊重主義というのは人間は物質ではなくて神において自他一体の霊なる生命であるということを大前提にしなくてはならないのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-09-25 22:15 | 教育 | Trackback | Comments(0)