カテゴリ:繁栄( 2 )

パートナーが悪い?(2)

 私は先日、一大発見をしたのである。それはテニスの最中であった。毎週土日の朝はテニス仲間とテニスをしているのだが、先日の三連休の時も四人でいつもの様にダブルスの試合をしていて、その時は6ゲーム先取の試合をしていた。
 一試合済んだらパートナーを代えてまた次の試合をして、大体一回につき、3試合位したのだが、その中で一番実力が上と思われる仲間がいて、この連休中三日間は彼は一度も試合を落とす事無く、全勝であった。要するにその人と組むと他のメンバーは全試合に勝つ事が出来、逆にその人を相手にした場合は全試合負けたのである。 
 それでその時、その人を対戦相手にした最初の試合で私は0-6のスコアで負け、その次の試合はその人と組んで試合をしたが、その人がさっきの試合では悉くウィナーショットを決めて、私のチームに勝ったのだが、私と組んだ試合では悉く凡ミスを繰り返し、一時スコアが0-3位になったのである。私は心中穏やかで無かった。試合でパートナーがミスするのは自分の出す球が甘くて相手に打ち込まれるからであり、運なんてテニスの試合には無く、運不運を問題にするのは責任逃れであるとそれまで私は思っていたが、明らかにどう見てもそのさっきまで素晴らしいプレイをしていたパートナーが自分と組んだ途端、くだらない凡ミスを繰り返しているのである。私はツキが無いという事を認めざるを得なかった。それで一時、試合最中自暴自棄的心境になった。「自分はついていない!」と自分の運命、ツキの無さを嘆きたかった。
 要するに運不運というのはテニスの試合で確かに存在するのである。しかし、程なくして私は思い返した。自分は確かにツキがない。しかし、そのツキの無さは自分の心に問題があるのではないかという事を。要するに運不運は確かにあるが、それは百%自分の責任ではないかと言う事である。だから、運も実力の内であると言うのである。
 それで、自分のツキの無さを呼んでいるのは私が余りに試合に勝ちたいという焦りの心であったという事も同時に自分で分かった。私は勝ち気で、テニスなどのスポーツで仲間内で負けたり、後れを取ったりする事が我慢ならない性格であり、それが災いして焦りになり、それが自分のパートナーの力までも縛っていたのである。それが分かってからというもの自分の力も抜け、パートナーも本来の力を発揮して、試合は結局7-5で勝つ事が出来た。

 そして、私はその後全てが氷塊した。自分の運不運、それはどういうパートナーに恵まれるかとかどういう組織に属するかとかそのパートナーや組織が本来の力を発揮して、自分に幸運と成功をもたらすかは全て、自分の心に原因と責任があったのであると言う事に本当に気がついたのである。
 一切の責任は吾が内にあり。自分にツキが無く、結果が良くならないのは自分に功を焦る心があるからである。良くしよう、上手くやろう、勝とうという心が余りにも強く、それが本来の力も幸運も自分のパートナーの力も抑えて、全てが上手く行かなかったのである。私はそれまで色々の事がはかばかしく行かないのは全部、自分のパートナーに問題ありと思っていたのであるが、そうではなくて、自分の功を焦る心こそが問題であったと知る事が出来た。
 その功を焦る心というのは良くしよう、良くしようという心であり、それはまだ駄目だと思い、そのままで完全円満であるという事を本当に悟っていない心であったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-10-13 12:31 | 繁栄 | Trackback | Comments(0)

富者の自覚

 我々は富者でいたいと誰でも思うものである。欠乏の恐怖というのは割合あると思う。私はお陰様で余り金銭の苦労を今までしてこなかったが健康を失う恐怖、能力が発揮出来ないかも知れない恐怖というのは随分味わって来た。

 この現象世界だけ観ているとこれは物質世界であるから、富んでいるというのはこれ即ち物質が富み、肉体が健康であるという事であると普通誰でも思うと思う。
 そして、それを得る為、もしくは失わない為に皆、しのぎと削って、汲々としているのが現状ではないだろうか?そして、他から奪い、己の利のみをとことん追求するという事になりがちではないか?
 
 だが、それに歯止めを掛け、人間の心にバランスを持たせるのが宗教の役割である。宗教は肉体、物質を超えた存在、即ち神又は仏の存在を説き、それへの信仰、もしくは畏れの念の中から人間は物質欲だけではない人間らしい、他者への愛の生き方、公への奉仕の心を持ち合わせて来た。
 しかし、日本は元々特定の宗教を信仰している人が外国に比べると極端に少ないのである。だが、日本は村社会等、鎮守の森の神社などを中心とした共同体の存在があり、お互い思いやりを持ち合いながら、暖かみのある社会を育んで来た。
 ところが、戦後はアメリカから肉体の権利を第一とする思想の民主主義が日本に入ってきた為、肉体の快楽、物質の価値を追求する考えが大部、日本に浸透する様になって来た。そうした流れの中で村社会、共同体の思想が徐々に衰退し、極端でドライな金儲け主義がはびこりつつある。
 楽天とかライブドア等の敵対的買収騒ぎもそうしたドライな金儲け資本主義の流れの特徴的事象である。しかし、資本主義の金儲け主義というものは唯物主義であり、物質の富を出来るだけかき集め、利潤を追求しようというものであり、儲けたら、またもっと儲けたくなって、我利我利亡者の様になるのである。
 日本は特定の宗教を持たない人が多いからこの金儲け第一主義資本主義の思想に歯止めをかけるものは何もないのである。

 しかし、本当の富というものはそんな物質の富を追求する所には出て来ない。富の本質とは与える心である。他に与える豊かな心の所に富が自ずと集まって来るのである。
 この世界は我々の心の思いが映っている世界である。物質、現象の富は豊かな与える心の展開である。決して他者の富を敵対的買収で自己の為に取り込もうという心の中にはない。
 この世界は現象世界であり、我々の心が映っている現世(映し世)なのであるから、この現象世界が繁栄し、肉体が健康になる為には先ず我々の心が豊かな与える心にならなくてはならないのである。

 それでは我々の心が豊かな与える心になる為にはどうしたらよいかと言ったら、この現象世界が本物の世界でこれが実在する世界であるという考えから脱却して、この現象世界の奥に本物の無限供給の霊的実在世界があるのであるという真理をどうしても悟る必要があるのである。

 そして、現象的には如何に貧しく、また不健康であっても、そのままでその現象の奥に完全円満の無限供給の霊的世界が存在しており、今、そのままで我々は既に完全に必要なものは与えられ、生かされ、悦びを与えられており、それは物質を超えた霊的実在であるから永遠に砕けない、金剛不壊の世界であるという事を自覚する必要がある。

 その自覚のある所、心が真に安定した豊かなものになり、現象的にも感謝が出来る様になり、不足の部分に文句を言うのではなく、既に与えられている所に感謝出来る様になる。
 自分が豊かであると自覚するので健康的にも速やかに回復するであろうし、また自分が豊かで生かされているという悦びを他人にも伝えたくなり、自分の持っているものを与えたくなるのである。他に与えれば、またこちらが与え返されるのであって、そうした豊かな思いで与える者はますます富んで行くのである。

 これが真理に基づいた繁栄の法則である。

堀 浩二
by koujihori | 2005-10-18 17:21 | 繁栄 | Trackback | Comments(0)