カテゴリ:信仰( 850 )

生長の家とは「実相は自分で出て来る」という事である。

 実相は自分で出て来るというのは私は宇治で指導されていた榎本恵吾先生に教わったが先生によるとその言葉を最初に使ったのは生長の家草創期の雅春先生の高弟の服部仁郎先生なんだそうだ。

 実相が自分で出て来ると聞くと一見奇妙に聞こえると思う。でも実相が自分で出て来るという事は実相顕現に我(が)は要らないという事であり、これこそが実相独在という事なのだ。
 実相顕現に実相以外に何かが必要と言う事は既にその時点で実相独在ではないからだ。そして我(が)が要らないという事は我(が)の否定であり、それは取りも直さず利己的でない無我の生き方の事である。それこそが「今に集中して生きる」「愛他的に生きる」「一切の人にものに事に行き届く」とい生長の家の生き方そのものになる。

 生長の家の教えとは「実相は自分で出て来る」という事であったのである。

堀 浩二

by koujihori | 2017-10-18 16:32 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家の生き方は自分が神であると分かれば自ずと出来る。

 私は最近、自分の行動と想念が本来の正しいものになって来たのを実感する。それと共に体調がすこぶる良くなって来ているのも感じる。

 以前の私は我(が)が強くて、生長の家の生き方即ち今に集中するとか思い切りよく押し強く生きるとか常に自我を死にきるとかいうのが出来なかった。

 そして、神経を損傷しノイローゼになった事もある。しかし、生長の家の学びが進み、自分の中に神が存在するのが段々分かって来るにつけ、自ずと自分の行動や想念が神らしくなって来たのである。自分が神であると分かれば神らしい行動をしたくなるからだと思う。

堀 浩二


by koujihori | 2017-10-17 12:29 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

物質はナイ、現象はナイ。実相のみがある。

 物質はナイ、現象はナイ。全て自分の心の影だ。真実の存在は完全円満の実相のみである。しかもそれは今ここにある。

 何と言う素晴らしい真理であろうか?これ以上の福音があろうか?これが分かれば現象に如何なる悲惨が現れていようとも極楽であるのである。

 生長の家の真理の何と偉大なる事よ。そしてそれを伝えて下さった谷口雅春先生への感謝はとても言葉では言い表せない。

堀 浩二
by koujihori | 2017-09-22 09:01 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家だからこそ試練が与えられる。

 生長の家の人でお子さんが鬱であるとか統合失調症であったりする人がいる。生長の家なのに何故?と思うがそれは生長の家だからこそこうした現象が出て来ているのである。それはまず迷いは悟りの基礎工事であり、実相というのは実際問題を克服する過程で出て来るからである。
 神様はその人に取って解決出来ない問題は決してお与えにならない。そういう問題が与えられたという事はその人にそれを克服するだけの力が既に養成されているからであり、それを通して悩める人を導く教化力を養成する為である。

堀 浩二
by koujihori | 2017-09-06 09:48 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

悪はナイ。

 悪がアルと思ったらその時点で信仰者失格である。全ては吾が内にあり、それは完全円満の神の国であり、外側に見える悪は単に自分の心のレンズの歪み(迷い)により本来完全円満の神の国がそう見えているだけなのである。

堀 浩二
by koujihori | 2017-09-06 09:35 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家は素晴らしい。でもそれを極めるのは生半可ではいかない。

 生長の家の教えは素晴らしい。途轍もないものである。それは実相独在、唯心所現という縦の真理と横の真理であるがこれは実は一つの事の裏表である。実相独在というのは現象はナイという事であり、それなら何かと言ったらそれは心の影という事であり、ここに縦の真理と横の真理は一致するのである。

 これは本当に素晴らしい事だ。どんな不完全な現象が見えていようともそれは真に存在するのではなくて本当に存在するものは全て完全円満であり、その完全円満さがまだ見えないからその心の影として不完全が見えているだけだというのであるから。

 それを見出した時にどんな悪い相手にもどんな不幸な境遇でも感謝が出来るし悦べるのである。それも今すぐに。

 それは本当に深い心境である。従ってその境涯に行くのには生易しい事では済まない。真摯さと持続性と真理に対する謙虚なハイという信仰姿勢が要求される。現象的に全てにおいて絶望した深い嘆きと悲しみの向こう側にその栄光の真理があるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2017-08-17 16:25 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい。

 近頃、つくづく思う。
 本当に「そのままでいい」んだなと。

 そのままって実相なんですよね。実相だから精力的に動く、やるべき事はやるし、やっちゃいけない事はやらない。感謝も出来るし、人も赦せる。そして祈りたくなる。生長の家の生き方の練習もしたくなる。

堀 浩二
by koujihori | 2017-07-31 15:11 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

聖典の言葉尻にとらわれてはならない。

 聖典の言葉尻にとらわれるな。無形、無限の真理の一つの現れとして聖典の真理の言葉があるのである。本当の真理は文字の奥の無形、無限のものであり、そこから現象化する際、色々に限定された形としての言葉となって出ているのであり、その色々の有限の言葉が組み合わされた真理の言葉の曼荼羅により、その奥の無形の真理を悟って行くのである。
 生長の家はこうして色々と有限の言葉を立てて、これを組み合わせてその有限の言葉の奥の不立文字の真理を読者に悟らせる事に成功したのである。しかし、やはり、形に現れた一つ一つの真理の言葉は真の無形の不立文字の真理そのものではないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2017-07-27 10:44 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

唯物論こそが迷いの元である。

 全ての迷いの元は唯物論である。人間を物質と思っているから残酷な事も出来る。人から奪って自分だけ潤おうと思う。
 人間を物質だと思って居るから自分と他がバラバラだと思う。そこに利己主義が出て来る。そして物質をアルと思って居るから目の前の悪を具体的な存在だと思う。そこから恐怖が出て来る。そして病気になり、またその目の前の悪を殲滅しようとする。

 それらの唯物論は人間の魂の幼い段階なのである。

堀 浩二
by koujihori | 2017-07-26 09:35 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

愛を与えれば自分に愛が増える。

 私は自分が不遇に遭う原因がはっきりと分かった。それは自分に愛が無かった為である。周囲に愛を与えず、笑顔を与えず、人の良い所を見ず、そうした習慣が私に愛を培う事が出来ない事になり、その為に私に愛が無く、他の人の成功や出世に嫉妬し、そして愛を与えていない即ち私自身が周囲に不遇を与えていた為に私が不遇となったのである。

 しかし、これは素晴らしい発見であり、最大、最高の価値ある事である。これも私の周囲の私を不遇にしてくれた人達のお陰であり、そして内なる生長の家の神のお導きであり、そしてこれこそが私の中の実相が自分で出て来た事なのである。 

堀 浩二
by koujihori | 2017-06-29 15:46 | 信仰 | Trackback | Comments(0)