カテゴリ:信仰( 858 )

物質はナイ、現象はナイ。実相のみがある。

 物質はナイ、現象はナイ。全て自分の心の影だ。真実の存在は完全円満の実相のみである。しかもそれは今ここにある。

 何と言う素晴らしい真理であろうか?これ以上の福音があろうか?これが分かれば現象に如何なる悲惨が現れていようとも極楽であるのである。

 生長の家の真理の何と偉大なる事よ。そしてそれを伝えて下さった谷口雅春先生への感謝はとても言葉では言い表せない。

堀 浩二
by koujihori | 2017-09-22 09:01 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家だからこそ試練が与えられる。

 生長の家の人でお子さんが鬱であるとか統合失調症であったりする人がいる。生長の家なのに何故?と思うがそれは生長の家だからこそこうした現象が出て来ているのである。それはまず迷いは悟りの基礎工事であり、実相というのは実際問題を克服する過程で出て来るからである。
 神様はその人に取って解決出来ない問題は決してお与えにならない。そういう問題が与えられたという事はその人にそれを克服するだけの力が既に養成されているからであり、それを通して悩める人を導く教化力を養成する為である。

堀 浩二
by koujihori | 2017-09-06 09:48 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

悪はナイ。

 悪がアルと思ったらその時点で信仰者失格である。全ては吾が内にあり、それは完全円満の神の国であり、外側に見える悪は単に自分の心のレンズの歪み(迷い)により本来完全円満の神の国がそう見えているだけなのである。

堀 浩二
by koujihori | 2017-09-06 09:35 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家は素晴らしい。でもそれを極めるのは生半可ではいかない。

 生長の家の教えは素晴らしい。途轍もないものである。それは実相独在、唯心所現という縦の真理と横の真理であるがこれは実は一つの事の裏表である。実相独在というのは現象はナイという事であり、それなら何かと言ったらそれは心の影という事であり、ここに縦の真理と横の真理は一致するのである。

 これは本当に素晴らしい事だ。どんな不完全な現象が見えていようともそれは真に存在するのではなくて本当に存在するものは全て完全円満であり、その完全円満さがまだ見えないからその心の影として不完全が見えているだけだというのであるから。

 それを見出した時にどんな悪い相手にもどんな不幸な境遇でも感謝が出来るし悦べるのである。それも今すぐに。

 それは本当に深い心境である。従ってその境涯に行くのには生易しい事では済まない。真摯さと持続性と真理に対する謙虚なハイという信仰姿勢が要求される。現象的に全てにおいて絶望した深い嘆きと悲しみの向こう側にその栄光の真理があるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2017-08-17 16:25 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい。

 近頃、つくづく思う。
 本当に「そのままでいい」んだなと。

 そのままって実相なんですよね。実相だから精力的に動く、やるべき事はやるし、やっちゃいけない事はやらない。感謝も出来るし、人も赦せる。そして祈りたくなる。生長の家の生き方の練習もしたくなる。

堀 浩二
by koujihori | 2017-07-31 15:11 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

聖典の言葉尻にとらわれてはならない。

 聖典の言葉尻にとらわれるな。無形、無限の真理の一つの現れとして聖典の真理の言葉があるのである。本当の真理は文字の奥の無形、無限のものであり、そこから現象化する際、色々に限定された形としての言葉となって出ているのであり、その色々の有限の言葉が組み合わされた真理の言葉の曼荼羅により、その奥の無形の真理を悟って行くのである。
 生長の家はこうして色々と有限の言葉を立てて、これを組み合わせてその有限の言葉の奥の不立文字の真理を読者に悟らせる事に成功したのである。しかし、やはり、形に現れた一つ一つの真理の言葉は真の無形の不立文字の真理そのものではないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2017-07-27 10:44 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

唯物論こそが迷いの元である。

 全ての迷いの元は唯物論である。人間を物質と思っているから残酷な事も出来る。人から奪って自分だけ潤おうと思う。
 人間を物質だと思って居るから自分と他がバラバラだと思う。そこに利己主義が出て来る。そして物質をアルと思って居るから目の前の悪を具体的な存在だと思う。そこから恐怖が出て来る。そして病気になり、またその目の前の悪を殲滅しようとする。

 それらの唯物論は人間の魂の幼い段階なのである。

堀 浩二
by koujihori | 2017-07-26 09:35 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

愛を与えれば自分に愛が増える。

 私は自分が不遇に遭う原因がはっきりと分かった。それは自分に愛が無かった為である。周囲に愛を与えず、笑顔を与えず、人の良い所を見ず、そうした習慣が私に愛を培う事が出来ない事になり、その為に私に愛が無く、他の人の成功や出世に嫉妬し、そして愛を与えていない即ち私自身が周囲に不遇を与えていた為に私が不遇となったのである。

 しかし、これは素晴らしい発見であり、最大、最高の価値ある事である。これも私の周囲の私を不遇にしてくれた人達のお陰であり、そして内なる生長の家の神のお導きであり、そしてこれこそが私の中の実相が自分で出て来た事なのである。 

堀 浩二
by koujihori | 2017-06-29 15:46 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

本当の幸福とは

 私はこのところ、表面的には艱難続きである。特にある場所で不遇を受け、居場所が無くなって来ている感じだ。

 しかし、これはその奥で途轍もなく素晴らしい事が進行している事だとは何となく感づいていた。私が不遇を受けるのは私に愛が足りない事の観世音菩薩の働きであると思っていた。そして、ある時、決定的に自分には愛が無いという事を実感する出来事があった。 
 それは先日、ある友人に呑み会に誘われた際、その友人の写真を持っていたスマホで何気なく写した。それを後からフェイスブックにアップして、その友人を小バカにした文章を添えて投稿しようとしたのだ。その時に実感したのだ。ああ自分はこの友人に対する愛が足りないと。
 実はこういう傾向は私は生まれつきあったのだ。だから人を批判してしまう。愛があれば批判なんかしないのです。

 そこで全てが本当に分かりました。自分は愛が足りなくてそれでかつてノイローゼとか不眠症になったのだと。その事は雅春先生が「生命の実相」の中で書いてある。

 今のある場所での不遇は自分に愛が足りないからそうなったのでありそれが観世音菩薩となって自分にお示しがあった。
 しかし、観世音菩薩として自分にそのお示しがあったと気がついた時点で自分の中の実相が出て来ているのです。何度も言いますが実相は自分で出て来る。

 私がフェイスブックで友人に愛のない行為をしようとした時点でそれが自分に愛が無かったと実感出来たのは私の中の実相が出て来て愛が表面に出て来たからこそ過去の自分が悪かったと気がついたんですね。

 こうした人格の生長こそが私がこの世に生を受けた大きな目的でありました。そして何かしら問題が起こって来た時はそれが実相が出て来るきざしというか基礎工事になっている訳であります。

堀 浩二
by koujihori | 2017-06-26 10:33 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

凡庸の唄の素晴らしさ

 谷口雅宣先生の「凡庸の唄」だけれども今一つ分からなかった。だって昔から一芸に秀でる者は百芸に通ずと言われているし、人間神の子無限力ならその無限力を掘り出すのに必死になるのが本来であるのにこの凡庸の唄では下手の横好きを肯定している。

 でも自分の能力をやっきになって伸ばす事は利己主義につながるし、技術的な事の向上を追い求めるのは人間の自然の能力を損なったりまた物質繁栄追求にもつながるので環境破壊につながるという所までは理解出来た。

 でも私はここ最近、決定的な経験をした。それは先日、会社で従業員の夏の賞与を決める会議を私と社長と最近役員になったN氏(私より15歳年下)とでしたのだがN氏は会社の従業員の日頃の仕事ぶりとかを私などより遙かに熟知しており私は立つ瀬がなかった。私は経理、財務が主な仕事なので会社の機械メーカーとして主たる業務に関わる事が殆ど無い。N氏はその点、営業部長であり営業は設計とも現場とも工務とも関わるので会社の人達の働きぶりを良く知れる立場にはある。
 でも私は自分が余りに会社の従業員の事、そして機械メーカーとしての日頃の業務の流れを知らなすぎると実感した。
 私は日頃考えている事は生長の家の真理の探究、それから美術とかテニスとかの自分の趣味に関する事、そして日本の政治の実情や世界情勢、そして仕事は自分の業務に関わる事のみである。

 要するに日頃から自分の能力の向上や日常の仕事に関係の無い比較的レベルの高い知識の収集ばかりに目を奪われて日常的な周りの人の普段の状態とか会社の自分の業務以外の事に関して殆ど無関心だったのだ。

 要するに私は視野が狭かったのである。それは私が凡庸の唄に書かれている事、即ち日常的な事に目を向け味わうとか下手の横好きをいとわないで色々な事に興味を持つというのとは全く逆の生き方を今までしていたのであった。

 私に一番足りないのはそうした広く周りに目を向け、味わい思いやりを持つという事であったのだ。だから社員の賞与の査定の時に社員の事や彼らの日頃の業務の事も分からなかったのである。

 私はこの凡庸の唄に救われた。そうでなかったら私は会社の経営陣として失格だっただろう。

堀 浩二
by koujihori | 2017-06-23 12:39 | 信仰 | Trackback | Comments(0)