カテゴリ:信仰( 848 )

実相を悟れば恐怖心は消える。

 思ったら思った通りになるという生長の家の心の法則は私に取って、恐怖の原因だった。
 思ったら思った通りになるのなら悪い事を思ったら実現してしまうという恐怖心が芽生えたのだった。それは高校生練成会でその講話を受けた後だった。
 
 これに掛かると悪い事を思うまいと思えば思う程思ってしまい、それが恐怖心となるのである。私はそれが元で学校の勉強が手に付かなくなった。
 その後、生長の家青年会に入って仲間と活動したりしてそういう恐怖心も薄らいではいたとは思うが。
 
 しかし、今となっては良く分かる。それは「思ったら思った通りになる」のであれば現象というのは心の影であり本来存在しないものなのだという事。だからどんなに悪い事が起こっても本来存在しないのであるから取るに足らない事であり、それは心さえ変えれば消えるというのであるから大変有り難い教えだったのだ。
 そして本当の存在は現象の奥にある実相のみでありそれは完全円満である。これも本当に素晴らしい教えだ。
 そして、その実相をどう観るかでその通りに現象に実相の映像が映るのであり、実相が完全円満だと分かればその心の通りに現象が映るという事であり、要するに実相が完全円満であると悟れば現象も良くなるのだから恐怖心なんて無くなるという事。

 要するに今ここに神の国があり自分が神の生命そのものの完全円満な存在であると悟ればそこに悪や不完全を心に描く事がなくなる。そうすると悪や不完全を恐怖する事を恐怖するなんて事も無くなるという事。

 そしてそういう状態になる事が実相顕現という事ですね。

堀 浩二
by koujihori | 2017-04-20 13:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

愛とは人の生命の実相を観る事

 愛って人の実相を観て感謝する事だったんですね。私は非常に正義感が強くて悪は赦さないという心持ちで生きて来た。生長の家の真理も「人間たるもの、親たるもの、経営者たるものこうであるべきだ。」という尺度というか観念を非常に強める為に作用していた面が強く、それで人を批判、裁いてばかりいた。

 しかし、そうこうする内に私は人に対して愛情が希薄であるという実感があった。そして、それは対人恐怖にもなっていたと思う。

 だが、私はある事がきっかけで自分が人の実相や明るい所を観ないで裁いてばかりいた事を思い知らされた。それは正に観世音菩薩のお示しであった。
 それを機に私は人の実相を拝んで良い所を見て感謝する事を意識的にする様になった。その時からである。自分の人を見る目が柔らかな優しいものとなったと自覚する様になったのは。

 そして、それと同時に対人恐怖が何時しか消えていたのである。

堀 浩二
by koujihori | 2017-04-20 13:30 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

自分の中に真理を見出さないと

 生長の家って結局自分の中に真理を見出さないと駄目なんですよね。そうでないと外側に振り回される。外側というのは聖典や総裁先生のご指導も含まれます。
 
 自分自身が内に真理を見出していないで外にばかりそれを求めている状態でその外の言葉に盲従しているようだとそれは一種の洗脳とも言えるし、また聖典の言葉とか総裁先生のご指導というのはその時、その場で色々と状況に応じて色づけされて出て来るからあそこではこう書いてあるかと思えばこっちには全然逆な事が書いてある。
 そうなると迷ってしまう訳です。受け取る方としては。原理主義者というのはその点、迷う事は無いでしょう。何故なら彼らは教典の中の自分に都合の良い所だけを拡大解釈するからです。

 それはともかく生長の家は自分の中に生長の家の真理を見出さなくては駄目です。それを悟ると言います。真理は外にあるのではない。自分にある。しかし、これは聖経「甘露の法雨」にちゃんと書いてある。即ち
「神の国は吾が内にのみあり。外にこれを求むる者は永遠にこれを得ることあたわず」と。

 神の国とは真理の事ですね。だから、人間は究極は自分の中に真理を見出さなくてはならないし、それが吾神の子の自覚ですね。そしてそれを得せしめるのが生長の家の目的です。 

堀 浩二
by koujihori | 2017-04-13 15:26 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

感情も過去の業の現れ。だから現れて消えるに任せれば良い。

 雅春先生ってけっこう癇癪持ちだったみたいでそれにまつわるエピソードは二三聞きます。生長の家本部かどこかで雅春先生を中心に幹部が会議をしていた際、扇風機の角度を変えた人が居た。そうしたら先生はその人に向かって
「それはいじらんといて下さい!」って怒鳴ったそうです。

 でもそのすぐ後にその相手と何事も無かった様に先生は談笑していたとの事。先生はどこかにお書きになっています。
「僕も怒る事はある。でも僕はすぐ赦すんだ。」と。

 実相直視、天地一切のものに感謝が生長の家です。でも癪にさわる事はある。憤る事もある。現象界というのは過去の業が波動的に出て来る世界で脳髄から出る想念も同様です。その時にある条件になると特定の感情、想念が湧き出て嫌悪感を持ったり憤怒の感情が出て来る事がある。でもそれは過去の業が現れて消え行く姿。だから放っておけば良い。

 そして、相手を拝めば良いのである。そして感謝する。それで良いと思います。  

堀 浩二
by koujihori | 2017-04-06 13:40 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

感謝は神がさせて下さる。

 天地一切のものに感謝すると言ってもね。頭に来る事はあります。気分悪い事も。そんな時は自分の心を神に全託すると良い。
 神は全ての全てであるから必ずや神の御力により天地一切のものに感謝出来る事が出来る様になるのである。それは内側の神即ち吾が実相が自分で出て来る事による。しかし、それは観世音菩薩のお示しという多少厳しい経験をしなくてはならない事もある。

そのままでよいのである。そのままは神である。実相は自分で出て来る。我(が)ではない。

堀 浩二
by koujihori | 2017-04-06 09:09 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家は全ての悪と罪を消す。

 生長の家の素晴らしいというかすごい所は全ての問題をたちどころに解決してしまうという所だ。

 吾々は過去に何か禍根を残す罪とか失敗ややり残し等々があると感じる事があるだろう。しかしながらそれらは皆、本来無いのである。

真理を自覚し悟れば全ての罪が消える。そして過去の禍根とか間違いなども消えるのである。何故ならば過去も現在の心の現れであるからである。

 生長の家の「本来罪無し」というのはそういう意味である。そしてその過去の罪とかやり残しとかと言う現象は実は自分の実相顕現の為に最も必要な過程であった事も分かる。

堀 浩二
by koujihori | 2017-03-17 15:23 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

本当の信仰とは

 生長の家の信仰に入って病気とかの問題が消える。しかし、それで良しとしてはいけないと思う。現象など良い時もあれば悪い時もあるからそれの良し悪しで一喜一憂するのは本来ではない。それは無相円相一切相の神示にも書いてある。
「吾が来たれるは物の為ではない。生命の為である。肉体の為ではない。霊の為である。これを悟る者は少ない。物の消滅に心がとらえられ、物が殖えた時に信仰を高め、物が減った時に信仰を失い、身体が健康になった時に神を讃え、家族のだれかに病気が起こったと言っては信仰を失うがごときは神を信じているのではなく物を信じているのである。」と。

 本当の救いは現象は心の影であって本来存在しない事、そしてその奥の実相生命は今この時点で完全円満である事。そして全ては神が解決して下さるので今悦んで良い事を悟る事だ。 

堀 浩二
by koujihori | 2017-03-07 13:13 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

悟り及び実相顕現というのは実相が自分で出て来る事によりのみ成就する。

 迷いは悟りの基礎工事です。人間の本質は完全円満でありかつ悟りそのものです。悟りというのはこの世界は実相独在であって完全円満で無限力の神が宇宙の隅々までも行き渡り生きとし生けるもの全てを内側から生かし、人間はその神の最高表現であり神の万徳を備えたものであり、全ては神に於いて一体の生命であるという真理をそのまま実感している事であります。
 それは叡智であり実相そのものであり久遠の生命であり無限の叡智でもあるから悟りなのであります。

 人間の本質はこの久遠の生命の自覚そのもの悟りそのものであり、それは無限でありかつ無形です。そしてこの世界は表現の世界ですからその無限の実相生命が自ら表現活動をするのであります。それが無限生長という事ですがその表現活動をする事により無限の生命が有限化される。

 その表現のレベルというものは最初は稚拙な段階から始まる。そして試行錯誤する中で段々とその表現のレベルが上がって来る。その際、神の導きにより宗教的天才の指導でその表現の仕方、悟りを導かれる事がある。それがキリスト教、仏教等の世界的宗教というものだ。 

 しかし、本質的にはその本人の内側にある実相即ち無限の叡智なるものが自ら表面に出て来る活動により実相が顕現し、無限の叡智即ち悟りも自ずと出て来る。
 その際、必ず迷いの段階を経る。迷いというのは自己の生命の実相を悟らず迷った状態であり、そこで色々の苦しみも味わう。その中で病になる事もある。しかし、それらは実相即ち本物の悟りが無限生長する事により自分の力で自ら自己表現して現象世界に出て来る過程の中での基礎工事なのだ。
 その悟りが自分で出て来る過程では先達の指導により導かれる事があるがそれは本当はその本人の生命の実相、悟りが自分で出て来る際に先達や師の指導という形を取って現れたものである。

 従って悟りというのは何か自分の我(が)の励みにより我(が)が罪悪深重の凡夫の上に構築して行くものではなくて自己の中の悟りそのものが自分で表面に出て来る事によりのみ成就するのであって、その営みは実相そのものが自分で出て来るという事であり、その過程に於いて迷いというのが悟りの基礎工事として出て来るのである。

 よって、全ては完全円満でそのままでよいという悟りが自己の中から出て来る過程においてこの世界は不完全であり不幸と病と悪が満ちている世界であるという迷いが出て来て、それにより病になったりの苦しみが悟りの基礎工事として出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2017-03-03 14:04 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家は途轍もないものだ。

 何と言ったら良いだろうか?生長の家というのは正に途轍もないものである。そして、それに浴している私は恐らく宇宙一の幸福者だろう。
 この教えと運動は地上に確実に天国を実現させるであろう。私はひたすらこの福音を伝えたい、表現したい、悦びたい。ただそれだけなのである。
 日常生活でそれをし、同時に生長の家の組織運動では生長の家総裁に中心帰一し、この運動の発展に少しでも貢献したい。

堀 浩二 
by koujihori | 2017-02-02 14:35 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

心の法則だけ学んでも駄目

 私は高校一年の時に生長の家高校生練成会を受けた。夏と冬と二回受けた。当時は五泊六日位のたっぷりとしたものだった。

 で、この二回の練成で一番印象に残ったのが講師のこの言葉
「思ったら思った通りになる。」の一言。

 私は生高連の人からの誘いを断り、自分一人で生長の家を勉強しようとした。それで練成会のテキストだった「真理」とか「こうして善を実現する」を毎日自宅で読んで考えている内に勉強が手に付かなくなってしまった。
 一つの非常に大きな悩みが生じてしまったからだ。その悩みとは
「思ったら思った通りになるのなら悪い事を思ったらそれも実現してしまう。」というものだった。これに取り憑かれると悪い事を思ってはいけないと思いつつ悪い事を思ってしまう。そうするとそれが恐怖になる。恐怖するとその恐怖した事が実現すると思うからますます恐怖する。
 こんな負のスパイラルから私は学校の勉強が手に付かなくなり成績は見る見る下がっていった。担任の先生からも随分心配された。要するに表面的に見ると私は練成に行った事でノイローゼになり学校の成績も下がってしまったのだ。
 これは第一に私が生長の家の仲間との交流を絶ち自分一人で生長の家を分かろうとした事に元凶がある。生長の家は一人でやっても迷うばかりで却って危険である。それと心と身体のメカニズムを考えるにこれは心の法則を知ったと同時に心を明るく健全なものとする訓練が本来は必要だったのにそれが為されなかった事に原因がある。
 具体的に言うと吾々の心というのは脳髄から出る作用が非常に影響する。脳髄が健全なものであれば明るい楽観的なストレスに耐性のある心が出るが健全でないと暗く悲観的な恐怖心の過剰な心となる。そういう脳髄が心の法則だけ知れば「思ったら思った通りになるのなら悪い事を考えない様にしよう。」という事にとらわれ、恐怖するという負のスパイラルに陥ってしまう。

 心の法則を教えるのであれば同時にというかそれ以上に「人間は本来は神の子で完全円満であり、それを毎日の生活の中で言葉と表情と姿勢とで表現し、行動し、かつ神想観で深く潜在意識に認識させなくてはならない。」という所までやる事が大事だ。それがきちんと出来ていれば恐怖しない脳になるから心の法則を知っても「恐怖する事を恐怖する」なんて事は無くなる。 

 心の法則だけでは駄目、実相独在をより強調し、それを毎日行じる事の大切さを伝える事が大事だろう。

堀 浩二
by koujihori | 2017-02-01 15:37 | 信仰 | Trackback | Comments(0)