カテゴリ:信仰( 848 )

悩む心は日時計主義で消える。

 悩みというのは尽きないものである。それは色々と形を変えて続く。で悩みの対象が変わると以前はどうしてあんな事で悩んでいたのか不思議なのである。それはとりもなおさず悩む具体的な対象というのは本来存在せず、ただ自分の悩む心がつかんでいただけなのである。誠にもこの現象世界は心の影である。

 要するに悩みというのは具体的に実在するものではなく自分の悩む心が映し出しているのに過ぎないのである。だから悩む心を自分が抱いている限りは悩む対象は次々と形を変えても悩みとか不安とか恐怖というのは続いて行く。そしてそれが高じたのがノイローゼである。ノイローゼは脳の病気である。悩む心により脳にストレスが刻まれ、脳の組織に損傷を生じ、そして不安と恐怖でさいなまれ、眠る事も出来ない。それが精神病でありノイローゼである。

 ところで悩みについてこんな仏教の話がある。それは家が狭い狭いと文句を言っている男がいたという話である。そして近所の寺のお坊さんに相談した。そうしたらお坊さんはその男に「お前が飼っている牛と馬を家の中で飼え。」と指示した。それでその男はただでさえ狭い家なのに牛とか馬を入れたら更に狭くなると不満に思ったがともかくその指示通りにしたのである。 
 そして一週間ほどしてそのお坊さんがもう元通り牛と馬を納屋に返して良いというので男は元に戻した。そうしたら元々狭いと思っていた家が何と広々とした家であったかと分かったというのである。
 これは悩みの種なんて存在せず、その男の悩む心のみが存在するという事の仏教の例え話である。

 さて、生長の家の信仰は実相独在であり、その真髄は今ここそのまま実相世界であるという事であるがそれが現象世界に具体的に展開する為にはその実相独在の悟りに基づいて具体的に生活の中でその悟りが訓練されて行かなくてはならない。その訓練が所謂日時計主義の生き方、トレーニングである。それは日常生活の中で具体的に良き事のみを見つめ、讃嘆し感謝して行く生き方でありそれは自分で意識して心掛けて行かなくてはならないのである。そしてそれが訓練となり潜在意識に善き事、嬉しい事、感謝が満たされて行く様になれば悩みなどは消えてしまう。どんな境遇に立たされても常に感謝に心が満たされ、悩みとか不安とかとはまるで縁のない境涯に至る。所謂無畏怖の境涯である。

 もし、心が悩みに満たされて脳細胞が損傷しそれによりノイローゼになっている人がいたとしてもこの日時計主義で日常良い事のみ見つめ感謝して行く習慣を身につけて行くならば破壊された脳細胞は修復され、ノイローゼ、精神病も回復するのである。 

堀 浩二
by koujihori | 2016-12-01 09:10 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

良い事をするだけでは駄目。完全円満の世界を観よ。

 良い事をするのは人間として基本だけれどもそれだけだと限界がある。更に大事な事は「今、そのままで既に完全円満の実相世界が現象の奥に存在しているという事を悟る。」事である。そして現象はその実相を悟らずに観ずに現象の悪を見て相手を批判する自分の心が作り上げた幻影であるという事を悟らなくてはならない。

 そうでないとただ善にとらわれただけの心の狭い人間となり、悪事を為している人間を決して赦す事が出来ないからだ。相手を赦さない心は神と波長が合う事はなく、神からの救いの念波を受ける事が出来ず、自分の心が病気になり、精神または肉体の病気になる。そして家族は不幸になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2016-11-30 12:27 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

悟りはあくまで実相独在の悟り

「続々甘露の法雨」で
「色々と悟らせて頂きましたなどと種々の迷いや罪にとらわれるは却って悟りに遠き事」と記されている。
 これはどういう意味であろうか?
 そもそも生長の家は実相独在、今ここそのままで(実相そのままで)神の国であり、吾が身そのまま神の身(おなじく実相の事)であるというのがその真髄であり、それでしかあり得ない。そして存在するものは実相と実相が自分で出て来る事しかないという事である。だからその悟りが本当の悟りであり生長の家の真髄である。それが分かればありありと今ここに実相とその無限生長がある事が実感され、唯心所現の法則に従ってその通りの現象が展開するという事である。

 では何故、冒頭の様な「色々と悟らせて・・・」という境涯ではいけないかと言うとそれが現象に引っ掛かるものであり、実相独在の悟りとはかけ離れているからである。

 しかし、生長の家では観世音菩薩の事を説き、自分以外のあらゆる現象、人、もの、事は自分の心を映して下さる観世音菩薩の御働きであると説く。その中で自分の心を反省する事により無限生長がある。だがその学びの体験に引っ掛かっては足をすくわれるという事だ。実相独在であり、実相と実相が自分で出て来る事しかない。そのままでよい。神に全託でよいのであり、その実相顕現の過程の中で観世音菩薩のお導きによる学びがあるというのであり、やはり、実相独在なのである。

堀 浩二
by koujihori | 2016-11-25 10:49 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

全ての恐怖、問題は神が消して下さる。

 恐怖心というものが起こって来る時がある。生長の家では思ったら思った通りになると教えられているから恐怖してはいけないと言う事になる。そうするとますます恐怖が襲って来る。
 しかるに生長の家では実相独在と教えられているから現象はナイ。心もナイ。と教えられているから恐怖が起こって来てもそれは無いとは理屈では分かる。
 
 しかし、現実問題恐怖心が起こって来てそれが実現してしまうと思うと更に恐怖が募るという事はある。そういう時は如何にすべきであろうか?
 それは「続々甘露の法雨」に書かれている。「恐怖を止める事がどうしても出来ない時はただそのままであれ。そのままの中に恐怖存在せず」とある。

 要するに「そのまま」は神であり、そこには恐怖は存在しないからそのままであれという事だ。それが実相独在であり、私の心は私の心ではなくてそのまま神の心であるからそのままであればじきに恐怖は自ずと消えるという事。

 そして、もっと単刀直入に言えば恐怖心に限らず全ての問題は神が消して下さるという事。それが「生かされている」という事であり、「実相は自分で出て来る」という事であり、「そのままでよい」と言う事。そこに神に対する満腔の感謝がある。全託でよい。

堀 浩二
by koujihori | 2016-11-22 10:26 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい。

 信仰でものごとを良くするんじゃないですよ。既に今そのままでよい実相がここにあるだけなんですよ。良く見えなかったのは悪いからじゃなくて自分の観に歪みがあってそれを見られ無かっただけ。それだけですよ。
 自分は家族は既に素晴らしい。既に完全円満。それだけです。それを悦んでおれば良いのです。
 既に救われ済みです。そのままでよい。

堀 浩二
by koujihori | 2016-11-08 09:48 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家で問題を良くしようとするな。

 生長の家で問題とか病気が良くならないのは「生長の家でこの問題、病気を良くしよう」とするからです。
 生長の家で「人間神の子完全円満、無限健康」と分かったら病気とか問題を問題にせず、「今完全円満、既に病気ナシ」を信じてずんずん本来やるべき事をやれば良いのです。ご先祖に生かされていたと分かったらその報恩感謝の証として当たり前にご先祖をお祭り申し上げ聖経を仏前にて読誦すれば良いのです。

 決して「これからこの問題、病気を生長の家の行で良くしよう」などと考えてはなりませぬ。問題は既に神により完全に解決されていると信じなさいませ。

堀 浩二
by koujihori | 2016-10-31 22:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

今そのままで既に完全円満である。

 ちょっと心配事があって、かなりのストレスを受けていた。夜中々眠れなかったりひどい腹痛などがあって、神経はかなりのダメージを受けていた。だから土曜日の仲間内の貸しコートでの早朝テニスはくだらないミスが出てまるで駄目だった。

 そしてその後、テニスクラブへ行きテニスをしたが一戦目はやはり駄目で0-6のスコアで負け。体が重く、反応も鈍くどうしようもない。これはストレスにより体のダメージが残っているからだと思った。
 そして次のゲームをまたやったがその途中で内側からパーッと気がついた。

「自分は心配事があって心にストレスを感じ、それが神経を損ない、反射神経も体幹力も筋力も低下しているからテニスの力が発揮出来ないと思っている。しかし、それは間違いだ。力は今既に神から与えられている。これからではない!」と。

 そう思ったら力がすぐ出て来た。反応も良くなった。そしてそのゲームは6-3で勝つ事が出来たのである。

 それと共に体にストレスを与えていた問題も今そのまま既にナイと分かった。問題は今このままで神により解決されていると。だから、それによるストレスも無いし体のダメージもナイ。たった今。

 それが実相独在という事である。それが分かれば今すぐ力を発揮出来る。問題みたいなものも自ずと消えるのである。それをまだ心配事があるとかそれによる体のダメージが残っているなんて考えるのは迷いなのである。 

堀 浩二
by koujihori | 2016-10-25 17:16 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

この世界は実相と実相が自分で出て来る事しかない。

 この世界には実相と実相が自分で出て来る事しかない。それが実相独在という事である。実相は生命であり、それは無限生長であり、従ってそれが同時に表現を欲する。その表現する行為が現象化であり、無限から有限となる。
 その過程は稚拙な段階から段々とレベルがアップするという事になるがそれが迷いは悟りの基礎工事という事である。先ず迷いが出て、色々な本来でない事、稚拙な事、悪事を働いてその中でその報いを受け、色々苦労する中で自分で悟り、そして実相が顕現する。それは実相は自分で出て来るという事である。
 その実相が自分で出て来る過程で自分が迷いによって人生上の問題を作り出す。その中で信仰が鍛えられる。そしてそれが繰り返すが実相が自分で出て来るという事であり、だからどこまで行っても実相独在なのである。

 だから、色々経験を積んで、色々分かったからと言って「色々と悟らせて頂きました。などと過去の罪や迷いにとらわれるのは却って悟りから遠きこと」と続々甘露の法雨に書かれているのである。そうした過程は現象であって、実相独在ではないからである。あくまで実相独在であり、それが自分で出て来てその過程が結果的に現象の色々な経験になるのであって、その現象的経験にとらわれて「自分はこれだけ悟った。」なんて考えたらそこでもう実相独在ではない。
 あくまで今このままここが実相であり天国浄土であり自分は完全円満の神であり自分は今まで一度も迷った事も悪事をした事も失敗した事も無いというのが実相独在の真理である。

堀 浩二
by koujihori | 2016-10-25 09:48 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

経験とは?

 人の相談に乗ったり、救ったりするのはその相手と同じ経験を積まなくては分からないという。しかし、生長の家では生長の家の真理を説くだけで相手が救われる。人を救うには何も全ての苦しみを経験しなくてはならないという事ではない。

 しかしながら経験というのは実相が無限生長する中で現象に顕現する過程で自ずとされるものである。だから、そうした経験は確かに後進を指導するのに役に立つし、相手の苦しみを分かってあげる事になるから親身になれるのも事実である。

 但し、繰り返すが生長の家において生長の家の講師が人を救うのはその講師の力でするのではなくてその講師を通して生長の家大神または高級霊がするのであるから生長の家の講師は全ての苦しみを経験しなくてはならないという事ではないと思う。

堀 浩二
by koujihori | 2016-10-25 09:32 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

今そのままでここがそのまま実相世界である。

 生長の家の信仰っていうのは実相は素晴らしいけど現象は自分の心が作るっていう感じでとらえてると心の安泰は無い。
 実相と現象は確かに違うけど現象はナイとも教えられている。雅春先生は心が現象を作るって事が分かっただけでは心を制御出来なくて非常に悩まれた。でも現象も心もナイ、実相が今ここにあると悟られて心という暴れ馬から降りて実相の大地に降りる事が出来たとお書きになっている。

 現象はナイ、心もナイっていうのは今このままでここがそのまま実相世界であり、自分そのまま自分の心そのままで神であり神の心であるって言う事。それが分かったら現象は心の影だから今現象としてはっきりと神の国が完全円満の神の自己と家族が現れる。

 要するにそのままでよいという事。心をああだこうだとこねくり回さなくて良いと言う事。そして実相は無限生長だからいくらでもそのままで発展するするという事。それが実相が自分で出て来るという事。そして、それこそが実相独在という事である。

堀 浩二 
by koujihori | 2016-10-24 10:47 | 信仰 | Trackback | Comments(0)