カテゴリ:信仰( 829 )

生長の家の生き方はどうしたら出来るのか?

 生長の家の生き方が出来る人は良いが自分は意志が弱く、信仰も足りないので出来ないという人がいる。私自身も「生命の実相」生活編の「取り越し苦労するなかれ」というのがどうしても出来なかった。
 しかし、神様は生長の家の生活法を実行出来る人間と出来ない人間と分けて造られたのであろうか?端的に言えば心の強い人と弱い人と分けて創造されたのだろうか?

 そんな事はありますまい。人間は神の子であり、完全円満であり、勇気そのものであり、無限力そのものだから全ての人は生長の家の生き方が出来るのである。否、吾々はそのままで生長の家の生き方そのものなのだ。

 それなら何故、表面的にどうしても生長の家の生き方が出来ない人がいるのであろうか?それは我(が)がやろうとしているからである。我(が)は本来存在しないからいくら力んでも何も出来はしない。ただただ内なる神が神する事でしか吾々は何も為し得ないのである。それならどうやったらその神が神する行動が出来るのであろうか?それは吾等の内なる神即ち実相は自分で出て来るのである。そして自分で出て来た実相が実相して生長の家の生き方が出来る。
 それは誰でもそうなのだ。そして我(が)が頑張ってあくせくしている状態も実は実相が自分で出て来る初期段階と言うかその迷いの状態が基礎工事となって実相が出て来る。
 それが「そのままでよい」という事である。

堀 浩二
by koujihori | 2016-04-12 10:01 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家は病気を治す所ではない。今ここそのままで完全円満の世界が存在しているという事である。

 生長の家は病気を治す所ではない。今そのままで病気その他の不完全が一切ナイ完全円満の実相世界がここにあり、それ以外の世界は存在しないという教えである。そしてそれを自覚すればそれが観じられ、その心の展開が周りに展開するという事だけである。

 病気が存在するとして生長の家という薬を用いて治すと言う事ではないのである。だから、どんなに恐ろしい病気その他暗黒が見えていようともどうという事は無い。それは始めから存在しないものを自分が勝手に心を歪ませて見ているに過ぎないという事だ。

 そして、その本当の完全円満の世界は自分の中の悟りが目覚める事によりのみ自ずと見える様になる。それは自己の実相が出て来る事によりそうなる。そしてそれが悟るという事であるがその実相も自分で出て来る。然るべき過程を経て。だから何も心配は要らない。 それが生長の家である。だから生長の家は素晴らしいのである。

堀 浩二
by koujihori | 2016-04-05 16:17 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

自分が良き人である為に

 自分が良い人であるにはこの世界が今そのままで良い世界であり、全ての人が良い人であると分からなくてはならないのである。
 自分が人の成功を心から祝福出来る為にはやはり、人の実相が善であり、素晴らしいと分からなくてはならないのである。
 自分が今そのままで素晴らしいと分からないから、自分に自信が無くて、その心はそのまま他人の悪を観る心であり、人の成功が妬ましくて仕方が無い心である。
 そして人の悪のイメージを集積させる事になる。それは自分の心を汚し、自分がそれでますます悪人になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2016-03-30 17:03 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相顕現に我(が)は要らない。

 親に感謝出来て無くて病気になっている信徒を感謝してないとして批判するのは間違っている。生長の家はそんな教えではない。親に感謝してないから病気になるという見方は正しい。しかし、それはその感謝出来ない人が悪いからそうなるのではない。その人の実相がまだ顕現してないから感謝出来ないだけである。

 大体、実相が出て来るのに我(が)は要らない。感謝しなくちゃ駄目じゃないかと外側から我(が)で責めるものではないし、自分にも強いるものではない。実相が出て来るのは実相自ら自分で出て来る。我(が)で「こうしなくちゃいけないじゃないか」として出すものではない。実相は自分で出て来る。それが全託という事であり、神に生かされているという事であり、それが実相独在であり、神に感謝するという事である。

 神の他に実相が出て来るのに我(が)が必要というのでは神に全幅の感謝という事にならない。それは生長の家の教えではない。

 実相は自分で出て来る。問題は神が消して下さる。それが今ここそのまま神の国であり、悪い人は一人もいないという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2016-03-14 17:17 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

病無ければ病の原因も本来無し

聖経「続々甘露の法雨」に
「病無ければ病の原因も本来無し。色々と悟らせて頂きましたなどと病の原因にとらわれるのは悟りからはほど遠きこと。」
 と書かれています。

 吾々の人生学校は学びの連続で反省という事が必要です。人生学校において吾々が何かしら行動する。思念する。心を向かわせる。でも生長の中で稚拙な段階では色々と誤りをする。迷う事もある。それにより唯心所現の法則で不幸という結果を刈り取る。そうした観世音菩薩の御働きで自分の間違いを知る。そして、反省をした時点で吾々の学びは進み、それだけ実相が顕現します。
 でも、そこに留まっていてはいけないと聖経は教えています。あくまで実相独在であり、病も病の原因も本来無いのだと。病とか不幸の原因である自分の心の間違いというのはそれはいずれも実相そのものではない現象だと。そこに引っ掛かると実相独在から離れるのでほどなくしてまた迷いと不安の世界に陥る。

 要は実相独在であり、実相は無限生長だから自分で表現する。それが実相は自分で出て来るという事であり、その中で結果的に人生学校における色々な具体的な学びがあり、それで分かったら、もう罪とか問題は消えている。だから、その事が分かったらもうその事は忘れて実相独在、今ここ神の国であるという事のみを悦んで生きていれば良いと思います。

堀 浩二
by koujihori | 2016-02-29 09:02 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

今このままで病ナシ、問題ナシ。

 現象はナイ、病はナイ。今そのままで。現象や病がアルと思って、それをこれから自分が心を浄めて、無くして行く訳ではないのである。
 現象が病が病の原因がアルと思って、それをこれから消して行かなくてはならないと思った瞬間、自分の目の前に引かれた白線を自分を縛る縄としてアルと思って自縄自縛して身動き出来なくなった鶏の様ににっちもさっちも行かなくなる。それが生長の家の神髄である。

堀 浩二
by koujihori | 2016-02-26 17:22 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る。

 そのままでよい。そのままでここがそのまま神の国であり、神の展開である。実相は自分で出て来る。
 実相が自分で出て来るという事は自分の心の間違いで間違った収穫を得るがそれにより自ずと自分の心の間違いを反省するというスタイルで出て来るので従って、それは決して安穏としたものではない。厳しいものである。
 しかし、それは実相が自分で出て来て、自分で悟ったのであるから、過去の自分が間違っていたと分かるのであり、そこに「悪かった。」という反省の心が出るのである。
 よって、真に悪かったと思えるというのは実相が顕現しているからそう思えるのでだから
「悪かったと分かったら罪は消えている。」のである。

堀 浩二
by koujihori | 2016-02-23 09:21 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

自分に与えられた事は必ず出来る。

 この人生は吾々の中にある実相を顕現させる為の修行の場である。そして、その修行の課題はその人に必ず解決出来る事しか与えられない。だから、どんな過程に居る人も心安らかに今、自分に与えられた課題、環境の中で頑張れば良いのだ。 

堀 浩二
by koujihori | 2016-02-03 10:40 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

生きようと思ったら死ね

 ある亡者が地獄から這い上がろう這い上がろうとしてあくせくしていたが思い切って「どうとなれ」とあくせくする事を止め、自分の身を捧げる気持ちになって力を抜いて地獄の底まで落ちていったらその真下が天国だったという仏教の訓話がある。

 真に生きようと思ったら死ぬ覚悟が必要である。なんでもかんでも生き延びようと思って姑息に確認ばかりしたり、保全しようと思ってあくせくしてはならぬ。思い切って自分の判断を信じて、決断して断行すべき事はして、しなくてよい事は断固しない。それにより自分の現象生命がどうなっても構わないと思い切る。それが生きようと思ったら死ねという意味である。
 こうした生き方をしないと却って心配事が多くてストレスが溜まり、身体を蝕み、運命を悪くする。

 しかし、これも根本哲学が必要である。人間がただの肉体だけの存在であり、保全したり安全を確保しなくては滅んでしまうという考えでは駄目である。自分の生命の実相が宇宙に満ちた全知全能の神に生かされ、支えられていて如何なる現象が来ても大丈夫だという信仰が無くてはこの様に思い切って身をゆだねる事は出来ないだろう。

 そうしてそういう生き方を日頃の小さな所からトレーニングして行けば段々それが習慣となって来るのである。

堀 浩二
 
 
by koujihori | 2015-12-21 13:11 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい、全てを受け容れるという意味

 先日、鎌倉テニス選手権55歳以上の部で0-8で惨敗。私は56歳なので年齢は言い訳にはならない。

 私は以前はテニスの大会に積極的に挑戦していたが6年前に親の介護の問題が生じてから遠ざかっていた。また通勤は親の送り迎えがあった為にそれまで電車通勤だったのを車通勤にしていた。50歳を過ぎればただでさえ足腰に衰えが来るが車通勤だったのでことさら衰えたと思う。
 
 そして、今年の始めに父が他界したのをきっかけにテニスの公式戦への挑戦も再開する事にした。そして、鎌倉テニス選手権へのエントリーをした。そしてその二週間前に手慣らしの為に練習試合の大会に出場した。そこで4試合して戦績は1勝3敗。1勝出来たのは自分としては自信となった。
 で本番の一週間前にネットで大会の対戦相手を調べたら何と知り合いのY氏。彼は私より一つ下だがかなりの強敵。今まで対戦も何回かあるが最初は相手のミスで勝てたがその内、Y氏は腕を上げ、全く歯が立たなくなった。それが7年前だ。その後、Y氏は頻繁に大会に出場している様でますます強くなっていると思われた。その上、私はこのY氏が若干、人間的に苦手。態度が悪く、愛想もない人間なのだ。
 
 私は非常に憂鬱な気持ちになり、非常なプレッシャーを感じたのだった。
「よりによって復帰第一線がY氏が相手なんて」と思った。逃げ出したい気持ちになったのだった。もし、スコア0-8で1ゲームを取れなかったら相手にあざ笑われるのではないかという取り越し苦労が頭をもたげ、いてもたってもいられない気持ちになった。私としてはフライパンの上の炒り豆の様に気持ちになった。逃げ出したい!でも逃げ場がないと。
 で、恐怖するとストレスが出る。夜も眠れなくなるだろう。そうすると体調が悪くなり更に状況は不利になる。負の感情をスパイラルはどうにも止める事は出来なかった。それでそういう時は心を明るく持とうとか今に集中しようとか全託しようとか思ったが結局
「全てを受け容れ、そのままであろう。」と思った。そうしたらまあまあ眠れるし、体調も自分で心配するほどは悪くならなかった。ただ大会の前日はひどい下痢になった。

 そして、当日を迎えたが、私は冒頭に述べた様に全く身体が動かず良い所は全然無いまま恐れていたスコアの0-8で1ゲームも取る事が出来ず惨敗した。
 私は本当に穴があったら入りたい気持ちで会場を後にした。

 私は表面的には散々な経験をした。相手がY氏ではなくて見知らぬ人であればあんなに事前にプレッシャーを感じず、体調を崩さなくて済み、あそこまで身体が動かない事はあり得ず、勝てなかったとしても何ゲームかは取れたかも知れない。今回は最悪の運命と結果だ思った。
 
 しかるに
 私はこの経験で何が今の自分に必要なのかが如実に分かったのだ。それは日頃のトレーニング不足である。
 前述の様に事情があったとは言え私はこの6年間は毎日車通勤であり、それがただでさえ足腰の衰える50代でことさら足腰の弱体化を招いた。そして、グラウンドストロークを粘り強く正確に繰り出すトレーニングも全くやって来なかった。こういう事が私には本当に欠けていたのだ。それに気づく事が出来たのは最高の収穫なのだ。
 私はこれを機に月一で練習試合会に出て、毎週、壁打ちでグラウンドストロークとサービスの訓練をし、そして毎朝の素振りは回数を倍にする。そして三年後をめどに優勝をするつもりだ。

 こうした転換が出来たのは正に今回の経験によるものでそれは今回の過酷な運命を背負い、それを如何に良くしようとか気持ちをリラックスさせようとか恐怖心を取り除こうとかしなくてもそのままで自分の運命が自分の能力を開花させるのに最も素晴らしい練習台とか経験であったと言う事。

 それが
「全てを受け容れる、そのままでよい」という本当の意味であると思う。この世界は表面的に如何に見えようとも本当に悪い事は一つも存在しないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2015-12-14 13:02 | 信仰 | Trackback | Comments(0)