カテゴリ:信仰( 850 )

悪はナイ

 ある会社の支社があって、その支社長が数年に一回、本社から交代で赴任して来るのであるが、そこの支社の古株の従業員は今の支社長が嫌いで、こういう欠点もある、ああいう足らない所があるとその支社長を批判していたのである。

 そんな時、次期にはまた新しい支社長が赴任して来るという事が決まり、その人が噂によると素晴らしい支社長らしいという事でその支社の従業員は皆、新しい支社長に期待し、その人が赴任して来る事を心待ちにし、今の支社長が早く去ってくれる事を願っていた。

 そして、念願の新しい支社長が赴任して来て、今までの支社長は他の支社に移って行ったが、そうこうして数ヶ月経つ内、段々とそこの支社の従業員は新しい支社長の欠点、ほころびが目について来て、前と同様、その新しい支社長の批判を始めたのである。曰く、「前の支社長の方がまだましだった」と。

 そう言えば、前の支社長も赴任して来る時は大変素晴らしい人物と評判だった人で皆、最初は期待していたのであった。

 皆さんはこの話しをどう思いますか?実はこのたとえ話と同様の事は現実にいくらでもあるのである。遠くのもの、過去のものは良く見えると言ってしまえばそれまでだが。

 この世界は具体的に実在する世界ではなく、我々の想念が映っている文字通り現世(うつしよ)であるというのが真理である。
 我々はあの人が悪い、これが問題だ、悩みだと嘆くが、現象世界の奥にある真実世界の霊的世界は完全円満の神が作り給うた世界であるから一切の悪も悪人も問題も悩みも罪もナイのである。
 従って、どんなに悪い姿が目の前に展開していようとも具体的な悪人とか問題というのは存在せず、全て自分の想念が作り出したものであるのである。
 それらは全て、この世には悪あり、問題ありとして悪とか問題を勝手に心に描いて、それをつかむ自分の心が映っているだけなのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-10-28 08:09 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

榎本恵吾先生を偲んで

  去る7月12日、生長の家宇治別格本山、祈願部長、榎本恵吾先生が逝去された。 67歳であった。

 私は先生に救われた身で先生には大恩がありながら、うかつにもご逝去の事を先生が亡くなられた後、3ケ月近くも知らなかった。その事を知ったのは今週の月曜日、先生の奥様からのお手紙でであった。
 以前の文章でも書いたが、私は今から8年前の平成9年に生長の家の宇治別格本山で先生と巡り会い、それまで苦悩に満ちていた魂が先生により完全に救われたのである。そして、その後、地元の神奈川に戻って以降、私は内側から悦びの言葉が時折、浮かび上がるようになったので、メモ帳を持ち歩き、その都度、メモをしていた。それを「悦びの記録」という文集にまとめたのである。私はその文集を何よりも榎本先生に捧げたくて、それから数ヶ月毎に定期的に先生に自分の文集をお送りしていた。
 私が先生に文集をお送りする度に先生は毎回、丁寧なお返事、讃嘆のお言葉をハガキに書いて送って下さっていた。そのお言葉は短いものであったが正に珠玉の言葉であった。そして温かい、温かいお言葉であった。

 先月、9月30日いつものように文集を先生にお送りした。しかし、今回は先生からのいつものお返事のハガキは届くはずもなく、代わりに先生の奥様からお手紙を頂き、それで先生の訃報に私は初めて接したのである。

 私は奥様のお手紙で先生が御昇天された事を知った時、一瞬、何の事やら分からぬような気持ちになった。そして、呆然自失としてそばに居た家内に「榎本先生、亡くなったんだって。」と告げたのである。
 私はとまどいと動揺を禁じ得なかった。「どうしてだ!あのような道を極めたお方が、何故、急に亡くなってしまうのだ!」と思った。そして、自分はこれから誰を師として仰いでいけばよいのかとも思った。

 とにかく、先生が亡くなったということが信じられなかった。実感が湧かなかったのである。しかし、生長の家宇治別格本山の機関誌に書かれた先生の奥様の御文章を読んでいる内に、私は先生の死を幾分、受け入れる事が出来るようになったのである。
 それはこういう事である。先生は亡くなられる日まで何の体の調子も悪い所もなく、亡くなられた日も午前中はきちんと本山のお勤めをこなされていたそうである。しかし、午後、幾分体調が悪いと訴えられ、そしてご自宅で生長の家のお経である「甘露の法雨」を奥様と読まれている時にそのまま仰向けに倒られたそうである。そして救急車で病院に運ばれたということだが、救急隊員によれば、ご自宅で既に心肺停止されていたとのこと。即ち、先生は「甘露の法雨」の真理のお言葉を唱えられながら天界に旅立たれたようなのである。

 私はこうした事情を知って、合点がいった。これは先生はこの世での御使命を完全に終わられ、これから更に大なる御使命を天界で果たされる為に時期が来て、旅立たれたのだと。

 先生の素晴らしさ、偉大さは案外、生長の家の組織の公の場で知られていない。でも、私は先生は生長の家の奥義を極められた極めて偉大な宗教家であるという事を知るものである。生長の家創始者、谷口雅春先生をお釈迦様に例えるなら、榎本恵吾先生は間違いなく、空海、親鸞、日蓮に匹敵するお方である。

 私は生長の家に幼い頃から触れて、自分なりの求道、伝道をして来たが、今から9年程前に行き詰まり、どうにもならなくなったのであるが、本当に不思議な縁で先生の元に導かれた。
 私は先生の薫陶を受け、魂が救われ、そして生長の家の奥義を授けて頂いたのである。私が今、こうして悦びに満たされた生活が出来ているのも全て先生のご恩によるのである。
 先生は私の話にいつも真剣に耳を傾けて下され、魂のご指導を下さった。それはこの上なく深く、かつ温かいものであった。先生は私に生命を、悦びを、否々人生の全てを下さったのである。そのご恩を思うと私は百万遍感謝しても仕切れない位である。

 先生は生前、私以外にも多くの方の魂を救い、その告別式には400名を超える人達が全国から駆けつけたそうである。
 先生は今頃、天界でより自由な境涯になられ、神通力を発揮して、生長の家の人類光明化運動を支えられ、生前で救われたより以上の多くの人々の魂を導き、救って行くに違いない。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-10-06 18:26 | 信仰 | Trackback | Comments(1)

修行について

 皆さんは皆、それぞれのお立場で日々、奮闘されておられると思う。毎日何の問題も悩みも無くて、ただのらくらと生きている人はいないでしょう。

 私は幼い頃、母親の影響で生長の家に触れ、毎日、就寝する時は母親に生長の家のお祈りをやってもらったものである。そのお陰で今の信仰を大事にする自分があると思っている。
 それはともかく、私は大学生になってから生長の家を本格的にやろうとして生長の家の組織にも入り、活動もして来た。そしてその中で色々紆余曲折もあり、精神的に行き詰まり、生長の家の宇治の道場に救いを求めた事もあるし、そして救われ、その他テニスや英会話や地域の活動とか様々な事をやって来た。
 その中で今、思うのは自分の経験の全てがこれ自分の魂の修行になっていたということ、無駄な経験が一つも無かったということである。

 生長の家では人間神の子ということが言われ、それが信仰の中心であるが、それを実生活に現す事、それを実相顕現と言うのだが、どうやって実相顕現し、我々の実相である神の子完全円満さを如何にして実現させるかという事が一大テーマになっている。神の子の完全円満さを現象的に実現させるということは自己の生命の実相を自覚すればよいのであるが、それを所謂「悟り」と世間で言うと思う。

 「気楽な悟り方」なんていう本もちまたには出ており、生長の家の人でなくてもこの悟りということには関心があると思う。
 生長の家では悟る方法として三正行というものの励行を勧めている。それは神想観という瞑想を毎日する行、そして「甘露の法雨」という生長の家のお経他の生長の家の聖典を毎日読む行、また、愛行と言って、生長の家の真理を人に伝える行、この三つの行を日常生活の中で地道にやっていくのが三正行というのであるがそれを本当に真剣にやっていけば自己の生命の実相を自覚する時が必ず来る。そして必ず実相顕現するのである。
 地道にこの行をしていけば、ある日突然、悟りとはこれだ、生命の実相とはこのことだと実感する時が来るのである。

 とにかく、生長の家以外の人でも、何らかの道を目指して、日々努力して行くならば、必ず神髄を究める時が来る。それは我々は実は神の子であり、それぞれが皆悉く無限の可能性を秘めている尊い存在であるからである。
 そして、特別何かの道を志しているという人以外でも人生上で自己に巡ってくる機会というものはこれ全て、自己の魂の修行の為の道具である。それは色々な人生上の試練、例えば病気とか、破産とか、離婚等々の問題であるがこれ全て我々の実相の完全円満さを磨き出す為の修行の為の練習台である。

 悟りとは特別な人だけの特別な心境ではなくて、万人のものである。そして、それを極めるのに特別な小難しい理屈とかは必要でないし、かと言って安易な道もない。ただ、毎日の自分の課題から逃げないで全力でぶつかる修行をせっせとして行けばよいのである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-09-30 13:01 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

家について

 人間というのは組織への帰属意識が必要である。各自バラバラであると思えば、自分の属している組織とか家族なんてどうでもよく、自分さえ良ければよいという事になる。そんな風に各自が勝手にバラバラの気持ちで動けば、組織は成り立たないのである。
 自分はこの組織に属し、ここにお世話になるのだと思えば、自ずと組織の長上の者に対しては丁重になるだろうし、組織全体の事を考えて行動する様になる。
 しかし、自分さえちゃんとしていれば家族の不始末など知った事ではない、自分さえ与えられた仕事をやっていれば会社などどうであろうと知った事ではないという考えは自分さえ良ければ良いということなのであるから非常な利己主義である。
 だが、人間というのはいくら頑張ってもおのれだけでは生きていくことは出来ないのであり、全体に生かされている存在なのである。人間は本来、自他一体であり、お互いに助け合い、協力し合い、愛し合いながらこそ生長発展出来るものであるからである。

 そのお互い、生かし合い、協力し合う場が組織であり、そして組織の中で一番大事で基本的なのは家である。
 テレビで細木数子がよく家系を絶やさない事の大切さを説いているが人間はその様に単にこの肉体が死んだらそれで終わりという存在ではなく、肉体死後も生き通しの霊なる存在であるから、家系が絶える事なく、子孫が祖先の霊をお祭り、供養するという事が大事なのである。
 
 家こそは巣であり、憩いの場であり、万物が生かされる源である。そして、我々の魂はその家の中で初めて、存在を与えられ、生かされ、繁栄するのである。
 家も国も何も無くて、誰か分からぬ、何国人か分からぬ人間は社会でも、この地球上でもその存在を認められず、根無し草の様にフラフラと漂流するしかない。

 現代の日本は唯物的個人主義が蔓延し、家を軽視又は否定している為に地獄の様相を呈しているのである。
 若者は親をバカにし、親は子供を虐待する。これらは生命の流れ、家の原理がまるで分かっていない所から来ている。

 我らは今こそ、人間は生き通しの霊であるという事を自覚し、家の概念を大切にして行かなくてはならない。そこに公の概念、国の概念が生じ、社会奉仕、そして日本の国を立派な平和な国にしようと頑張る気概が生まれるのである。


 堀 浩二
by koujihori | 2005-09-24 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

説教は無用である。

 人間は本来、神の子である。神は完全円満な無限に素晴らしい存在であるから、本来神の子であるという事は現象は不完全であっても、その奥には今、そのままで完全円満な不死不滅の存在であるという事である。
 だから、我々は人間を観るのにいつでも、そうした観点でいなくてはならない。例え、相手は表面的には悪い、不完全なものに見えても、その奥の実相(実の姿)は今、そのままで完全円満で素晴らしい悟りを啓いている相手であると観なくてはならないのである。

 生長の家ではその事をよくお札に例えて、表現される。使い古された一万円札はしわくちゃになり、人の手垢で汚れていても誰もそのお札の一万円の価値を疑うものはいない。要するに表面は如何に汚れていても、その内在価値は確かに今あるのであり、万人がそれを認めているからこそ、その一万円札は一万円の価値としてその機能を発揮しているのである。

 それと同様に人間の内在価値は完全円満の神の子であるから無限に価値があるのであり、我々はある人間がこんな犯罪を犯した、こんな不完全な肉体であるからと言って、その内在価値の完全円満性を疑ってはならないし、その無限価値は今、そこにあると認識して、これを扱わなくてはならない。

 従って、相手にいわゆる「お説教」をしたり、怒ったりする必要はないのである。相手が悪い事をするのは根っから悪いからではなくて、何か抜き差しならない事情があるか、それともその相手がまだ人間の実相は神の子で完全円満であるという真理を知らない為に平気で間違った残酷な事をしてしまうからである。

 であるから、我々はそうした神の道に合わない事をする人に対してはこれを悪い者と観て、一つ自分の説教でこいつを良くしてやろうとしないでその相手の肉体の奥にある完全円満で既に真理を内蔵している生命に対して、それに直接働きかけて、真理の説法をすれば良いのである。
 真理の説法というものはその同じ真理が相手にも宿り、これから相手に説く真理が相手に理解されうると思うからするのである。即ち、説法というものは相手の奥の生命の実相が完全円満であるという事を拝む行いなのである。
 そこにその説法を受けた人の内在の既に悟った完全円満な生命の実相が共鳴し、その悟りと完全円満さが表面に出て来るのである。

 しかるに相手を真理を解しないバカ者であると思って、口やかましく説教しても相手に宿る神性は出て来ない。

 説教は無用である。

堀 浩二
by koujihori | 2005-09-16 12:28 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

「とらわれない」ということ

 先日の土曜日、またテニスのシングルストーナメントに出た。そして、その日の最後の試合、1-4とリードされた所で私はサーブを打つ時のラケットの引き方とフットワークの使い方が突如ひらめいたのである。

 サーブを打つ際、ラケットを引いて行く時、背中でラケットの先端を回さなくてはならないのだが私はどうしてもそれが出来ていない所があり、それによりサーブの確率と威力が低かったのである。その事はクラブの上級者から指摘されて、自分でも言われた通り練習していた。しかし、その事は頭で分かっただけであり、本当に体で分かっていなかった。しかし、土曜日の試合を全力で戦っている内に、そうすることが本当に効果的であるという事が体で理屈抜きで本能的に分かったのだった。
 それにより、打ち方が改まった事でその場ですぐ、私のサーブの威力が倍増し、相手コートに効果的で早いサービスをたたき込む事が出来るようになり、面白い様にポイントを重ねていった。また、同時にフットワークの使い方も分かった。
 今までシングルスの試合で相手とストロークを打ち合う際、打ち負ける事が多かったのだが足を常に動かしてフットワークを効果的に使う事により威力と正確さのあるストロークを相手に打ち返す事が出来るということもその時に分かり、それから1-4で負けていたスコアを一気に5-5のタイにまで持ち込むことが出来た。
 試合は結局5-6で落としたが、私は遂にテニスのシングルスのやり方を見出したと思って、帰りの車の中で有頂天になった。

 私はもうこれでテニスのシングルスの勝率が飛躍的に上がると思ったので本当に浮き足立って喜んだ。そして翌日の友人とのダブルスのゲームでもけっこう調子が良く、全試合勝利した。
 しかし、その次のテニススクールの練習試合でどうもサーブでラケットを背中に回すことにとらわれてしまい、全然調子が上がらず、戦績は1勝4敗というていたらくであった。

 私はそれからどうも頭が混乱してしまい、良くなったはずのテニスの調子がどうしてしまったのだろうと思った。私は究極のコツを知った以上、もうこの力を手放したくなかった。これでやっと連戦連敗していた相手にも勝てる、テニスのトーナメント会場でも幅を利かせられると思ったからである。
 しかし、そう思えば思うほど、考えがまとまらず、迷いが出て来てしまうのであった。そして、その後、私は次の様な事を悟ったのである。

 我々は経験により色々な事を悟るが、次の瞬間、その悟った事さえも心から放たなくてはならないのである。これは究極の事を悟った、分かったと思ってもいつまでもその事にとらわれていると自己の生命のそのままの自由自在さを失ってしまうからである。
 悟った事はことさら、次からは意識しなくてももう自己の生命は踏まえているのであるから、もう余り、その事に心を引っ掛からせない方がよいのである。

 私はサーブの打ち方のコツの一つにとらわれてしまい、全体の調和した動きがおろそかになり、また相手や飛んでくるボールに対しても注意力が散漫になっていたのだった。
 頭でなく経験により本能的に体で分かった事、悟った事はもうことさらそれ以降意識しなくても体が覚えているのである。だから、その体の自然な動きに任せて、もうその分かったやり方にとらわれない方がよいのである。

 よく、世間でいいこともあんまりとらわれると良くないと言われるが恐らくそれは上記の様な事を指しているのだと思う。
 
 生長の家でも創始者の谷口雅春先生がかつての日本と世界の状況に応じて説かれた事にとらわれて現在の総裁・副総裁の清超先生、雅宣先生の仰る事が雅春先生の仰った事と違うと言って、それを理解しようとしない人がいるが真理というのは一つの形に現れたら後は切って捨てていかなくてはならないのである。
 そうでなければ形にとらわれてしまって形骸化が起こるのである。宇宙の大真理は常に形を表現し、そして次の瞬間、それを自ら壊し、永遠に新しい創造活動を続けて行くのである。
 
堀 浩二
by koujihori | 2005-09-13 12:59 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

信仰について

 私は先日、会社である失敗をしてしまった。
 それはこういうことである。休日である土曜日に会社のキュービクル(受電設備)の管理業者がキュービクル点検の為に夕方4~5時までの一時間、会社の全電源を停電させるということになっており、私はそれを担当者として事前に承知していた。
 しかし、停電したら会社の全パソコンのデータが保存されているサーバーも電源が落ちてしまうことを失念していたので、停電の前日の金曜日に停電に備えて、適切にサーバーの電源を落としておくのを忘れて帰ってしまったのである。

 サーバーは常時、電源が入っているものであり、それが停電になれば電源が落ちる訳だが、正しい手順で電源を落とすならともかく、停電のような乱暴な電源の落ち方をするとそれが元でサーバーに蓄えられた全データが消失してしまう可能性もなくはないのである。
 それが分かったのが停電予定の土曜日の夜、自宅でくつろいでいた時であり、それは既にもう会社で停電の処置が取られた後であった。
 私は焦った。もしかしたら最悪の場合、私のミスでこの何十年の会社の技術的情報その他の大事な情報がパーになっているかも知れないからである。サーバーのデータは毎日、自動バックアップで保存されているのであり、また、停電で電源が落ちたからと言って、サーバー内のデータがそう簡単に駄目にはならないだろうとは思ったが、それでも最悪の事態が頭をかすめ、恐怖心が出て来た。
 私は居ても立ってもいられなくなり、会社のサーバーが大丈夫かどうか今すぐにでも会社に行って確認したい衝動に駆られたのである。しかし、私は思いとどまった。そんな風に自分が安心する為に自分の外に安心する為の証拠を求めるという行為は間違っていると思ったからである。
 
 本当の信仰は全ての全てが自分の中にあるという事を信じ、その通り実行することであり、自分が不安だからと言って、自分が安心する為の証拠を外に求めるようではいけないのである。  私は全てを神様にお任せし、自分と会社に取って、悪いことは断じて起こらないという信念を持ち直し、土日はそのままにして他のやるべきことをずんずん進めていった。
 そして月曜日の朝、会社に来てみたら、問題のサーバーは電源が入り、何の異常もなく正常に稼働し、大切なデータも無事であった。電源は日曜出勤していたある社員の人が適切に入れ直してくれたということである。

 信仰している人の中には普段は私は神を信じていますとか言っておきながら、いざという時はそんな信仰は全て吹っ飛んでしまって、狼狽する人がいるが、それは自分の中に神の国があるという事を忘れた信仰であるからなのである。尊い頼るべきものは自分の外にあると思い、それにすがるような信仰だから、何か大変な事態に陥った場合、自分に自信を持つことが出来ず、自分の外に救いを求めて、狼狽するのである。

 本当の信仰は自分の中に全ての全てがあり、神の国があり、他に何ものも頼る必要はないというものである。そういう信仰であれば、この世界は自分の認識が映っている世界であるから、その自分の確固とした信念が外界にも反映し、トラブルの起こらない全てが行き届いた平和で安定した世界が展開するのである。
 生長の家の信仰が実はそういうものであって、生長の家では人間は一人一人が神の子であって、それが完全円満の素晴らしい生命であると説き、それを礼拝するのである。だから生長の家では特にご本尊なんてものはなく、あるとすればそれは我々人間一人一人の中にあると説くのである。だから、生長の家での挨拶は「有り難う御座います」であり、それはお互いの尊い生命の実相こそが拝む対象であるということを意味しているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-09-05 12:18 | 信仰 | Trackback | Comments(3)

解脱について

  皆さんは「解脱(げだつ)」という言葉を聞いたことがあるだろう。かつてのオウム真理教の教祖とされる麻原彰晃は自らを最終解脱者とか称していたが、逮捕される時、お金を抱えてねぐらに潜んでいたなんてのは解脱者とは言わないのである。

 解脱するという事は悟るという事と同義である。解脱とは文字通り、解(ときはなつこと)脱(だっすること)であり、それは肉体からの解放を意味しているのである。
 肉体に対する執着を捨て、これを投げ捨てるということが解脱するという事である。肉体というのは物質であり、物質であるから有限である。有限のものに心を引っ掛からせ、執着していては、それは自らの魂を肉体という有限のものに縛り付けることになるから、自縄自縛になり、苦しいのである。
 しかし、肉体に対する執着を捨て、それを投げ打つということは肉体からの解放となり、そこには真の自由と法悦がある。

 しかし、肉体を投げ打つと言っても実際に肉体を投げ打って、肉体を滅ぼしてしまうということではもちろんない。肉体はそのままで肉体に対する執着を捨て、心を引っ掛からせないということである。肉体の執着を捨てれば、却って肉体は健全に働くようになる。病気なんかも治るのである。
 肉体に対する執着はどうしたら捨てられるかと言ったら、その基礎となるのはこの肉体はあるように見えて、実は存在しないという真理に目覚める事である。肉体や物質は本当の生命の現れであって、真実の存在ではなく影のようなものであるという真理を悟ることである。そして「肉体ナシ!」と肉体をこのままで現象的に滅ぼすことなく、心で滅ぼしてしまうのである。それが肉体に対する執着を捨てるということである。

 あなたに何となく不安や恐怖や苦悩があるのは肉体に執着しているからである。肉体をアルと思って、それを保とう、良くしようと心が肉体にからみついているとそれが自縄自縛となるから苦しいのである。それが保身であり、保身の心ある者は常に恐怖と苦悩がつきまとうのである。
 肉体ナシと観じて、肉体を心で放下すべし。それが解脱という事であり、魂の解放という事であり、悟りを啓くという事である。

 大東亜戦争(太平洋戦争)中、日本軍の神風特攻隊など祖国日本を守る為に自らの肉体を捧げた方達は急速に魂が向上し、解脱された方達である。
 生長の家創始者谷口雅春先生はこういう人達は死後、天界という最高の霊界に生まれ変わっているのであると教えてくださっている。

堀 浩二
by koujihori | 2005-09-01 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

天分を生きる

 人間にはそれぞれ神から与えられた天分があるのである。
 人間は本来無限力であり、どんな才能も内に秘めており、何でも出来るのであるが、一つの人生で発揮される天分というのはある程度、限定されており、それは人それぞれ異なるのである。
 それは人間は神に生かされているのであり、その神から与えられた役割、個性というものが、我々一人一人にあるのであり、その役割、個性に応じた能力を出して、それぞれが社会、人類全体に貢献するようになっているからである。

 私を例に上げると私は神の子であり、実相は完全円満であり、潜在的に無限の力を持っているのであるから、それを自覚し、努力、訓練していけば、およそ何でも出来るのである。だから、自分としては子供の頃、余り慣れ親しんでいなかった球技に二十歳を過ぎてから色々挑戦しているのだが、それでも子供の頃からやって来た人には力が及ばず、たまにPTAなんかの野球やソフトボールの試合などでもレギュラーになれず、ベンチでスコアブックをつけたり、チームのまとめ役をやったりしているのである。
 私もその気になれば、スポーツは上手に出来るはずであり、実際ある程度、出来るが、やはり、そこで人より力を発揮するということよりもチームのまとめ役とかお世話係とかに力を発揮するということの方が私の今生における神から与えられた天分であるから、どうしてもそういう役回りになるのである。

 その事が我々は神から生かされているという事であり、一人一人神から与えられた使命、役割を生きて、人類に貢献するという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2005-08-31 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

罪は赦される(2)

 幸福をつかもうとすると幸福は逃げて行く。我々はただ神に生かされているのである。今、生かされている事を悦ぶべし。
 我々は今、神に祝福されて、生かされているのである。それを正に認めるべし。自分はまだ、そんな資格は無いなんて謙遜、遠慮するなかれ。そんな謙遜は却って、神に対する冒涜である。神は罪を全部、赦して下さっているのである。
 
 心の底から腐った悪党は別として、善人と言われる人の中には自分はあの時、こんな罪を犯した、あんな悪いことをしたと思って、自分を責め続ける人がいるのである。
 そして、こんな罪を犯した罪深い自分は到底神に赦される資格がないと思っているのである。そして、自力で何とか罪を消そう、贖おうとして、潜在意識で自己処罰して自分を病気にしたり、悲惨な事故に遭遇させたりするのである。
 
 しかし、現象の奥の神に作られたそのままの世界において、罪は神が全部、消して下さっているのである。何故なら神は全宇宙に拡がる無限の光そのものであるから罪という闇を一瞬の内に悉く、焼き尽くしてしまうからである。
 だから、現象的に我らにどんな罪が見えていようともその奥の本当の世界、実相においては罪は神により消されている。

 この現象世界は我々の心、認識が映っている世界であるから、現象の奥の本来の世界、実相世界には罪や悪がないのにそれを心の眼で観ないで、現象だけ見ておれば、罪がある、悪があると認識するその心が映って現象に色々の罪や悪の映像が出て来るのである。
 そして、それを実在する世界だと思うように我々の脳髄は作られているのであるから、自分も他人も過去においてあんな罪を犯した、こんな悪いことをしたと心で握っているのである。

 本来の世界では全ての罪が赦されて、罪人なんて自分を含めて誰もいないのに自分は罪を犯した、あいつも罪を犯した、こんな罪深い者は到底、神に赦される資格なんてないんだと思い、そうである以上は自力で何とか幸福をつかもう、罪を消そうと色々焦って、努力するのであるが、いくらやってもその元々、罪がある、罪ある者は罰せられなければならないという認識通り、自分を不幸にして行くのである。

 そうではなくて、神により全ての罪が消されて、神に生かされ、祝福され、完全に幸福にして頂いているのが正に本当に自分であり、それは今、ここにあるのである。それが本当の姿、実相であるのに自分はそんな資格はない、自分は神に赦される存在じゃない、罪はある、悪はあるなんていうのは神の宇宙に拡がる無限の完全円満さを疑い、それを拒絶するというこの上ない傲慢さがあるのである。

 それは借金を借り主から帳消しにして上げると言われているのに、その好意を受けないでいつまでも借金が返せていない自分を責め続け、病気になる人と似ている。

堀 浩二
by koujihori | 2005-08-30 12:25 | 信仰 | Trackback | Comments(0)