カテゴリ:信仰( 840 )

人を赦すこと

私は先日、ある会である人から大変、無礼な扱いを受け、私は表面は取り繕ったが内心大変憤慨し、家に帰ってその怒りを妻にぶちまけた。
 明日になったらこの会の責任者に注意の電話を入れてやろうとか思いながら、むしゃくしゃしながら就寝したのである。
 しかし翌朝になってみると、どうも体調が悪いことに気が付いたのである。昨日の精神の乱れをそのまま引きづっている感じであった。
  その時、私は自分の考え方の間違いに気が付いたのである。

 自分が如何に理不尽な扱いを受けたからと言って、それに対して憤慨し続けるならば自分を傷付けることになるのである。
 人を赦すことが大事である。他人が真理にかなわない事をしているからといってそれを良くしてやろうとして、その悪をつかみ、非難するという事をしても、非難された相手は決して良くならないのである。何故なら、こちらに相手の悪をつかむ心があり、相手も悪を指摘されることで自分はこんなに悪い者だと思うから、認識すれば、現れるの法則により、その相手の悪は決して無くならないのである。

 相手の悪をつかむ心は自分の精神をかき乱し、自分の脳髄にストレスを溜め、脳細胞、脳神経を破壊し、判断力、記憶力を減退させ、不安の心を強くさせる。
 相手の悪が見えるのはこちらに人間にはこういう悪があるという自分の心が映っているのである。相手を良くしたいのなら、相手の悪を見ずに、相手の良い面、即ちその人の内の善なる真の姿、本来の神の子の姿のみを心の眼で観るのでなくてはならない。
 その上でその場、その場でインスピレーション的に相手に適切な注意を与えてもよい。しかし、それは相手の悪を認めて、言っているのではなく、相手の悪は本来の姿ではないと悪を否定し、相手の表面の仮の姿である悪の奥に神に作られたままの善なる姿を肯定する心で言わなくてはならない。

 私はこういう人を赦す心になった時、私に非礼な行いをしたその人物も何故、そんなことをするのかということが何となく分かって来たのである。それはこの人は寂しいだけだったのだと思い、根は悪い人ではないんだと思ったら相手を批判する心も薄れていった。

堀 浩二
by koujihori | 2005-08-26 08:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

良薬、口ににがし(2)

 前々回、人生は学校であるということを書いた。我々はその様にこの人生で一つ一つ学んでいるのである。
 そして、本当に学ぶということはそれは厳しいことである。甘い環境でノラクラしても大した学びは出来るものではない。厳しい環境、厳しい問題において我々の魂は飛躍的に伸びるのである。
 真に学ぶということはどういう事かと言ったら、単に知識的に真理はこうだと学ぶことではない。それは体験として、魂で学ぶということである。それにはどうしても失敗体験ということが大事になって来る。
 
 スポーツ、例えばテニスでは正しい効果的なフォームで打たなくてはならないが、その正しいフォームはどうやって身に付くかと言ったら、人から正しいフォームはこうだと言われて、その通り素振りで反復練習していれば本当に自分のものになるかと言ったら、あながちそうでもないのである。
 もちろん、反復練習は大事ではあるが、本当にその正しいフォームで自然に打てるようになる為には試合中、何も考えないで、今までの自分のやり方で思い切ってやって行く中でそれまでの打ち方、やり方ではどうにもうまくいかないという失敗体験をして、その時、初めてかつて先生から教わったやり方が大きなヒントとなって、正しいフォームを何となくインスピレーション的に体感した瞬間、「これだ!」と思って初めて自分の個性にあった効果的で正しいフォーム、打ち方が自分のものとして出て来るのである。

 同様に人生において、色々生長の家のような正しい信仰団体で説かれている真理を学ぶ場合、それをただ本で読んで「ああ、そうか。」なんて言っているだけでは自分のものになっていないのである。
 我々は自分の人生の中で体験して、失敗して、痛い目を見て、そこで初めて、生長の家で言っている人間神の子、無限力ということが「本当にそうだな」と肌で実感して、分かるのである。

 その為にはただ、のらくらして安易な道を歩もうという考え方では駄目なのである。この人生学校の中で自分に課題として巡ってきたことに対して、逃げないで真正面から取り組むということが不可欠である。
 「良薬、口ににがし」である。自分に取って、最も恥をかき、惨めな思いをして、実感した経験がその時の自分に取って、最も大切な素晴らしい事を理屈ではなく実感で教えてくれているのであり、自分に取って、最もきつく、厳しく感じられる課題の奥にその時の自分に取って最も必要で大切な生きた教訓が秘められているのである。
 そして、我々は人生学校の中で失敗体験をする中で本当の真理を体得するのであるから、失敗した自分を厳しく指摘してくれる相手というのは自分の間違っている部分を自分に如実に実感させてくれる相手であるから、その人は自分に大切な真理を教えてくれる恩人であるということになる。だから、この人生で本当の不幸、困ったこと、いやな人なんていないのであり、全て、その仮面をはげば、自分の可能性を引き出し、応援してくれる味方である。
 我々は実相においては既に無限に素晴らしい、既に悟っている神の生命であるから、自分が本当に間違っていたと心の底から実感すれば、間違っていた、うその自分が目覚め、悟った自分が出て来るのである。それが人生における学びである。
 だから、自分に与えられた課題に対して、苦手だから、恐ろしいからという事で逃げ回っていては駄目である。
 その恐ろしいと思っている課題や相手に対して顔を背けず、逃げずに真正面からぶつかって行けば、必ず自分の可能性を引き出せるのである。そして、その恐ろしい相手、困難で厳しい問題、課題の奥の本当の顔は神様のやさしい、やさしいお顔であったという事に気が付くのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-21 16:08 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

良薬、口ににがし

  人生は我々の魂の修業の学校になっているのである。我々は単なる肉体という物質的存在に過ぎないものであるならば、この人生が魂の修業の場なんて考えは出て来ない。長生きしてたかだか80年とか90年の長さの人生を生きても死んでそれで終わりなら、出来るだけ楽をしてずるをして悪いことをして肉体の快楽を貪って生きおおせた方が得だからである。

 しかし、我々は肉体の奥に霊なる永遠不滅の神なる魂を持っている、というかそういう霊なる存在が我々の本体である。そして、その霊なる本体である魂が徐々に生長して、その内在の無限の素晴らしさ、完全円満さを徐々にこの現象世界に表現させて行くのが我々の人生であり、それは我々の完全円満さの表現の場であると共に我々の魂の修業の場である。それを人生学校というのである。

 そして、この人生で一見不幸みたいに見えるものは具体的な不幸ではなくて、これ全て我々の魂の修業の為の教材である。それは我々の外から来る具体的な不幸ではなくて、そもそも無限生長を欲する我々自身の奥底の心が造り出した問題である。だから、それは自分の魂の修業の為に丁度いいレベルの問題を造るのである。従って、この人生で出て来る問題はこれ全て我々に解決可能な問題だけなのである。これを称して、生長の家では「神様は決して解決出来ない問題を与え給わない。」と言っているのである。

 決して解決出来ない問題は出て来ないということは我々は何か問題が出て来た時に「もう駄目だ」とあきらめて、投げ出したり、それから逃げたりしなければいつかは必ずその自分に与えられた課題を解決出来るということである。
 出来ないのは出来ないと勝手に判断して、自分の問題から自ら逃げ出した時だけである。

 我々は人生上でつらいこと、恐ろしくて逃げ出したいこと等が出て来ることがあるかも知れない。
 しかし、こういう時こそ向上のチャンスなのである。その奥に無限に素晴らしい宝物が控えているのである。それは例外なくそうである。

 我々は何かの向上とかを目指して一つことを頑張っていて、毎日練習とか訓練を繰り返していても一向にうだつの上がらない状態が続くことがあるのである。
 スポーツや武道やその他何らかの道を目指して頑張っていても全然それが目に見える成果に結びつかないことがある。生長の家をやっている人なんかもそういう人がいると思う。一所懸命生長の家をやってもやっても悟れないとか不幸や病気が無くならないとかと思っている生長の家の人もけっこういるのではないだろうか。

 人生は学校であり、魂の修業の場であるが、それは単なる反復練習をしていればすぐにそれが直接、生長や成果に結びつくというような単純なものではないのである。それどころかやればやるほど分からなくなる、へたになるということもおうおうとしてあるのである。
 しかし、そうした中でも努力をたゆみなく継続していく中でぽっと突き抜けることがある。何らかのきっかけで本物をつかむのである。それが悟りであり解脱である。本物の既に素晴らしい、完全円満なる我々人間の実相が直接出て来るのである。
 そうなったら後はそのままでどんどん目に見える成果が出て、かつどんどん生長、進歩するものである。
 そういう本物を探し当て、飛躍的に進歩生長する直前は「丑三つ時は一層暗い」のことわざにあるように努力を継続する中で一番絶望的になる時である。もう駄目だと絶望的になって、努力を放棄したくなる瞬間であり、ものごとに真正面から立ち向かう勇気が失せて、逃げ出したくなる瞬間である。

 しかし、つらい思いをしてみじめな気持ち、絶望的な気持ちになる時はその奥にとても重要な真理を秘めているものである。そうした中で努力を継続して逃げないで自分が恐ろしいと思っているものに対して真正面から向き合って、立ち向かって行くことで、そこに無上に素晴らしい真理、悦びを見出し、魂は飛躍的に進歩する。

 「良薬口ににがし」である。自分がつらい目にあった時こそ、自分を最も進歩向上させてくれる教訓がそのつらい体験の中に潜んでいるのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-18 20:57 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

行動は結果である。

 家庭内の内輪の話で恥ずかしいが先日、家内と大喧嘩した。喧嘩というよりも今回は私が一方的に怒り狂ったのである。原因はプライベートな事なのでここでは披露出来ない。要するに家内が私の言う通りにしてくれなかったのである。

 私は余り感情を爆発させて怒ると却ってストレスが溜まるということを知っているからなるべく怒らない様にしている。会社でも以前ほど怒らなくなって来ている。
 でも家庭内だと気持ちがゆるんだのか今回は恥ずかしながら、尋常ではないほど怒りまくってしまったのである。さすがに家内相手に手を出したり、ものをこわすという所までは行かなかったが。

 私は精神は安静にして心を整える事を心掛けているが、その時の怒り爆発でそれまでのコツコツとした努力が全て吹っ飛んだ。
 それは夜遅くであったのでその後、興奮が収まらず、中々寝付けなかった。テレビを見ながら、午前2時過ぎまで起きていたが、その後、床についても眠れず、その日は殆ど眠れなかった。
 
 私は最初ちょっと後悔した。せっかく今まで精神と頭脳をコントロールして来たのにこんな事をしてしまったと思ったのである。しかし、確かキリストのお言葉だったと思うが、「行動は結果である。」という言葉を思い出したのである。
 人間の運命、その時何を行動するかということは実はその以前に心の世界で既に原型が出来ているのである。心の世界で怒りが溜まり、それを爆発させるという運命が既に出来上がっているならば、それが実際、怒り狂うという結果が出て来ざるを得ないのである。そして、出て来て、実現することで心の世界にあったものが消えてなくなるのである。
 だから、バカなことをしてしまった、罪を犯してしまったということを余り、くよくよ後からくやまない方がよいのである。それはその時の自分が不注意だったのではなく、元々心の世界にあったものが出て来たに過ぎないからである。
 よく、行動を重ねて行くことが心の世界に業として蓄積して行くという事を聞くが逆に、ある行動をしてしまうという事は心の世界にあったその行動の原型(業)の実現したもの、結果であるということも言えるのである。

 その様にあるバカな行動をしてしまう、罪を犯してしまうということも今までの悪業が消える姿、結果であるからそれが出て来たらああこれで悪業が消えたと思って、次からはそんなバカなことをしないと反省して、それ以上はその愚かな行動を犯した自分を責めすぎないでいるがよいのである。
 それなのに自分はこういう罪を犯してしまったといつまでもその過ぎた事に心を引っ掛からせ、ちまちま悩み、後悔し続けるならば、また心の世界にそうしたバカな事をするという業を作る事になり、またそれがいつかは爆発して同じ様な過ちを犯してしまう事にもなるのであり、そこでまた悩むとまたその行動の業を作ることになり、そうなるとそれが果てしもない悪循環になってしまうのである。それを業の流転というのである。

 そして、こうしたトラブルがあった時は出て来たトラブルが何を自分に教えてくれているかということを冷静に考えるがよいのである。
 相手は自分の心の影であるから自分を憤慨させるような事をする相手というのは自分の心の姿を映しているのであり、自分もかつて誰かに同じ様な憤慨させる事をしたに違いないのである。今回は相手がそうした自分の姿を演じてくれる事により、如実に相手が自分の至らない点を教えてくれたのだと思って相手を悪い人間だと思わないで感謝すればよいのである。
 そして、後は神様に全託すればよいのである。そうしたら悪業の流転は消え、問題は解決し、更にお互いの人格が向上し、我々の完全円満の実相がより顕現するのである。

 家内と喧嘩したのが3日前であるが今はすっかり、よりお互いの絆が深くなった気がする。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-17 22:27 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

心でつくる世界

 私はこのお盆休みを利用して家族と愛知の万博に行って来た。
 愛知博は色々の見せ場があり、それぞれそれなりに楽しめるが私が特にいいと思ったのが日本館である。その中でもこれはと思ったのが、プラネタリウム型の巨大スクリーン映像である。
 それは部屋全体が大きなプラネタリウムの様な球体になっていて、その球体の内部に観客が入って、球体の内側全体に映し出されている全方位型のスクリーンを眺めるのである。
 その映像効果により観客自身が数十メートルの高さまで空高く舞い上がったり、海中に飛び込んだりするような錯覚を起こさしめるのである。

 観客自身はそのドームの中央に直立していて、周囲の立体スクリーンが動いているだけなのだが、観客には周囲が固定していて自分自身が空中に高く舞い上がったり、落下したりするように感じるというものである。

 私はこのスクリーン映像を体験している時、正に我々は普段の生活もこれと同じ様な体験をしているのではないかと思ったのである。
 
 皆さんの中には映画「マトリックス」をご覧になった方があるだろう。それはコンピュータと人間との戦争を描いた近未来サイエンス・フィクションだが、私はこれは大変、深淵な真理を描いていると思っている。
 この中で描かれていることは近未来においておのれが開発したコンピュータとの戦争に敗れた人類が、コンピュータによりその肉体をコンピュータの支配する世界での動力源として利用されるというものである。
 人間達は一人一人特殊なカプセルに入れられて、その肉体の体液は動力源として、搾取され、利用され、いわば培養された様な状況にあるのだが、その脳髄はコードによりコンピュータにつなげられ、コンピュータがプログラムした仮想現実を見せられて生きている。
 人間達はその仮想現実によりそれぞれがこの21世紀の世界に実際に普通の社会生活を送って生きていると思っているが、実はこれらは全て、コンピュータがプログラムした仮想現実を見ているに過ぎないのであって、本当の人間はカプセルに入れられ、眠らされてコンピュータに利用されているのである。
 そのコンピュータがプログラムした仮想現実世界を「マトリックス」というのである。

 これを大抵の人は単なるSFの物語だと思っていると思うが、実は我々の現実世界はこのマトリックスとほぼ同じと言ってもいいのである。
 こんな事を書くと、読者の方は何をバカなと思うと思う。でも、もうちょっとつきあって欲しい。
 
 我々は五官を通じて、この世界を認識して、生活している。そして五官から受け取った情報を神経系統が電気信号で脳髄に伝えて、そして脳髄が認識して、そこで初めて我々はこの世界の事物を認識している。
 しかしながら我々はこの世界をそのままあるがままに認識しているのではないのである。この世界の本当の姿は皆、実は霧の様なものである。物質には気体、液体、固体とあるがそれはそれを構成する分子の密度によって、気体、液体、固体と別れるということはご存知の通りである。
 その一番密に分子がつまっているはすの固体でさえも、その分子と分子の距離は隔たっており、分子の大きさを一つの天体の大きさに等しいものとすれば、その固体の分子間の距離は宇宙の天体同士の距離以上に隔たっているのだそうである。
 そうなると固体と言えども、その本当の姿は霧みたいなものと言わざるを得ない。それを例えば机なら机と人間が認識するのは人間が脳髄で机というものはこういう個体的形をしていると勝手に認識しているからである。
 机という固体から発する光の波動を我々の視神経という神経系統が受け取って、それを脳髄に伝え、そして、脳髄がその伝わって来た刺激をきっかけとして、そこに机なら机という固体が存在すると認識するのであるが、実はそこには具体的には霧のようなものがあるに過ぎず、それを目で見て、そして手でさわって、机という固体として認識しているのは我々の脳髄が神経系統から入って来た情報を勝手に組み立てて、それを机という堅くて具体的な存在として認識しているに過ぎないのである。

 冒頭で紹介した愛知博のパビリオンで自分の周囲のスクリーンが動くことにより、観客自身が動いたように感じさせるようなスクリーンの刺激により観客の脳髄が勝手に判断して観客自身が動いているように思わせれば、その観客に取っては自分が体験する世界は正にその観客自身が空中に跳ね上がったり、海中に飛び込んだりという世界になるのである。

 だから、人間は自分が信じた通りの世界のみを体験するのである。自分が出来ると思えば出来るし、自分は駄目だと思えば、駄目になって行くのである。そして、この人はいやな人だと認識すればその人が自分に何か言ってきてもそれを全て悪意に受け取るようになるのである。

 近代の医学は人間の病気というものがほぼストレスの継続によって引き起こされるということを立証し、そのことを広く公言し、訴える医者も多くなって来ている。
 人間の病気は心によって起こされるのである。そして、その他、あらゆる問題は心によって起こされる。それはこの世界が実は具体的に存在する世界ではなく、本当に存在する世界はその奥に、中(うち)にある霊的実相世界であり、そこには神が作り給うた完全円満な世界があるだけであり、具体的な問題や悪というものは存在しないのであるが、我々がこの世界には悪があると思って、それに心を引っ掛からせ、心でそれを勝手に認識すれば、悪、問題を心の力で映像として映し出すからである。
 
 だから取り越し苦労しないで、悪を心に描かなければ悪は出て来ない。災難に会いようがないのである。
 それをこういう災難がある、こういう悪がある、こういう不幸があると勝手に取り越し苦労し、それに備えて戦々恐々としていれば、その心が悪や不幸や災難を映像として現象世界に映し出す。それがこの世界の不幸にあえいでいる人達の実状である。

 しかし、それらは皆、自分の心が映し出したいわばマトリックスであって、本来実在しない。ナイのである。そして本当に実在する自分そして本当の自分が住む世界は前述したように完全円満の世界であり、完全円満の自分である。映画「マトリックス」では本当の自分は機械に支配され、搾取され、配線された哀れな肉塊に過ぎないというものであるが、実際に我々が生きているこの本物の世界の本当の我々は完全円満、自由自在、無限力の神なる存在である。
 それを我々の心が認識すれば、この現象世界、現世(うつしよ)の世界にその認識した通りの完全円満で問題が何もない世界が展開する。そうすると病気その他のあらゆる不幸、問題、悩みが自分の周囲の世界から消え去るのである。

 それを伝えているのが生長の家の人類光明化運動であり、国際平和信仰運動である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-15 23:02 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

煩悩について

 昔から信仰を志す者に取って、煩悩というものの処理ということが大きな課題であったのである。
 煩悩とは色々あるかも知れないが、男女間の煩悩、特に男から女に対する欲情という煩悩がある。私はここでこんな事を告白するのは恥ずかしいのであるが、人一倍女好きである。異性を意識し出したのは小学生高学年だったと思うが、中学では全然そうでなかったが自分で言うのも何だが、高校に上がってから結構女の子にはもてた。
 私は女の子が好きで好きで仕方がないものだから、女の子がちょっと手を伸ばせば手に入るような感じがしたが女の子から好きだのつきあってくれだの言われても硬派ぶってつきあうことをしなかった。正直に言うと女の子とつきあう勇気が無かったというのが実情である。
 そして、大学に入ったが、私の通っていた立教大学は女の子が半数以上いたので彼女を作って思いっきりキャンパスライフを謳歌しようとして何人かの女の子とつきあったが皆、長続きせず全て私がふられる形で別れた。
 私は女の子が好きで好きでたまらなかったのである。そしてそれは私の女の子への煩悩が人一倍深いものであったからである。

 女性に対する煩悩、欲情というのは昔からストイックに道を求めている信仰者には大きな障害になっており、これを克服することが求道者の一大テーマになって来たのである。
 キリストは「女を見て、欲情を起こす者は既に心にて姦淫せるなり。」と仰った。私はその言葉に対して、そんな堅いこと言うなよ位に思っていた。私はものごとに縛られるのがいやだったから異性に対する煩悩は自然なものであり、適当に煩悩を抱いて、適当に欲情しても実際に肉体関係の過ちを犯さなければいいと思っていた。
 しかし、そうした精神的な煩悩だけでもそれを抱えて生活することはなかなか苦しいのである。

 何故、苦しいかと言ったら、煩悩というのは自己の生命を縛るものであるからである。実相(現象、肉体の奥にある人間と世界の本来完全円満な霊的姿)における既に無限に与えられている霊的悦びではなく、物質欲、肉欲により、あれが欲しい、これが欲しいと餓鬼のようにむさぼる心が煩悩である。
 それは既に満たされているという心ではないから、不安定であり、一時的な快楽はあっても、やがて、それが苦に変わる。ことに男女間はこの煩悩が起こりやすいのである。煩悩を捨て去り、相手を肉体ではなく、その肉体の奥にある神の生命と拝むがよいのである。そこに心の平安があり、本当の相手への思いやりがあり、異性同士でもお互い楽しいつきあいが出来るのである。
 
 それでは何故、夫婦間の夫婦生活を煩悩とは言わないかと言うと、それは愛情が元にあるからである。
 法律的にきちんと認められて夫婦になった男女はお互い一つの魂の半分同士である。一つの魂の半分同士が再び出会って、一つになる時、結婚となる。そこには深い、一つの魂としての切実な愛情があるので、その表現として、夫婦生活が行われるのであり、それが単なる煩悩と違う所である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-06 20:55 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

天地一切のものと和解せよ

 生長の家の三十三ある神示の中で「大調和の神示」というのがある。それは「汝ら天地一切のものと和解せよ」という言葉で始まり、天地一切のものの本質の神なる生命を拝んで感謝し、和解せよという主旨のお言葉である。

 私は生長の家の信徒であるから、そのことは実行しなくてはならないのだが、その重要性は頭では理解していたが、それがどうも実生活で実行出来ていなくて、前の文章でも書いたが私は割合、人の好き嫌いが激しく、嫌いな人間に対してはその悪い面ばかり見て、心で批判ばかりしていた。

 しかし、その様なことでは段々立ちゆかなくなってきたのである。というのは私はテニスとか野球とか英会話とか生長の家の講師とか実に色々な事をやっていて、それの能力を発揮することに血道を上げているが、それが人との関係が良くないとうまく行かないということが分かって来たのである。
 私は人とうまくやって行くことと、この自分の能力を発揮するということは別物であるとずうっと思っていたので嫌いな人間、仲の悪い人間がいても、自分の能力はそれとは関係無しに発揮出来ると思っていたのである。
 だから、毎日、色々勉強したり、練習していさえすれば、極端に言えば人との関係はどうでもいいとまで思っていたのである。しかし、私は生長の家の講師であるから、よく人前で生長の家の真理の講話をすることがあるのだが、たまに自分が苦手で嫌いな人が相手だと途端にうまく話せず、全然変な拙い話になってしまう事があったのである。また、テニスの試合でも気心の知れた相手だと力を発揮出来るが苦手な相手だと緊張が過ぎて実力の半分も出せなかったのである。

 自分はずっと自分の能力が発揮出来ないのは経験不足、訓練不足によるものであると思っていたが、そうではなかったのである。何かの会合で人前で何かまとまった話をする時、そしてテニスとか野球の試合や審判をする時に緊張し過ぎて力が発揮されないのは恐怖心で自らの力を縛り付けていたからであるという事に気が付いたのである。
 それはこの相手はきらいだ、いやだという日常生活で人を差別して好き嫌いして和解していない心の習慣性があった為にそれが対人恐怖となり、その恐怖心が肝心な時に私の本来そのまま自由自在であれば、発揮できた能力を縛って出ないようにしていたのである。

 私はそのことに気が付いてから、「今まで本当に人を差別して好き嫌いして申し訳なかった。人間は皆、本当は神の子でいい人ばかりなのにそういう所を自分は見ないで表面の悪い姿ばかり見ていた。これからはどんな人でもその本質の神なる善なる生命を拝み、よいところに感謝させて頂こう」という気持ちについになったのである。

 そうしたら私に一大革命が起こったのである。今まで苦手だと思っていた人を、その人を神の子と信じてその良い面を見るようにしたら、その人を前にしてもすらすら立て板に水の様に話すことが出来るようになったし、テニスもこの人とやるのはいやだな(これは何故、いやかと言うと、自分がミスをすることでこの相手に軽蔑されるのではないか、へただと思われるのではないかということを私が恐れるという意味でいやだったのである。)と以前は思っていた相手とテニスをしても失敗を恐れることなく伸び伸びと本来の力を発揮出来るようになったのである。

 「大調和の神示」にある「神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波をよう受けぬ」というのは本当である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-02 22:38 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

不測の事態

 今日は土曜日で会社は本来、休日であるが、会社の管理者研修会である。講師を外部研修機関から呼んで、研修担当者である私がセッティング、進行、講師接待等するのである。そして、それが終わったら午後7時から生長の家の信徒の集まりである誌友会という会合で今度は私が講師として話をしなくてはならないというスケジュールである。

 こういうプレッシャーのかかる行事が一日に立て続けにあると私も朝から緊張するのだがそんな中、今朝になって、今日、生長の家の誌友会で使うはずの資料が見当たらない事に気が付いたのである。事前の準備は両イベント共、昨日まで十分に済ませたつもりでいたが、当然あるべき所にあると思っていた資料が見当たらない。
 朝は私は色々やることがあり、神想観という瞑想をした後、テニスの素振りをすることにしていて、今日もそのつもりだったが肝心の資料が見つからない為にテニスの素振りもあきらめた。
 そして、遂に見つからないので、私が元々持っていた予備の資料を代替えにしようと思ってそれを出そうとしたが、何故かそれもいつも綴じてあったはずの所をいくら探しても出て来ない。
 私は頭がパニックになりかけた。こんな事ってあるだろうかと思った。そして、今までだったら自分は何て運が悪いんだろうと自分の運の無さ、そして、この世界の非常さに憤った所だが、こんなに本来の資料、そしてその予備の資料までも忽然と無くなるというのはこれは何か意味があるのではないかと思ったのである。

 私は元々自分の計画通り行かないと途端にいらいらする所があり、通勤のバスの中でも必ず読む本を決めていて、それが思いもよらず、そのバスが混んだりして、本が読めなかったりすると「チェッ」と舌打ちするような所があった。
 しかし、この世界は自分の思惑、計画を超えた不測の事態が起こることなどしばしばなのである。それなのに自分が勝手に決めた計画、思惑にとらわれて、こうでなくてはならぬなんて頑張るのは我(が)である。
 この世界は一見不都合に見えることでも長い目、大きな目から見れば結局それが良かったということがいくらでもある。そうしたことを認める大きな広い心で不測の事態があってもいらいらしないで大局的に対処したらよいのである。
 こうでなくてはならぬと頑張る心は狭い心であり、我(が)の心であり、それが我が儘ということである。どんなに自分に取って不利と見えることでも大局的に見れば、そんなことはないのである。資料が無くなったら探せば良いのである。探してなかったらそれと同じ資料を持っている人に貸してもらうように頼めばよいのである。それでも無かったらそれはそれで神様が何とかしてくれる。こうした大らかな心を持てば、自ずと運も向いてくるし、ものごとも円滑に運ぶものである。
 
 今朝大事な資料が無くなったのは神様が私にそのことを教えてくださる為に神様がお隠しになったのであると私は今、思っている。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-07-30 12:53 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

差別について

 前回の文章で差別というものがロンドンの自爆テロの一つの要因になっているのではないかという事を書いた。
 そして、日本は欧米ほど差別のない社会であるということも書いた。しかし、厳密に言えば、この日本にも差別はある。日本には人種差別というものは単一民族なだけに存在しないが部落差別と言われるものはあるにはある。
 また、階級闘争というのもこの日本にはなくはないのである。要するにマルキシストの言う、資本家階級、労働者階級という階級が存在しており、その間には階級闘争というものがあり、資本家は労働者を出来るだけ搾取しようとしているという世界観である。

 どうしてそういう差別心や階級闘争世界観が出て来るかと言えば、人間にはこの現象世界を生活する為に必要な五官というものが備わっているからである。要するにこの世界で生活、活動する為にはこの世界の事物から発生する波動を感受して、それを神経系統で伝達して脳でそれを実際にその事物がそこに具体的に存在するというイメージを得させる為にそうした五官の感覚器官が人間には備わっているのであり、その五官があるおかげで我々はこの現象世界が本当に存在する世界であると認識して生活出来るのである。

 しかし、その五官だけに頼って生きていれば、この世界が現象的にある通りの世界であるとしか認識出来ないからこの世界がお互いバラバラに対立した世界であると認識せざるを得ない。そこにこの世界は階級同士の闘争があるとか、人種間の差別があるという対立思想が生ずるのである。

 話が大部難解になって来たが、要するにこの世界は映しの世界であり、本当に実在する世界は霊的世界としてこの現象世界の奥というか内側というかそういう所に存在するのであり、それは五官を超えた直感力でもって認識するしかないのである。
 しかるにそうした直感力を信ぜず、従ってそれを使うことのない人は五官の感覚器官しか使うことを知らないからこの映しの世界である現象世界しか存在しないと思いこむ。そして、そう思っている人はこの現象世界というのは表面的に見れば、お互いバラバラに相対的に各自が存在する世界にしか見えないから自分の喜びは他人の喜びでない、他人の悲しみは自分の悲しみでないというお互い利害が対立する所の闘争世界がこの世界であると見るより仕方がない。
 そうした世界観を持つ人が人種差別とか階級間同士の闘争を作り出すのである。

 だから、我々はこの世界に住んでいる限り、いつかはこの差別とかを受けるかも知れないし、階級闘争の渦に巻き込まれて悩むことがあるかも知れない。
 しかし、そういう時は毅然としていなければならない。相手が自分を差別すると言って、嘆いてはならないし、それに怒って仕返ししたりなんかしてはならないのである。我々はそういう時こそ自分の受けている境遇とかをものともせずに積極的によいことを、そして自分の使命と感じることをやって行かなくてはならない。
 先日亡くなった歌手のレイ・チャールズや名前は忘れたが黒人で初めて潜水夫となった人などアメリカではひどい人種差別を受けてもへこたれないで立派な業績を残した黒人の人達の話がいくつかある。
 
 彼らは人種差別を受けたにもかかわらず、へこたれないでおのれの天分をまっとうした人達である。そんな彼らを白人達は最後には諸手を挙げて賞賛したのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-07-19 18:08 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

失敗してもよい。

 私は今回、ある仕事を絶対に引き受けなければならない立場に追い込まれたのである。しかし、私はその仕事で以前、二回も大失敗したことがあり、その時、非常に責められ、恥をかいたのである。それは私の努力ではどうにもならない程、私にはそれをするのが困難に感じられるのである。
 私は今回、その仕事を再びしなくてはならないということが決まった時、本当に暗い気持ちになった。やらなくてはならないが自信がない。やめたい、避けたいと思うが立場上避けられない私は本当に精神的に追いつめられたのである。

 しかし、私は今日の朝、ふっと思ったのである。「そうだ。絶対失敗してはならないと思うから、大変なプレッシャーに感じるんだ。失敗してもいいじゃないか。殺される訳でもなし。」と。
 私は余りにも我(が)が強くて自分のメンツにこだわりすぎていたのである。そうだ。そんなメンツなんてどうでもいい。失敗しよう。恥をかこうと失敗を積極的に受け入れる気持ちになったのである。
 まな板の上の鯉の心境とはこんなものであろう。そうしたら私の両肩にズンとのしかかっていた重みがスーッと軽くなったような気がしたのである。

 我々はものごとを為す時、完全主義になってはならないのである。完全主義は力みを生み、力みは自分のそのまま本来の生命の自由な動きを妨げ、却って、失敗を招くのである。
 失敗してもよいのである。恥をかいてもよいのである。必ず完全にやらなくてはならないという力みを我々は何事においてもとらなくてはならないのである。以前の文章でも書いたが、我々は「そのまま」であれば、本来神の子無限力であるから適宜に力が出せるのである。判断も出来るのである。しかし、絶対に失敗してはならないと思って、力むと本来の力、判断力が妨げられ、却って失敗してしまうのである。

 失敗を受け入れよ。不完全を受け入れよ。そして死さえも受け入れよ。それらを全て受け入れる時、我らは自由になるのである。失敗から逃れよう逃れようと焦れば焦るほど、却って失敗するのである。死から逃れよう逃れようとじたばたするほど却って、死の虜になってしまうのである。
 死を受け入れ、失敗を受け入れる心になった時、我らは死と失敗の恐怖を超える。そして、死を超越し、永遠の生命を獲得し、失敗を超脱し、全てを完全に行うことが出来るのである。
 失敗してもなおかつ、認められ、愛される自分を認めよ。死してもなおかつ、生き通す自分を自覚せよ。

 失敗を恐れるのは自分が失敗することによって居場所がなくなる、軽蔑される、相手にされなくなると思っているからである。死を恐れるのは自分の肉体が死んだらそれが永遠の死であると思うからである。

 現象的失敗や死はあるように見えても我らは現象の奥に完全円満な神の生命により完全に生かされている存在であるということを自覚すれば、失敗を恐れず、死におびえることがない。それが死を受け入れ、失敗を受け入れる心境になる唯一の道である。

  堀 浩二
by koujihori | 2005-07-15 22:40 | 信仰 | Trackback | Comments(1)