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心でつくる世界

 私はこのお盆休みを利用して家族と愛知の万博に行って来た。
 愛知博は色々の見せ場があり、それぞれそれなりに楽しめるが私が特にいいと思ったのが日本館である。その中でもこれはと思ったのが、プラネタリウム型の巨大スクリーン映像である。
 それは部屋全体が大きなプラネタリウムの様な球体になっていて、その球体の内部に観客が入って、球体の内側全体に映し出されている全方位型のスクリーンを眺めるのである。
 その映像効果により観客自身が数十メートルの高さまで空高く舞い上がったり、海中に飛び込んだりするような錯覚を起こさしめるのである。

 観客自身はそのドームの中央に直立していて、周囲の立体スクリーンが動いているだけなのだが、観客には周囲が固定していて自分自身が空中に高く舞い上がったり、落下したりするように感じるというものである。

 私はこのスクリーン映像を体験している時、正に我々は普段の生活もこれと同じ様な体験をしているのではないかと思ったのである。
 
 皆さんの中には映画「マトリックス」をご覧になった方があるだろう。それはコンピュータと人間との戦争を描いた近未来サイエンス・フィクションだが、私はこれは大変、深淵な真理を描いていると思っている。
 この中で描かれていることは近未来においておのれが開発したコンピュータとの戦争に敗れた人類が、コンピュータによりその肉体をコンピュータの支配する世界での動力源として利用されるというものである。
 人間達は一人一人特殊なカプセルに入れられて、その肉体の体液は動力源として、搾取され、利用され、いわば培養された様な状況にあるのだが、その脳髄はコードによりコンピュータにつなげられ、コンピュータがプログラムした仮想現実を見せられて生きている。
 人間達はその仮想現実によりそれぞれがこの21世紀の世界に実際に普通の社会生活を送って生きていると思っているが、実はこれらは全て、コンピュータがプログラムした仮想現実を見ているに過ぎないのであって、本当の人間はカプセルに入れられ、眠らされてコンピュータに利用されているのである。
 そのコンピュータがプログラムした仮想現実世界を「マトリックス」というのである。

 これを大抵の人は単なるSFの物語だと思っていると思うが、実は我々の現実世界はこのマトリックスとほぼ同じと言ってもいいのである。
 こんな事を書くと、読者の方は何をバカなと思うと思う。でも、もうちょっとつきあって欲しい。
 
 我々は五官を通じて、この世界を認識して、生活している。そして五官から受け取った情報を神経系統が電気信号で脳髄に伝えて、そして脳髄が認識して、そこで初めて我々はこの世界の事物を認識している。
 しかしながら我々はこの世界をそのままあるがままに認識しているのではないのである。この世界の本当の姿は皆、実は霧の様なものである。物質には気体、液体、固体とあるがそれはそれを構成する分子の密度によって、気体、液体、固体と別れるということはご存知の通りである。
 その一番密に分子がつまっているはすの固体でさえも、その分子と分子の距離は隔たっており、分子の大きさを一つの天体の大きさに等しいものとすれば、その固体の分子間の距離は宇宙の天体同士の距離以上に隔たっているのだそうである。
 そうなると固体と言えども、その本当の姿は霧みたいなものと言わざるを得ない。それを例えば机なら机と人間が認識するのは人間が脳髄で机というものはこういう個体的形をしていると勝手に認識しているからである。
 机という固体から発する光の波動を我々の視神経という神経系統が受け取って、それを脳髄に伝え、そして、脳髄がその伝わって来た刺激をきっかけとして、そこに机なら机という固体が存在すると認識するのであるが、実はそこには具体的には霧のようなものがあるに過ぎず、それを目で見て、そして手でさわって、机という固体として認識しているのは我々の脳髄が神経系統から入って来た情報を勝手に組み立てて、それを机という堅くて具体的な存在として認識しているに過ぎないのである。

 冒頭で紹介した愛知博のパビリオンで自分の周囲のスクリーンが動くことにより、観客自身が動いたように感じさせるようなスクリーンの刺激により観客の脳髄が勝手に判断して観客自身が動いているように思わせれば、その観客に取っては自分が体験する世界は正にその観客自身が空中に跳ね上がったり、海中に飛び込んだりという世界になるのである。

 だから、人間は自分が信じた通りの世界のみを体験するのである。自分が出来ると思えば出来るし、自分は駄目だと思えば、駄目になって行くのである。そして、この人はいやな人だと認識すればその人が自分に何か言ってきてもそれを全て悪意に受け取るようになるのである。

 近代の医学は人間の病気というものがほぼストレスの継続によって引き起こされるということを立証し、そのことを広く公言し、訴える医者も多くなって来ている。
 人間の病気は心によって起こされるのである。そして、その他、あらゆる問題は心によって起こされる。それはこの世界が実は具体的に存在する世界ではなく、本当に存在する世界はその奥に、中(うち)にある霊的実相世界であり、そこには神が作り給うた完全円満な世界があるだけであり、具体的な問題や悪というものは存在しないのであるが、我々がこの世界には悪があると思って、それに心を引っ掛からせ、心でそれを勝手に認識すれば、悪、問題を心の力で映像として映し出すからである。
 
 だから取り越し苦労しないで、悪を心に描かなければ悪は出て来ない。災難に会いようがないのである。
 それをこういう災難がある、こういう悪がある、こういう不幸があると勝手に取り越し苦労し、それに備えて戦々恐々としていれば、その心が悪や不幸や災難を映像として現象世界に映し出す。それがこの世界の不幸にあえいでいる人達の実状である。

 しかし、それらは皆、自分の心が映し出したいわばマトリックスであって、本来実在しない。ナイのである。そして本当に実在する自分そして本当の自分が住む世界は前述したように完全円満の世界であり、完全円満の自分である。映画「マトリックス」では本当の自分は機械に支配され、搾取され、配線された哀れな肉塊に過ぎないというものであるが、実際に我々が生きているこの本物の世界の本当の我々は完全円満、自由自在、無限力の神なる存在である。
 それを我々の心が認識すれば、この現象世界、現世(うつしよ)の世界にその認識した通りの完全円満で問題が何もない世界が展開する。そうすると病気その他のあらゆる不幸、問題、悩みが自分の周囲の世界から消え去るのである。

 それを伝えているのが生長の家の人類光明化運動であり、国際平和信仰運動である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-15 23:02 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

煩悩について

 昔から信仰を志す者に取って、煩悩というものの処理ということが大きな課題であったのである。
 煩悩とは色々あるかも知れないが、男女間の煩悩、特に男から女に対する欲情という煩悩がある。私はここでこんな事を告白するのは恥ずかしいのであるが、人一倍女好きである。異性を意識し出したのは小学生高学年だったと思うが、中学では全然そうでなかったが自分で言うのも何だが、高校に上がってから結構女の子にはもてた。
 私は女の子が好きで好きで仕方がないものだから、女の子がちょっと手を伸ばせば手に入るような感じがしたが女の子から好きだのつきあってくれだの言われても硬派ぶってつきあうことをしなかった。正直に言うと女の子とつきあう勇気が無かったというのが実情である。
 そして、大学に入ったが、私の通っていた立教大学は女の子が半数以上いたので彼女を作って思いっきりキャンパスライフを謳歌しようとして何人かの女の子とつきあったが皆、長続きせず全て私がふられる形で別れた。
 私は女の子が好きで好きでたまらなかったのである。そしてそれは私の女の子への煩悩が人一倍深いものであったからである。

 女性に対する煩悩、欲情というのは昔からストイックに道を求めている信仰者には大きな障害になっており、これを克服することが求道者の一大テーマになって来たのである。
 キリストは「女を見て、欲情を起こす者は既に心にて姦淫せるなり。」と仰った。私はその言葉に対して、そんな堅いこと言うなよ位に思っていた。私はものごとに縛られるのがいやだったから異性に対する煩悩は自然なものであり、適当に煩悩を抱いて、適当に欲情しても実際に肉体関係の過ちを犯さなければいいと思っていた。
 しかし、そうした精神的な煩悩だけでもそれを抱えて生活することはなかなか苦しいのである。

 何故、苦しいかと言ったら、煩悩というのは自己の生命を縛るものであるからである。実相(現象、肉体の奥にある人間と世界の本来完全円満な霊的姿)における既に無限に与えられている霊的悦びではなく、物質欲、肉欲により、あれが欲しい、これが欲しいと餓鬼のようにむさぼる心が煩悩である。
 それは既に満たされているという心ではないから、不安定であり、一時的な快楽はあっても、やがて、それが苦に変わる。ことに男女間はこの煩悩が起こりやすいのである。煩悩を捨て去り、相手を肉体ではなく、その肉体の奥にある神の生命と拝むがよいのである。そこに心の平安があり、本当の相手への思いやりがあり、異性同士でもお互い楽しいつきあいが出来るのである。
 
 それでは何故、夫婦間の夫婦生活を煩悩とは言わないかと言うと、それは愛情が元にあるからである。
 法律的にきちんと認められて夫婦になった男女はお互い一つの魂の半分同士である。一つの魂の半分同士が再び出会って、一つになる時、結婚となる。そこには深い、一つの魂としての切実な愛情があるので、その表現として、夫婦生活が行われるのであり、それが単なる煩悩と違う所である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-06 20:55 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

天地一切のものと和解せよ

 生長の家の三十三ある神示の中で「大調和の神示」というのがある。それは「汝ら天地一切のものと和解せよ」という言葉で始まり、天地一切のものの本質の神なる生命を拝んで感謝し、和解せよという主旨のお言葉である。

 私は生長の家の信徒であるから、そのことは実行しなくてはならないのだが、その重要性は頭では理解していたが、それがどうも実生活で実行出来ていなくて、前の文章でも書いたが私は割合、人の好き嫌いが激しく、嫌いな人間に対してはその悪い面ばかり見て、心で批判ばかりしていた。

 しかし、その様なことでは段々立ちゆかなくなってきたのである。というのは私はテニスとか野球とか英会話とか生長の家の講師とか実に色々な事をやっていて、それの能力を発揮することに血道を上げているが、それが人との関係が良くないとうまく行かないということが分かって来たのである。
 私は人とうまくやって行くことと、この自分の能力を発揮するということは別物であるとずうっと思っていたので嫌いな人間、仲の悪い人間がいても、自分の能力はそれとは関係無しに発揮出来ると思っていたのである。
 だから、毎日、色々勉強したり、練習していさえすれば、極端に言えば人との関係はどうでもいいとまで思っていたのである。しかし、私は生長の家の講師であるから、よく人前で生長の家の真理の講話をすることがあるのだが、たまに自分が苦手で嫌いな人が相手だと途端にうまく話せず、全然変な拙い話になってしまう事があったのである。また、テニスの試合でも気心の知れた相手だと力を発揮出来るが苦手な相手だと緊張が過ぎて実力の半分も出せなかったのである。

 自分はずっと自分の能力が発揮出来ないのは経験不足、訓練不足によるものであると思っていたが、そうではなかったのである。何かの会合で人前で何かまとまった話をする時、そしてテニスとか野球の試合や審判をする時に緊張し過ぎて力が発揮されないのは恐怖心で自らの力を縛り付けていたからであるという事に気が付いたのである。
 それはこの相手はきらいだ、いやだという日常生活で人を差別して好き嫌いして和解していない心の習慣性があった為にそれが対人恐怖となり、その恐怖心が肝心な時に私の本来そのまま自由自在であれば、発揮できた能力を縛って出ないようにしていたのである。

 私はそのことに気が付いてから、「今まで本当に人を差別して好き嫌いして申し訳なかった。人間は皆、本当は神の子でいい人ばかりなのにそういう所を自分は見ないで表面の悪い姿ばかり見ていた。これからはどんな人でもその本質の神なる善なる生命を拝み、よいところに感謝させて頂こう」という気持ちについになったのである。

 そうしたら私に一大革命が起こったのである。今まで苦手だと思っていた人を、その人を神の子と信じてその良い面を見るようにしたら、その人を前にしてもすらすら立て板に水の様に話すことが出来るようになったし、テニスもこの人とやるのはいやだな(これは何故、いやかと言うと、自分がミスをすることでこの相手に軽蔑されるのではないか、へただと思われるのではないかということを私が恐れるという意味でいやだったのである。)と以前は思っていた相手とテニスをしても失敗を恐れることなく伸び伸びと本来の力を発揮出来るようになったのである。

 「大調和の神示」にある「神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波をよう受けぬ」というのは本当である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-02 22:38 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

不測の事態

 今日は土曜日で会社は本来、休日であるが、会社の管理者研修会である。講師を外部研修機関から呼んで、研修担当者である私がセッティング、進行、講師接待等するのである。そして、それが終わったら午後7時から生長の家の信徒の集まりである誌友会という会合で今度は私が講師として話をしなくてはならないというスケジュールである。

 こういうプレッシャーのかかる行事が一日に立て続けにあると私も朝から緊張するのだがそんな中、今朝になって、今日、生長の家の誌友会で使うはずの資料が見当たらない事に気が付いたのである。事前の準備は両イベント共、昨日まで十分に済ませたつもりでいたが、当然あるべき所にあると思っていた資料が見当たらない。
 朝は私は色々やることがあり、神想観という瞑想をした後、テニスの素振りをすることにしていて、今日もそのつもりだったが肝心の資料が見つからない為にテニスの素振りもあきらめた。
 そして、遂に見つからないので、私が元々持っていた予備の資料を代替えにしようと思ってそれを出そうとしたが、何故かそれもいつも綴じてあったはずの所をいくら探しても出て来ない。
 私は頭がパニックになりかけた。こんな事ってあるだろうかと思った。そして、今までだったら自分は何て運が悪いんだろうと自分の運の無さ、そして、この世界の非常さに憤った所だが、こんなに本来の資料、そしてその予備の資料までも忽然と無くなるというのはこれは何か意味があるのではないかと思ったのである。

 私は元々自分の計画通り行かないと途端にいらいらする所があり、通勤のバスの中でも必ず読む本を決めていて、それが思いもよらず、そのバスが混んだりして、本が読めなかったりすると「チェッ」と舌打ちするような所があった。
 しかし、この世界は自分の思惑、計画を超えた不測の事態が起こることなどしばしばなのである。それなのに自分が勝手に決めた計画、思惑にとらわれて、こうでなくてはならぬなんて頑張るのは我(が)である。
 この世界は一見不都合に見えることでも長い目、大きな目から見れば結局それが良かったということがいくらでもある。そうしたことを認める大きな広い心で不測の事態があってもいらいらしないで大局的に対処したらよいのである。
 こうでなくてはならぬと頑張る心は狭い心であり、我(が)の心であり、それが我が儘ということである。どんなに自分に取って不利と見えることでも大局的に見れば、そんなことはないのである。資料が無くなったら探せば良いのである。探してなかったらそれと同じ資料を持っている人に貸してもらうように頼めばよいのである。それでも無かったらそれはそれで神様が何とかしてくれる。こうした大らかな心を持てば、自ずと運も向いてくるし、ものごとも円滑に運ぶものである。
 
 今朝大事な資料が無くなったのは神様が私にそのことを教えてくださる為に神様がお隠しになったのであると私は今、思っている。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-07-30 12:53 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

差別について

 前回の文章で差別というものがロンドンの自爆テロの一つの要因になっているのではないかという事を書いた。
 そして、日本は欧米ほど差別のない社会であるということも書いた。しかし、厳密に言えば、この日本にも差別はある。日本には人種差別というものは単一民族なだけに存在しないが部落差別と言われるものはあるにはある。
 また、階級闘争というのもこの日本にはなくはないのである。要するにマルキシストの言う、資本家階級、労働者階級という階級が存在しており、その間には階級闘争というものがあり、資本家は労働者を出来るだけ搾取しようとしているという世界観である。

 どうしてそういう差別心や階級闘争世界観が出て来るかと言えば、人間にはこの現象世界を生活する為に必要な五官というものが備わっているからである。要するにこの世界で生活、活動する為にはこの世界の事物から発生する波動を感受して、それを神経系統で伝達して脳でそれを実際にその事物がそこに具体的に存在するというイメージを得させる為にそうした五官の感覚器官が人間には備わっているのであり、その五官があるおかげで我々はこの現象世界が本当に存在する世界であると認識して生活出来るのである。

 しかし、その五官だけに頼って生きていれば、この世界が現象的にある通りの世界であるとしか認識出来ないからこの世界がお互いバラバラに対立した世界であると認識せざるを得ない。そこにこの世界は階級同士の闘争があるとか、人種間の差別があるという対立思想が生ずるのである。

 話が大部難解になって来たが、要するにこの世界は映しの世界であり、本当に実在する世界は霊的世界としてこの現象世界の奥というか内側というかそういう所に存在するのであり、それは五官を超えた直感力でもって認識するしかないのである。
 しかるにそうした直感力を信ぜず、従ってそれを使うことのない人は五官の感覚器官しか使うことを知らないからこの映しの世界である現象世界しか存在しないと思いこむ。そして、そう思っている人はこの現象世界というのは表面的に見れば、お互いバラバラに相対的に各自が存在する世界にしか見えないから自分の喜びは他人の喜びでない、他人の悲しみは自分の悲しみでないというお互い利害が対立する所の闘争世界がこの世界であると見るより仕方がない。
 そうした世界観を持つ人が人種差別とか階級間同士の闘争を作り出すのである。

 だから、我々はこの世界に住んでいる限り、いつかはこの差別とかを受けるかも知れないし、階級闘争の渦に巻き込まれて悩むことがあるかも知れない。
 しかし、そういう時は毅然としていなければならない。相手が自分を差別すると言って、嘆いてはならないし、それに怒って仕返ししたりなんかしてはならないのである。我々はそういう時こそ自分の受けている境遇とかをものともせずに積極的によいことを、そして自分の使命と感じることをやって行かなくてはならない。
 先日亡くなった歌手のレイ・チャールズや名前は忘れたが黒人で初めて潜水夫となった人などアメリカではひどい人種差別を受けてもへこたれないで立派な業績を残した黒人の人達の話がいくつかある。
 
 彼らは人種差別を受けたにもかかわらず、へこたれないでおのれの天分をまっとうした人達である。そんな彼らを白人達は最後には諸手を挙げて賞賛したのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-07-19 18:08 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

失敗してもよい。

 私は今回、ある仕事を絶対に引き受けなければならない立場に追い込まれたのである。しかし、私はその仕事で以前、二回も大失敗したことがあり、その時、非常に責められ、恥をかいたのである。それは私の努力ではどうにもならない程、私にはそれをするのが困難に感じられるのである。
 私は今回、その仕事を再びしなくてはならないということが決まった時、本当に暗い気持ちになった。やらなくてはならないが自信がない。やめたい、避けたいと思うが立場上避けられない私は本当に精神的に追いつめられたのである。

 しかし、私は今日の朝、ふっと思ったのである。「そうだ。絶対失敗してはならないと思うから、大変なプレッシャーに感じるんだ。失敗してもいいじゃないか。殺される訳でもなし。」と。
 私は余りにも我(が)が強くて自分のメンツにこだわりすぎていたのである。そうだ。そんなメンツなんてどうでもいい。失敗しよう。恥をかこうと失敗を積極的に受け入れる気持ちになったのである。
 まな板の上の鯉の心境とはこんなものであろう。そうしたら私の両肩にズンとのしかかっていた重みがスーッと軽くなったような気がしたのである。

 我々はものごとを為す時、完全主義になってはならないのである。完全主義は力みを生み、力みは自分のそのまま本来の生命の自由な動きを妨げ、却って、失敗を招くのである。
 失敗してもよいのである。恥をかいてもよいのである。必ず完全にやらなくてはならないという力みを我々は何事においてもとらなくてはならないのである。以前の文章でも書いたが、我々は「そのまま」であれば、本来神の子無限力であるから適宜に力が出せるのである。判断も出来るのである。しかし、絶対に失敗してはならないと思って、力むと本来の力、判断力が妨げられ、却って失敗してしまうのである。

 失敗を受け入れよ。不完全を受け入れよ。そして死さえも受け入れよ。それらを全て受け入れる時、我らは自由になるのである。失敗から逃れよう逃れようと焦れば焦るほど、却って失敗するのである。死から逃れよう逃れようとじたばたするほど却って、死の虜になってしまうのである。
 死を受け入れ、失敗を受け入れる心になった時、我らは死と失敗の恐怖を超える。そして、死を超越し、永遠の生命を獲得し、失敗を超脱し、全てを完全に行うことが出来るのである。
 失敗してもなおかつ、認められ、愛される自分を認めよ。死してもなおかつ、生き通す自分を自覚せよ。

 失敗を恐れるのは自分が失敗することによって居場所がなくなる、軽蔑される、相手にされなくなると思っているからである。死を恐れるのは自分の肉体が死んだらそれが永遠の死であると思うからである。

 現象的失敗や死はあるように見えても我らは現象の奥に完全円満な神の生命により完全に生かされている存在であるということを自覚すれば、失敗を恐れず、死におびえることがない。それが死を受け入れ、失敗を受け入れる心境になる唯一の道である。

  堀 浩二
by koujihori | 2005-07-15 22:40 | 信仰 | Trackback | Comments(1)

執着について

 この前の日曜日、映画「スターウォーズ・エピソードⅢ/シスの復讐」を観た。スターウォーズファンの私としては待望の映画であり、大変見応えがあった。
 今回は主人公のアナキン・スカイウォーカーが如何にあの悪の化身「ダース・ベイダー」に変貌して行くのかという過程がメインに描かれているが、彼は元々正義を愛する熱血漢の若者だったのにその正義感と愛が我執(がしゅう)にとらわれたものであった為に却って、悪の世界に転落してしまうというストーリーであった。

 このアナキンの様な愛は生長の家の聖典「生命の実相」第35巻、下化衆生遍78ページにも以下の様に示されている。
「・・・愛見の大地とは我が彼を愛するという彼我(ひが)、能愛所愛(のうあいしょあい)の区別を存する愛であって、執着が残っているから、私があんなに愛してやったのに背(そむ)いたなどと言って恨み怒りの原因となる。愛が闇となったのである。(中略)宜しくわれらはかくのごとき執愛を超克しなくてはならない。」

 本当の愛とは既に自分の生命と他の生命が神の大生命において一体であるという自覚であり、それに対し、我と彼との本来一体の霊的生命を観ないで表面の肉体である我と彼とのみを見ている者には我と彼とは一体ではなくバラバラに別れて見えるものであるから、相手を愛そうとする時、相手を無理に自分に取り込もうとするのである。それが執愛である。
 執愛は相手を無理矢理自分の好み通りにしようとするのである。反対に本当の愛は自分の生命と相手の生命が既に一つであるという事を自覚せるが故に相手に執着せず、相手を相手の自由意志のままに解放しようとするものである。
 本当の愛は相手を放して、却って相手から慕われ、執着の愛は相手を無理に自分に縛ろうとするが故に却って相手から煙たがられ、終いにはその相手から去られるのである。

 我々は自分の愛する人々即ち自分の妻、夫、子、親、兄弟そして恋人を本当に愛するならばそれに執着するのではなくて心で放さなくてはならない。そして、この事は対人間に限らず、全てに対して言える事である。
 自分の地位、財産、肩書き、能力そして肉体の健康、これら全てに執着せず、神様に全部預けてしまえ。(念のために断っておくが、これは自分の全財産を一定の宗教団体に捧げてしまえという意味ではない。あくまで心構えの問題である。)これらは元々、全て自分の中の神様から頂いたものである。これらを自分のものだと思って執着してしがみつかないで全て神様にお返しするつもりで心から放ち去れ。
 その時、我らは却って真に必要なものを神様から適宜に与えられるのである。それが生かされているということであり、また感謝ということである。そしてそれが本当の愛の生活である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-07-14 21:24 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

問題はナイ

 私は会社では給料計算係である。今月は夏季賞与の月であるので昨日は各従業員の賞与計算をしていた。その二日前の月曜日に賞与支給日をいつにするか社長(私の父)に相談した所、給料日と同じ27日でよいということだったので賞与支給日を27日とする旨、文書にして社内掲示板に掲示した。
 
 しかし、昨日になって、急に賞与は本来は30日支払いが原則であるから賞与支給日は27日ではなくて月末の30日にすると訳の分からない事を父が言い出したのである。
 賞与支給日をきちんと父にお伺いを立て、その結果、はっきりと27日にするという指示であったので社内にも既に発表してあるのに、何を今更、おかしなことを言っているのだと、私は強く抗議した。
 やんごとなき理由があるならともかく、そんな三日も送らせなければならない事情など何もないことは経理担当の私にはよく分かっていた。
 私はその時、かなり憤って、その理不尽な指示に反対したので父もはっきりとした返答をしないまま、どこかに行ってしまった。

 それが昨日の午前11時頃であり、私は社長である父の理不尽さに腹が立って仕方が無かった。以前にも同じ様に父が急に強引で理不尽な命令を下した事があり、その時は父をうらんだが、その頃の記憶がふつふつとよみがえって来たのである。
 しかし、昼を過ぎる頃から段々と気持ちが落ち着いて来て、ふとメモ帳に目をやると「理不尽な目上の者がいるから自分はこの組織にいられないというのは間違いでこちらが目上の者の善なる実相を観て、中心帰一する心になれば、目上の者も理不尽なことを言わなくなる」という私がかつてメモした一節が目についたのである。
 面白い話だが私は私自身がかつてメモした事に教えられ、気を取り直し、こちらが相手を悪い人間だと思って問題をつかむから駄目なのであって、父は神の子であり、本来理不尽な事を言う人間ではないから、現在の問題は心から放して、神に全託しようと思ったのである。
 その上でまだ父が賞与支給は27日ではなくて30日にすると言ったら、理屈は全て捨てて全面的にその指示に従おうと腹を決めたのである。

 そうしたら専務である兄が賞与の事でなにやら父に話してくれた様であったが、その後、いよいよ、賞与振込手続きの期限が近づいて来たので私は父にもう一度、賞与支給日について確認した。すると、何と最初の決定した通りの27日支給でいいよと父は答えたのである。

 現象の奥に実在する本当にある世界、これを生長の家では実相世界と呼んでいるがそこは神の世界であるから本来は何も問題のナイ世界なのである。
 だから、我々がそれを信じ、何も問題をつかまずに神にお任せしておれば、自ずと本来問題のナイ世界が展開するのである。
 しかし、自分で勝手に「この世界には悪人がいる。問題がある。」と思うと、本来無い問題を心で握ってしまい、心で握れば、心が映し出す世界であるこの現象世界に本来存在しない問題が展開して来るのである。

 この世界は本来は何も問題のナイ世界なのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-06-23 13:19 | 信仰 | Trackback | Comments(8)

自分の運命が教えてくれるもの

 前回と前々回で先週の土日の体験を書いたが、そこで書いたように寝不足でコンディション最悪だったので野球にしろ、英検のテストにしろ最悪の結果となってしまった。
 でも奇妙な事に約二週間前にも殆ど同じ事を私はしているのであり、今回私は同じ事を繰り返しているのである。
 要するにこういう状況になるのは私が早朝野球と英語のテストの前の晩にテニスの試合を組む様な無理な事をしているのが表面的原因だが、実は私がこういう運命になるのはあらかじめ決まっていた事なのである。
 
 こう言うと奇妙に聞こえるが、我々の運命というものは実は現象的に出て来る前に既に心の世界で創られているのであり、それは時間の経過に伴って、後から現象として出て来るのである。おとといの日曜の運命、そして二週間前の日曜の運命は私の心が過去に自分で心の世界に創り上げたものであったのである。同じ様な心であるから図らずも殆ど同じ様な運命となってしまったのである。
 その心とは何かと言ったら、出て来た運命が自分が力を発揮出来なくて失敗する、恥をかく、責められるという事であるから、自分の力を自分自らが押さえつけて責め立てて出さないようにするという心であるが、それは裏を返せば、自分が誰かの非を心で審き、責めつけるという心なのである。
 即ち、おとといの日曜及び二週間前の日曜の私のコンディション最悪で力を発揮出来なくて他の人から責められるという運命は私自身の他人を決して赦さないでその落ち度を責める心が創り出した運命であったのである。
 私が前々回の文章中で書いていた自分自ら作り出した土日のハードなスケジュールが何かを教えてくれているというのは正に「他人に完全を求めて、心で締め付けるな、審くな、その人の良い面を観て、感謝しろ」という神様からのメッセージであった。

 この人生は我々人間という名の研究者が心という道具を用いてデータ又は作品を創り出す為の実験場、研究所みたいな所である。従って、我々は自分が体験した運命をよく注視して深く思索していけば、自分の心を反省することが出来るのである。そして、真に反省する所、我らの進歩、生長があるのである。だから、この人生は一つの大きな学校であるのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-06-14 22:39 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい(2)

 私は英検のテスト、そして、野球の試合で失敗して、訓練の必要性を痛感した。しかし、どのような訓練をしていけば効果的であろうかと思ったのである。英検を受けた感じでは私の英語の語彙(ボキャブラリー)とヒアリング力がとても英検一級合格レベルではないということを自覚したのでそれを強化しなくてはならないと感じた。そして野球ではスロウイング(ボールを投げること)と脚力に問題があると思ったのでその方面の改善に努めなくてはならないと思った。

 しかし、今日の夕方に息子達とテニスをやっていて、気が付いたのである。それは自分の能力向上の為の訓練を如何にすべきかということにそんなにやっきになって考えなくても、「そのまま」でおれば、自ずと必要な訓練の道は見いだせるということである。

 私はテニスのサーブに関して自分の改善すべき点をテニスクラブの菅さんという方に教わってから、その技を何とかマスターしなくてはならないと思っていた。
 テニスの試合では殆ど本能のままに行い、余りフォームの事を考えながらやらないので試合の他にその菅さんに習ったやり方を徹底して練習しなくてはならないと思っていた。そこで一人で壁を相手に練習していたが、心なしか却ってフォームが乱れて行くような感じがしていたのである。

 しかし、今日のテニスの練習試合で気が付いたのであるが、この打ち方が良いと心から納得している場合、試合をしながらも自動的にその通りの打ち方をするようになるものである。それは決して無意識ではなく、意識しながら打っているのだが、同時に自分ならざる内側からの導きと力で打っている感じである。これは試合しながら、同時に練習にもなっているということである。

 私はこの時、悟ったのである。「そのままでよい」と。以前にも書いたが、我らは内に無限の生命、力を宿しているのであるから、今既に与えられている現状に感謝する心、即ち「足るを知る」心の中で心静かに「そのまま」の心で他と交わり、当たり前の事を当たり前にする中で自ずと必要な訓練も為されるようになり、向上していくのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-06-12 21:40 | 信仰 | Trackback | Comments(2)