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問題はナイ

 私は会社では給料計算係である。今月は夏季賞与の月であるので昨日は各従業員の賞与計算をしていた。その二日前の月曜日に賞与支給日をいつにするか社長(私の父)に相談した所、給料日と同じ27日でよいということだったので賞与支給日を27日とする旨、文書にして社内掲示板に掲示した。
 
 しかし、昨日になって、急に賞与は本来は30日支払いが原則であるから賞与支給日は27日ではなくて月末の30日にすると訳の分からない事を父が言い出したのである。
 賞与支給日をきちんと父にお伺いを立て、その結果、はっきりと27日にするという指示であったので社内にも既に発表してあるのに、何を今更、おかしなことを言っているのだと、私は強く抗議した。
 やんごとなき理由があるならともかく、そんな三日も送らせなければならない事情など何もないことは経理担当の私にはよく分かっていた。
 私はその時、かなり憤って、その理不尽な指示に反対したので父もはっきりとした返答をしないまま、どこかに行ってしまった。

 それが昨日の午前11時頃であり、私は社長である父の理不尽さに腹が立って仕方が無かった。以前にも同じ様に父が急に強引で理不尽な命令を下した事があり、その時は父をうらんだが、その頃の記憶がふつふつとよみがえって来たのである。
 しかし、昼を過ぎる頃から段々と気持ちが落ち着いて来て、ふとメモ帳に目をやると「理不尽な目上の者がいるから自分はこの組織にいられないというのは間違いでこちらが目上の者の善なる実相を観て、中心帰一する心になれば、目上の者も理不尽なことを言わなくなる」という私がかつてメモした一節が目についたのである。
 面白い話だが私は私自身がかつてメモした事に教えられ、気を取り直し、こちらが相手を悪い人間だと思って問題をつかむから駄目なのであって、父は神の子であり、本来理不尽な事を言う人間ではないから、現在の問題は心から放して、神に全託しようと思ったのである。
 その上でまだ父が賞与支給は27日ではなくて30日にすると言ったら、理屈は全て捨てて全面的にその指示に従おうと腹を決めたのである。

 そうしたら専務である兄が賞与の事でなにやら父に話してくれた様であったが、その後、いよいよ、賞与振込手続きの期限が近づいて来たので私は父にもう一度、賞与支給日について確認した。すると、何と最初の決定した通りの27日支給でいいよと父は答えたのである。

 現象の奥に実在する本当にある世界、これを生長の家では実相世界と呼んでいるがそこは神の世界であるから本来は何も問題のナイ世界なのである。
 だから、我々がそれを信じ、何も問題をつかまずに神にお任せしておれば、自ずと本来問題のナイ世界が展開するのである。
 しかし、自分で勝手に「この世界には悪人がいる。問題がある。」と思うと、本来無い問題を心で握ってしまい、心で握れば、心が映し出す世界であるこの現象世界に本来存在しない問題が展開して来るのである。

 この世界は本来は何も問題のナイ世界なのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-06-23 13:19 | 信仰 | Trackback | Comments(8)

自分の運命が教えてくれるもの

 前回と前々回で先週の土日の体験を書いたが、そこで書いたように寝不足でコンディション最悪だったので野球にしろ、英検のテストにしろ最悪の結果となってしまった。
 でも奇妙な事に約二週間前にも殆ど同じ事を私はしているのであり、今回私は同じ事を繰り返しているのである。
 要するにこういう状況になるのは私が早朝野球と英語のテストの前の晩にテニスの試合を組む様な無理な事をしているのが表面的原因だが、実は私がこういう運命になるのはあらかじめ決まっていた事なのである。
 
 こう言うと奇妙に聞こえるが、我々の運命というものは実は現象的に出て来る前に既に心の世界で創られているのであり、それは時間の経過に伴って、後から現象として出て来るのである。おとといの日曜の運命、そして二週間前の日曜の運命は私の心が過去に自分で心の世界に創り上げたものであったのである。同じ様な心であるから図らずも殆ど同じ様な運命となってしまったのである。
 その心とは何かと言ったら、出て来た運命が自分が力を発揮出来なくて失敗する、恥をかく、責められるという事であるから、自分の力を自分自らが押さえつけて責め立てて出さないようにするという心であるが、それは裏を返せば、自分が誰かの非を心で審き、責めつけるという心なのである。
 即ち、おとといの日曜及び二週間前の日曜の私のコンディション最悪で力を発揮出来なくて他の人から責められるという運命は私自身の他人を決して赦さないでその落ち度を責める心が創り出した運命であったのである。
 私が前々回の文章中で書いていた自分自ら作り出した土日のハードなスケジュールが何かを教えてくれているというのは正に「他人に完全を求めて、心で締め付けるな、審くな、その人の良い面を観て、感謝しろ」という神様からのメッセージであった。

 この人生は我々人間という名の研究者が心という道具を用いてデータ又は作品を創り出す為の実験場、研究所みたいな所である。従って、我々は自分が体験した運命をよく注視して深く思索していけば、自分の心を反省することが出来るのである。そして、真に反省する所、我らの進歩、生長があるのである。だから、この人生は一つの大きな学校であるのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-06-14 22:39 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい(2)

 私は英検のテスト、そして、野球の試合で失敗して、訓練の必要性を痛感した。しかし、どのような訓練をしていけば効果的であろうかと思ったのである。英検を受けた感じでは私の英語の語彙(ボキャブラリー)とヒアリング力がとても英検一級合格レベルではないということを自覚したのでそれを強化しなくてはならないと感じた。そして野球ではスロウイング(ボールを投げること)と脚力に問題があると思ったのでその方面の改善に努めなくてはならないと思った。

 しかし、今日の夕方に息子達とテニスをやっていて、気が付いたのである。それは自分の能力向上の為の訓練を如何にすべきかということにそんなにやっきになって考えなくても、「そのまま」でおれば、自ずと必要な訓練の道は見いだせるということである。

 私はテニスのサーブに関して自分の改善すべき点をテニスクラブの菅さんという方に教わってから、その技を何とかマスターしなくてはならないと思っていた。
 テニスの試合では殆ど本能のままに行い、余りフォームの事を考えながらやらないので試合の他にその菅さんに習ったやり方を徹底して練習しなくてはならないと思っていた。そこで一人で壁を相手に練習していたが、心なしか却ってフォームが乱れて行くような感じがしていたのである。

 しかし、今日のテニスの練習試合で気が付いたのであるが、この打ち方が良いと心から納得している場合、試合をしながらも自動的にその通りの打ち方をするようになるものである。それは決して無意識ではなく、意識しながら打っているのだが、同時に自分ならざる内側からの導きと力で打っている感じである。これは試合しながら、同時に練習にもなっているということである。

 私はこの時、悟ったのである。「そのままでよい」と。以前にも書いたが、我らは内に無限の生命、力を宿しているのであるから、今既に与えられている現状に感謝する心、即ち「足るを知る」心の中で心静かに「そのまま」の心で他と交わり、当たり前の事を当たり前にする中で自ずと必要な訓練も為されるようになり、向上していくのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-06-12 21:40 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

足るを知る

 昨日、テレビドラマ「恋に落ちたら」を観た。物語は草薙剛演じる主人公の出世話を軸にしたものだが、昨日のストーリーの中でこんなシーンがあった。それは大会社の社長まで上り詰めた主人公が自分の飽くなき事業欲のままに事業をどんどん拡大して行こうとするのだがそんな彼に友人が「お前はどこまで行っても満たされることはない餓鬼のようなものだ。」と諫めるというものであった。
 案の定、その後の彼は調子に乗りすぎて失脚し、今までちやほやしていた仕事仲間から見放され、そして、自分の妹と彼に忠告した友人の元に帰って来て、そこで慰められるのである。
 私はこれを観て、はっとしたのである。これは正に自分の姿であると。
 
 以前にも述べたが私は非常に向上心旺盛というか色々な事に興味があり、自分の様々な能力を伸ばすことに悦びを感じて毎日、様々なレッスンと勉強に明け暮れているのだが、私もこの主人公の様に自分の能力向上に取り憑かれた一種の餓鬼の様なものではないかと思ったのである。
 即ち、現状の自分に満足出来ず、少しでもうまくなりたい、良くなりたいといつも心が満たされないで焦っているのである。実は昨日も仕事の後、テニススクールでテニスの練習試合をして来たが、どうも自分の納得の行くプレーが出来なかったので心がもやもやしていたのである。
 それはここをもうちょっとこうすればもっとうまく行く、うまくなれるというコツを頭で分かっているのだが、それが現状の自分はそう出来ないということで何か不満というか焦りというかもう少し手を伸ばせば素晴らしい上達と能力が手に入るのにといういらだちであった。
 私はそんなこんなで心に平和が無く、何かがつがつとしたものを心に抱いていたのである。しかし、私は昨日のドラマを観て、悟ったのである。私はこのドラマの主人公のように足るを知らざる餓鬼であったと。
 
 我々は向上心を持って努力することは大事ではあるが、あくまでそれは現在の状態、現在与えられている環境、仲間、家族等に心を向け、その今、与えられている事に感謝し、以前に比べてこれだけ良くなっているという自分の能力を悦ぶということを忘れてはならないのである。それが「足るを知る」ということであると思う。
 そうした今既に与えられている当たり前の事に感謝する所から、真の自信が生まれ、そこから真の活力が湧き出て、素晴らしい向上があるのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-06-10 07:18 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

万事好都合

 今日は日曜日である。しかし、ちょっと私の土日はハード過ぎる。もっとも自分でそうしているのだが。
 昨日の土曜日は昼から英会話学校での2時間以上の英語レッスン。そして夜は7時から10時までシングルス草テニス大会。それが終わって帰宅するのが夜11時30分。そして12時頃就寝して翌日の今日日曜日は朝6時からの早朝野球の為に朝、4時30分起き。そして8時まで野球の試合をやった後、昼12時からTOEIC(英会話力の判定テスト)のテストというスケジュールであった。
 これは本当にハードである。大体、テニスのシングルスの試合というのは肉体的にも精神的にも非常にハードなことであり、それを夜遅くまでやって、翌日早朝野球というのはきつかった。身体に疲れが残っていて、キャッチボールもうまく出来ない有様。その後、これまたハードなTOEICのテストというのはうんざりだったがとにかく頑張ろうと受験するつもりだった。しかし、家内にTOEICの事を言って居なかったので彼女は車で買い物に出かけてしまい、車で会場まで行くつもりだった私はTOEICの受験会場に行けず、TOEICを受験出来なかった。
 しかし、それは内心私に取ってほっとすることであった。私はこれは神様が「ちょっと休め」と言ってくれているのだと解釈し、その後、居間でうとうとしていたらそれから昼から夕方まで眠りこけてしまった。

 私はぐっすり眠りこけた。本当に身体が疲れていたのだと思う。正に妻のおかげでTOEICを受験せずに済んだことで身体を休ませることが出来たことは良かったと思う。

 そして、昼寝の後、家の近くのテニスクラブに出かけていった。そうしたら何人か残っていたが、もうお互いお相手が居るかその他の人は宴会モードに入ってビールを飲んだりしていたのでちょうど私の相手が居なかった。私は残念だったがコートが空いていたのでそこで一人でサーブ練習をもくもくと1時間くらいやった。そうしたら、それを見ていたクラブで一番の実力者である菅さんという60歳位の方が私に的確なサーブの打ち方のアドバイスを下さった。私はそれで格段とサーブが良くなることが出来たのである。

 吾々は表面的に、短期間的に見ると損したみたいに感じること、失敗したみたいに感ずることが日常の中でいくらでもあるのである。しかし、その事が長期的、また実質的に良かった、得したということがよくある。私は土日のスケジュールをハードに組み過ぎて、疲労していたが丁度妻が車を私に使わせないようにしてくれたことでTOEICのテストを受けないで身体を休める事が出来たし、テニスクラブに行っても相手がいなくて一人でサーブ練習をしなくてはならなくなったが、そのことで熟達した人から的確なサーブのアドバイスをもらうことが出来たのである。

 その他にも吾々はいくらこれは失敗だ、恥をかいた、取り返しの付かないことをしてしまったと思う失敗をするかも知れないがこの世界は表面的には色々不都合はあっても総体的に長期的に見れば、神様に導かれた世界であるから、良くなるしかないのである。
 「万事好都合」である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-05-29 21:00 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

罪は赦される

 またまたテレビ番組「アンビリバボー」からの題材である。実はたった今、見終わったばかりであるのだが、本当に今日の内容も良かった。前半が心温まる優しい動物達の話であったが後半は本当に感動的であった。

 それはお隣韓国の話であるのだが、若い兄妹の話である。この兄妹は本当に仲が良く、妹はまた美人であり、将来は保母さんを目指していて、幸せな生活を送っていた。
 しかし、突然の不幸が起こる。兄妹がドライブ中に巻き込まれた事故で妹が全身、特に顔に大やけどを追ってしまうのである。2000年7月のことである。

 包帯を取った彼女の顔はやけどで以前の美しい顔は変わり果て、焼けただれた醜い顔になってしまい、おまけに手の指も親指だけを残し、八本も切断しなくてはならなくなってしまった。
 実は事故の時、兄は軽傷だったが妹は炎の中で気絶しており、兄が必死に助け出したのだが、助けたことで却って、死ぬよりつらい運命が妹に降りかかって来たのである。
 妹思いの兄はそれを苦にして、妹に対していつも負い目と罪の意識を感じていたのだが、妹は日本に来て、再手術したことで大分回復し、ボランティア活動をする中で徐々に明るさと元気を取り戻し、やけどをして新しい顔になった自分を受け入れていく。

 そして、ある日何の気なしに兄が妹に「自分はもしかしたら事故の時、おまえを助けなければ良かったのか?」とずっと自分の心に抱えていた思いを打ち明けたのである。そうしたら、妹はやけどして身体を損なったことで今はこの上なく大切なこと、即ち失った指が如何に有り難いものであったかということ、そして、自分がこんな顔になっても常に支えてくれた家族がいたことなどの有り難さ、尊さが身にしみて分かったので今は本当に幸せだから、またもし百回同じような事故にあったらまた百回同じように助けてねと言ったのである。

 それを聞いた兄は事故後、何年かずっと抱き続けていた妹をへたに助けたことで却って妹に苦しみを与えてしまったという罪の意識が赦されて行くのを感じたという。
 しかし、この兄よりもそれを聞いて、本当に安堵するのはこの事故を起こした相手のドライバーではないか?何でも酔っぱらい運転でこの兄妹の車に追突炎上させたということだから。

 人間はこの様に悪気はなくても人を誤って傷つけることがあり、後から後悔してもどうしようもなく、一生罪の意識で暮らさなくてはならないということがあると思う。しかし、人間は実は不滅の存在であり、肉体ではないから肉体がこの彼女の様に如何に醜く焼けただれてもそれを却ってバネにして真の幸福、生き甲斐を得ることが出来るのである。そして、人間として最も大事な真理、人間は肉体ではなく、肉体を超えた不滅の生命であり、そして神に生かされ、周囲の人から支えられ、愛されている存在であるということを悟ることにもつながるのである。それを悟ることこそが真の幸福である。
 だから、自分が誤って人を傷つけたということがあったとしても自分が傷つけたこと、そして傷つけるようなことになってしまった心の間違いを反省することは大事であるがそれ以上にその相手を不幸にしてしまったといつまでも罪の意識を握り続けることは要らないのである。

 この韓国の彼女の現在の姿をテレビで映していたが、確かに顔や手にはやけどの跡が見られるがその顔は内側からにじみ出た美しさで美しくさえあった。人間は心が変われば肉体も変化するのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-05-26 21:32 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

飯島夏樹さんのこと

 先日、テレビで飯島夏樹さんという肝臓ガンになったあるプロウインドサーファーのドキュメンタリーをやっていた。2月頃だったと記憶している。
 彼は一流のプロウインドサーファーでワールドカップに出場し続け、国内の大会では何回も優勝している。かわいい奥さんと4人の子宝に恵まれ、人生順風満帆であったが突如、肝細胞ガンの宣告を受ける。2002年5月の事である。
 そして、医者から肝臓の移植不適合と診断され、うつ病とパニック障害を引き起こすが、奥さんの懸命の励ましによりうつ病とパニック障害は克服するも肝臓ガンは悪化し、2004年5月にあと3ケ月の余命宣告を受けるのである。
しかし、彼はガンの終末期患者でありながら、自分の闘病記をネット連載「今日も生かされています。」で2004年8月16日から2005年2月19日まで発表し続け、多くの人々の心を打ち、それが評判になってフジテレビでドキュメンタリー番組まで組まれた。
彼のエッセイ「ガンに生かされて」ではガンのターミナル(終末期患者)としてその壮絶な闘病生活が記されているのだが、それは死を目の前にした悲壮な感じではなく、大変ユーモアとウイットに富んだ語り口なのである。これは病んだ飯島さんというものを客観的に見て、観察しているもう一人の飯島さんがそこに居るような感じである。
 そのエッセイの中で彼は告白しているのだが、以前の自分は大変、身勝手で利己主義な男で自分の事しか考えていなかったが、今は本当に素晴らしい家族に囲まれて幸せな自分であると言うのである。そして、ガンのターミナルになった今、つくづく自分は自分で生きているのではなく、生かされていたのだという事が分かったとも言っている。そして、自分は死んだら天国に召されるということも本当に信じていたようである。だから、死を目の前にして自分の症状を客観的に見つめることが出来たのではないかと思う。
 エッセイのタイトルは「ガンに生かされて」ということだがこれはガンという病気になって死を目の前にしたことでそれが逆に生の有り難さを教えてくれたということでこのタイトルをつけたのだと思う。 
 彼はガンになって余命宣告を受けたことで逆に自分が神に生かされた尊い生命であったこと、そして自分には自分を愛してくれ、支えてくれる素晴らしい家族がいたことに気づき、魂は永遠の生命を悟り、救われていたと思う。

 そして、飯島夏樹さんに劣らず、本当に素晴らしいのは奥さんの寛子さんである。彼女は幾分ナーヴァスで内向的なご主人と対照的で小さな事にこだわらない、あっけらかんとした性格で、本当に最後までご主人の事を支え、力になり、そして愛したのである。
 「ガンに生かされて」の付記の寛子さんの文章にはこのように記されている。
「26日の夜27日の夜、夜中に何回も起こされた。夏樹は、過敏ですぐに排泄をしたがる。何度も下のお手伝いをしていて、とても嬉しかった。こんなことをしたくてもできない状況の人もいる中、そういう時間が与えられた。排泄の後、いつも疲れ、腰をマッサージしてくれとか言われる。いつも身体をさすっていてうれしかった。」
 以上は夏樹さんが今年2月28日、38歳の若さで亡くなる直前の2日間のことを書いたものである。私はこの文章を読んで涙が出そうになった。「ああ、これが夫婦だ。夫婦の愛だ。」としみじみと感じた次第である。

 飯島夏樹さんは肉体はガンにむしばまれて滅んだが、魂は救われ、天国で家族を見守りながら今頃は安らかに好きな執筆活動そしてウインドサーフィンを楽しんでいると思う。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-04-25 22:49 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

人生無駄なものは一つもない

 本日は人生論について書こうと思う。私は今年、46歳になるが今までの自分の人生を振り返って見て、つくづく人生というのは無駄な事は一つもないのだなと思うのである。 人生には色々あり、順風満帆な時もあれば、嵐吹きすさぶ苦しい時もある。しかし、それらは全て本当には悪いものは一つもないのである。
 私の信仰する生長の家ではこの世界は現象世界であって映しの世界であり、本当に実在する世界ではないと説いている。本当に実在する世界は内なる世界、これを生長の家では実相世界と呼んでいてそれは円満完全な世界、神の世界であると言うのである。
 そしてこの人生はその内なる円満完全な実相世界、神の国をこの現世(うつしよ)に顕現させる為の勉強の場、いわば人生学校であると説いている。

 私は子供の頃は余り、成績の良い方ではなく、高校でも出来る方ではなかった。そんなに程度のいい高校ではなかったがその中でも私の成績は下の方であった。しかし、高校一年の時に受けた生長の家の練成会で人間神の子無限力ということを知った私は自分もやれば出来るんだと思って、東京六大学の内の一つ立教大学に入学することが出来た。今までの私の成績を知っていた周囲からは随分、驚かれたものである。その後、私は大学卒業後就職をし、生長の家の組織活動にも参加するようになった。

 私は大学を出てすぐある中小の機械商社に就職し、そこで社会勉強を三年程させて頂いてから父の経営する会社に入った。
 最初はまず会社の製品を学ぶ為に営業部に配属された。しかし、製品知識を覚える事が困難を極めたのである。というのは父の会社の製品は精密な機械製品だったので非常に専門的な機械知識を要求されたからである。経済学部出身の私にはそもそも機械的素養がないので、そこで大変な苦労をしたのである。
 私はすっかり自信を失ってしまい、会社の中でも居場所が無い様な感じであった。

 そんなこんなで2年が経ち、30歳になった私は総務部に移動になり、本来の目的の仕事であった経理、総務の業務につく事になったが、そこでもしばらく下積みの期間が数年続いた。自分は一応、大学は出たものの自分の天分とか生涯掛けて行く自分ならではの仕事とは何であろうかということが分からず、自分は無価値な人間ではないのかという思いにとらわれるようになっていた。

 29歳で結婚した私は30歳で長男が誕生して、その時、既に一家の主となっていたが悶々とした日々が続いていた。そうこうする中、色々な考え方の違いから社長である父とも折り合いが悪くなり、私自身も信仰に対する考え方が全然間違っていたので37歳の時、殆どノイローゼ状態となり、夜は全く眠れないという状態が約1年続いた。睡眠薬等,薬には手を出さなかったがよくああいう状態で一年も生きていたと今から思う。
 そういう状態は妻だけが知っていて両親や兄にはその間、ずっと伏せてきた。妻は私が一番苦しかったその時期を本当に親身になって支えてくれたのである。その後、私は自分の状態を両親にも打ち明け、生長の家の京都の宇治の道場に長期練成に行く事になった。私の状態を知った両親は大変心配してくれ、特に父の心配の仕方は大変なものであった。
 そもそもそういう不眠症とかノイローゼとかの頭の病気になるというのは頭に象徴される目上の者を恨んでいる場合が多いのである。私はその時まで間違いなく父を恨んでいたのである。父は昔気質の人で決して愛情を表現する事をせず、いつも私は子供の頃から体罰を受け、叱られて育ったのである。しかし、私がそんな状態になった事を知った父の心配の仕方は尋常なものではなかった。皮肉にも私はその時、始めて父が自分を愛してくれていたということを知ったのである。

 私は本当に人生のどん底に落ち、妻も子供もいるのに会社は休職し、生長の家の道場の汚い宿舎での惨めな生活が始まったのである。
 ところが実はここから私の悦びに満たされた神に祝福された人生がスタートするのである。私は自分の生涯の師とも言える榎本恵吾先生とこの生長の家宇治別格本山で巡り合い、先生の薫陶により生長の家の神髄に触れ、神に生かされている悦びに目覚める事が出来たのである。 私は大安心の心に満たされ、精神的にも肉体的にも救われ、その2ケ月後、会社に復帰した。今から8年前の平成9年9月の事である。
 それから私は以前の数百倍のパワーと悦びで仕事に趣味に地域活動に積極的に邁進することが出来るようになり、現在に至っているのである。

 そして現在では自分の神から与えられた天分、自分ならではの役割とは何かということを明確に知ることが出来、お陰様で悦びに満たされた人生を送らせて頂いている。自分の今までの経験は正にそれを知る為であり、全ての経験が無駄ではなかったということが実感で分かるのである。

 皆さん、丑三つ時という朝が明ける直前が一番暗いと言われます。ものごとが良くなる時はその直前が一番暗いのです。しかし、それに負けないでしばらく我慢して頑張っていけば、必ず夜明けは来る。それは私が保証します。私が一番苦しかった時を支えてくれたのは生長の家総裁谷口清超先生の「解決できない問題は存在しない。」のこの一言だけであった。私はこの一言にしがみついて死にものぐるいでつらい一年間を乗り越えたのである。そしてそれを支えてくれたのは我が妻であり、両親であり、姉達であり、兄であった。 我々は一人で生きているようで家族を始め、実に沢山の人達に支えられて、生かされて生きているのである。それを短期的に見て、もう駄目だなんて思ってはならないと思う。

 この世界は一見、不幸に見えるものが沢山ある様だが実は一切の無駄、本当に悪いものは一つも存在しない。長い目、大局的に見ればそれらが皆全て本当に尊い経験となる良いことばかりであり、これらの経験を通して我々の素晴らしい神の命をこの世界に表現して行くのである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-04-21 23:37 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

妻との大喧嘩で反省したこと

 今日は家内の誕生日である。47歳になったわけであるが私はこの家内に随分苦労を掛けて来たと思う。私が9年前に不眠症になった当時は本当に大変でその時は本当に親身になって支えてくれ、私は家内の献身的な内助の功が無かったら到底立ち直ることは出来ず、現在の自分はなかったであろう。
 しかし、私は昨日夜、些細な事でこの妻と大喧嘩したのである。私は妻たるもの夫の要求する所を素直に聞き入れるべきだという考え方にちょっと凝り固まっていて、昨日は妻が自分の要求通りにしてくれなかったということで衝突したのであった。
 私が何故、こんな考え方を持っているかと言えば、私の信仰する生長の家の教えに「夫は針、妻は糸」というのがあり、妻たるもの夫の言うことにはハイと素直に従うべきだと思っていたのである。
 しかし、いくら良い教えでもそれにとらわれたら駄目なのである。私は元々、ものごとは本来こうあるべきだという考えが何に対しても又、誰に対しても非常に強く、それでよく人を審いていたものだが、私のこうした心的態度は正義漢っぽいが実は非常に愛薄い心である。何故なら常に人を責め立てているのであるから。
 私はそうした性癖を昨日は妻に対して思い切りぶつけた。そして、それは就寝直前だったから頭が興奮して床に入ってから2時間以上寝付かれなかったのである。しかし、私はこういう時、一切の理屈を捨て、神様に全託することにしている。そして、いつの間にか眠りこけていて、気がついたら朝であった。そして、その目覚めた瞬間、昨日の事は既に解決しているような気がして、同時に妻に本当にすまなかったと反省したので朝、妻と顔を合わせた時、すぐに私の方から謝った。妻はすぐには赦してくれる感じではなかったがそれも当然だろう。
 私は生長の家の人でこんな経験をした人は他にもいると思う。つまり教えはよいのだが、それにとらわれ、人を審き、ひいては自分自身を縛ってしまう人がいるのではないかと思う。しかし、いくらいい教えでも我々人間がそれに縛られてはお終いであくまで生長の家の教えの根本は我々の中に神がいらっしゃるということ即ち人間神の子ということであり、我々が主人公であるということであるから、細かい教えにもとらわれず、自分で判断して、自分で行動したらよいのである。
 私の昨日の間違いは教えの表面的言辞にとらわれ、妻への本当の思いやりに欠けたということである。妻は介護施設で老人の食事を作る仕事の主任を任されており、近頃中々そこも色々大変で悩みを抱えていたようである。そんなこんなで私の要求にも素直に従えない所もあったようであるし、またお互いの意思の疎通に問題があったことも昨日の衝突の原因であった。そうした所を勘案して思いやることが出来なかった自分が悪いし、またこうあるべきだと相手に要求する前に相手は自分の鏡であるから自分の行いと考えを先ず正すべきであると感じた次第である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-04-12 18:22 | 信仰 | Trackback | Comments(0)