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「とらわれない」ということ

 先日の土曜日、またテニスのシングルストーナメントに出た。そして、その日の最後の試合、1-4とリードされた所で私はサーブを打つ時のラケットの引き方とフットワークの使い方が突如ひらめいたのである。

 サーブを打つ際、ラケットを引いて行く時、背中でラケットの先端を回さなくてはならないのだが私はどうしてもそれが出来ていない所があり、それによりサーブの確率と威力が低かったのである。その事はクラブの上級者から指摘されて、自分でも言われた通り練習していた。しかし、その事は頭で分かっただけであり、本当に体で分かっていなかった。しかし、土曜日の試合を全力で戦っている内に、そうすることが本当に効果的であるという事が体で理屈抜きで本能的に分かったのだった。
 それにより、打ち方が改まった事でその場ですぐ、私のサーブの威力が倍増し、相手コートに効果的で早いサービスをたたき込む事が出来るようになり、面白い様にポイントを重ねていった。また、同時にフットワークの使い方も分かった。
 今までシングルスの試合で相手とストロークを打ち合う際、打ち負ける事が多かったのだが足を常に動かしてフットワークを効果的に使う事により威力と正確さのあるストロークを相手に打ち返す事が出来るということもその時に分かり、それから1-4で負けていたスコアを一気に5-5のタイにまで持ち込むことが出来た。
 試合は結局5-6で落としたが、私は遂にテニスのシングルスのやり方を見出したと思って、帰りの車の中で有頂天になった。

 私はもうこれでテニスのシングルスの勝率が飛躍的に上がると思ったので本当に浮き足立って喜んだ。そして翌日の友人とのダブルスのゲームでもけっこう調子が良く、全試合勝利した。
 しかし、その次のテニススクールの練習試合でどうもサーブでラケットを背中に回すことにとらわれてしまい、全然調子が上がらず、戦績は1勝4敗というていたらくであった。

 私はそれからどうも頭が混乱してしまい、良くなったはずのテニスの調子がどうしてしまったのだろうと思った。私は究極のコツを知った以上、もうこの力を手放したくなかった。これでやっと連戦連敗していた相手にも勝てる、テニスのトーナメント会場でも幅を利かせられると思ったからである。
 しかし、そう思えば思うほど、考えがまとまらず、迷いが出て来てしまうのであった。そして、その後、私は次の様な事を悟ったのである。

 我々は経験により色々な事を悟るが、次の瞬間、その悟った事さえも心から放たなくてはならないのである。これは究極の事を悟った、分かったと思ってもいつまでもその事にとらわれていると自己の生命のそのままの自由自在さを失ってしまうからである。
 悟った事はことさら、次からは意識しなくてももう自己の生命は踏まえているのであるから、もう余り、その事に心を引っ掛からせない方がよいのである。

 私はサーブの打ち方のコツの一つにとらわれてしまい、全体の調和した動きがおろそかになり、また相手や飛んでくるボールに対しても注意力が散漫になっていたのだった。
 頭でなく経験により本能的に体で分かった事、悟った事はもうことさらそれ以降意識しなくても体が覚えているのである。だから、その体の自然な動きに任せて、もうその分かったやり方にとらわれない方がよいのである。

 よく、世間でいいこともあんまりとらわれると良くないと言われるが恐らくそれは上記の様な事を指しているのだと思う。
 
 生長の家でも創始者の谷口雅春先生がかつての日本と世界の状況に応じて説かれた事にとらわれて現在の総裁・副総裁の清超先生、雅宣先生の仰る事が雅春先生の仰った事と違うと言って、それを理解しようとしない人がいるが真理というのは一つの形に現れたら後は切って捨てていかなくてはならないのである。
 そうでなければ形にとらわれてしまって形骸化が起こるのである。宇宙の大真理は常に形を表現し、そして次の瞬間、それを自ら壊し、永遠に新しい創造活動を続けて行くのである。
 
堀 浩二
by koujihori | 2005-09-13 12:59 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

信仰について

 私は先日、会社である失敗をしてしまった。
 それはこういうことである。休日である土曜日に会社のキュービクル(受電設備)の管理業者がキュービクル点検の為に夕方4~5時までの一時間、会社の全電源を停電させるということになっており、私はそれを担当者として事前に承知していた。
 しかし、停電したら会社の全パソコンのデータが保存されているサーバーも電源が落ちてしまうことを失念していたので、停電の前日の金曜日に停電に備えて、適切にサーバーの電源を落としておくのを忘れて帰ってしまったのである。

 サーバーは常時、電源が入っているものであり、それが停電になれば電源が落ちる訳だが、正しい手順で電源を落とすならともかく、停電のような乱暴な電源の落ち方をするとそれが元でサーバーに蓄えられた全データが消失してしまう可能性もなくはないのである。
 それが分かったのが停電予定の土曜日の夜、自宅でくつろいでいた時であり、それは既にもう会社で停電の処置が取られた後であった。
 私は焦った。もしかしたら最悪の場合、私のミスでこの何十年の会社の技術的情報その他の大事な情報がパーになっているかも知れないからである。サーバーのデータは毎日、自動バックアップで保存されているのであり、また、停電で電源が落ちたからと言って、サーバー内のデータがそう簡単に駄目にはならないだろうとは思ったが、それでも最悪の事態が頭をかすめ、恐怖心が出て来た。
 私は居ても立ってもいられなくなり、会社のサーバーが大丈夫かどうか今すぐにでも会社に行って確認したい衝動に駆られたのである。しかし、私は思いとどまった。そんな風に自分が安心する為に自分の外に安心する為の証拠を求めるという行為は間違っていると思ったからである。
 
 本当の信仰は全ての全てが自分の中にあるという事を信じ、その通り実行することであり、自分が不安だからと言って、自分が安心する為の証拠を外に求めるようではいけないのである。  私は全てを神様にお任せし、自分と会社に取って、悪いことは断じて起こらないという信念を持ち直し、土日はそのままにして他のやるべきことをずんずん進めていった。
 そして月曜日の朝、会社に来てみたら、問題のサーバーは電源が入り、何の異常もなく正常に稼働し、大切なデータも無事であった。電源は日曜出勤していたある社員の人が適切に入れ直してくれたということである。

 信仰している人の中には普段は私は神を信じていますとか言っておきながら、いざという時はそんな信仰は全て吹っ飛んでしまって、狼狽する人がいるが、それは自分の中に神の国があるという事を忘れた信仰であるからなのである。尊い頼るべきものは自分の外にあると思い、それにすがるような信仰だから、何か大変な事態に陥った場合、自分に自信を持つことが出来ず、自分の外に救いを求めて、狼狽するのである。

 本当の信仰は自分の中に全ての全てがあり、神の国があり、他に何ものも頼る必要はないというものである。そういう信仰であれば、この世界は自分の認識が映っている世界であるから、その自分の確固とした信念が外界にも反映し、トラブルの起こらない全てが行き届いた平和で安定した世界が展開するのである。
 生長の家の信仰が実はそういうものであって、生長の家では人間は一人一人が神の子であって、それが完全円満の素晴らしい生命であると説き、それを礼拝するのである。だから生長の家では特にご本尊なんてものはなく、あるとすればそれは我々人間一人一人の中にあると説くのである。だから、生長の家での挨拶は「有り難う御座います」であり、それはお互いの尊い生命の実相こそが拝む対象であるということを意味しているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-09-05 12:18 | 信仰 | Trackback | Comments(3)

解脱について

  皆さんは「解脱(げだつ)」という言葉を聞いたことがあるだろう。かつてのオウム真理教の教祖とされる麻原彰晃は自らを最終解脱者とか称していたが、逮捕される時、お金を抱えてねぐらに潜んでいたなんてのは解脱者とは言わないのである。

 解脱するという事は悟るという事と同義である。解脱とは文字通り、解(ときはなつこと)脱(だっすること)であり、それは肉体からの解放を意味しているのである。
 肉体に対する執着を捨て、これを投げ捨てるということが解脱するという事である。肉体というのは物質であり、物質であるから有限である。有限のものに心を引っ掛からせ、執着していては、それは自らの魂を肉体という有限のものに縛り付けることになるから、自縄自縛になり、苦しいのである。
 しかし、肉体に対する執着を捨て、それを投げ打つということは肉体からの解放となり、そこには真の自由と法悦がある。

 しかし、肉体を投げ打つと言っても実際に肉体を投げ打って、肉体を滅ぼしてしまうということではもちろんない。肉体はそのままで肉体に対する執着を捨て、心を引っ掛からせないということである。肉体の執着を捨てれば、却って肉体は健全に働くようになる。病気なんかも治るのである。
 肉体に対する執着はどうしたら捨てられるかと言ったら、その基礎となるのはこの肉体はあるように見えて、実は存在しないという真理に目覚める事である。肉体や物質は本当の生命の現れであって、真実の存在ではなく影のようなものであるという真理を悟ることである。そして「肉体ナシ!」と肉体をこのままで現象的に滅ぼすことなく、心で滅ぼしてしまうのである。それが肉体に対する執着を捨てるということである。

 あなたに何となく不安や恐怖や苦悩があるのは肉体に執着しているからである。肉体をアルと思って、それを保とう、良くしようと心が肉体にからみついているとそれが自縄自縛となるから苦しいのである。それが保身であり、保身の心ある者は常に恐怖と苦悩がつきまとうのである。
 肉体ナシと観じて、肉体を心で放下すべし。それが解脱という事であり、魂の解放という事であり、悟りを啓くという事である。

 大東亜戦争(太平洋戦争)中、日本軍の神風特攻隊など祖国日本を守る為に自らの肉体を捧げた方達は急速に魂が向上し、解脱された方達である。
 生長の家創始者谷口雅春先生はこういう人達は死後、天界という最高の霊界に生まれ変わっているのであると教えてくださっている。

堀 浩二
by koujihori | 2005-09-01 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

天分を生きる

 人間にはそれぞれ神から与えられた天分があるのである。
 人間は本来無限力であり、どんな才能も内に秘めており、何でも出来るのであるが、一つの人生で発揮される天分というのはある程度、限定されており、それは人それぞれ異なるのである。
 それは人間は神に生かされているのであり、その神から与えられた役割、個性というものが、我々一人一人にあるのであり、その役割、個性に応じた能力を出して、それぞれが社会、人類全体に貢献するようになっているからである。

 私を例に上げると私は神の子であり、実相は完全円満であり、潜在的に無限の力を持っているのであるから、それを自覚し、努力、訓練していけば、およそ何でも出来るのである。だから、自分としては子供の頃、余り慣れ親しんでいなかった球技に二十歳を過ぎてから色々挑戦しているのだが、それでも子供の頃からやって来た人には力が及ばず、たまにPTAなんかの野球やソフトボールの試合などでもレギュラーになれず、ベンチでスコアブックをつけたり、チームのまとめ役をやったりしているのである。
 私もその気になれば、スポーツは上手に出来るはずであり、実際ある程度、出来るが、やはり、そこで人より力を発揮するということよりもチームのまとめ役とかお世話係とかに力を発揮するということの方が私の今生における神から与えられた天分であるから、どうしてもそういう役回りになるのである。

 その事が我々は神から生かされているという事であり、一人一人神から与えられた使命、役割を生きて、人類に貢献するという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2005-08-31 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

罪は赦される(2)

 幸福をつかもうとすると幸福は逃げて行く。我々はただ神に生かされているのである。今、生かされている事を悦ぶべし。
 我々は今、神に祝福されて、生かされているのである。それを正に認めるべし。自分はまだ、そんな資格は無いなんて謙遜、遠慮するなかれ。そんな謙遜は却って、神に対する冒涜である。神は罪を全部、赦して下さっているのである。
 
 心の底から腐った悪党は別として、善人と言われる人の中には自分はあの時、こんな罪を犯した、あんな悪いことをしたと思って、自分を責め続ける人がいるのである。
 そして、こんな罪を犯した罪深い自分は到底神に赦される資格がないと思っているのである。そして、自力で何とか罪を消そう、贖おうとして、潜在意識で自己処罰して自分を病気にしたり、悲惨な事故に遭遇させたりするのである。
 
 しかし、現象の奥の神に作られたそのままの世界において、罪は神が全部、消して下さっているのである。何故なら神は全宇宙に拡がる無限の光そのものであるから罪という闇を一瞬の内に悉く、焼き尽くしてしまうからである。
 だから、現象的に我らにどんな罪が見えていようともその奥の本当の世界、実相においては罪は神により消されている。

 この現象世界は我々の心、認識が映っている世界であるから、現象の奥の本来の世界、実相世界には罪や悪がないのにそれを心の眼で観ないで、現象だけ見ておれば、罪がある、悪があると認識するその心が映って現象に色々の罪や悪の映像が出て来るのである。
 そして、それを実在する世界だと思うように我々の脳髄は作られているのであるから、自分も他人も過去においてあんな罪を犯した、こんな悪いことをしたと心で握っているのである。

 本来の世界では全ての罪が赦されて、罪人なんて自分を含めて誰もいないのに自分は罪を犯した、あいつも罪を犯した、こんな罪深い者は到底、神に赦される資格なんてないんだと思い、そうである以上は自力で何とか幸福をつかもう、罪を消そうと色々焦って、努力するのであるが、いくらやってもその元々、罪がある、罪ある者は罰せられなければならないという認識通り、自分を不幸にして行くのである。

 そうではなくて、神により全ての罪が消されて、神に生かされ、祝福され、完全に幸福にして頂いているのが正に本当に自分であり、それは今、ここにあるのである。それが本当の姿、実相であるのに自分はそんな資格はない、自分は神に赦される存在じゃない、罪はある、悪はあるなんていうのは神の宇宙に拡がる無限の完全円満さを疑い、それを拒絶するというこの上ない傲慢さがあるのである。

 それは借金を借り主から帳消しにして上げると言われているのに、その好意を受けないでいつまでも借金が返せていない自分を責め続け、病気になる人と似ている。

堀 浩二
by koujihori | 2005-08-30 12:25 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

人を赦すこと

私は先日、ある会である人から大変、無礼な扱いを受け、私は表面は取り繕ったが内心大変憤慨し、家に帰ってその怒りを妻にぶちまけた。
 明日になったらこの会の責任者に注意の電話を入れてやろうとか思いながら、むしゃくしゃしながら就寝したのである。
 しかし翌朝になってみると、どうも体調が悪いことに気が付いたのである。昨日の精神の乱れをそのまま引きづっている感じであった。
  その時、私は自分の考え方の間違いに気が付いたのである。

 自分が如何に理不尽な扱いを受けたからと言って、それに対して憤慨し続けるならば自分を傷付けることになるのである。
 人を赦すことが大事である。他人が真理にかなわない事をしているからといってそれを良くしてやろうとして、その悪をつかみ、非難するという事をしても、非難された相手は決して良くならないのである。何故なら、こちらに相手の悪をつかむ心があり、相手も悪を指摘されることで自分はこんなに悪い者だと思うから、認識すれば、現れるの法則により、その相手の悪は決して無くならないのである。

 相手の悪をつかむ心は自分の精神をかき乱し、自分の脳髄にストレスを溜め、脳細胞、脳神経を破壊し、判断力、記憶力を減退させ、不安の心を強くさせる。
 相手の悪が見えるのはこちらに人間にはこういう悪があるという自分の心が映っているのである。相手を良くしたいのなら、相手の悪を見ずに、相手の良い面、即ちその人の内の善なる真の姿、本来の神の子の姿のみを心の眼で観るのでなくてはならない。
 その上でその場、その場でインスピレーション的に相手に適切な注意を与えてもよい。しかし、それは相手の悪を認めて、言っているのではなく、相手の悪は本来の姿ではないと悪を否定し、相手の表面の仮の姿である悪の奥に神に作られたままの善なる姿を肯定する心で言わなくてはならない。

 私はこういう人を赦す心になった時、私に非礼な行いをしたその人物も何故、そんなことをするのかということが何となく分かって来たのである。それはこの人は寂しいだけだったのだと思い、根は悪い人ではないんだと思ったら相手を批判する心も薄れていった。

堀 浩二
by koujihori | 2005-08-26 08:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

良薬、口ににがし(2)

 前々回、人生は学校であるということを書いた。我々はその様にこの人生で一つ一つ学んでいるのである。
 そして、本当に学ぶということはそれは厳しいことである。甘い環境でノラクラしても大した学びは出来るものではない。厳しい環境、厳しい問題において我々の魂は飛躍的に伸びるのである。
 真に学ぶということはどういう事かと言ったら、単に知識的に真理はこうだと学ぶことではない。それは体験として、魂で学ぶということである。それにはどうしても失敗体験ということが大事になって来る。
 
 スポーツ、例えばテニスでは正しい効果的なフォームで打たなくてはならないが、その正しいフォームはどうやって身に付くかと言ったら、人から正しいフォームはこうだと言われて、その通り素振りで反復練習していれば本当に自分のものになるかと言ったら、あながちそうでもないのである。
 もちろん、反復練習は大事ではあるが、本当にその正しいフォームで自然に打てるようになる為には試合中、何も考えないで、今までの自分のやり方で思い切ってやって行く中でそれまでの打ち方、やり方ではどうにもうまくいかないという失敗体験をして、その時、初めてかつて先生から教わったやり方が大きなヒントとなって、正しいフォームを何となくインスピレーション的に体感した瞬間、「これだ!」と思って初めて自分の個性にあった効果的で正しいフォーム、打ち方が自分のものとして出て来るのである。

 同様に人生において、色々生長の家のような正しい信仰団体で説かれている真理を学ぶ場合、それをただ本で読んで「ああ、そうか。」なんて言っているだけでは自分のものになっていないのである。
 我々は自分の人生の中で体験して、失敗して、痛い目を見て、そこで初めて、生長の家で言っている人間神の子、無限力ということが「本当にそうだな」と肌で実感して、分かるのである。

 その為にはただ、のらくらして安易な道を歩もうという考え方では駄目なのである。この人生学校の中で自分に課題として巡ってきたことに対して、逃げないで真正面から取り組むということが不可欠である。
 「良薬、口ににがし」である。自分に取って、最も恥をかき、惨めな思いをして、実感した経験がその時の自分に取って、最も大切な素晴らしい事を理屈ではなく実感で教えてくれているのであり、自分に取って、最もきつく、厳しく感じられる課題の奥にその時の自分に取って最も必要で大切な生きた教訓が秘められているのである。
 そして、我々は人生学校の中で失敗体験をする中で本当の真理を体得するのであるから、失敗した自分を厳しく指摘してくれる相手というのは自分の間違っている部分を自分に如実に実感させてくれる相手であるから、その人は自分に大切な真理を教えてくれる恩人であるということになる。だから、この人生で本当の不幸、困ったこと、いやな人なんていないのであり、全て、その仮面をはげば、自分の可能性を引き出し、応援してくれる味方である。
 我々は実相においては既に無限に素晴らしい、既に悟っている神の生命であるから、自分が本当に間違っていたと心の底から実感すれば、間違っていた、うその自分が目覚め、悟った自分が出て来るのである。それが人生における学びである。
 だから、自分に与えられた課題に対して、苦手だから、恐ろしいからという事で逃げ回っていては駄目である。
 その恐ろしいと思っている課題や相手に対して顔を背けず、逃げずに真正面からぶつかって行けば、必ず自分の可能性を引き出せるのである。そして、その恐ろしい相手、困難で厳しい問題、課題の奥の本当の顔は神様のやさしい、やさしいお顔であったという事に気が付くのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-21 16:08 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

良薬、口ににがし

  人生は我々の魂の修業の学校になっているのである。我々は単なる肉体という物質的存在に過ぎないものであるならば、この人生が魂の修業の場なんて考えは出て来ない。長生きしてたかだか80年とか90年の長さの人生を生きても死んでそれで終わりなら、出来るだけ楽をしてずるをして悪いことをして肉体の快楽を貪って生きおおせた方が得だからである。

 しかし、我々は肉体の奥に霊なる永遠不滅の神なる魂を持っている、というかそういう霊なる存在が我々の本体である。そして、その霊なる本体である魂が徐々に生長して、その内在の無限の素晴らしさ、完全円満さを徐々にこの現象世界に表現させて行くのが我々の人生であり、それは我々の完全円満さの表現の場であると共に我々の魂の修業の場である。それを人生学校というのである。

 そして、この人生で一見不幸みたいに見えるものは具体的な不幸ではなくて、これ全て我々の魂の修業の為の教材である。それは我々の外から来る具体的な不幸ではなくて、そもそも無限生長を欲する我々自身の奥底の心が造り出した問題である。だから、それは自分の魂の修業の為に丁度いいレベルの問題を造るのである。従って、この人生で出て来る問題はこれ全て我々に解決可能な問題だけなのである。これを称して、生長の家では「神様は決して解決出来ない問題を与え給わない。」と言っているのである。

 決して解決出来ない問題は出て来ないということは我々は何か問題が出て来た時に「もう駄目だ」とあきらめて、投げ出したり、それから逃げたりしなければいつかは必ずその自分に与えられた課題を解決出来るということである。
 出来ないのは出来ないと勝手に判断して、自分の問題から自ら逃げ出した時だけである。

 我々は人生上でつらいこと、恐ろしくて逃げ出したいこと等が出て来ることがあるかも知れない。
 しかし、こういう時こそ向上のチャンスなのである。その奥に無限に素晴らしい宝物が控えているのである。それは例外なくそうである。

 我々は何かの向上とかを目指して一つことを頑張っていて、毎日練習とか訓練を繰り返していても一向にうだつの上がらない状態が続くことがあるのである。
 スポーツや武道やその他何らかの道を目指して頑張っていても全然それが目に見える成果に結びつかないことがある。生長の家をやっている人なんかもそういう人がいると思う。一所懸命生長の家をやってもやっても悟れないとか不幸や病気が無くならないとかと思っている生長の家の人もけっこういるのではないだろうか。

 人生は学校であり、魂の修業の場であるが、それは単なる反復練習をしていればすぐにそれが直接、生長や成果に結びつくというような単純なものではないのである。それどころかやればやるほど分からなくなる、へたになるということもおうおうとしてあるのである。
 しかし、そうした中でも努力をたゆみなく継続していく中でぽっと突き抜けることがある。何らかのきっかけで本物をつかむのである。それが悟りであり解脱である。本物の既に素晴らしい、完全円満なる我々人間の実相が直接出て来るのである。
 そうなったら後はそのままでどんどん目に見える成果が出て、かつどんどん生長、進歩するものである。
 そういう本物を探し当て、飛躍的に進歩生長する直前は「丑三つ時は一層暗い」のことわざにあるように努力を継続する中で一番絶望的になる時である。もう駄目だと絶望的になって、努力を放棄したくなる瞬間であり、ものごとに真正面から立ち向かう勇気が失せて、逃げ出したくなる瞬間である。

 しかし、つらい思いをしてみじめな気持ち、絶望的な気持ちになる時はその奥にとても重要な真理を秘めているものである。そうした中で努力を継続して逃げないで自分が恐ろしいと思っているものに対して真正面から向き合って、立ち向かって行くことで、そこに無上に素晴らしい真理、悦びを見出し、魂は飛躍的に進歩する。

 「良薬口ににがし」である。自分がつらい目にあった時こそ、自分を最も進歩向上させてくれる教訓がそのつらい体験の中に潜んでいるのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-18 20:57 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

行動は結果である。

 家庭内の内輪の話で恥ずかしいが先日、家内と大喧嘩した。喧嘩というよりも今回は私が一方的に怒り狂ったのである。原因はプライベートな事なのでここでは披露出来ない。要するに家内が私の言う通りにしてくれなかったのである。

 私は余り感情を爆発させて怒ると却ってストレスが溜まるということを知っているからなるべく怒らない様にしている。会社でも以前ほど怒らなくなって来ている。
 でも家庭内だと気持ちがゆるんだのか今回は恥ずかしながら、尋常ではないほど怒りまくってしまったのである。さすがに家内相手に手を出したり、ものをこわすという所までは行かなかったが。

 私は精神は安静にして心を整える事を心掛けているが、その時の怒り爆発でそれまでのコツコツとした努力が全て吹っ飛んだ。
 それは夜遅くであったのでその後、興奮が収まらず、中々寝付けなかった。テレビを見ながら、午前2時過ぎまで起きていたが、その後、床についても眠れず、その日は殆ど眠れなかった。
 
 私は最初ちょっと後悔した。せっかく今まで精神と頭脳をコントロールして来たのにこんな事をしてしまったと思ったのである。しかし、確かキリストのお言葉だったと思うが、「行動は結果である。」という言葉を思い出したのである。
 人間の運命、その時何を行動するかということは実はその以前に心の世界で既に原型が出来ているのである。心の世界で怒りが溜まり、それを爆発させるという運命が既に出来上がっているならば、それが実際、怒り狂うという結果が出て来ざるを得ないのである。そして、出て来て、実現することで心の世界にあったものが消えてなくなるのである。
 だから、バカなことをしてしまった、罪を犯してしまったということを余り、くよくよ後からくやまない方がよいのである。それはその時の自分が不注意だったのではなく、元々心の世界にあったものが出て来たに過ぎないからである。
 よく、行動を重ねて行くことが心の世界に業として蓄積して行くという事を聞くが逆に、ある行動をしてしまうという事は心の世界にあったその行動の原型(業)の実現したもの、結果であるということも言えるのである。

 その様にあるバカな行動をしてしまう、罪を犯してしまうということも今までの悪業が消える姿、結果であるからそれが出て来たらああこれで悪業が消えたと思って、次からはそんなバカなことをしないと反省して、それ以上はその愚かな行動を犯した自分を責めすぎないでいるがよいのである。
 それなのに自分はこういう罪を犯してしまったといつまでもその過ぎた事に心を引っ掛からせ、ちまちま悩み、後悔し続けるならば、また心の世界にそうしたバカな事をするという業を作る事になり、またそれがいつかは爆発して同じ様な過ちを犯してしまう事にもなるのであり、そこでまた悩むとまたその行動の業を作ることになり、そうなるとそれが果てしもない悪循環になってしまうのである。それを業の流転というのである。

 そして、こうしたトラブルがあった時は出て来たトラブルが何を自分に教えてくれているかということを冷静に考えるがよいのである。
 相手は自分の心の影であるから自分を憤慨させるような事をする相手というのは自分の心の姿を映しているのであり、自分もかつて誰かに同じ様な憤慨させる事をしたに違いないのである。今回は相手がそうした自分の姿を演じてくれる事により、如実に相手が自分の至らない点を教えてくれたのだと思って相手を悪い人間だと思わないで感謝すればよいのである。
 そして、後は神様に全託すればよいのである。そうしたら悪業の流転は消え、問題は解決し、更にお互いの人格が向上し、我々の完全円満の実相がより顕現するのである。

 家内と喧嘩したのが3日前であるが今はすっかり、よりお互いの絆が深くなった気がする。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-17 22:27 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

心でつくる世界

 私はこのお盆休みを利用して家族と愛知の万博に行って来た。
 愛知博は色々の見せ場があり、それぞれそれなりに楽しめるが私が特にいいと思ったのが日本館である。その中でもこれはと思ったのが、プラネタリウム型の巨大スクリーン映像である。
 それは部屋全体が大きなプラネタリウムの様な球体になっていて、その球体の内部に観客が入って、球体の内側全体に映し出されている全方位型のスクリーンを眺めるのである。
 その映像効果により観客自身が数十メートルの高さまで空高く舞い上がったり、海中に飛び込んだりするような錯覚を起こさしめるのである。

 観客自身はそのドームの中央に直立していて、周囲の立体スクリーンが動いているだけなのだが、観客には周囲が固定していて自分自身が空中に高く舞い上がったり、落下したりするように感じるというものである。

 私はこのスクリーン映像を体験している時、正に我々は普段の生活もこれと同じ様な体験をしているのではないかと思ったのである。
 
 皆さんの中には映画「マトリックス」をご覧になった方があるだろう。それはコンピュータと人間との戦争を描いた近未来サイエンス・フィクションだが、私はこれは大変、深淵な真理を描いていると思っている。
 この中で描かれていることは近未来においておのれが開発したコンピュータとの戦争に敗れた人類が、コンピュータによりその肉体をコンピュータの支配する世界での動力源として利用されるというものである。
 人間達は一人一人特殊なカプセルに入れられて、その肉体の体液は動力源として、搾取され、利用され、いわば培養された様な状況にあるのだが、その脳髄はコードによりコンピュータにつなげられ、コンピュータがプログラムした仮想現実を見せられて生きている。
 人間達はその仮想現実によりそれぞれがこの21世紀の世界に実際に普通の社会生活を送って生きていると思っているが、実はこれらは全て、コンピュータがプログラムした仮想現実を見ているに過ぎないのであって、本当の人間はカプセルに入れられ、眠らされてコンピュータに利用されているのである。
 そのコンピュータがプログラムした仮想現実世界を「マトリックス」というのである。

 これを大抵の人は単なるSFの物語だと思っていると思うが、実は我々の現実世界はこのマトリックスとほぼ同じと言ってもいいのである。
 こんな事を書くと、読者の方は何をバカなと思うと思う。でも、もうちょっとつきあって欲しい。
 
 我々は五官を通じて、この世界を認識して、生活している。そして五官から受け取った情報を神経系統が電気信号で脳髄に伝えて、そして脳髄が認識して、そこで初めて我々はこの世界の事物を認識している。
 しかしながら我々はこの世界をそのままあるがままに認識しているのではないのである。この世界の本当の姿は皆、実は霧の様なものである。物質には気体、液体、固体とあるがそれはそれを構成する分子の密度によって、気体、液体、固体と別れるということはご存知の通りである。
 その一番密に分子がつまっているはすの固体でさえも、その分子と分子の距離は隔たっており、分子の大きさを一つの天体の大きさに等しいものとすれば、その固体の分子間の距離は宇宙の天体同士の距離以上に隔たっているのだそうである。
 そうなると固体と言えども、その本当の姿は霧みたいなものと言わざるを得ない。それを例えば机なら机と人間が認識するのは人間が脳髄で机というものはこういう個体的形をしていると勝手に認識しているからである。
 机という固体から発する光の波動を我々の視神経という神経系統が受け取って、それを脳髄に伝え、そして、脳髄がその伝わって来た刺激をきっかけとして、そこに机なら机という固体が存在すると認識するのであるが、実はそこには具体的には霧のようなものがあるに過ぎず、それを目で見て、そして手でさわって、机という固体として認識しているのは我々の脳髄が神経系統から入って来た情報を勝手に組み立てて、それを机という堅くて具体的な存在として認識しているに過ぎないのである。

 冒頭で紹介した愛知博のパビリオンで自分の周囲のスクリーンが動くことにより、観客自身が動いたように感じさせるようなスクリーンの刺激により観客の脳髄が勝手に判断して観客自身が動いているように思わせれば、その観客に取っては自分が体験する世界は正にその観客自身が空中に跳ね上がったり、海中に飛び込んだりという世界になるのである。

 だから、人間は自分が信じた通りの世界のみを体験するのである。自分が出来ると思えば出来るし、自分は駄目だと思えば、駄目になって行くのである。そして、この人はいやな人だと認識すればその人が自分に何か言ってきてもそれを全て悪意に受け取るようになるのである。

 近代の医学は人間の病気というものがほぼストレスの継続によって引き起こされるということを立証し、そのことを広く公言し、訴える医者も多くなって来ている。
 人間の病気は心によって起こされるのである。そして、その他、あらゆる問題は心によって起こされる。それはこの世界が実は具体的に存在する世界ではなく、本当に存在する世界はその奥に、中(うち)にある霊的実相世界であり、そこには神が作り給うた完全円満な世界があるだけであり、具体的な問題や悪というものは存在しないのであるが、我々がこの世界には悪があると思って、それに心を引っ掛からせ、心でそれを勝手に認識すれば、悪、問題を心の力で映像として映し出すからである。
 
 だから取り越し苦労しないで、悪を心に描かなければ悪は出て来ない。災難に会いようがないのである。
 それをこういう災難がある、こういう悪がある、こういう不幸があると勝手に取り越し苦労し、それに備えて戦々恐々としていれば、その心が悪や不幸や災難を映像として現象世界に映し出す。それがこの世界の不幸にあえいでいる人達の実状である。

 しかし、それらは皆、自分の心が映し出したいわばマトリックスであって、本来実在しない。ナイのである。そして本当に実在する自分そして本当の自分が住む世界は前述したように完全円満の世界であり、完全円満の自分である。映画「マトリックス」では本当の自分は機械に支配され、搾取され、配線された哀れな肉塊に過ぎないというものであるが、実際に我々が生きているこの本物の世界の本当の我々は完全円満、自由自在、無限力の神なる存在である。
 それを我々の心が認識すれば、この現象世界、現世(うつしよ)の世界にその認識した通りの完全円満で問題が何もない世界が展開する。そうすると病気その他のあらゆる不幸、問題、悩みが自分の周囲の世界から消え去るのである。

 それを伝えているのが生長の家の人類光明化運動であり、国際平和信仰運動である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-15 23:02 | 信仰 | Trackback | Comments(0)