カテゴリ:信仰( 862 )

死ぬ気で生きる

 我々は一瞬一瞬を死ぬ気で生きなければならないのである。スポーツの試合では勝とう、勝とうと勝利という結果に執着すると体が萎縮して、却って試合に勝つ事は出来ない。自分を良くしよう、生きながらえさせようと生に執着すると却って、生を失うのである。

 生きよう、良くなろうと思って、自分の安全、自分の生をつかみ、安全に安全にとせせこましく生きて行く様では却って、生きる事が出来ない。能力を発揮する事は出来ないのである。何をやるにもこわごわと完璧を期して、自分の安全、生命を大事、大事と思って、生きるならば、何も出来ないのである。
 車を運転するにも余りにも慎重になって、もしかしたら人をはねるのではないか、路肩にぶつけるのではないかと戦々恐々とびくびくしながら運転するならば、却って判断力は失われ、スムーズな運転が出来ないのである。
 人に手紙を出すにもこれを確実に相手に届けなければならないと力みすぎるとポストに投函しても投函しなかったのではないかと不安を生じ、郵便局員に確認したくなるような強迫観念に襲われる。そんな事では当たり前の仕事は出来ないのである。
 そんな風に良くしよう、完全にしようとう気持ちが強すぎると却って、全ての事に自信が無くなり、力が発揮されないのである。
 自分が生きているのは自分が生きているのではない。神に生かされているのである。自分の能力が発揮されるのは自分の力によるのではない。神のお力なのである。常に一瞬一瞬、己の身を神に任し、捧げ、おのれを死ぬ気になって生きる時、却って本来の神に生かされた生き生きとした自己の生命力が発現し、素晴らしい力を発揮する事が出来るのである。
 
 現在、大相撲界では横綱は朝青龍というモンゴル人ただ一人で大関には日本人が何人か居るが、いずれも強烈な強さを持っておらず、朝青龍のライバルになりそうなのはこれまた外国人の琴欧州という有様である。日本人の最後の強かった力士は引退した貴乃花であり、それ以降は強い力士は日本人から出ていない。私はこの大相撲界の有り様に戦後の日本人の弱体化が象徴されていると思う。
 大東亜戦争(太平洋戦争)以前の日本人は現在の日本人より遙かに強かったようである。日露戦争では当時世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊を打ち破り、地上戦でもロシア軍は日本兵の強さに手を焼いたそうである。また、大東亜戦争でも物資が尽きてきた後半戦は別として緒戦は英軍、蘭軍に対して、勇猛果敢な日本軍は連戦連勝したのである。
 
 戦後の日本人が何故、弱体化したかと言ったら、個人の権利、ことに人間を肉体と観て、その肉体人間の権利を第一にして、それを大事に守らなくてはならないという思想、風潮がアメリカの押し付けた憲法を中心に日本人全体に行き渡った為である。その為に日本国民が己の人権を第一に考える様になり、それが自分の安全とか肉体生命にしがみつく傾向になったのであり、それが自己保身の弱体精神になったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-01-06 08:39 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

分かってないと分からせてくれる

 私は母のお陰で生長の家の信仰に幼い頃から触れさせて頂き、そして高校生の時に合宿形式で生長の家の真理を学ぶ生長の家高校生練成会に参加してから、真剣に道を求め始めて大学の時に生長の家の活動を始め、現在に至っている。

 そこで自分なりに一所懸命やって来たつもりだが、信仰の神髄が分かっていなかったので、中々大変な思いをした事もある。その様な求道をして行く中でお陰様で私の生涯の師である生長の家宇治別格本山の故榎本恵吾先生に約八年前に巡り会い、その薫陶によって生長の家の神髄に目覚める事が出来た。

 でも、神髄に目覚めたからと言って、それで終わりではなく、そこからまた更に深い求道の日々が続くのである。何故なら真理は無限のものであるからである。
 私は生長の家の神髄を究めた積もりでいたが自分は正しいという思いが相変わらず強く、それで周りの人達を自分の尺度で裁いていた。
 自分はこれだけ正しい事を実行しているという自負は会社においても生長の家の組織においてもまた家庭生活においても強く、それは自信というより尊大な鼻持ちならない傲慢さであったと思う。

 そんな傲慢さがあると会社とか家庭とかで自分から見て、正しい事を実行していない相手がいると歯がゆく感じ、相手を見下し、責める心が沸き立って来るのである。
 でも、それは生長の家の神髄、即ち我(が)というものは本来存在せず、自分が生きているのは自分が偉くて生きているのではなくて、これ全て神様の内側からの生かしによるという事を本当には分かっていない状態であったのである。
 そういう不調和な感謝出来ていない心であるとこの世界は我らの心が作る世界であるから必ず問題が起こって来るのである。私はそういう不遜な心であったので宇治から帰ってきた後も何度となくこうした問題に見舞われた。

 しかし、そうした感謝を忘れた独善的な心により問題が起こって来るからこそ、それにより感謝が大事であるということ、我(が)の力なんて本当に大したものではないこと、他の人には自分にはない良い点が沢山あって、それにより自分は助けられ、生かされているのであるということが如実に分かるのである。

 即ち我々は分かっていなければその自分自身の分かっていない心が作りだした問題により本当の事を分からせて頂けるという事になっているのである。だから、誠に有り難い世界、良くなるしか仕方のない世界に我々は住まわせて頂いているという事になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-12-28 13:05 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

肉欲、物質欲を捨てるということ

 生長の家の聖典「生命の実相」には鶏の話が出て来る。それは鶏を両手でぐっと握って、そして地面に押しつけて、その目の前の地面に白墨で線を引くと、鶏はその目の前の地面に引かれた白墨の線を自分を縛る縄であると勘違いして、人間が手を放した後も、じっと身動き出来ない状態になるのだそうである。

 これは鶏の話で賢い人間様はそんなトリックにかからないと思うかも知れないが、あに図らんや同様のトリックにかかって自分の魂を縛り付け、自ら自由を失っている人はざらにあるのである。
 人間は目の前の白墨の線を実際の縄と勘違いはしないが、肉がアル、現象がアル、物質がアルと思うと、それが自分を縛る縄の様に感じられて、自由自在を失うのである。
 現象というのはただ我々の心が映し出した映像に過ぎないのであって、真に実在するものではないのである。
 
 だから、肉欲にふけったり、金銭欲、物質欲、名誉欲にふけると皆、魂が縛り付けられ、果ては地獄の苦しみを味わうのである。地獄とは具体的に存在する世界ではなく、自ら物質アリと迷いを描いて自己の魂を縛り付けている状態であるのである。
 
 そういう場合は一念発起して、肉ナシ、金銭ナシ、物質ナシ、全てがナイと一刀両断してしまうのが良いのである。そして、真の実在は自分の中にある神の国であるという事を心の眼でじっと観ずるのである。それが所謂、瞑想、神想観というものである。
 その時、自分を縛る障害、縄は消え(ナイーFREE)、魂そのままの自由自在、歓喜勇躍となる。
 そこに肉を追わずとも金銭を追わずとも名誉、地位を追わずともそのまま、今、悦びとなるのである。それが今、ここにある天国浄土、神の国を実感するという事である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-12-22 08:13 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

相手、ものごとの光明面を観るということ

 「全ての人、もの、ことの光明面を観て、暗黒面を観るべからず。」というのが生長の家の信徒行持項目にあるが、それは表面の仮存在である現象を観ないでその奥の真実在であるそのものの実相を観るべしという事なのである。

  我々は現象がアルと思って、それを心につかむと真面目な人ほどそこに理想像即ち神とか実相を求めようとするから、それを良くしようと懸命になるのである。
 良くしよう、良くしようという心はその対象となるものの悪い面を良くしようという心であるから、その相手の悪をどうしても心につかむ事になるのである。その結果、善を実現させたいと強く念願する真面目な人ほど相手とかものとか事の悪を心に描いて相手を審くという事になってしまうのである。

 この現象世界は我々の心が映っている世界であるから我々が相手の悪を心に描いてそれを審いていれば、良くしよう良くしようと懸命に努力しているにも拘わらず、相手は悪くなって行くのである。
 
 そして、余りに良くしよう良くしようと思う心は心の裏ではまだ良くないー悪いと思っているから、そう思えば思うほど心に焦りが出て来て、自分自身が何かをやろうとしても好機を逃してしまい、うまく出来ないのである。

 我々は現象というのは単に我々の心が映っているだけの映像の世界に過ぎないものでそんなものは真実存在しないという事を知り、それをアルとして執着する心を解き放たなくてはならないのである。
 そして既に完全円満なる相手の実相を心の眼で観なくてはならない。生長の家ではその基本として「神想観」という瞑想を勧めている。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-12-16 08:19 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

地獄の真下は極楽である。

 地獄の真下には何があるのであろうか?
 
 ある例え話でこんなのがある。それは地獄に堕ちるまい墜ちるまいとしていてもどんどん地獄にはまってしまう人がもう観念してこのまま墜ちるに任せようと力を抜いて地獄の底を突き破ったのがあにはからんやそこは極楽浄土だったそうである。
 
 ものごとは事態が深刻になって来て、どうにもならなくなって来た時が実は解決が近づいているのである。
 
 私の体験で言えば、私はこの世界には不完全、不幸が充ち満ちでいてそれが救いを必要としていてそれを何とかしなければならないという事を思い詰めすぎて神経衰弱になって夜も全然眠れなくなった事がある。今から8,9年前の事である。
 その時は本当にこの世の地獄と思ったものである。しかし、それは生長の家の神髄即ちこの世界の奥の本当の世界には自分が救わなくてはならない相手即ち、病気の人も貧乏の人も争っている人も一人もそんな不完全な人はおらず、皆、既に救われた、尊い拝むべき仏様ばかりいらっしゃるのであるという真理を如実に悟る為の伏線というか基礎工事であったのである。  
 私はそれらの基礎工事があったればこそ、生長の家の宇治別格本山での榎本恵吾先生の「そのままでよい」というお言葉の意味を如実に感ずる事が出来、自分の中に既に完全円満な神の国があるという事を悟り、同時に全ての人類、全宇宙の実相が既に救う必要のない完全円満なものであったという事を観ずる事が出来たのである。
 正に地獄の底を突き抜けた時、極楽浄土があったのである。

 現在、この日本も目を覆うような幼児殺しの事件が殆ど毎日の様に起こっている。また地球温暖化の為の異常気象が世界を覆い始めている。このままでは我が日本国、人類は累卵の危機の様に見える。しかし、こうした状況になったればこそ、人類が真理、即ち、国益とか物質的利益、経済的利益を超えた本当に大切なものを学ぶまたとない好機が到来して来ていると言えると思う。

 堀 浩二

 
by koujihori | 2005-12-13 17:46 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

捨身について

 「捨身(しゃしん)」という言葉は広辞苑によれば、仏教用語で「修行・報恩の為に身を犠牲にする事、飢えた生物の為に身を投げ出したりすること」とある。

 広辞苑の定義というのはともかくとして、捨身即ちおのれの身を捨てるという事は悟りの極地の姿である。キリストは「人、友の為に命を捨てる。これより大なる愛はなし。」と仰った。生長の家の創始者、谷口雅春先生はこれになぞらえて、「人、国の為に生命を捨てる。これより大なる愛はなし。」と仰って、大東亜戦争(太平洋戦争)中に戦況が悪化した戦争末期、日本国を守る為に敢然と自らの生命を国に捧げた神風特攻隊の若者達を讃えたのであった。

 人間は神の子であり、我らの内に神の国がある。神の国、即ち人類が理想とする楽園というのはこれから人間の努力で少しずつ作られて行くものではなく(現象的にはそうであるが)、現象の奥の真実在の霊の世界では神の国、理想世界が理念として既にここにあるのである。
 それを自覚する事がいわゆる「悟り」である。そして、その悟りを人類に得させる為に神様が既に悟りを啓いた救世主的高級霊を地上に遣わし、それが釈迦となり、キリストとなり、マホメットその他の偉い導師となり、その救世主達が説いた教えが現在の世界三大宗教の仏教、キリスト教、イスラム教その他の尊い教え、宗教となっているのである。

 そして、それら宗教に縁あってふれた修行者達が毎日の修行で求めているものがこの「悟り」である。また、もっと広義で言えば、全ての人類が実はこの悟りを求めて、毎日の生活を送っているのである。本人がそれを自覚するしないにかかわらず。何故ならば、全ての人類は神の子であり、内に完全円満な神の国を蔵しているから、それを求めずにおれないからである。

 そして、人間は何回も生まれ変わり、その悟りを求め、又は深めて行くのである。自分の中に神の子の実相があり、神の国があるという事は生長の家の本を読めば、書いてあるから単なる頭の知識としてそれを得る事は容易である。
 しかし、単に知識として知る事と実感として悟る事はもちろん、全然別である。実感として悟る為には色々の経験を踏み、かつ教えの先駆者を師として仰ぎ、その人、又は団体の元で修行したりする事が大事である。それらの事を地道に長い間かけてやって行く内に自分の中に真理があり、神の国があるという事をこつねんと悟る時が来るのである。

 そして、そのこつねんと実感で悟った真理、自分は神の子であるという事が日を追って、その実感が深まり、生活の中で実際の生き方として出て来るのである。そして、その究極の生き方が正に「捨身」である。自分の事は一切考えない、自分の利益は一切考えない、自分の対面は一切気にしない、即ち結果、現象は一切考えず、与える事だけに徹するという生き方である。

 それこそ法悦の極地であり、無限力の吹き出しである。人間は誰でもこの境地を目指して人生学校を送っているのである。
 そして、大東亜戦争で国に生命を捧げると決意した青年達は一気にこの悟りの極地に到達したのである。鹿児島の知覧という町には大東亜戦争中、神風特別攻撃隊の基地があった。そこで悪化した戦局の中、特攻隊員達は出撃の命令を待っていたのである。
 その中で明日出撃が決まっているという隊員達の写真を私は見た事がある。それは隊員達が数人で子犬と戯れている姿であるがどう見ても明日死ななくてはならないという恐怖も悲壮感もその表情からは読み取れない。どの隊員も本当に済みきった、むしろ明るささえ感じる表情をしているのである。
 それはおのれの肉体を国の為に、故郷の為に捧げる事を決意し、自分が肉体を超えて、もっと大きな存在になるという事を悟った顔である。

堀 浩二
by koujihori | 2005-12-09 08:35 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

型にとらわれてはならない

 以前も似たような事を書いたと思うが、またより深く実感したので書こうと思う事がある。それは如何なる良い事でもそれにとらわれてはならないという事である。それは如何に良い型でもそれに縛られてはならないとも言えると思う。

 私は割合インスピレーション的にこうしたらいいという事を思いつくことがある。それは心の持って行き方とかテニスのやり方とかその他、信仰的な事とか色々ある。それでその分かった時は「これが真理だ。これこそうまいやり方だ。考え方だ。」と思うのであるが、その事ばかり考えてそれにとらわれているといつの間にか他にすきが出来て、失敗してしまうのである。

 例えばテニスでフットワークを常に使っていればいいプレイが出来ると言うことが経験で痛感したとする。それが分かった直後はフットワークを常に気をつけて使う事で確かによいストロークもよいボレーも出来るのであるが、次の機会にいざ試合をしようとした時にその最近分かったフットワークの事ばかり考えているとどこに打ったらいいかとか相手がどの方向に打ってくるかを予測する事とかに対しての注意力が散漫になって結局試合もいい結果が出せないのである。
 何故こんな事になってしまうかと言ったら自由に臨機応変に対応する事を忘れて一つの型にとらわれたからである。
 自分が経験で悟った一つの型は自分に身に付いているから、次からはそう意識しなくても必要な時にその技というか型が自ずと使いこなせるものである。
 
 人間は神の子であり無限力であるがそれは一つの理屈に縛られた事をバカの一つ覚えの様に守っていれば出て来るものではなく、我々の中の無限の生命、智恵、力が状況に応じて自由に臨機応変に色々な技を使い、力を行使する所に出て来るのである。そこには無限の叡智が自分をして直接働くのであり、その知恵を使い、今、何をどうしたらいいかという事を自由自在に考えてやって行くのである。それが神の子無限力という事であり、その無限力が働くという事である。

 だから、如何に良い事でも一つの事、一つの型にとらわれてそれを心で握っていては駄目なのである。
 生長の家は創始者谷口雅春先生の書かれた「生命の実相」を始めとする聖典が沢山ある。そして熱心な信徒は「生命の実相」を熟読し、それを自分の生活の中で寸ぷん違わず実行しようと努力している真面目な人もいるのである。それは道を真剣に求め、実行しようというのであるから素晴らしい尊い事である。しかし、そんな事ではその人は持たないであろうし、その調子で家族も扱われたら家族も大変であろう。

 「生命の実相」の本に書かれた言葉は確かに尊いがそれにとらわれても駄目であって、本当の真理は自分の中にあるという事を自覚しなければならないのである。自分の中に生きた生命の実相があるのである。その生きた生命の実相が臨機応変に自由自在に発現した時、その人は無限の素晴らしさを発現した事になり、悦びと解放に満たされ、周囲の人にも悦びをもたらし、そして結果的にその本人の生き方が「生命の実相」の本に出て来る様な生き方になっているものである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-12-06 12:38 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

人生経験というのは全てにおいて必要か

  我々は人生を送っている。人生を送っていないという人は居ないでしょう。そして、人生には色々あり、その中でいいこともあれば、いやなこともあり、成功することもあれば、失敗することもある。

 我々は肉体を持っているが肉体そのものではなく、肉体は人生を送るための道具であり、宇宙服の様なものである。我々の本体は肉体を超えた、肉体が滅んでも永遠に生き通す所の完全円満なる神の生命である。
 我々は内在的に無限に完全円満な神の生命を宿しており、それは無限次元の存在であるから、そのままでは何ものにも感覚されないものである。従って、その内在の素晴らしさを表現するには縦横厚みの三次元にまで次元を落として、表現されるのである。それがこの人生であり、肉体を持つという事である。
 そして、その肉体を持った人生を通して内在の無限の素晴らしさを表現して行くのであり、それを生長の家では「実相顕現」と呼んでいる。そして、その表現は最初は稚拙な段階から表現して行き、それで色々経験、失敗体験を重ねて行く内に色々な事を学び、徐々にその表現を高度なものにして行くのである。
 それは丁度、無限に才能のある画家が居るとして二次元のキャンバスにその絵の才能を表現するとして、それがまだ駆け出しの画家ならその表現が稚拙だが、何枚も何枚も絵を描く練習をして、失敗をして行く内に段々と絵の技量が上がって来るようなものである。

 その様に人生において様々な人生体験、失敗体験をしている人はそれだけ、色々な事を知っているし、能力も伸ばしているという事になる。
 しかし、そうなると我々の能力は内在されたものは無限であるから、その無限の能力を完全に現して行く為にはあらゆる考えられる限りの人生経験、失敗体験をしなくてはならないという事になる。そして可能性が無限ならそれに近づくのも無限に失敗して行かなくてはならないという事にもなり、そうなるとその人は永遠に失敗し続ける人という事になり、こんなのが無限に素晴らしい神の生命の表現者と言えるだろうか。
 それではいつまで経っても自分が完全であるという自覚にならないのである。

 ここで私の体験を言うと、実は会社の業務で私は社員の給料計算をしているのだが、去年の年末調整の計算の仕方にミスがあった事が今日、税務署からの連絡で判明したのである。それは長年私がやって来た給料の年末調整の計算の基本的な考え方に間違った部分があったからであり、たまたまそれが目に見える形で現れて、税務署から指摘されたから分かったのである。そうなると私は会社の給料計算事務というものについての過ち、迷いがこの失敗経験、体験により、改まり、私の能力がそれだけ伸びたと言える。
 しかし、会社の担当の税理士の女性に聞いたら、私が今回学んだ知識、内容は当然知っていますと言うのである。その人は別にその年末調整の計算の仕方を私の様に失敗経験で学んだ訳ではないのである。即ちこの人の方が私より頭の状態がクリアーであったという事である。だから、失敗経験なんかしなくても先刻承知だということである。

 これはどういう事かと言えば、我々が生長し、能力を伸ばし、おのれの実相の素晴らしさが顕現する為には人生経験のみではなく、自分が始めから完全円満な生命の実相であるという事を悟ってしまえばそれで良いという事なのである。

 私の恩師の榎本恵吾先生がお使いになっていた例えを引用させていただくと暗闇の中でものにつまづいたらそこに何かつまづくものがあるから危険であるという事を学び、二度とそこに近づかないようにしたら安全であるという事が分かったという点ではある意味、進歩があり、生長したと言えるが、そこに明かりを灯し、そのつまづいたものは単なる障害物ではなくて、素晴らしい宝物であったと分かれば、もう自分には障害となるものはなく、あるのはただ宝の山のみであると分かるというのである。

 暗闇に居て、何かにつまづいて、そこに近づかない方が安全であるという事を学ぶというのは人生の中の失敗体験により、こうしたらよい、ああしたら悪いという事を単に学ぶという事である。
 一方、明かりを灯し、そのつまづいたものが単なる障害物ではなく宝の山であったと気が付くのはこの世界の現象の奥の姿、本当にある世界、即ちこの世界の本当の姿は完全円満の善のみの神の国であったという事を信ずる信仰を持つという事である。

 即ち、あらゆる失敗体験を積まなくても自分の肉体の奥の実相はこのままで完全円満の神の生命であるという事を悟れば、今、このまま自分が無限に素晴らしいという事を実感し、全ては完全円満で何も悪いものは無かったと無限の感謝と悦びが出て来て、人生につまづく事なく、失敗する事なく能力をどんどん発揮する事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-11-18 12:49 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

罪は赦される(3)

 現象を見れば、この世は不完全だらけであり、完全で落ち度のない人生を歩んで来た人は先ずいないのではないか?あの時、あんな事をするのじゃなかった、言うのじゃなかったと後悔する事は誰でもあると思う。

 でも、人間はそれらの現象がアルと思って、自分はこれだけの失敗をした、罪を犯したという事に心を引っ掛からせ、自分を責めていても又、同じ様な罪を犯してしまうのである。

 例えば、自分は酒や煙草が体に悪い、悪いと認識していて、それをやめたいやめたいと思っていても、そう思えば思うほど酒や煙草に心がひかれてしまうとか又、過去に女をこれだけ泣かせて来た、これだけ不幸にしてきたという事を後悔し、心を痛めていても、不思議と又、同様に女と恋に陥り、また不幸な結末となり、女を泣かせてしまうのである。

 自分のやって来た事を間違っていたと反省するのは良いが、それにいつまでも心を引っ掛からせ、それを償う為にああしなくちゃならん、こうしなくちゃならんとあくせくして、例えその通りやったとしてもそれでは本当に罪が赦された事にならないのである。
 
本当に罪が赦されるという事は現象はどうあろうともそれは単に自分の心の影であって、真実在ではないと悟り、その奥の真実相の世界では自分は完全円満の神の生命であり、何の罪穢れのナイ存在であったと自覚する事である。
 それを大懺悔という。小懺悔というのは自分はこれだけの失敗を犯しました、あれだけの罪を犯しました、どうぞ赦してくださいというものだが、本当の懺悔、大懺悔というのは現象は心の影であってナイと悟り、本当の自分は未だかつて一度も失敗も罪も犯した事が無い完全円満の神の子であると悟る事である。
 その自覚を得る事が真に罪が赦されるという事である。その自覚になれば自ずと罪に心が惹かれなくなる。そして自ずと女癖が治ったり、酒煙草が止まったりするのである。

 そして、その自覚は現象の奥にある真実の実相世界が始めから完全円満で何の罪も未だかつて一度も犯された事もない、従ってその犠牲になった生命も全然ないという世界を認めるという事である。
 実相の世界では堕胎された胎児も、戦争で虐殺された犠牲者も何もないのであり、そこにいるのは始めから完全円満の少しも傷付けられた事の無い神の子の生命だけである。

 その生命の実相を本当に拝み、そして、それを祝福する所、自ずと現象的にもこの世界が整って来るのである。何故ならばこの現象世界は我々の認識が映っている映し世(現世)であるからである。それこそが罪が真に赦されるという事である。

 戦争は良くないから止めよう、起こさない様にしようという事は普通、誰でも思う事であるが、それでも中々戦争がこの地球上から無くならないのは人類がこの現象が本当にアルと思って、自己に罪あり、罪ある者は罰せられなければならないと自己処罰しているからである。
 9.11のアメリカの同時多発テロでもそれを引き起こしたテロリストに飛行技術を伝授したのは他ならぬアメリカ人自身である。即ちアメリカ人は自分で自分を罰したのである。

 現象は我々の心の影であり、それは真には存在しないのであり、その奥にある霊的実相世界は完全円満であり、未だかつて一度も罪が犯された事もなく、その犠牲になった生命もない世界である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-11-16 15:12 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

皇統について(2)

 前回のブログで皇統を巡る動きが慌ただしくなって来ていると書いた。しかし、それは現象の事であって、実相の立場から観れば、皇統は盤石なものとして何らの危機に瀕しようがないのである。

  本当の皇統、即ち神性は我々の中にある。それを悦んでおれば、我々の自覚の投影である現象の皇統は自ずと盤石なものになる。
 
 今は天の岩戸隠れの時である。こういう時は現象の皇統を慌てて保全しようとしないで我らの中の神性を先ず悦ぶべきである。
 そして、古事記にあるように飲めや歌えで悦びの宴をしウズメノミコトの裸踊りでどっと笑えば良いのである。 その悦びの中から、天照大神がお顔を出されて、現象に実相の光が照らし出され、全ての憂い、矛盾、危機、罪が自ずと雲散霧消し、現象の皇統も自ずと盤石なものとなる。

堀 浩二
by koujihori | 2005-11-09 11:19 | 信仰 | Trackback | Comments(0)