カテゴリ:映画・ドラマ( 10 )

アイシテル(3)

 「アイシテル 海容」というドラマが現在、日本テレビで放映されている。これはここで何度も紹介しているが、小さな子供が小学校高学年の近所の少年にふとしたはずみで殺されてしまうという物語である。
 現在、物語は佳境に入り、今週の水曜日の放映が最終回であるが、元々これはコミックが原作という事なので先日、書店に行って、原作の前編、後編を購入して読んでみた。ドラマと多少異なる面もあるが大筋はドラマ通りであるが、最終回の事はこの番組を私と同様、楽しみにしている人もいるだろうから、ここでは書かないが、要は子供を慈しむ母親の愛情というものが如何に深いか、そして、完全な母親とか父親なんてこの世に居ない事、幼い魂の者は罪を犯した時は事の重大さに気づかないが、心が発達して来るとそれを段々自覚して行くものであるという事である。

 私はこのドラマは吾々人間の家族に対する心の葛藤、そして自分自身の人生に対する心の葛藤を良く描いてはいるが、究極の真理にまでは到達していないと思う。生長の家で教えられるが人間は神の子で完全円満で本来罪が無いが、その実相が余りに奥深く眠っていて、その上にそれを自覚していない心のごもくたがうずたかく積まれていると(それが罪であるが)良心の呵責というものが少しも起こらないで平気で悪い事をして、子供を堕ろしたり、虐待したりする。
 しかし、その人の魂が生長して来て、心のごもくたが無くなってくるとその下にある生命の実相の本来罪無しの自覚が炎となって、その心のごもくたに火をつけ、そこから煙がもうもうと立ち上り、それが煙くてたまらないという事になるがそれが罪の意識であり、良心の呵責である。このドラマはまだその段階の人達のドラマである。それは罪の意識の全く起こらない非人間的な段階よりずっと素晴らしいがそれは究極の境地ではない。

 本当に生命の実相の自覚が表面に出て来て、心のごもくたを完全に燃焼し尽くすと罪の意識や良心の呵責は消え、ただただ神に生かされている悦びで一杯になり、全ての人を真に完全円満の神の生命として拝む事が出来る様になり、自分の過去も一点の曇りも無かった事が実感される。

 それから、このドラマでは我が子への親の愛情の深さというものが良く描かれているがこれも究極の境地ではない。愛する相手が肉体人間としてアルとしては真に相手を本当の意味では愛する事も感謝する事も出来ないのである。キリストは聖母マリアに対して「汝と吾、如何なる関係があろうぞ」と母親であるマリアを突き放している。真の愛情は相手を解き放つ事であるとはこれも生長の家の教えである。 

 親はナイ。妻もナイ。子もナイ。全ては自分の心の生み出した映像に過ぎない。そんなものをアルとして愛そうとしたり、感謝しようとしても無理である。その自覚が徹底する所、却って、親に感謝出来、妻を子を一層愛せるのである。それは吾が内なる神の国の住人である親であり、妻であり、子である。

堀 浩二
by koujihori | 2009-06-15 12:35 | 映画・ドラマ | Trackback(4) | Comments(4)

アイシテル(2)

 先日もちょっと紹介したが現在、日本テレビ「アイシテル 海容」を毎週欠かさず観ている。これはごく普通の家庭の小学5年生の男の子がちょっとしたはずみで近所の小学二年生の男の子を殺害してしまうというドラマである。
 事件後、加害者の少年は少年鑑別所から児童自立支援センターに送られるが、その間の加害者と被害者の両親の心の葛藤が現在の所、良く描かれている。最終回は来週で結末は私は知らないが(何でもコミックが原作だそうでそれで物語の全容は分かるらしい)、昨日の被害者の母親のセリフでこんなのがあった。それは「母親なんて割の合わない役割だと思います。私があの日(被害者の子が殺された日)、友人と無駄話しないでたった15分早く帰っていれば清貴(被害者の子)は殺されなくて済んだのです。私がそれまで清貴の為に何万時間も頑張って来たのが、あのたった15分の為に全てが帳消しになったんです。」というものである。
 そして、それは加害者の母親も同様であり、自分があの時、息子(加害者の子)の訴えを優しく受け入れていれば、あんな事件は息子は犯さなかったと言って、いつまでも後悔の涙にくれているのである。それは被害者の母親が言っていた様にこの二人の母親は丁度、お互い、鏡を見ている位、似通っているというのである。
 人間は普段はそんなに気に止めないが、こうして肉親が死んだりすると加害者はもちろん、本来何も責任の無い被害者の家族も「あの時、自分がああしていれば、又はああしなければ、誰々ちゃんは死なずに済んだのに」なんて考える様である。

 しかし、これは全て、この人生を神の生であるという事を知らない所から来るのである。神という完全円満の無限の存在ではなくて、自分という小さな我(が)が生きていると思うものだから、常に注意して間違いの無い人生を生きなくてはならないが、そういう人生はこの被害者の母親の様にちょっとしたミスで転落する事もあり得るという事になってしまうのである。
 全ては神により、保全される。吾々が生きているのは吾々が生きているのではなくて、神が生きているのである。ということは過去においても吾々が生きてきた様で実は神が生きてきたのである。それをそう思わないで自分が生きている、生きてきたと思うものだから、ちょっとした間違いで人生を誤り、取り返しのつかない事になったなんて思うのである。 しかし、それは全て、迷いであり、心の歪みであるから、自分の間違いで人生から転落したとか取り返しのつかない事をしてしまったなんて言うのは自己の心の歪みから来る錯覚であり、夢に過ぎないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-06-11 12:28 | 映画・ドラマ | Trackback(1) | Comments(2)

アイシテル

 今春から新しく始まったドラマで「アイシテル」というドラマがある。日本テレビ放送で時間帯は水曜夜10時である。主演は稲森いずみ、田中美佐子等が演じている。ストーリーは稲森演ずる主婦の長男(小学校5年生)が近所の子供(小学校1年生)を殺してしまうという所からスタートする。
 稲森演ずる主婦の一家というのは夫はエリートサラリーマンで一人息子であり、その主婦は子育ての為に専業主婦となり、一所懸命子育てに専念して、子供を塾に通わせ、中学受験も目指しており、恵まれたごく普通の幸せな家庭であった。しかし、突然、息子が殺人を犯し、警察に補導され、それがマスコミに知れ、住まいであるマンションには連日報道陣が押しかけ、近所からは窓ガラスを割られたり、人殺し等の落書きを玄関にされたりした。夫は勤務先から自宅待機する様に言われ、現在進めているプロジェクトからは外され、一家は一瞬にして絶望のどん底に突き落とされたのである。

 稲森演ずる母親は今まで、子育てにやっきになって塾とかそんな事に通わせる事ばかり考えて、自分は本当に我が子の気持ちが分かっていなかったのではと悩むのである。そして、意を決して鑑別所に収監されている息子と面会に行くが、そこで息子にすげなく、拒絶される。しかし、その一方、息子の担任の先生から息子が本当に優しい生徒であった事、そして、息子の作文からも母親の事を慕っていた事等聞かされもした。
 そうした中、その息子が田中美佐子演ずる鑑別所の調査官の女性にある告白をする。それはその殺人があった日、偶然、その被害者の子供の家の前を通った彼が、家が鍵が閉まっていて入れず、トイレにも行けないで困っていたその被害者の子を親切心から自分の家のトイレを貸してあげたという事である。そして、それから事件が起こってしまうのだが、そこから先はその加害者の子が思い出そうとすると苦しくなって頭を抱えてしまったので話はそれまでになった。

 このドラマはまだ始まったばかりで私もこの先、ストーリーがどう展開するか全く知らない。しかし、私が推測するに(この推測はまず間違いないと思う)この加害者の子供は殺そうと思って、被害者の子を殺したのではないと思う。この加害者の子供は殺人をする様な冷酷非道な子ではなくて、トイレに行けなくて困っていた子に自宅のトイレを貸そうという様な親切な愛深い子なのである。被害者の子が死んだのは何らかの事故によるものだろう。それを加害者の子は自分が殺したと何故か思いこんでいるのだと思う。

 私はこのドラマからある真理を思うのである。それはこの世界はこのままで完全円満の世界であると言う事である。生長の家の教えは実相世界即ち本当にある世界は完全円満であり、一人の罪人も悪も病気も災難も戦争も無い世界であるという事である。そして、それはどこにあり、何時の事かと言えば、今、ここ吾々が住んでいる世界がそのまま実相世界である。現象世界というのはその今、ここにある実相世界を吾々がどう認識するかの世界である。吾等が今、ここにある完全円満の世界を認めず、おのれの認識が歪んでいるならば本来、完全円満の世界が罪や殺人や病気等その他、色々の災いがある様に見えるのである。しかし、それは吾等の錯覚であり、全ての人は今、そのままで救われている完全円満の世界がここにあるばかりである。
 前述の稲森演ずる主婦は単に息子が殺人犯であるという夢を見ているだけであり、本当の世界は息子は母親思い、友達思いの良い子であるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2009-04-30 12:36 | 映画・ドラマ | Trackback(3) | Comments(2)

真理こそが感動を与える

 NHK大河ドラマ「篤姫」の事を先週、書いたが、又、書こうと思う。昨日、いつもの様に「篤姫」を観た。昨日は私が所属している相愛会総連の忘年会であったので、放送時間までに帰宅出来そうもないので、録画して観た。
 昨日は徳川方の官軍への江戸城明け渡しの場面であり、篤姫や和宮が江戸城を去るシーンをやっていた。篤姫は江戸城を出た後、一旦、江戸の一橋邸に入ったが、そこへ幼なじみの小松帯刀が訪ねて来るのである。
 そして、小松は篤姫に自分が実は篤姫を慕っていたこと、そして、もし、薩摩藩主、島津斉彰の命を受け、その養女にならなかったら、自分が求婚したら、それを受けてくれたかどうかを訪ねたのである。そうしたら、篤姫はびっくりして、そして、ちょっと間を空けて「それは亡き夫である家定様の許可を得てから返答しとうございます。」と答えたのである。
 私はまたもや目が潤んでしまった。篤姫も小松帯刀の事はほのかに慕っていたであろう事はドラマの展開から明らかであるが、それをあからさまにせず、亡き夫への愛と操を第一にしての答えであった。これは本当に素晴らしい返答だと思う。
 世の中では不倫だ、浮気だという話が横行しているが、夫婦の愛こそがこの世で最も切実な愛を実現させる為のものであるとは生長の家の教えの通りであり、そして、それこそが真理であるのである。
 そして、その純粋な一途な愛を貫く事こそが本当に人生に感動を与え、真の悦びと美しさを花開かせる事になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-12-08 12:32 | 映画・ドラマ | Trackback(3) | Comments(7)

篤姫

 私はNHK大河ドラマ「篤姫」を毎週観ている。これは今までの大河ドラマと比べても格別面白いと思う。大げさでなくて、私は毎回、目を潤ませながら観ているのである。

 篤姫というのは江戸時代の末期の江戸城大奥、最後の実力者であり、徳川幕府第十三代将軍、徳川家定の正室であり、第十四代将軍の家茂を育て、そして、その最大の功績は明治維新の際の江戸城無血開城に家茂の正室である和宮と共に大いに貢献した事である。

 かつて、古今東西の歴史の中で革命がほぼ平和理に成し遂げられたのはこの明治維新の時だけであるとされていて、それは歴史の表舞台では官軍側の西郷隆盛と徳川方の勝海舟の話し合いにより為されたのであるが、篤姫や和宮が朝廷や薩摩に徳川慶喜の助命嘆願書を出した事がその背景として大きな働きをしたとされている。

 さて、このドラマ「篤姫」は毎回、本当に感動的なのだが、原作者の宮尾登美子氏は実際の篤姫はそんな美談通りの人ではないと発言していた様だし、又、色々な歴史の裏話ではこの篤姫に関して、色々な謀略を企てたとか実は勝海舟と愛人関係にあったとか言われている。
 私はこうした歴史の裏にある陰謀説には割合、興味があるし、又、篤姫が薩摩から徳川家に嫁いで徳川家定の正室になったのは実は薩摩藩主、島津斉彰の密命を受けての事である等の事実から鑑みて、こうした謀略説、不倫説もあり得る事だと思うようにもなっていた。そういう目でドラマ「篤姫」を観ると、ちょっと興ざめという感じもあった。
 しかし、私はそんな歴史的裏話、謀略説などどうでも良いと昨日、いつものように「篤姫」を観ながら、思ったのである。昨日は丁度「江戸城無血開城」のシーンであり、勝海舟が西郷隆盛と交渉して、江戸城無血開城を成し遂げた場面をやっていたが、その背景として、篤姫の何としても徳川家を存続させたいという思いが如何に深いものであるか、そして、その背景となっているのが亡き夫である家定の「城など無くなっても、そなた(篤姫)のいる場所が徳川家である」という思いであり、それを強力に推し進めたのが薩摩出身という事よりも徳川家の嫁として一生を全うしようという篤姫の堅い決意であったというあたりがドラマで非常に良く描かれていた。

 私はこれこそが真実であると思った。要するに真実とは歴史的に現象的に実はこうだった、などというものではなくて、我々の心の中にある「この事こそが理想であり、美しい事である」という思いこそが本当の真実であり、真理であり、実在する事なのである。

 それは古事記、日本書紀という神話が日本国の真の姿であるというのと同じである。谷口雅春先生は日本民族の心に描かれた神話こそが本当の日本の姿であり、これこそが真に実在する世界であると仰られたが、正に真実の実在とは我々の中ににある神の国、理想の事であるのである。


堀 浩二
by koujihori | 2008-12-01 13:24 | 映画・ドラマ | Trackback | Comments(11)

信仰が必要

 10年前の学園ドラマでGTOというドラマがある。主演は反町隆史で反町扮する型破りの教師の活躍を描いたものである。ストーリーはある高校に赴任して来た新米教師が問題児の多いクラスの担任を任され、そこで生徒と衝突しながらも体を張った教育で徐々に生徒の心をつかみ、その可能性を開かせて行くというものである。

 ドラマは誠に痛快であり、ユーモアもありで当時、私は夢中になって観ていた。最近、今、人気絶頂の小栗旬が当時、GTOにいじめられっ子役で出ていたと週刊誌に書いてあり、私はそのいじめられっ子というのは良く憶えていたが、それがあの小栗旬とは夢にも思わず、びっくりして、その事を確認すべくレンタルビデオ屋でこのGTOのビデオを借りてきてもう一度、見てみた。そうしたら当時、彼は中学生だったそうであどけない顔をしていたが、確かに小栗旬その人であった。

 ところでこのGTO(これはグレートティーチャー鬼塚の略である)なる鬼塚栄吉という教師は常識にとらわれず、全てが型破りでそして、一切の悪に妥協しないのである。そして、彼自身はけっこう女性にもてるタイプでもあるから、女子高生とか教え子の母親とかと不適切な関係になろうと思えばなれるのに25歳という役の設定だがまだ女性を知らないのである。要するに彼がドラマで言うには自分は本当に愛した女としかしないと言うのである。そして、型破りで乱暴な所があるが生徒の事を真に思いやり、体当たりであらゆる事に立ち向かい、生徒の可能性を開いて行く。私はこのGTOという人物は役所は単なる教師だが、やっている事、考えている事はキリストなどの聖者と匹敵すると思う。
 要するに一人一人の個性と可能性を信じ、それを育て、そして、そうした子供の可能性をつぶそうとする汚い大人に対しては敢然と立ち向かい、そして、決して、肉欲だけの恋愛には走らず、最後は最愛の女性(この相手役を演じるのは後に反町の奥さんとなる松嶋菜々子である)と結ばれるのである。
 テレビドラマとか映画とかは本当に感動を誘うのはこのGTOの様に人間の本来の姿、神の子としてのあるべき姿、即ち真理というものが一本筋が通っているかいないかが非常に重要な要素を占めるのである。

 現在、マスコミを騒がしているのは例のタレントの山本モナとプロ野球選手の二岡智宏との不倫騒動やそれと教員試験の不正採用事件などであろう。これらの人々は社会的には一応の常識人だったのであろうが、正しい信仰が無い為に目の前の肉欲とか名誉欲に負けたのである。
 人間は単なる常識人とかそんな事ではぎりぎりの所で道を踏み外すのである。正しい信仰の無い人間というのはぎりぎりの所で、肉欲や名誉欲、金銭欲に負けるのである。それは自分の中に絶対に不動の核となる信仰、信念が無いからである。

 現在、環境問題が話題になって久しいが、これも単に地球が危ないとかなんとか漠然と考えているだけでは具体的な行動を起こす事は出来ない。本当に全ての生命が神において自他一体であり、それは物質ではなくて神の尊い生命であるという信仰が根本に無ければ、絶対にこの地球環境問題を人類は乗り切る事が出来ないのである。

 正しい信仰というのは是非とも必要である。事業家も政治家も教師もそして全人類一人一人にである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-07-18 13:08 | 映画・ドラマ | Trackback(3) | Comments(4)

愛の流刑地

 先日、「愛の流刑地」というドラマのビデオを観た。これは映画にもなり、と言うか映画の方が先で後からドラマが出て来たのだが、私はドラマの方を観た。

 このドラマの原作は渡辺純一でこれは数年前の映画「失楽園」の原作者でもある。「失楽園」も私は観たが、これは一言で言って、不倫のドラマで、今回の「愛の流刑地」も同じく不倫のドラマである。「失楽園」の方は双方、連れ合いが居る同志の不倫カップルが最後には情死するというストーリーであり、この「愛の流刑地」は離婚した中年の元売れっ子作家と人妻の不倫の話しであり、情事中に男が女を絞め殺してしまうという話である。

 どうして絞め殺してしまったかと言えば、女が男に殺して欲しいと何回も懇願したからである。それで夢中になって殺してしまったのである。

 私の感想は一言で言って、これは究極の情欲の話であり、男女の恋愛物語の感動などはあまりないと言う事である。
 女性は性交中にエクスタシーに達するとこのまま殺して欲しいと思うそうである。情欲というものはそれほどのものでそれは死の誘惑にも通ずるらしいのである。そして、主人公はそれを成し遂げるのであるが、私はこれは本当の愛情ではないと思う。何故ならこの女は夫を裏切り、子を捨て、情欲に走り、それで自分の究極の欲望は達成出来たかも知れないが結果的には相手の男を殺人者にし、相手の男の元家族を殺人者の家族にし、そして、自分の娘には情欲の果てに殺された女の娘というレッテルを貼らせる事になってしまったからである。

 こんなものが本当の愛情であるはずがない。作家の渡辺純一氏は究極の愛情を描いたつもりならそれはとんだ見当違いである。本当の男女の愛というのは夫婦愛の中にこそある。それは相手を生かし、支え、相手の幸福のために尽くす事である。そして、その中から人格の陶冶があるのであって、そこにこそ人生という舞台での愛の究極の実現があるのである。それが結婚の目的であり、そこから全てのよきものが生み出されるのである。

 こうした情欲が男女の愛などと思うのはそれは全て、人間は物質であるという一大迷妄から来ているのである。それで男女の粘膜のふれ合いの快感こそが究極の人間としての悦びだなんてとんだ勘違いをするのである。そんなだから、人間は自己の肉体的欲望の為にどんどん自然破壊が進み、現在、地球環境の危機がせまっているのである。

 私が夫婦の操を守る事が大切だなんて言うと、友人の中にはせせら笑う者も居る。それは真理を知らないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2008-06-20 12:33 | 映画・ドラマ | Trackback(1) | Comments(0)

映画「アイズ・ワイド・シャット」

この映画は新作ではないが公開当時(1999年)は結構、話題になった作品である。監督は「2001年宇宙の旅」「時計仕掛けのオレンジ」の故スタンリー・キューブリックである。また主演はトム・クルーズ、ニコール・キッドマンの二大スターで、彼らはこの時はまだ夫婦だったが、この作品の撮影中、不仲となったそうで、後に離婚している。

スタンリー・キューブリックという監督は「2001年宇宙の旅」などでもそうであったが、中々深遠なテーマをその作品に持たせる。そして、その意味する所が割合と難解であるという事でも有名である。

 ご他聞に漏れず、この映画もそうで、あらすじはニューヨークの開業医をしている若くてハンサムな夫とその美しい妻がある時、夫の友人の主催するパーティーに参加するが、そこでそれぞれ、行きずりの相手の性的誘惑に引っ掛かりそうになる。だが、双方、事なきを得るが、その後、自宅で彼らはお互い、パーティーの事で口論となり、夫は自分はお前(妻)を愛しているから絶対に浮気はしないし、お前も自分を愛してくれているから絶対に浮気をしないと信じていると言う。しかし、妻はその言葉を笑い飛ばし、自分はかつて行きずりのある男に強い性的衝動を受け、その相手の為なら夫も子供も捨ててもいいと一瞬、思った事があるという告白をするのである。その言葉に夫は衝撃を受けるが、その時、自分の患者の老人が死んだ事をその娘から電話で知らされる。それでとにもかくにもとりあえず、そのお悔やみに相手の家に出かけるのであるが、そこに行くとその場でその娘から愛の告白を受け、キスをされる。
 夫はその娘を何とかなだめて、その家を出るが、その帰り道にある娼婦に誘われる。頭が妻の事でむしゃくしゃしていた夫は娼婦に誘われるまま相手の部屋に行く。そして、これからという時に妻から携帯電話が掛かる。その電話で我に返った夫は、やはり止めておこうという事でそこを立ち去る。
 しかし、その後、以前、パーティで再開した旧友のつてである屋敷で開かれていた限られた人間しか参加出来ない仮面をつけたセレブリティーの集う秘密の乱交パーティーに潜入する。しかし、そこで正体がばれ、危うく命の危険が迫るが、ある娼婦に助けられ、何とかそこを切り抜けて、その屋敷を後にする。しかし、その窮地を救ってくれた娼婦がその後、死んだりして、自分に責任があるのではないかと悩むのである。

ここで描かれている事、テーマは色々あると思うが、一つには夫婦の絆というものは何かというものだろうと思う。この映画では一組の経済的にも地位的にも家庭的にも十分恵まれ、かつお互い美男美女という人もうらやむ理想的な夫婦が主人公になっているが、何故か心は空虚に満たされ、そして、お互い潜在意識では不倫願望があり、性的欲望に翻弄されているのである。私が思うに人間はうわべでは立派に世間体よく幸せそうに、かつ自分は浮気なんてしませんなんて清廉潔白ぶっていても、その実、その深層心理では性的欲望というものが渦巻いているのであり、それに翻弄され、かつまたそうした事による罪の意識とそれに対する神の処罰に対して、恐れおののいているものであるという事をこの映画は表現したいんだと思う。

性的欲望、衝動というのはこれは中々やっかいで、人間にはついて回るものであり、特に宗教的求道を目指す者に取ってはこれを如何に克服するかという事が昔から重大な問題になっていたのである。だから、ある人によれば、セックスの欲望を無理に抑えると却って駄目だから、一度思い切って解放したらいいという人もいるくらいである。

私だって男であるから正直そういうものはある。それなら、私は自分に正直になる為にその欲望を出鱈目に解放するのが自分に正直な生き方であろうか?
しかし、この考えは間違っているのである。そう考えるのはこれ全て、人間を肉体であり、物質であるという考え方から来ている概念である。
 人間は物質ではない。肉体ではない。完全円満なる神の生命である。この真理を知り、自己の自覚の次元を高めれば、今このままで性欲あるままでそれを解脱する事が出来るのである。 そうなれば無理にそれを抑える必要も無い。セックスを罪悪視して忌み嫌う必要も無い。また逆にそれを無理に解放して、それが如何に馬鹿らしいかを学ぶ為に女遊びしまくるなんて事をする必要も無い。そのままで自由にしていながら、自ずと性欲は整い、本来の相手即ち夫婦間での人時処を得たものとなるのである。

堀 浩二

The movie「Eyes Wide Shut」

 This movie was road-showed in 1999. At that time, it became a subject among funs of movie. The director of this movie is Stanley Kubrick who directed "A Space Odyssey","A Clockwork Orange". Main casts of this movie are Tom Cruise and Nicole Kidman. When this movie was produced, they were parents. But there is a rumor that their relationship became worse at that time. After this movie was produced, they devorced.

 The theme of Stanley Kubrick movie is always so profound like the movie"A Space Odyssey". And it is difficult to understand the meaning of the theme of his movie.

 Like his other movies, this movie has a difficult theme to understand. This movie's reading charactor is some young male surgeon. His name is Bill. He is a handsome guy, and his wife is a beautiful woman. Her name is Alice.

At one night, they take part in some party which is held by a friend of Bill. At that party, they are about to make love with somebody separately. But they don't.

After that, at their house they begin to argue about the affair of each one at the party which they are invited to. At the argument Bill says that he never make love with other women besides Alice because he loves her and Alice also never make love with othr men besides Bill. But Alice laughs so loudly to hear Bill's statements. And she confesses that she felt some urge sexiality with some stranger guy at once. And she says that she thought she could abondon Bill and their child for the purpose of acomplishing the urge at that time.

To hear that, Bill feels shock, but at that time someone calls him. By the call, he is informed of the death of the old male patient which he has been diagnosing. The call is from the daughter of the patiant.
So Bill goes to the house of the patient to say condolence to the daughter. But, as Bill talks to the daughter, she confesses that she loves Bill and she kisses him. Bill is upset by the daughter's statements and acts. But he calms her down,after that he lelt the patient's house.

On the way of coming home, Bill is spoken to by some prostitute, and she invites him to her room. As he is so anxious about his wife's statements at that time, he goes to the prostitute's room. When they begin to make love, his cellular phone calls him. The call is from his wife. By the call, he reconsiders and quits to make love with the prostitute. And he left the room.

But after that, Bill goes to some pub and meets his old friend. And Bill gets some information of some secret party from his friend. After that Bill penitrates the secret party which is organized by some syndicate. The party is sex party. All the participants of the party are celebrities. And all of them wear a mask. The party is top secret one. All participants are selected members. Anyone cann't take part in the party. Bill is an outsider. If the fact that Bill takes part in the party is revealed, the situaition around Bill would become dangerous.

But in the middle of the party, his identity is revealed by the organizer of the party in front of all the members who take part in the party. Bill is threatened to strip himself by the organizer. The danger of his life is coming. But at that time some prostitute saves his life. She declares that she becomes a scapegoat indtead of him. After that, Bill is released and returns to his home.

But in the next day, the prostitute who save his life dies. To know that, Bill suffers from a pang of guilt. Because he thinks that the prostitute may be killed instead of him.

 I think that this movie has a several themes. But the main theme is the bond between parents, I suppose. The lead of this movie is rich and handsome, and his status is high level. And his wife is so beautiful. Everybody would envies him. But the inner mind of this parents is empty. And each of them has a desire of adultery in the bottom of their minds. They are fettered by the desire of sex.

I imagin that the director is going to say that the human being has a enormous desire of sex in the bottom of his mind as though he pretend to be innocent and he is fettered by the desire of sex,and he suffers from guilt of the sin of sex besides.
 
 The desire of sex is so troublesome, and it stick to the body of humanbeings. Especially to truth seekers, the conquest of this desire is very important exercise from the old days. So someone says that you should reliese the desire of sex freely because your desire of sex would become a complex if you forbid your desire of sex intensively.

 As for me, I also have a desire of sex because I am a healthy male. But, is it honest way of life to reliese my desire of sex freely?
But such a notion is wrong.that is from the idea that human-being is only material. Human-being is not mere flesh. Human-kind is not only material. Human is perfect life of God. If you realize this truth, and raise the demention of your notion, you can transcend the desire of sex as it is.

If you become such a state, you do not have to deny the desire of sex, on the contrary you do not have to reliese the desire too much freely to study the vacancy of the desire on pourpose. As it is, your desire of sex must be arranged appropriately and automatically.

Kohji Hori
by koujihori | 2007-01-10 00:04 | 映画・ドラマ | Trackback | Comments(0)

「世界の中心で愛を叫ぶ」を観て

 先日、遅ればせながら、映画「世界の中心で愛を叫ぶ」を観た。ビデオレンタルショップで以前、レンタルされていたのが中古品で販売されていたので、購入して観たのである。

 これは2年前の2004年の作品であり、主演は大沢たかお、柴咲コウである。この作品はまず小説がベストセラーとなり、その後、映画化され、平井堅の歌う主題歌も大ヒットし、そしてテレビ化の後、舞台にまでなった。セカチューという流行語も生まれ、一つの社会現象になった。

 私はある程度、色々の評論等から映画のあらすじは知っていた。それは医者である主人公が高校生の時に恋人を白血病で失ってから、その恋人の思い出をいつまでも引きずっていくというストーリーであるらしいというものだ。

 私はこれでもけっこうロマンチストなので、レオナルド・デカプリオ主演の映画「タイタニック」でも涙したし、ヨン様、ジウ姫の「冬のソナタ」にもかなりはまった。事に自分が男なので恋人の女性が病気で死んでしまうなんていう悲恋物語にはかなり弱い。

 ビデオを観ていて、死んだ恋人、亜紀役の長澤まさみがかなりキュートで、それが主人公サクと甘酸っぱい愛を育てながらも段々と病に冒されて行き、その中で色々の胸を締め付けられるシーンそして、現在、亜紀の思い出を追っていくサクにその回想の中で亜紀がサクに愛を告白するシーンなど私にはたまらなかった。甘く切ない悲恋が良く描かれていると思った。

 亜紀の生前、サクと亜紀はカセットテープで交換日記みたいなものをしていたのだが、亜紀が最後に吹き込んだカセットテープがそれをサクに渡すように託された女の子が渡しに行く途中で交通事故に遭ってしまい、とうとうテープを渡せずじまいになってしまう。そして、その女の子、律子こそが後にサクの婚約者になるのである。
 
 律子はサクとの結婚の直前になって、無くしたと思っていたそのカセットテープがたまたま出て来て、それを聞く。そして、一旦サクの前から姿を消し、サクの故郷に行く。
 サクは律子を追って、自分の故郷に行くのだが、そこで様々な亜紀の思い出が蘇って来て、悶々とするのである。

 そんな中、律子はサクにそのカセットテープをついに渡す。そしてサクはその亜紀の最後のメッセージを16年ぶりに初めて聞く事になる。それは「自分はこれから死ぬと思う。でも、自分が死んでもいつまでもそれを引きずらないで今を生きて行って欲しい。」というものであった。

 それを聞いたサクはやっと過去の思い出を振り切る決意をし、律子と一緒にオーストラリアの大地に亜紀の遺灰を撒き、亜紀と正真正銘別れを告げたのである。それは過去を振り切り、今を生き、今の婚約者を本気で受け入れ、愛する決意を固めた事だと私は思う。

 私はここまで観て、やっとこの映画の意味を見出した。気持ちは分かるが単に死んだ恋人の思い出を引きずってセンチメンタルになっているだけであったら、何の意味があるのかと思っていたし、それでは何より現在の婚約者に申し訳ないではないかと思っていたからである。
 
 愛とは単に相手に執着して、同情してセンチメンタルな感情に浸っていい気持ちになる事ではなく、今を生きる事であり、今の相手に思いやりを持ち、心から愛する事であると思う。
 そして、相手を解放する事であり、相手の幸せを願う事である。亜紀は自分の事は忘れて、今を生きて欲しいと言うメッセージを残して、あの世に行った。この様に相手を解放し、相手の幸せを願うのが本当の愛情であり、そのメッセージを受け取ったからこそサクもふんぎりがついたのだと思う。

堀 浩二
by koujihori | 2006-05-17 13:37 | 映画・ドラマ | Trackback | Comments(0)

運命の女

「運命の女」というダイアン・レイン、リチャード・ギア共演の映画をDVDで観た。確か去年の作品だと思うが、これが結構、秀作なのである。

 ダイアン・レインは子役の時から知っていたが、当時はそれほど注目はしていなかった。しかし、その後、私の中のベストの映画の一つである「ストリート・オブ・ファイヤ」に主演し、それでけっこう私のお気に入りの女優になったのである。
 
 ストーリーはダイアン・レイン演ずる人妻の不倫の物語である。映画の中のダイアンは平凡だが、魅惑的で知性的な主婦役を好演している。それほど大きくない自動車会社の社長であるリチャード・ギア演ずる夫と10歳位の一人息子と何不自由ないごく普通の家庭を営んでいたが、ひょんなきっかけで若い男と不倫関係に陥り、夫を裏切るのである。
 男は古書売りで、女から見れば一種独特の魅力を持つ色男でダイアン演ずるこの平凡な主婦はこの男の不思議な魅力に取り込まれ、逢瀬を重ね、ズルズルと肉体関係を続けて行く。
しかし、妻の素行に不審を抱く夫が私立探偵に妻の行動を探らせ、妻の不倫の事実を突き止めてしまうのである。
 そして、この不倫相手の男の所へ乗り込んでいった夫は男のアパートで自分が妻の誕生日に妻に送ったはずのオルゴールがこの男の所にあるのを見て、逆上してこの男をそのオルゴールで殴り殺してしまう。
 夫は男の死体を始末し、うまく証拠隠滅して妻の元に返るが、その後、警察に嗅ぎつけられ、次第に追いつめられて行く。

妻は不倫を続けて行く中で最初は快感だったのがそれが段々と苦悩に変わり、そして夫を裏切っている良心の呵責に耐えられず、別れを決意する事を男に告げようとしていた矢先に夫が男を殺害してしまったのである。
 そもそも妻が何故、夫を裏切ったかと言えば、それは平凡な生活の中で刺激が欲しかったのと夫が忙しさにかまけて、日頃余り愛情を表現していなかったので夫の愛を実感として感じていなかったからである。しかし、妻が、自分が夫に不倫を見破られていた事、そして夫が男を殺害してしまったことを知った後、夫が男を殺害した時に使った凶器のオルゴール、これは元々夫が妻に誕生日の贈り物として贈ったものであるがその中に隠されていた夫から自分へのメッセージの紙を見つけ、「わが愛する世界一美しい妻へ」という言葉から始まるその愛のメッセージを読んだ時、自分はこんなにも夫から愛されていたということを初めて知って、愕然とするのである。

 私はこの作品が何故、秀作であると思ったかと言えば、それは人間というものは今、そのままのごく当たり前の生活の中に既に神から祝福され、家族から愛された素晴らしい幸福な世界があるのにそれを忘れ、何か普段と違った変わった異常な刺激の中に幸福があるのじゃないかと勘違いして、それを追い求めて、さまようことがあるということをこの映画は痛切に表現していると思うからである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-05-07 22:16 | 映画・ドラマ | Trackback(1) | Comments(0)