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不測の事態

 今日は土曜日で会社は本来、休日であるが、会社の管理者研修会である。講師を外部研修機関から呼んで、研修担当者である私がセッティング、進行、講師接待等するのである。そして、それが終わったら午後7時から生長の家の信徒の集まりである誌友会という会合で今度は私が講師として話をしなくてはならないというスケジュールである。

 こういうプレッシャーのかかる行事が一日に立て続けにあると私も朝から緊張するのだがそんな中、今朝になって、今日、生長の家の誌友会で使うはずの資料が見当たらない事に気が付いたのである。事前の準備は両イベント共、昨日まで十分に済ませたつもりでいたが、当然あるべき所にあると思っていた資料が見当たらない。
 朝は私は色々やることがあり、神想観という瞑想をした後、テニスの素振りをすることにしていて、今日もそのつもりだったが肝心の資料が見つからない為にテニスの素振りもあきらめた。
 そして、遂に見つからないので、私が元々持っていた予備の資料を代替えにしようと思ってそれを出そうとしたが、何故かそれもいつも綴じてあったはずの所をいくら探しても出て来ない。
 私は頭がパニックになりかけた。こんな事ってあるだろうかと思った。そして、今までだったら自分は何て運が悪いんだろうと自分の運の無さ、そして、この世界の非常さに憤った所だが、こんなに本来の資料、そしてその予備の資料までも忽然と無くなるというのはこれは何か意味があるのではないかと思ったのである。

 私は元々自分の計画通り行かないと途端にいらいらする所があり、通勤のバスの中でも必ず読む本を決めていて、それが思いもよらず、そのバスが混んだりして、本が読めなかったりすると「チェッ」と舌打ちするような所があった。
 しかし、この世界は自分の思惑、計画を超えた不測の事態が起こることなどしばしばなのである。それなのに自分が勝手に決めた計画、思惑にとらわれて、こうでなくてはならぬなんて頑張るのは我(が)である。
 この世界は一見不都合に見えることでも長い目、大きな目から見れば結局それが良かったということがいくらでもある。そうしたことを認める大きな広い心で不測の事態があってもいらいらしないで大局的に対処したらよいのである。
 こうでなくてはならぬと頑張る心は狭い心であり、我(が)の心であり、それが我が儘ということである。どんなに自分に取って不利と見えることでも大局的に見れば、そんなことはないのである。資料が無くなったら探せば良いのである。探してなかったらそれと同じ資料を持っている人に貸してもらうように頼めばよいのである。それでも無かったらそれはそれで神様が何とかしてくれる。こうした大らかな心を持てば、自ずと運も向いてくるし、ものごとも円滑に運ぶものである。
 
 今朝大事な資料が無くなったのは神様が私にそのことを教えてくださる為に神様がお隠しになったのであると私は今、思っている。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-07-30 12:53 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

悪い人はいない

 実は私はここ一週間、先週土曜日あたりからずうっとおなかの調子が悪い。
 私は元々、腸が強い方ではなかったが、この様に一週間も毎日おなかの調子が悪いなんて事は今まででも無かった事である。
 これはもしかしたら癌かもと思ったが、丁度5月に腸の腫瘍マーカーの検査を会社の健康診断でやっていて、至って数値が良かったのでこれは心配ない。風邪かとも思ったが、熱やけだるさが全くないからこれも違うようだ。これはどうも神経的なものではないかと思うのである。

 私は先日、今人気の細木数子のテレビ番組で阿藤快という俳優が細木数子にアドバイスされた言葉を何気なしに聞いていたが、その中で細木が阿藤に「あんた腸が悪いだろ。それはあんたが人に対して心を開かない所があるからだ。」というのがあった。
 私はその時はああ、そうか位に思っていたが、その後でどうもこれは私にぴったり当てはまるのではないかと思ったのである。
 というのはこの一週間おなかの調子が悪いのはこれから数週間、私に取って、中々プレッシャーのかかる行事、仕事の予定が控えていて、そうした状況の中、あの人には会いたくない、この会合には行きたくないという苦手意識がストレスになって腸に来ているのではないかと気が付いたのである。

 細木数子は阿藤に「あんたは自分のごく親しい人にはいいけど、そうでない人には心の殻を作って心を開かないね。それを直しなさい。」と言った。それは本当に自分に言われている様であった。
 私は人間神の子という信仰を持ってはいるが実際生活になると割合、人の好き嫌いが激しく、好きでない相手には全く心を開かないで相手の悪い面ばかり見て、嫌悪していた。
 これが人間関係のストレスになって、腸に来ているのではないかと思う。

 私は生長の家の真理である、この現象世界の奥にある本当の世界は完全円満な世界であり、人間は皆、本来神の子で素晴らしい人達ばかりであるという真理を知っていたのにかかわらず、感情的にはこの世界の現象面のみ見て、この世界はいやな人間が沢山いると信じていたのである。
 いやな人間が沢山いると信じているということはこの世界はいやな世界であると信じているということになり、そんな風に私は今までこの世界をその様な冷たい世界であると考えていたのである。
 
 この現象世界は自分の心が映る世界である。自分が今まで、人間関係で冷遇されたと感じていた部分は正に自分が他の人に与えていた印象なのである。即ち、人間神の子本来完全円満ということを信じないで相手が悪いやつ、油断のならないやつと何となく思って好き嫌いしていた私の心が相手に映って、冷たい相手と自分には感じられて、それがまた私の人間嫌いにつながっていたのであった。
 正に悪い人間は元々おらず、全て自分が心で勝手に映し出していたのである。

 堀 浩二
 
by koujihori | 2005-07-29 23:17 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

テニスの試合に出てみて3

 先日の日曜日、テニスのシングルスの草テニス大会にまた出た。結果を先に言うと、ぼろぼろの三戦全敗であった。
 結果は全敗でも内容が良ければ、納得も行くが、内容がひどく悪く、私は本当に落ち込んだ。テニスでこんなに落ち込んだのは久しぶりというか初めてではないかと思うほどであった。

 第一戦目の相手は37歳のアメリカ人でアメリカの大学でテニスをやって、その後、日本に来てからテニススクールのコーチをやっているという相手であった。こんな相手は半分プロみたいなものであり、この様な自由参加のテニストーナメントでは一回戦は私の様な素人がこんなとんでもない相手と試合する事もあるのである。
 相手は回転のかかったサーブとストロークを身上としており、それほど威力は感じなかったがコーナーに打ち分けて来て、私は右に左に走らされ、翻弄され、殆ど一方的に敗れ去った。(当然だが)

 第二戦目の相手は今まで3回ほどやって一度も勝った事のない相手だったが、私は最近サーブにしろストロークにしろ大部自信を深めていたので今ならこの相手に勝てるのではと思ったがあにはからんや1-6という情けないスコアで敗れてしまった。
 この相手との試合が終わった辺りからどうも強化したはずのサーブの威力と正確さが以前より却って悪くなって来ているような気がしていたが、まあ何とかなるだろうと思っていた。そして次の第三戦は高校一年生の選手と試合した。この高校生とはやはり過去戦っていて負けてはいるが4-6位のいいスコアの試合をしていたのでもしかしたら行けるかと思ったら、この試合がさんざんなものであったのである。

 サーブを打つ時に何故か異常に緊張して、サーブが入らない。入らないばかりかフォームがバラバラで本当に情けないサーブになってしまい、心なしか高校生に失笑されているような気さえした。
 その後、試合を進めて行く内に緊張もほどけて来たが、結果は0-6のストレート負け。本当に情けなく穴があったら入りたい位の気持ちで試合後の握手の時も相手の顔をまともに見られないような感じだった。

 私は帰途、車を運転しながら頭が完全にパニックになっていた。どうして良くなったはずのサーブが乱調になってしまったんだろう。何であんなにサーブを打つ時緊張してしまうのだろうとぐるぐるぐるぐると頭の中で考えていた。
 そしてその後、家に帰っても落ち込んであんなに汗をかいているのに風呂に入る気力もなかった位である。
 実はサーブに関してはクラブでうまい人から習ってから大変調子が良く、威力も正確さも増したのだが、もっと威力を出せないかと思って自分で考えてちょっとフォームをいじっていたのであった。それで満を持してこの大会に臨んだつもりが意に反して威力も正確さも以前より損なわれ、そうこうしている内に最後の試合でフォームがバラバラになってしまい、高校生相手に情けない試合をしてしまったのである。もしかしたら自分でフォームをいじったのが悪かったのかとかいやそうじゃないとか頭の中を二つの考えがぐるぐるぐるぐる回り、その日は翌日仕事だと言うのに午前3時過ぎまで眠れなかった。
 そうこうしている内に気が付いたら朝であり、ああ少し眠れたなと思って起きたのであるが、その時、私はやはりサーブのフォームを自分の判断でいじったのが悪かったのであり、悪いフォームで打ち続けたから、サーブに自信が無くなり、その為、最後の試合でサーブを打つ時、異常に緊張したということが分かったのである。

 私は自分には進歩のヒントに関するインスピレーションもあるし、偶然うまい人にサーブのコツを伝授されたりと神様からも導かれていると思って、自分はうまくなる一方だといい気になっていたのである。
 それで自信を持って臨んだはずの試合だっただけに思っても見ないサーブの乱調があったので、ショックを受け、落ち込んでしまったのである。本当に自分が情けなく、もうテニスもやめてしまおうかと思った位である。
 しかし、既に述べた様に何故、サーブが乱れたのか緊張してしまったのかという事が試合の翌朝、直感的に分かったし、それと同時に昨日の乱調も私のテニスの力が進歩向上して行く中の一つのステップに過ぎなかったという事が自ずとこれも直感的に分かったのである。
 何故なら自分が思いついてちょっといじったサーブのフォームのやり方が昨日の失敗体験により、この方法は正しくないということを体で如実に分かったからである。これを進歩と呼ばないで何と呼ぶのであろうか。
  
 今回は本当にテニスをやめてしまおうかと思った位落ち込んだが、ここでやめたら進歩は永遠に無かったであろう。
 だから、私は声を大にして言いたいのは自分がやっている事の結果をすぐ出そうとして、それがちょっとでも失敗したら、もう駄目だなんて思わないで欲しいということである。ものごとはそんな一筋縄ではいかないのである。そんなちょっと挫折した位でやめたり、逃げたりしていては何事も成就することは出来ないのである。
 自分がこのやり方がいいと思って、やってみて、その結果がうまく行かないというのも一つの生長過程である。それでその思いついた方法がうまく行かない方法であるという事が分かったのである。生長というものはこの様に試行錯誤しながらして行くものである。
 
 我々は頭で考えなくてもこの様に失敗体験により本当の事が直接分かるのである。だから、この世界は自分以外全て先生なのである。どんなに悪い事、失敗に見える事でもそれは神様の導きであり、そう考えるとこの世界は悪いこと、落ち込むようなことが沢山あるみたいで実は神様の導きに満ちた世界であると言うことが言えると思う。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-07-26 18:22 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

差別について

 前回の文章で差別というものがロンドンの自爆テロの一つの要因になっているのではないかという事を書いた。
 そして、日本は欧米ほど差別のない社会であるということも書いた。しかし、厳密に言えば、この日本にも差別はある。日本には人種差別というものは単一民族なだけに存在しないが部落差別と言われるものはあるにはある。
 また、階級闘争というのもこの日本にはなくはないのである。要するにマルキシストの言う、資本家階級、労働者階級という階級が存在しており、その間には階級闘争というものがあり、資本家は労働者を出来るだけ搾取しようとしているという世界観である。

 どうしてそういう差別心や階級闘争世界観が出て来るかと言えば、人間にはこの現象世界を生活する為に必要な五官というものが備わっているからである。要するにこの世界で生活、活動する為にはこの世界の事物から発生する波動を感受して、それを神経系統で伝達して脳でそれを実際にその事物がそこに具体的に存在するというイメージを得させる為にそうした五官の感覚器官が人間には備わっているのであり、その五官があるおかげで我々はこの現象世界が本当に存在する世界であると認識して生活出来るのである。

 しかし、その五官だけに頼って生きていれば、この世界が現象的にある通りの世界であるとしか認識出来ないからこの世界がお互いバラバラに対立した世界であると認識せざるを得ない。そこにこの世界は階級同士の闘争があるとか、人種間の差別があるという対立思想が生ずるのである。

 話が大部難解になって来たが、要するにこの世界は映しの世界であり、本当に実在する世界は霊的世界としてこの現象世界の奥というか内側というかそういう所に存在するのであり、それは五官を超えた直感力でもって認識するしかないのである。
 しかるにそうした直感力を信ぜず、従ってそれを使うことのない人は五官の感覚器官しか使うことを知らないからこの映しの世界である現象世界しか存在しないと思いこむ。そして、そう思っている人はこの現象世界というのは表面的に見れば、お互いバラバラに相対的に各自が存在する世界にしか見えないから自分の喜びは他人の喜びでない、他人の悲しみは自分の悲しみでないというお互い利害が対立する所の闘争世界がこの世界であると見るより仕方がない。
 そうした世界観を持つ人が人種差別とか階級間同士の闘争を作り出すのである。

 だから、我々はこの世界に住んでいる限り、いつかはこの差別とかを受けるかも知れないし、階級闘争の渦に巻き込まれて悩むことがあるかも知れない。
 しかし、そういう時は毅然としていなければならない。相手が自分を差別すると言って、嘆いてはならないし、それに怒って仕返ししたりなんかしてはならないのである。我々はそういう時こそ自分の受けている境遇とかをものともせずに積極的によいことを、そして自分の使命と感じることをやって行かなくてはならない。
 先日亡くなった歌手のレイ・チャールズや名前は忘れたが黒人で初めて潜水夫となった人などアメリカではひどい人種差別を受けてもへこたれないで立派な業績を残した黒人の人達の話がいくつかある。
 
 彼らは人種差別を受けたにもかかわらず、へこたれないでおのれの天分をまっとうした人達である。そんな彼らを白人達は最後には諸手を挙げて賞賛したのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-07-19 18:08 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

ロンドンのテロ

 ご存知の様にイギリスのロンドンで同時多発テロがあり、多数の犠牲者が出た。監視カメラ等、イギリスの警察の優秀な捜査技術により、事件発生後からわずか一週間でテロ実行犯を確定出来た。
 それによると彼らはパキスタン系のイギリス人四人でいずれも20歳から30歳の若いイスラム教徒だそうである。彼らはいつもは学生とか教師としてイギリス社会に普通のイギリス人として潜伏しており、いざテロ実行という時になるとその本性を現し、この様な恐ろしいテロを実行するというスリーピング・セル(眠っている細胞)と呼ばれるテロリストである。
 しかし、日本人の感覚からするとよく分からないのが彼らがパキスタン系とは言え、イギリスで生まれ、イギリスで育った、イギリス国籍を持つイギリス人であるのにかかわらず、こうした自国民が母国であるイギリスの首都ロンドンで大量虐殺のテロをアル・カイーダの様な国際テロ組織の指示がいくらあったにせよ、どうして起こせるのか、起こしてしまうのかということであろう。
 この様に自分の生まれ育った母国で自国民にテロ行為をするなんて日本人ならおよそ考えられないことである。

 しかし、よくよくイギリスの事情を聞いてみると、イギリスは日本なんかではおよそ考えられない階層社会であり、上流階級、中流階級、下層階級というのが今でも完全に分かれた社会なのだそうである。それは言葉の発音の仕方から違うのだそうで、イギリス人はお互いちょっとしゃべっただけで相手の階層が分かり、相手が自分より下層の相手と分かると途端に差別的な扱いをするそうである。
 それは当然宗教間の差別なんて要素も加われば、エスカレートするだろうし、今回のテロ実行犯の四人はいずれも下層階級として差別され、イスラム教徒としても差別された人達であったそうである。そうした差別の現存する社会ではいくら母国と言えど、その差別から生じたうらみを張らしたいという気持ちもあったであろうし、それがイスラム教的な聖戦(ジハード)の要素が加われば、今回の事も当然の結果と言えなくもないと思う。

 であるから、よくアメリカやイギリスの政治家とそれに同調する日本の保守系論壇の人達が言う「テロとの戦い」、「テロには決して屈しない決意」とか仰るのはまあ一応分かるが、その前にどうしてこういうテロが起こってしまうのかという原因を考える必要があると思う。
 それは白人のトップの階級が主に生じさせている差別であり、また彼ら先進国の現象的、肉体的快楽と便利さを追求した生活レベルを維持する為に如何に発展途上国の人達を安い賃金で酷使しているか、そして地球環境を損なっているかということを内省する必要があるだろう。

 日本はその点、素晴らしいと思う。日本は階層なんてものは人によっては多少あるという人もいるが、イギリスなんかに比べて、全然そんなものは存在しない。意識調査をすれば80%の人が自分は中産階級だと答える国柄である。もちろん私も自分をそう思っている。
 だから、日本人は地域のつきあい、職場のつきあいでもその人の出身地、宗教、生まれとかで差別してつきあうような事はせず、その人がよほどの変わり者で自ら心を閉ざしていない限り、誰でも仲間に入れてやってお互い、仲良くつきあう。それは日本人は昔から天皇を中心として、その元に平等であるという自覚が意識するとせざるに関わらず潜在意識的に何となくあるからであると私は思う。
 そして日本は昔から自然と対立してそれを征服するという考えはなく、自然と融合して、それを出来るだけ生かし、保存するという意識を持ってきた。そして、鎮守の森と呼ばれた森の中の神社に人々は信仰のより所を求めたのである。
 そして日本は元々天皇を中心とした神道的な信仰の地盤があったが中国から仏教が入ってきてもそれを排除する事なく、日本の風土にうまく取り込んだ日本的仏教を作り上げ、神道ともうまく融合というか両立させたのである。
 我々日本人はそうした素晴らしい国に生まれた事をもっと感謝しなくてはならないと思う。そして、こうした階層の差別をしない、宗教同士を対立させない、そして自然を大切にするという我々日本人が古来から持って来た国民性を大事にし、こうした要素が世界の平和と環境保護活動に今こそ求められているという事を自覚して、志ある若者にはどんどん世界で活躍してもらいたいものである。

 堀 浩二

 
by koujihori | 2005-07-18 09:32 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

失敗してもよい。

 私は今回、ある仕事を絶対に引き受けなければならない立場に追い込まれたのである。しかし、私はその仕事で以前、二回も大失敗したことがあり、その時、非常に責められ、恥をかいたのである。それは私の努力ではどうにもならない程、私にはそれをするのが困難に感じられるのである。
 私は今回、その仕事を再びしなくてはならないということが決まった時、本当に暗い気持ちになった。やらなくてはならないが自信がない。やめたい、避けたいと思うが立場上避けられない私は本当に精神的に追いつめられたのである。

 しかし、私は今日の朝、ふっと思ったのである。「そうだ。絶対失敗してはならないと思うから、大変なプレッシャーに感じるんだ。失敗してもいいじゃないか。殺される訳でもなし。」と。
 私は余りにも我(が)が強くて自分のメンツにこだわりすぎていたのである。そうだ。そんなメンツなんてどうでもいい。失敗しよう。恥をかこうと失敗を積極的に受け入れる気持ちになったのである。
 まな板の上の鯉の心境とはこんなものであろう。そうしたら私の両肩にズンとのしかかっていた重みがスーッと軽くなったような気がしたのである。

 我々はものごとを為す時、完全主義になってはならないのである。完全主義は力みを生み、力みは自分のそのまま本来の生命の自由な動きを妨げ、却って、失敗を招くのである。
 失敗してもよいのである。恥をかいてもよいのである。必ず完全にやらなくてはならないという力みを我々は何事においてもとらなくてはならないのである。以前の文章でも書いたが、我々は「そのまま」であれば、本来神の子無限力であるから適宜に力が出せるのである。判断も出来るのである。しかし、絶対に失敗してはならないと思って、力むと本来の力、判断力が妨げられ、却って失敗してしまうのである。

 失敗を受け入れよ。不完全を受け入れよ。そして死さえも受け入れよ。それらを全て受け入れる時、我らは自由になるのである。失敗から逃れよう逃れようと焦れば焦るほど、却って失敗するのである。死から逃れよう逃れようとじたばたするほど却って、死の虜になってしまうのである。
 死を受け入れ、失敗を受け入れる心になった時、我らは死と失敗の恐怖を超える。そして、死を超越し、永遠の生命を獲得し、失敗を超脱し、全てを完全に行うことが出来るのである。
 失敗してもなおかつ、認められ、愛される自分を認めよ。死してもなおかつ、生き通す自分を自覚せよ。

 失敗を恐れるのは自分が失敗することによって居場所がなくなる、軽蔑される、相手にされなくなると思っているからである。死を恐れるのは自分の肉体が死んだらそれが永遠の死であると思うからである。

 現象的失敗や死はあるように見えても我らは現象の奥に完全円満な神の生命により完全に生かされている存在であるということを自覚すれば、失敗を恐れず、死におびえることがない。それが死を受け入れ、失敗を受け入れる心境になる唯一の道である。

  堀 浩二
by koujihori | 2005-07-15 22:40 | 信仰 | Trackback | Comments(1)

執着について

 この前の日曜日、映画「スターウォーズ・エピソードⅢ/シスの復讐」を観た。スターウォーズファンの私としては待望の映画であり、大変見応えがあった。
 今回は主人公のアナキン・スカイウォーカーが如何にあの悪の化身「ダース・ベイダー」に変貌して行くのかという過程がメインに描かれているが、彼は元々正義を愛する熱血漢の若者だったのにその正義感と愛が我執(がしゅう)にとらわれたものであった為に却って、悪の世界に転落してしまうというストーリーであった。

 このアナキンの様な愛は生長の家の聖典「生命の実相」第35巻、下化衆生遍78ページにも以下の様に示されている。
「・・・愛見の大地とは我が彼を愛するという彼我(ひが)、能愛所愛(のうあいしょあい)の区別を存する愛であって、執着が残っているから、私があんなに愛してやったのに背(そむ)いたなどと言って恨み怒りの原因となる。愛が闇となったのである。(中略)宜しくわれらはかくのごとき執愛を超克しなくてはならない。」

 本当の愛とは既に自分の生命と他の生命が神の大生命において一体であるという自覚であり、それに対し、我と彼との本来一体の霊的生命を観ないで表面の肉体である我と彼とのみを見ている者には我と彼とは一体ではなくバラバラに別れて見えるものであるから、相手を愛そうとする時、相手を無理に自分に取り込もうとするのである。それが執愛である。
 執愛は相手を無理矢理自分の好み通りにしようとするのである。反対に本当の愛は自分の生命と相手の生命が既に一つであるという事を自覚せるが故に相手に執着せず、相手を相手の自由意志のままに解放しようとするものである。
 本当の愛は相手を放して、却って相手から慕われ、執着の愛は相手を無理に自分に縛ろうとするが故に却って相手から煙たがられ、終いにはその相手から去られるのである。

 我々は自分の愛する人々即ち自分の妻、夫、子、親、兄弟そして恋人を本当に愛するならばそれに執着するのではなくて心で放さなくてはならない。そして、この事は対人間に限らず、全てに対して言える事である。
 自分の地位、財産、肩書き、能力そして肉体の健康、これら全てに執着せず、神様に全部預けてしまえ。(念のために断っておくが、これは自分の全財産を一定の宗教団体に捧げてしまえという意味ではない。あくまで心構えの問題である。)これらは元々、全て自分の中の神様から頂いたものである。これらを自分のものだと思って執着してしがみつかないで全て神様にお返しするつもりで心から放ち去れ。
 その時、我らは却って真に必要なものを神様から適宜に与えられるのである。それが生かされているということであり、また感謝ということである。そしてそれが本当の愛の生活である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-07-14 21:24 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

フェデラーの強さの秘密

 皆さんの中でテニス好きの方は先週のテニスのウィンブルドン大会を熱心にテレビで観戦していたと思う。今年は女子シングルスではロシアの人気選手シャラポアの二連覇が期待されたが準決勝でアメリカのビーナス・ウィリアムスに破れ、結局そのビーナスが決勝でも勝ち、久々にウィンブルドン女王に返り咲いた。
 そして男子シングルスではあのスイスのロジャー・フェデラーが無敵の強さを見せ、決勝ではあの時速240km/h以上の高速サーブを誇るアメリカのアンディ・ロディックをセットカウント3-0のストレートで完膚無きまでに叩きつぶし、見事大会三連覇を飾った。

 このフェデラーはサーブ良し、グラウンドストローク良し、ネットプレー良しのオールラウンドプレーヤーであり、そういう意味では同タイプとされるあのウィンブルドン4連覇を誇るアメリカのピート・サンプラスの再来と言われている。しかし、私の見た感じではフェデラーの方がグラウンドストローク力はサンプラスより上であり、そういう意味では史上最強と言われたサンプラスより実力は上ということになり、そうなるとこのフェデラーこそ史上最強のテニスプレーヤーということになると思う。
 しかも、彼はまだ若干23歳であり、年齢的にはこれからが全盛期ということになり、本当に末恐ろしいプレーヤーである。

 私は彼の一番の強みはどこにあるかと言えばそれは力みが抜けているということに尽きると思う。テニスでは何が一番大事であるかと言えば、これはテニスに限らないかも知れないが上体の力が抜けているということである。フェデラーはこれがほぼ完璧に出来ている。
 対するにウィンブルドンの決勝の相手であったロディックはそれが十分に出来ておらず、その差が試合結果に出たと思う。

 日本の合気道で言われている事だが、ものごとにはそれ本来の力がそのままに流れており、その力を利用すれば、自分で力まなくても効果的な打撃又はその他の色々の技を繰り出す事が出来るのである。
 合気道では真剣で巻き藁(まきわら)を一刀両断にする訓練があるそうだが、これも力任せにただ刀を巻き藁に叩きつけても刀は巻き藁にブスっとくい込むだけで決してスパッと真っ二つに切る事は出来ないそうである。
 姿勢を正し、上体の力を抜き、重心を臍(へそ)の下、所謂、臍下丹田(せいかたんでん)に落として刀自体の持つ、重力により自然と降り下ろされる力を利用して切るとスパッと切れるそうである。
 ホームラン世界記録を持つ王貞治の師匠荒川博はこの合気道の達人であり、王にこの真剣の巻き藁切りのトレーニングをさせ、それによりバッティングの神髄を伝授したそうである。

 私の見た感じだとフェデラーはその脱力の奥義をほぼ会得しているようである。ここでも何回も申し上げたが、人間には本来無限の力が宿っており、それをそのまま表現していけば、素晴らしい力が発揮出来るのである。しかし、大抵の人はそんなことは思っていないから是非、自分が力を入れて、力んでやらなくてはならないと頑張るのである。しかし、その為に本来の動きが妨げられ、スポーツで言うと本来の筋肉の動きがその力みによって妨げられ、強く打とうとしているのが却って、テニスだとラケット、そして野球だとバットの振りが鈍くなるのである。
 振りが鈍くなればラケットとかバットのヘッドスピードは遅くなり、ヘッドスピードが遅くなれば、打とうとする対象物、テニスとか野球などの球技ではボールということになるが、それに対して効果的に力を伝えることが出来ず、ボールを遠くに飛ばしたり、早いボールを打つことが出来ないのである。

 だから、達人というのはその人間本来の無限力の力の源泉から出て来るパワーを余計な力みでそれを鈍らせることが無い人の事を言うのである。
 この余計な力みを取る為にとても大事なのが、それは先ず自分には無限の力が宿っているということを信じて、それに任せる事である。そして、姿勢を正し、顎を引き、頭から一本の糸で天から吊られていると思って背筋をピッと伸ばす訓練をすることである。そうすると臍(へそ)の下に重心が落ち着き、そうなると肩の力が抜け、気持ちが落ち着くものである。それが腰が据わるという状態である。
 フェデラーは誰に習ったのか知らないがこの姿勢が見事に出来ている。腰が据わった感じなのである。
 この様に上体の脱力が出来、腰が据わっていれば、所謂、気持ちが「あがる」ということが無くなり、常に冷静で落ち着いた精神状態になり、テニスのプレイに入れば、余計な力が抜けているから自己本来の力とラケットそのものの力そして自然の重力の力を最も効果的に駆使していくことが出来るのである。それが出来ているのがこのロジャー・フェデラーである。
 彼はその達人の域に達したプレーで無敵のテニスプレーヤーとして今や世界中にその名を轟かせているのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-07-09 18:51 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

若貴問題について

 久しぶりに時事問題というか余り、程度のいい話ではないが今、話題になっている問題について書いてみる。例の「若貴問題」である。

 周知のように史上初の兄弟横綱であった花田勝氏、光司氏の兄弟不仲がいよいよ深刻の様である。昨日も双子山親方の35日法要が行われたが、二人は殆ど顔を合わせなかったそうである。

 私はこの二人の構図はよく分かる様な気がするのである。即ち、ちゃらんぽらんだが割合、何にでもつぶしがきき、現実的な考え方をする兄、そして生真面目な求道家タイプの弟。ちょっとこの弟は私に似てなくもないので彼の気持ちが何となく分かるのである。

 聞くところによるとそもそも兄弟の確執はどの辺から始まったかと言うと、兄の勝氏(若乃花)が横綱になったあたりらしい。若乃花は相撲はうまいかもしれないが軽量で小柄ということもあり実力的には横綱にはなれる資格が無かったのに兄弟横綱で相撲人気を盛り上げようとした相撲界の商業主義により横綱若乃花が誕生したと言う説があり、相撲や横綱というものを神聖視していた貴乃花がその事に対して、非常な憤りを感じたと言うのである。神性な横綱という地位をちゃらんぽらんで実力もない兄が汚したと弟の目には映ったのかも知れない。

 貴乃花は大相撲で割合、日常的にあると噂される八百長には一切、手をつけず、ガチンコと呼ばれる真剣勝負だけで横綱に上り詰めた横綱中の横綱である。そうなるまでは彼は素質に恵まれていたとは言え、人の何倍もの努力をそのストイックな精神力で重ねたはずである。それなのに割合ちゃらんぽらんで現実的な兄がひょいひょいとその横綱になってしまったのだから、この生真面目な弟にはそれが許せなかったのだろう。

 でも、これがもし他人同士だったらどうであろうか?貴乃花はこうやって楽に横綱になった若乃花という力士をこうまで憎まなかったであろう。「まあ、しょうもないやつ」くらいで流していたはずである。それは何故かというと他人にはそんなに思い入れがないからである。
 例えば、となりの親父が愛人を作ったからと言って、世の奥様方はそんなに憤らないであろう。だが、これが自分の亭主ということになると「怒髪天を衝く」ということになると思う。それは自分の家族は他人より愛しているが故にこうあって欲しいという理想像があり、それに相手が反したことをすれば相手を愛している分、憎しみも深いからである。

 そういう訳でこの若貴に限らず、憎しみ合っている仲の悪い兄弟姉妹というのは実は仲が良く、お互い愛し合っているからこそ憎しみ合うようになるのである。

 それでは実際問題、こういう場合、どうしたらいいのか?どうやったら仲良くなれるのか?皆さんはどう思いますか?それは相手に理想像を求めないということである。相手を愛しているからこそ相手に理想像を求めてしまうのであるが、相手の短所ではなくて長所を見ればいいのである。

 人間は全ての面において、完璧な人間はおらず、皆、長所と短所があるのである。短所のない人間はいないが長所のない人間もいないのである。
 ある長所を持っている人間はその自分と同じ長所を持っていない相手をいたずらに自分の尺度で責めるのではなく、自分は全体の役割の中で相手にない長所を持っているのだから、自分の長所で相手の短所を補う役目があるのだと思うようにすればよいのである。
 逆に相手は自分にはない長所があるはずだからそれを探し出して、感謝すればいいのである。そうすれば、お互い、相足らざるを補い合って、全体の家族、組織、社会としてうまくものごとが運び、皆幸せになるのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-07-04 20:37 | 時事問題 | Trackback | Comments(2)