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天分を生きる

 人間にはそれぞれ神から与えられた天分があるのである。
 人間は本来無限力であり、どんな才能も内に秘めており、何でも出来るのであるが、一つの人生で発揮される天分というのはある程度、限定されており、それは人それぞれ異なるのである。
 それは人間は神に生かされているのであり、その神から与えられた役割、個性というものが、我々一人一人にあるのであり、その役割、個性に応じた能力を出して、それぞれが社会、人類全体に貢献するようになっているからである。

 私を例に上げると私は神の子であり、実相は完全円満であり、潜在的に無限の力を持っているのであるから、それを自覚し、努力、訓練していけば、およそ何でも出来るのである。だから、自分としては子供の頃、余り慣れ親しんでいなかった球技に二十歳を過ぎてから色々挑戦しているのだが、それでも子供の頃からやって来た人には力が及ばず、たまにPTAなんかの野球やソフトボールの試合などでもレギュラーになれず、ベンチでスコアブックをつけたり、チームのまとめ役をやったりしているのである。
 私もその気になれば、スポーツは上手に出来るはずであり、実際ある程度、出来るが、やはり、そこで人より力を発揮するということよりもチームのまとめ役とかお世話係とかに力を発揮するということの方が私の今生における神から与えられた天分であるから、どうしてもそういう役回りになるのである。

 その事が我々は神から生かされているという事であり、一人一人神から与えられた使命、役割を生きて、人類に貢献するという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2005-08-31 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

罪は赦される(2)

 幸福をつかもうとすると幸福は逃げて行く。我々はただ神に生かされているのである。今、生かされている事を悦ぶべし。
 我々は今、神に祝福されて、生かされているのである。それを正に認めるべし。自分はまだ、そんな資格は無いなんて謙遜、遠慮するなかれ。そんな謙遜は却って、神に対する冒涜である。神は罪を全部、赦して下さっているのである。
 
 心の底から腐った悪党は別として、善人と言われる人の中には自分はあの時、こんな罪を犯した、あんな悪いことをしたと思って、自分を責め続ける人がいるのである。
 そして、こんな罪を犯した罪深い自分は到底神に赦される資格がないと思っているのである。そして、自力で何とか罪を消そう、贖おうとして、潜在意識で自己処罰して自分を病気にしたり、悲惨な事故に遭遇させたりするのである。
 
 しかし、現象の奥の神に作られたそのままの世界において、罪は神が全部、消して下さっているのである。何故なら神は全宇宙に拡がる無限の光そのものであるから罪という闇を一瞬の内に悉く、焼き尽くしてしまうからである。
 だから、現象的に我らにどんな罪が見えていようともその奥の本当の世界、実相においては罪は神により消されている。

 この現象世界は我々の心、認識が映っている世界であるから、現象の奥の本来の世界、実相世界には罪や悪がないのにそれを心の眼で観ないで、現象だけ見ておれば、罪がある、悪があると認識するその心が映って現象に色々の罪や悪の映像が出て来るのである。
 そして、それを実在する世界だと思うように我々の脳髄は作られているのであるから、自分も他人も過去においてあんな罪を犯した、こんな悪いことをしたと心で握っているのである。

 本来の世界では全ての罪が赦されて、罪人なんて自分を含めて誰もいないのに自分は罪を犯した、あいつも罪を犯した、こんな罪深い者は到底、神に赦される資格なんてないんだと思い、そうである以上は自力で何とか幸福をつかもう、罪を消そうと色々焦って、努力するのであるが、いくらやってもその元々、罪がある、罪ある者は罰せられなければならないという認識通り、自分を不幸にして行くのである。

 そうではなくて、神により全ての罪が消されて、神に生かされ、祝福され、完全に幸福にして頂いているのが正に本当に自分であり、それは今、ここにあるのである。それが本当の姿、実相であるのに自分はそんな資格はない、自分は神に赦される存在じゃない、罪はある、悪はあるなんていうのは神の宇宙に拡がる無限の完全円満さを疑い、それを拒絶するというこの上ない傲慢さがあるのである。

 それは借金を借り主から帳消しにして上げると言われているのに、その好意を受けないでいつまでも借金が返せていない自分を責め続け、病気になる人と似ている。

堀 浩二
by koujihori | 2005-08-30 12:25 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

人を赦すこと

私は先日、ある会である人から大変、無礼な扱いを受け、私は表面は取り繕ったが内心大変憤慨し、家に帰ってその怒りを妻にぶちまけた。
 明日になったらこの会の責任者に注意の電話を入れてやろうとか思いながら、むしゃくしゃしながら就寝したのである。
 しかし翌朝になってみると、どうも体調が悪いことに気が付いたのである。昨日の精神の乱れをそのまま引きづっている感じであった。
  その時、私は自分の考え方の間違いに気が付いたのである。

 自分が如何に理不尽な扱いを受けたからと言って、それに対して憤慨し続けるならば自分を傷付けることになるのである。
 人を赦すことが大事である。他人が真理にかなわない事をしているからといってそれを良くしてやろうとして、その悪をつかみ、非難するという事をしても、非難された相手は決して良くならないのである。何故なら、こちらに相手の悪をつかむ心があり、相手も悪を指摘されることで自分はこんなに悪い者だと思うから、認識すれば、現れるの法則により、その相手の悪は決して無くならないのである。

 相手の悪をつかむ心は自分の精神をかき乱し、自分の脳髄にストレスを溜め、脳細胞、脳神経を破壊し、判断力、記憶力を減退させ、不安の心を強くさせる。
 相手の悪が見えるのはこちらに人間にはこういう悪があるという自分の心が映っているのである。相手を良くしたいのなら、相手の悪を見ずに、相手の良い面、即ちその人の内の善なる真の姿、本来の神の子の姿のみを心の眼で観るのでなくてはならない。
 その上でその場、その場でインスピレーション的に相手に適切な注意を与えてもよい。しかし、それは相手の悪を認めて、言っているのではなく、相手の悪は本来の姿ではないと悪を否定し、相手の表面の仮の姿である悪の奥に神に作られたままの善なる姿を肯定する心で言わなくてはならない。

 私はこういう人を赦す心になった時、私に非礼な行いをしたその人物も何故、そんなことをするのかということが何となく分かって来たのである。それはこの人は寂しいだけだったのだと思い、根は悪い人ではないんだと思ったら相手を批判する心も薄れていった。

堀 浩二
by koujihori | 2005-08-26 08:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

瓦は磨いても瓦である。

 ものごとの上達には訓練が不可欠である。しかし、訓練する心構えが大事なのである。
 仏教の寓話でこんなのがある。ある人が庭で瓦を一所懸命磨いていたのだそうである。それを見つけたあるお坊さんが「あなた、そこで何をしているのか」と訪ねたのである。そうしたら瓦を磨いていた人は「はい、私はこの瓦を磨いてダイアモンドにしようと思っております。」と答えたというのである。

 皆さんはこの瓦を磨いていた人は磨いて磨いてついにダイヤモンドを見出したと思いますか?答えは自ずと明らかでありましょう。
 瓦などいくら磨いてもダイヤモンドになるはずがないのである。美しいダイヤモンドの宝石を得る為には瓦でなくてダイヤモンドの原石をこそ磨かなければならないのである。

 しかるに何かに上達しよう、良くなろうと思って訓練に励んでいる人はこの寓話に出て来る瓦を磨いている愚人と同じ愚を犯していることがままあるのである。
 この世界は自分が認識したことが現れてくる世界であるから、我々は神の子無限力の可能性を内に秘めていても、自分はそんな素晴らしいものじゃない、まだまだ駄目で下手な者であると認識して、それを良くしよう、良くしようとして一所懸命訓練に励んでも、その自分の、自分はまだ駄目であるという認識の通り、いくら訓練しても、いつまで経っても大した上達はせず、駄目で下手なままなのである。

 自分が完全円満で無限力の神の生命を戴いた神の子であるということは将来、そうなるとかいうものではなく、今、既にこのままでそうなのであり、それは訓練してもしなくてもその素晴らしさは既にあるというのが真理であり、その真理を踏まえて、今自分は素晴らしい、うまいんだと思ってどんどんやって行くことが大事である。

 私はテニスや英会話をやっているがこれが長年、努力している割に大して力が伸びていなかったのである。
 しかし、ある時、英会話のヒアリング訓練をしている時にはっと気が付いたのであるが、自分の英語のレベルはまだ駄目だ、駄目だから英語を話せない、分からない、だからこうやって反復練習して少しでもしゃべれるレベル、聴けるレベルに近づきたいと思ってやっていたのがそれは間違いで今、自分は英語が話せるのだ、今、自分は英語が聞き取れるのだと気付いたのである。
 何となれば自分は今、神の子無限力であるからである。だから一々英単語を日本語に置き換えて英語を理解しようとするのではなくて自分は英語をアメリカ人のように今、分かるのだから英語を英語として聞き、どんどん理解していこうと思ったのである。
 そうしたら心なしか、ラジオのAFNなどのナリュラルイングリッシュが以前より大部聴き取れるようになったのである。

 アメリカ人やイギリス人は何故、英語がどんどん話せるかと言ったら、それは自分は英語が分かる、話せると心の底から信じているからである。信じているからその信念通り、どんどん話せるのである。それは何故そうなったかと言ったら、赤ん坊の時から自然に英語の世界で暮らしているから、自然に自分は英語を話せるのは当たり前だという信念が出来上がったのである。
 英語に限らず、その人があること、例えばテニスが上手いとかというのはその本人が自分はこのままでテニスが上手いと信じているからである。
 だから、ものごとを習い始めるのは三、四歳位が一番いいと言われるのである。もの心つくかつかない内に始めたことというのは恰も赤ん坊が母国語を自然に憶えるように自然に憶えてしまうのであり、自然に憶えたことは自分は出来る、うまいという信念を自ずと持つ様になるのである。
 
 自分は出来る、上手であると思っていれば、その人はそのことが上手いし、出来るのである。そして、どんどん実際にその力を行使して、ますます上手くなって行くのである。
 例えば自分はテニスが上手いと思っている人はその力を発揮したいと思ってどんどん、テニスの試合にも出て、そこでますます強くなっていくのである。自分は英語が話せる、分かると思っている人はこれだけ単語を覚えてからとかこれだけ文法をマスターしてからと構えないで、どんどん外国人と話しをして、どんどん英語が上達して行くのである。

 それがダイヤモンドの原石を磨いてダイヤモンドの宝石にしていく訓練であり、自分はまだ駄目だ、まだ下手だ、下手だから訓練して少しでも上手い人に近づくんだなんて思ってやる訓練は瓦を磨いて、ダイヤモンドの宝石を作ろうとしている愚人と同じ愚を犯しているのである。

 
 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-23 12:34 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

良薬、口ににがし(2)

 前々回、人生は学校であるということを書いた。我々はその様にこの人生で一つ一つ学んでいるのである。
 そして、本当に学ぶということはそれは厳しいことである。甘い環境でノラクラしても大した学びは出来るものではない。厳しい環境、厳しい問題において我々の魂は飛躍的に伸びるのである。
 真に学ぶということはどういう事かと言ったら、単に知識的に真理はこうだと学ぶことではない。それは体験として、魂で学ぶということである。それにはどうしても失敗体験ということが大事になって来る。
 
 スポーツ、例えばテニスでは正しい効果的なフォームで打たなくてはならないが、その正しいフォームはどうやって身に付くかと言ったら、人から正しいフォームはこうだと言われて、その通り素振りで反復練習していれば本当に自分のものになるかと言ったら、あながちそうでもないのである。
 もちろん、反復練習は大事ではあるが、本当にその正しいフォームで自然に打てるようになる為には試合中、何も考えないで、今までの自分のやり方で思い切ってやって行く中でそれまでの打ち方、やり方ではどうにもうまくいかないという失敗体験をして、その時、初めてかつて先生から教わったやり方が大きなヒントとなって、正しいフォームを何となくインスピレーション的に体感した瞬間、「これだ!」と思って初めて自分の個性にあった効果的で正しいフォーム、打ち方が自分のものとして出て来るのである。

 同様に人生において、色々生長の家のような正しい信仰団体で説かれている真理を学ぶ場合、それをただ本で読んで「ああ、そうか。」なんて言っているだけでは自分のものになっていないのである。
 我々は自分の人生の中で体験して、失敗して、痛い目を見て、そこで初めて、生長の家で言っている人間神の子、無限力ということが「本当にそうだな」と肌で実感して、分かるのである。

 その為にはただ、のらくらして安易な道を歩もうという考え方では駄目なのである。この人生学校の中で自分に課題として巡ってきたことに対して、逃げないで真正面から取り組むということが不可欠である。
 「良薬、口ににがし」である。自分に取って、最も恥をかき、惨めな思いをして、実感した経験がその時の自分に取って、最も大切な素晴らしい事を理屈ではなく実感で教えてくれているのであり、自分に取って、最もきつく、厳しく感じられる課題の奥にその時の自分に取って最も必要で大切な生きた教訓が秘められているのである。
 そして、我々は人生学校の中で失敗体験をする中で本当の真理を体得するのであるから、失敗した自分を厳しく指摘してくれる相手というのは自分の間違っている部分を自分に如実に実感させてくれる相手であるから、その人は自分に大切な真理を教えてくれる恩人であるということになる。だから、この人生で本当の不幸、困ったこと、いやな人なんていないのであり、全て、その仮面をはげば、自分の可能性を引き出し、応援してくれる味方である。
 我々は実相においては既に無限に素晴らしい、既に悟っている神の生命であるから、自分が本当に間違っていたと心の底から実感すれば、間違っていた、うその自分が目覚め、悟った自分が出て来るのである。それが人生における学びである。
 だから、自分に与えられた課題に対して、苦手だから、恐ろしいからという事で逃げ回っていては駄目である。
 その恐ろしいと思っている課題や相手に対して顔を背けず、逃げずに真正面からぶつかって行けば、必ず自分の可能性を引き出せるのである。そして、その恐ろしい相手、困難で厳しい問題、課題の奥の本当の顔は神様のやさしい、やさしいお顔であったという事に気が付くのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-21 16:08 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

小泉首相のやり方について

郵政民営化がどれほど重要か分からない。確かにメリットはあるだろう。しかし、デメリットもあるという指摘もある。何でもかんでも民営化して資本主義の元にさらすというのは確かに経営は効率化され、組織もスリムになるだろう。しかし、資本主義の元におかれるということは、資本主義の第一原則は利潤追求であるから、即ち金儲け第一主義になるということである。
 そうなると肝心な点が見落とされるのではないか?郵便事業ではそんな心配はないが業種によっては人命を第一するとかそうしたことが抜ける恐れもあると思う。JR福知山線のあの大惨事は国鉄が民営化されていなければ起こらなかったし、数年前のアメリカの大停電が長期間に渡って復旧しなかったのも電気会社が民営化され、余りに組織が細かく分断され、縦割りになっている為に横の連携が取れなかった為である。
 
 私は政治や経済の専門家ではないので今回の郵政民営化の是非をここで論ずる資格はないが、しかし、この一点の政策を通す為に自分の反対陣営の人達を切って捨て、そしてお互い相戦わせるなんていうのはいかがなものか。
 小泉首相は人間としての暖かみとか情愛という部分に欠けているのではないか。多くの人を赦し、抱えるリーダーとしての器量がないのではないかと思う。私はこのようなやり方は自分のお気に入りの人間、所謂、ごますりしかしてこない茶坊主のみを自分の周囲に置き、それ以外の人間を切り捨てていく典型的な独裁者の様相を呈していると思う。
 組織の中には色々な意見、個性を持っている人がいるのであり、自分に合わない者を全部切り捨てていては到底よい組織、よい国にはならないのである。
 こういうやり方は色々な人のいい面を切り捨てることになるので大変残念だと思う。彼は独裁者的であり、その手法は独裁者の用いる恐怖政治である。リーダーというのは懐深く、色々な人の長所を伸ばし、相容れない所はそれを受け取り、包容する位の度量がなくてはならないと思う。

 小泉首相は就任当初、自民党をぶっ壊すとか言っていたが、今回、本当にぶっ壊すことになったわけだが、私が思うにこの人は唯物的で表面の効率に気を奪われて、日本の無駄もあるがそうした効率で割り切れない大事なもの、文化を大部、それこそぶっ壊しているような気がするのである。

 大きな駐車場付きの大店舗というのが酒類、本屋から家電製品まで今では当たり前になってしまったが、それで昔からの町の個人商店がどれだけ寂れていっていることか。
 その他、地方自治体の合併、銀行の合併などそれは元々日本人が持っていたきめ細かい地元のつながり、共同体というものを効率第一の考えで破壊していっているような気がするのである。

 私は今回の選挙は恐らく、小泉首相率いる自民党は大勝すると思う。郵政民営化の是非を問われれば、行革が大事だと思っている大部分の国民から支持を集められるのは火を見るより明らかであるからである。小泉首相もその辺の所はちゃんと計算して衆院解散総選挙に踏み切ったはずである。
 彼は大衆の心を読むのが非常にうまい。ワンフレーズポリティシャンと言われ、大衆受けするパフォーマンスに長けているのである。しかし、あのかつてのドイツのヒトラーも全く同様であり、その一流の演説術から当時のドイツの大衆の心をつかんでいったのであるが、その後のドイツの運命は周知の事である。

 真の民主主義は国民の本当の声に耳を傾けて、その声を積極的に採り入れる事であるが、民主主義とよく似ているが衆愚政治というものは民衆の本当の事に耳を傾けるのではなく、如何に表面的に民衆受けするかということを考え、その為の詐術を弄して、民衆をだまし、民衆をミスリードするのである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-08-19 12:57 | 時事問題 | Trackback | Comments(2)

良薬、口ににがし

  人生は我々の魂の修業の学校になっているのである。我々は単なる肉体という物質的存在に過ぎないものであるならば、この人生が魂の修業の場なんて考えは出て来ない。長生きしてたかだか80年とか90年の長さの人生を生きても死んでそれで終わりなら、出来るだけ楽をしてずるをして悪いことをして肉体の快楽を貪って生きおおせた方が得だからである。

 しかし、我々は肉体の奥に霊なる永遠不滅の神なる魂を持っている、というかそういう霊なる存在が我々の本体である。そして、その霊なる本体である魂が徐々に生長して、その内在の無限の素晴らしさ、完全円満さを徐々にこの現象世界に表現させて行くのが我々の人生であり、それは我々の完全円満さの表現の場であると共に我々の魂の修業の場である。それを人生学校というのである。

 そして、この人生で一見不幸みたいに見えるものは具体的な不幸ではなくて、これ全て我々の魂の修業の為の教材である。それは我々の外から来る具体的な不幸ではなくて、そもそも無限生長を欲する我々自身の奥底の心が造り出した問題である。だから、それは自分の魂の修業の為に丁度いいレベルの問題を造るのである。従って、この人生で出て来る問題はこれ全て我々に解決可能な問題だけなのである。これを称して、生長の家では「神様は決して解決出来ない問題を与え給わない。」と言っているのである。

 決して解決出来ない問題は出て来ないということは我々は何か問題が出て来た時に「もう駄目だ」とあきらめて、投げ出したり、それから逃げたりしなければいつかは必ずその自分に与えられた課題を解決出来るということである。
 出来ないのは出来ないと勝手に判断して、自分の問題から自ら逃げ出した時だけである。

 我々は人生上でつらいこと、恐ろしくて逃げ出したいこと等が出て来ることがあるかも知れない。
 しかし、こういう時こそ向上のチャンスなのである。その奥に無限に素晴らしい宝物が控えているのである。それは例外なくそうである。

 我々は何かの向上とかを目指して一つことを頑張っていて、毎日練習とか訓練を繰り返していても一向にうだつの上がらない状態が続くことがあるのである。
 スポーツや武道やその他何らかの道を目指して頑張っていても全然それが目に見える成果に結びつかないことがある。生長の家をやっている人なんかもそういう人がいると思う。一所懸命生長の家をやってもやっても悟れないとか不幸や病気が無くならないとかと思っている生長の家の人もけっこういるのではないだろうか。

 人生は学校であり、魂の修業の場であるが、それは単なる反復練習をしていればすぐにそれが直接、生長や成果に結びつくというような単純なものではないのである。それどころかやればやるほど分からなくなる、へたになるということもおうおうとしてあるのである。
 しかし、そうした中でも努力をたゆみなく継続していく中でぽっと突き抜けることがある。何らかのきっかけで本物をつかむのである。それが悟りであり解脱である。本物の既に素晴らしい、完全円満なる我々人間の実相が直接出て来るのである。
 そうなったら後はそのままでどんどん目に見える成果が出て、かつどんどん生長、進歩するものである。
 そういう本物を探し当て、飛躍的に進歩生長する直前は「丑三つ時は一層暗い」のことわざにあるように努力を継続する中で一番絶望的になる時である。もう駄目だと絶望的になって、努力を放棄したくなる瞬間であり、ものごとに真正面から立ち向かう勇気が失せて、逃げ出したくなる瞬間である。

 しかし、つらい思いをしてみじめな気持ち、絶望的な気持ちになる時はその奥にとても重要な真理を秘めているものである。そうした中で努力を継続して逃げないで自分が恐ろしいと思っているものに対して真正面から向き合って、立ち向かって行くことで、そこに無上に素晴らしい真理、悦びを見出し、魂は飛躍的に進歩する。

 「良薬口ににがし」である。自分がつらい目にあった時こそ、自分を最も進歩向上させてくれる教訓がそのつらい体験の中に潜んでいるのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-18 20:57 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

行動は結果である。

 家庭内の内輪の話で恥ずかしいが先日、家内と大喧嘩した。喧嘩というよりも今回は私が一方的に怒り狂ったのである。原因はプライベートな事なのでここでは披露出来ない。要するに家内が私の言う通りにしてくれなかったのである。

 私は余り感情を爆発させて怒ると却ってストレスが溜まるということを知っているからなるべく怒らない様にしている。会社でも以前ほど怒らなくなって来ている。
 でも家庭内だと気持ちがゆるんだのか今回は恥ずかしながら、尋常ではないほど怒りまくってしまったのである。さすがに家内相手に手を出したり、ものをこわすという所までは行かなかったが。

 私は精神は安静にして心を整える事を心掛けているが、その時の怒り爆発でそれまでのコツコツとした努力が全て吹っ飛んだ。
 それは夜遅くであったのでその後、興奮が収まらず、中々寝付けなかった。テレビを見ながら、午前2時過ぎまで起きていたが、その後、床についても眠れず、その日は殆ど眠れなかった。
 
 私は最初ちょっと後悔した。せっかく今まで精神と頭脳をコントロールして来たのにこんな事をしてしまったと思ったのである。しかし、確かキリストのお言葉だったと思うが、「行動は結果である。」という言葉を思い出したのである。
 人間の運命、その時何を行動するかということは実はその以前に心の世界で既に原型が出来ているのである。心の世界で怒りが溜まり、それを爆発させるという運命が既に出来上がっているならば、それが実際、怒り狂うという結果が出て来ざるを得ないのである。そして、出て来て、実現することで心の世界にあったものが消えてなくなるのである。
 だから、バカなことをしてしまった、罪を犯してしまったということを余り、くよくよ後からくやまない方がよいのである。それはその時の自分が不注意だったのではなく、元々心の世界にあったものが出て来たに過ぎないからである。
 よく、行動を重ねて行くことが心の世界に業として蓄積して行くという事を聞くが逆に、ある行動をしてしまうという事は心の世界にあったその行動の原型(業)の実現したもの、結果であるということも言えるのである。

 その様にあるバカな行動をしてしまう、罪を犯してしまうということも今までの悪業が消える姿、結果であるからそれが出て来たらああこれで悪業が消えたと思って、次からはそんなバカなことをしないと反省して、それ以上はその愚かな行動を犯した自分を責めすぎないでいるがよいのである。
 それなのに自分はこういう罪を犯してしまったといつまでもその過ぎた事に心を引っ掛からせ、ちまちま悩み、後悔し続けるならば、また心の世界にそうしたバカな事をするという業を作る事になり、またそれがいつかは爆発して同じ様な過ちを犯してしまう事にもなるのであり、そこでまた悩むとまたその行動の業を作ることになり、そうなるとそれが果てしもない悪循環になってしまうのである。それを業の流転というのである。

 そして、こうしたトラブルがあった時は出て来たトラブルが何を自分に教えてくれているかということを冷静に考えるがよいのである。
 相手は自分の心の影であるから自分を憤慨させるような事をする相手というのは自分の心の姿を映しているのであり、自分もかつて誰かに同じ様な憤慨させる事をしたに違いないのである。今回は相手がそうした自分の姿を演じてくれる事により、如実に相手が自分の至らない点を教えてくれたのだと思って相手を悪い人間だと思わないで感謝すればよいのである。
 そして、後は神様に全託すればよいのである。そうしたら悪業の流転は消え、問題は解決し、更にお互いの人格が向上し、我々の完全円満の実相がより顕現するのである。

 家内と喧嘩したのが3日前であるが今はすっかり、よりお互いの絆が深くなった気がする。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-17 22:27 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

心でつくる世界

 私はこのお盆休みを利用して家族と愛知の万博に行って来た。
 愛知博は色々の見せ場があり、それぞれそれなりに楽しめるが私が特にいいと思ったのが日本館である。その中でもこれはと思ったのが、プラネタリウム型の巨大スクリーン映像である。
 それは部屋全体が大きなプラネタリウムの様な球体になっていて、その球体の内部に観客が入って、球体の内側全体に映し出されている全方位型のスクリーンを眺めるのである。
 その映像効果により観客自身が数十メートルの高さまで空高く舞い上がったり、海中に飛び込んだりするような錯覚を起こさしめるのである。

 観客自身はそのドームの中央に直立していて、周囲の立体スクリーンが動いているだけなのだが、観客には周囲が固定していて自分自身が空中に高く舞い上がったり、落下したりするように感じるというものである。

 私はこのスクリーン映像を体験している時、正に我々は普段の生活もこれと同じ様な体験をしているのではないかと思ったのである。
 
 皆さんの中には映画「マトリックス」をご覧になった方があるだろう。それはコンピュータと人間との戦争を描いた近未来サイエンス・フィクションだが、私はこれは大変、深淵な真理を描いていると思っている。
 この中で描かれていることは近未来においておのれが開発したコンピュータとの戦争に敗れた人類が、コンピュータによりその肉体をコンピュータの支配する世界での動力源として利用されるというものである。
 人間達は一人一人特殊なカプセルに入れられて、その肉体の体液は動力源として、搾取され、利用され、いわば培養された様な状況にあるのだが、その脳髄はコードによりコンピュータにつなげられ、コンピュータがプログラムした仮想現実を見せられて生きている。
 人間達はその仮想現実によりそれぞれがこの21世紀の世界に実際に普通の社会生活を送って生きていると思っているが、実はこれらは全て、コンピュータがプログラムした仮想現実を見ているに過ぎないのであって、本当の人間はカプセルに入れられ、眠らされてコンピュータに利用されているのである。
 そのコンピュータがプログラムした仮想現実世界を「マトリックス」というのである。

 これを大抵の人は単なるSFの物語だと思っていると思うが、実は我々の現実世界はこのマトリックスとほぼ同じと言ってもいいのである。
 こんな事を書くと、読者の方は何をバカなと思うと思う。でも、もうちょっとつきあって欲しい。
 
 我々は五官を通じて、この世界を認識して、生活している。そして五官から受け取った情報を神経系統が電気信号で脳髄に伝えて、そして脳髄が認識して、そこで初めて我々はこの世界の事物を認識している。
 しかしながら我々はこの世界をそのままあるがままに認識しているのではないのである。この世界の本当の姿は皆、実は霧の様なものである。物質には気体、液体、固体とあるがそれはそれを構成する分子の密度によって、気体、液体、固体と別れるということはご存知の通りである。
 その一番密に分子がつまっているはすの固体でさえも、その分子と分子の距離は隔たっており、分子の大きさを一つの天体の大きさに等しいものとすれば、その固体の分子間の距離は宇宙の天体同士の距離以上に隔たっているのだそうである。
 そうなると固体と言えども、その本当の姿は霧みたいなものと言わざるを得ない。それを例えば机なら机と人間が認識するのは人間が脳髄で机というものはこういう個体的形をしていると勝手に認識しているからである。
 机という固体から発する光の波動を我々の視神経という神経系統が受け取って、それを脳髄に伝え、そして、脳髄がその伝わって来た刺激をきっかけとして、そこに机なら机という固体が存在すると認識するのであるが、実はそこには具体的には霧のようなものがあるに過ぎず、それを目で見て、そして手でさわって、机という固体として認識しているのは我々の脳髄が神経系統から入って来た情報を勝手に組み立てて、それを机という堅くて具体的な存在として認識しているに過ぎないのである。

 冒頭で紹介した愛知博のパビリオンで自分の周囲のスクリーンが動くことにより、観客自身が動いたように感じさせるようなスクリーンの刺激により観客の脳髄が勝手に判断して観客自身が動いているように思わせれば、その観客に取っては自分が体験する世界は正にその観客自身が空中に跳ね上がったり、海中に飛び込んだりという世界になるのである。

 だから、人間は自分が信じた通りの世界のみを体験するのである。自分が出来ると思えば出来るし、自分は駄目だと思えば、駄目になって行くのである。そして、この人はいやな人だと認識すればその人が自分に何か言ってきてもそれを全て悪意に受け取るようになるのである。

 近代の医学は人間の病気というものがほぼストレスの継続によって引き起こされるということを立証し、そのことを広く公言し、訴える医者も多くなって来ている。
 人間の病気は心によって起こされるのである。そして、その他、あらゆる問題は心によって起こされる。それはこの世界が実は具体的に存在する世界ではなく、本当に存在する世界はその奥に、中(うち)にある霊的実相世界であり、そこには神が作り給うた完全円満な世界があるだけであり、具体的な問題や悪というものは存在しないのであるが、我々がこの世界には悪があると思って、それに心を引っ掛からせ、心でそれを勝手に認識すれば、悪、問題を心の力で映像として映し出すからである。
 
 だから取り越し苦労しないで、悪を心に描かなければ悪は出て来ない。災難に会いようがないのである。
 それをこういう災難がある、こういう悪がある、こういう不幸があると勝手に取り越し苦労し、それに備えて戦々恐々としていれば、その心が悪や不幸や災難を映像として現象世界に映し出す。それがこの世界の不幸にあえいでいる人達の実状である。

 しかし、それらは皆、自分の心が映し出したいわばマトリックスであって、本来実在しない。ナイのである。そして本当に実在する自分そして本当の自分が住む世界は前述したように完全円満の世界であり、完全円満の自分である。映画「マトリックス」では本当の自分は機械に支配され、搾取され、配線された哀れな肉塊に過ぎないというものであるが、実際に我々が生きているこの本物の世界の本当の我々は完全円満、自由自在、無限力の神なる存在である。
 それを我々の心が認識すれば、この現象世界、現世(うつしよ)の世界にその認識した通りの完全円満で問題が何もない世界が展開する。そうすると病気その他のあらゆる不幸、問題、悩みが自分の周囲の世界から消え去るのである。

 それを伝えているのが生長の家の人類光明化運動であり、国際平和信仰運動である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-15 23:02 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

背水の陣

 生長の家創始者、谷口雅春先生の御著書「生命の実相」第七巻「生活編」に「背水の陣を敷け」という章がある。

 先日、NHK大河ドラマ「義経」がやっていたが、その中で平家討伐の総大将役を頼朝から任された義経と源氏の全軍の目付役の武将とがその戦法、兵法について対立するシーンがあった。
 義経は常に一戦一戦に決死の覚悟で臨み、この戦いに負けたら次はないという背水の陣で戦いに臨むことを主張したが、軍の目付役は軍の大将たるもの、負けた時の備えも大事でその時の逃げ道を作っておくべきだと反論し、お互い譲らないというものであった。
 この様に義経は常にこの背水の陣を敷くという覚悟で戦をしたそうである。そして、古代ローマ帝国皇帝のジュリアス・シーザーも全く同様だったそうである。そういう彼らであったればこそ、この覚悟が彼らをして連戦連勝をたらしめたのである。

 人間は本来無限の力を内蔵しているが、それは鍛えられないと出て来ない。鍛える為には自分に背水の陣を敷かせる事が大事である。背水の陣を敷くとは自分をもう後がない様な厳しい状況に自ら置くという事である。
 逃げ道を作っておれば、どうしても覚悟が甘くなり、踏ん張りが利かないのである。自分が言い訳が出来る、甘えていられる環境に身を置いている者は何十年経っても、何歳になっても力がつくことはない、人格が高まることはない。
 従って、自分の生命を伸ばそう、人格を磨こう、能力を出そうと思ったら、自分をそれらの力を鍛えざるを得ない様な厳しい環境、場に置くという事が大事なのである。

 人生には色々の試練があり、自分だけが何故、こんな苦労をしなくてはならないのかと思うことがあるかも知れない。それは生命にかかわる病気だったり、その他色々の人生苦である。
 しかし、これらは皆、外からやって来た不幸ではなくて、自分の奥底の心、自分の生命をもっと伸ばしたいという心が自分に難しい問題を出して、背水の陣を敷かせて、自分を生長させ、無限力を出させる為に創り出したのである。
 自分の表面の心では意識していないが自分の奥底の本当の心、もっと伸びたい、能力を出したいと思っている心が自分に背水の陣を敷かせて自分を鍛える為にそうした人生における難問を自らの心の力の創化力(創り出す力)を駆使して、自らの人生上に創り出したのである。
 だから、自分の置かれた状態が他の人に比べて、不利だという事に不満を持つなかれ。それだけあなたの人格と能力は磨かれる機会に恵まれているのである。従って、困難に直面しても決してあきらめてはならない。途中で放り出したり、逃げ出したりしてはならないのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-08-09 17:57 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)