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修行について

 皆さんは皆、それぞれのお立場で日々、奮闘されておられると思う。毎日何の問題も悩みも無くて、ただのらくらと生きている人はいないでしょう。

 私は幼い頃、母親の影響で生長の家に触れ、毎日、就寝する時は母親に生長の家のお祈りをやってもらったものである。そのお陰で今の信仰を大事にする自分があると思っている。
 それはともかく、私は大学生になってから生長の家を本格的にやろうとして生長の家の組織にも入り、活動もして来た。そしてその中で色々紆余曲折もあり、精神的に行き詰まり、生長の家の宇治の道場に救いを求めた事もあるし、そして救われ、その他テニスや英会話や地域の活動とか様々な事をやって来た。
 その中で今、思うのは自分の経験の全てがこれ自分の魂の修行になっていたということ、無駄な経験が一つも無かったということである。

 生長の家では人間神の子ということが言われ、それが信仰の中心であるが、それを実生活に現す事、それを実相顕現と言うのだが、どうやって実相顕現し、我々の実相である神の子完全円満さを如何にして実現させるかという事が一大テーマになっている。神の子の完全円満さを現象的に実現させるということは自己の生命の実相を自覚すればよいのであるが、それを所謂「悟り」と世間で言うと思う。

 「気楽な悟り方」なんていう本もちまたには出ており、生長の家の人でなくてもこの悟りということには関心があると思う。
 生長の家では悟る方法として三正行というものの励行を勧めている。それは神想観という瞑想を毎日する行、そして「甘露の法雨」という生長の家のお経他の生長の家の聖典を毎日読む行、また、愛行と言って、生長の家の真理を人に伝える行、この三つの行を日常生活の中で地道にやっていくのが三正行というのであるがそれを本当に真剣にやっていけば自己の生命の実相を自覚する時が必ず来る。そして必ず実相顕現するのである。
 地道にこの行をしていけば、ある日突然、悟りとはこれだ、生命の実相とはこのことだと実感する時が来るのである。

 とにかく、生長の家以外の人でも、何らかの道を目指して、日々努力して行くならば、必ず神髄を究める時が来る。それは我々は実は神の子であり、それぞれが皆悉く無限の可能性を秘めている尊い存在であるからである。
 そして、特別何かの道を志しているという人以外でも人生上で自己に巡ってくる機会というものはこれ全て、自己の魂の修行の為の道具である。それは色々な人生上の試練、例えば病気とか、破産とか、離婚等々の問題であるがこれ全て我々の実相の完全円満さを磨き出す為の修行の為の練習台である。

 悟りとは特別な人だけの特別な心境ではなくて、万人のものである。そして、それを極めるのに特別な小難しい理屈とかは必要でないし、かと言って安易な道もない。ただ、毎日の自分の課題から逃げないで全力でぶつかる修行をせっせとして行けばよいのである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-09-30 13:01 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

我が儘ということ

 私は自分の事をずうっと正義感あふれる人間であると思っていた。私は人が放っておくような事でもこれはおかしいと思う事があれば、常に正面から向き合うし、それに対して何らかのアクションは必ず取る人間である事を自負していたのである。

 でも、そんな風に自分がおかしいと思う事に対しての自分の怒り方がちょっと怒り狂うような感じになる所があり、会社でも地域でも自分の納得出来ない事があれば、割合遠慮することなく相手に食ってかかるような所があった。

 しかし、私は何故か心に平安がないということも感じていた。それは常に自分の決めた尺度で人を責めていれば、その責める心はそのままおのれ自身に向けられる事になるからである。

 私は自分が正しい、相手は悪いと思っているから怒っていたのだが私はそうこうする中で自分の職場環境とかが本当に居心地のいいものであるという感じがしないのはもしかしたら自分の責任ではないかという気がして来たのである。
 会社には割合私の気に入らない人もいない事もなかった。そして会社のあり方も私の理想とする本来のあり方とはほど遠く、毎日私はそうした事に対して憤りながら仕事をしていたがそれはもしかしたら、自分の人を責める心が映っているだけではないのかと思った。

 そして、私は正義感で会社や他人に対して怒っているのかと思ったが、それは間違いで単に自分の我が儘で怒っているだけではないかと思ったのである。
 それに気が付いたのはある日、自分の心が鬱々としていてバッティングセンターに行った時の事であった。バッティングの練習をしている時に飛んで来るボールはバッティングセンターのボールと言えど、毎回微妙にコースと高さが異なるのであり、自分のこうと決めた型にとらわれてバットを振っているだけではその毎回ほんの少し違うコースに飛んでくるボールにジャストミート出来ないという事に気が付いたのだった。
 自分のこうでなくてはならないという型を捨て、臨機応変に飛んでくるボールにしなやかに対処してこそヒットを打つことが出来る。だから、我々は日常生活においても「こうでなくてはならぬ」という固定観念、自分の尺度を捨てて、相手に対応しなくてはならないのである。

 自分で勝手に決めた固定観念、尺度こそ我が儘ということである。私は相手を諭す為に叱っていたのではなく、自分の我が儘で怒っていただけだったのである。
 そんな事では相手から反発されて嫌われるだけであり、相手は常に責められているような感じだから決して自分に対して親しげに話しかけてくれることはない。そんな事で相手がますます嫌いになり、この職場はいやな職場だなんて事になるのである。

 我が儘というのは自分の思い通りにしたいという欲望であり、それは取りも直さず利己主義であり、相手に対する愛に欠けているのである。自分に愛がなくて利己主義だから自分のいる環境が自分の心を映して愛のないひどい人達ばかりの環境であると見えるのである。

 私はその事に気が付いてから、自分の心がずっと和やかに、平安なものになり、職場の人に対してもその相手のいい面を観れるようになって来た。
 そうしたら、この職場を変えなくてはならない、相手を正さなくてはならないといういらだちは消え、今、このままでいい職場であり、自分の同僚はいい人であって、今まではそれを自分が観ていなかっただけであった事に気が付いたのだった。

堀 浩二
by koujihori | 2005-09-28 12:29 | 家庭生活 | Trackback | Comments(2)

フェデラーの強さの秘密(2)

 先日行われたテニス全米オープンでは予想通り、男子では第一シードのスイスのロジャー・フェデラーが二年連続の優勝を飾った。

 決勝の相手は35歳のベテラン、アメリカのアンドレ・アガシで、これを3-1のスコアで破った。第一セットはフェデラーが取ったが第二セットは何とアガシが奪い返し、セットカウント1-1となった。
 続く第三セットはお互い一歩も譲らず、6-6でタイブレークに突入した。ここまではどちらかと言うと、昨年王者のフェデラーよりも35歳のアガシの方が押しており、もしかしたらアガシがこの史上最強と言われる若きチャンピオンを破るかと思われたが、タイブレーク(ゲームカウントが6-6となった場合、行われる方式で先に7ポイント取ればそのセットをものに出来る。)に入ったら俄然、フェデラーのエンジンがかかり、タイブレークカウント7-1で第三セットをフェデラーが奪った。

 その流れは続く第四セットも継続し、ゲームカウント6-1でフェデラーがこのセットもものにし、見事、セットカウント3-1で優勝を決めたのであった。
 
 序盤は劣勢だったフェデラーは第三セットのタイブレークに入った所で急に調子を上げて、その後はアガシを完膚無きほどに叩きつぶしたが、そのタイブレークに入った時、フェデラーは自分の中でギアチェンジする音が聞こえたというのである。
 素人目から見れば、フェデラーの様に史上最強と言われ、道を極めているような選手が試合中に逆境の中でそれ以上に進化するなんてことはないのではと思うが、フェデラーは最高のコーチは試合相手であると常に言っており、試合中も常に進歩、向上し続けているのである。

 本当の自信というものはこれで足れりという天狗の自覚ではなくて常に進化し続ける自覚である。昔から天狗は芸の行き止まりと言われ、オレはもうこれだけすごくなったとそれで満足しているようでは進歩はそこで終わりなのである。
 本当の自信というものは自分の能力は神から来る無限のものであるという自覚である。力が無限であるからそれを自覚する者は自分の現状のレベルに満足せず、常に生長を目指し、全力で研究、努力し続けるものである。

 だから、本当に自信のある者ほど、謙虚であり、天狗になることなく、自分はまだまだこれからだと思って、どんなに偉くなっても一瞬一瞬を全力で生きて行くのである。

堀 浩二d0022373_14344580.jpg
by koujihori | 2005-09-26 12:41 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

個性を伸ばす教育ということについて

 戦後は個性や自主性を重んじる教育という事が叫ばれ、日教組などでも盛んに個人の尊厳が大事だと言うことで生徒の自由、自主性を重んじるという方針で活動しているようである。その結果、学校でどういう授業が行われているかというと個性と自主性を重んじるのだから先生は生徒に教育してはならないというちょっとバカみたいな事がまかり通っているそうである。

 個性と自主性を重んじるという事自体は良いことであるが、それが間違った考え方が基盤であるならば単なる個人主義、利己主義というものになり、公の概念、公への奉仕という考え方が希薄になり、社会がバラバラな非常に乱れたものになって来る。

 何故、こういう問題が生じて来るかと言うと、生命というもののとらえ方を間違えているからである。
 戦後の個性尊重主義、自由主義というのは往々にして、我々の生命を唯の物質の塊に過ぎないというとらえ方での自由主義、個性尊重主義であるから、物質は自性無しであるから、物質がただ自由放任のままに置かれると無秩序、不調和、放縦という事になり、勝手にお互いの利害関係をぶつけ合うだけという事になるのである。
 また、肉体は各個人、個人お互い、バラバラのものであるからそれの個性を尊重するということは自分だけの利益を最優先し、他人や公の事など知ったことではないという事になり、またおのれの肉体の欲望を満たす事が第一であるという事になって来るのである。

 従って、人間を肉体という物質の塊に過ぎないという人間観の元での自由主義、個性尊重主義である戦後の教育方針というものはお互いの欲望をぶつけ合い、公の奉仕の心もない各自勝手なバラバラの行動しか出来ない人間を作るだけのものであったのである。
 現在の我が国ではおぞましい性犯罪とかがよく報道されているがこれらはこうした間違った戦後教育によるものと言わなくてはならない。

 真の個性尊重主義、自由主義というのは人間の生命というものは肉体という唯の物質ではなくて、死んでも死なない生き通しの生命であり、そこには神の秩序と智恵が存在しているものであるという事が根底概念になっていなくてはならない。
 従って、各個人の自由に任せるということは自ずと秩序ある、智恵ある行動を鍛え出して行くという面も併せ持たなくてはならないし、また我々の生命は単なる肉体の様に区切りのある相対的なものではなくて神を仲立ちとして、全ての生命がお互い自他一体の霊なるものであるから、おのれの希望、個性を生かすということは各自勝手なバラバラな行動をするということではなくて、他の人の役に立ちたい、公に奉仕したいという希望に自ずとつながって来るのである。

 だから、真の個性尊重主義、自由尊重主義というのは人間は物質ではなくて神において自他一体の霊なる生命であるということを大前提にしなくてはならないのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-09-25 22:15 | 教育 | Trackback | Comments(0)

家について

 人間というのは組織への帰属意識が必要である。各自バラバラであると思えば、自分の属している組織とか家族なんてどうでもよく、自分さえ良ければよいという事になる。そんな風に各自が勝手にバラバラの気持ちで動けば、組織は成り立たないのである。
 自分はこの組織に属し、ここにお世話になるのだと思えば、自ずと組織の長上の者に対しては丁重になるだろうし、組織全体の事を考えて行動する様になる。
 しかし、自分さえちゃんとしていれば家族の不始末など知った事ではない、自分さえ与えられた仕事をやっていれば会社などどうであろうと知った事ではないという考えは自分さえ良ければ良いということなのであるから非常な利己主義である。
 だが、人間というのはいくら頑張ってもおのれだけでは生きていくことは出来ないのであり、全体に生かされている存在なのである。人間は本来、自他一体であり、お互いに助け合い、協力し合い、愛し合いながらこそ生長発展出来るものであるからである。

 そのお互い、生かし合い、協力し合う場が組織であり、そして組織の中で一番大事で基本的なのは家である。
 テレビで細木数子がよく家系を絶やさない事の大切さを説いているが人間はその様に単にこの肉体が死んだらそれで終わりという存在ではなく、肉体死後も生き通しの霊なる存在であるから、家系が絶える事なく、子孫が祖先の霊をお祭り、供養するという事が大事なのである。
 
 家こそは巣であり、憩いの場であり、万物が生かされる源である。そして、我々の魂はその家の中で初めて、存在を与えられ、生かされ、繁栄するのである。
 家も国も何も無くて、誰か分からぬ、何国人か分からぬ人間は社会でも、この地球上でもその存在を認められず、根無し草の様にフラフラと漂流するしかない。

 現代の日本は唯物的個人主義が蔓延し、家を軽視又は否定している為に地獄の様相を呈しているのである。
 若者は親をバカにし、親は子供を虐待する。これらは生命の流れ、家の原理がまるで分かっていない所から来ている。

 我らは今こそ、人間は生き通しの霊であるという事を自覚し、家の概念を大切にして行かなくてはならない。そこに公の概念、国の概念が生じ、社会奉仕、そして日本の国を立派な平和な国にしようと頑張る気概が生まれるのである。


 堀 浩二
by koujihori | 2005-09-24 12:31 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

説教は無用である。

 人間は本来、神の子である。神は完全円満な無限に素晴らしい存在であるから、本来神の子であるという事は現象は不完全であっても、その奥には今、そのままで完全円満な不死不滅の存在であるという事である。
 だから、我々は人間を観るのにいつでも、そうした観点でいなくてはならない。例え、相手は表面的には悪い、不完全なものに見えても、その奥の実相(実の姿)は今、そのままで完全円満で素晴らしい悟りを啓いている相手であると観なくてはならないのである。

 生長の家ではその事をよくお札に例えて、表現される。使い古された一万円札はしわくちゃになり、人の手垢で汚れていても誰もそのお札の一万円の価値を疑うものはいない。要するに表面は如何に汚れていても、その内在価値は確かに今あるのであり、万人がそれを認めているからこそ、その一万円札は一万円の価値としてその機能を発揮しているのである。

 それと同様に人間の内在価値は完全円満の神の子であるから無限に価値があるのであり、我々はある人間がこんな犯罪を犯した、こんな不完全な肉体であるからと言って、その内在価値の完全円満性を疑ってはならないし、その無限価値は今、そこにあると認識して、これを扱わなくてはならない。

 従って、相手にいわゆる「お説教」をしたり、怒ったりする必要はないのである。相手が悪い事をするのは根っから悪いからではなくて、何か抜き差しならない事情があるか、それともその相手がまだ人間の実相は神の子で完全円満であるという真理を知らない為に平気で間違った残酷な事をしてしまうからである。

 であるから、我々はそうした神の道に合わない事をする人に対してはこれを悪い者と観て、一つ自分の説教でこいつを良くしてやろうとしないでその相手の肉体の奥にある完全円満で既に真理を内蔵している生命に対して、それに直接働きかけて、真理の説法をすれば良いのである。
 真理の説法というものはその同じ真理が相手にも宿り、これから相手に説く真理が相手に理解されうると思うからするのである。即ち、説法というものは相手の奥の生命の実相が完全円満であるという事を拝む行いなのである。
 そこにその説法を受けた人の内在の既に悟った完全円満な生命の実相が共鳴し、その悟りと完全円満さが表面に出て来るのである。

 しかるに相手を真理を解しないバカ者であると思って、口やかましく説教しても相手に宿る神性は出て来ない。

 説教は無用である。

堀 浩二
by koujihori | 2005-09-16 12:28 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

選挙結果で感じたこと

 日本人の国民性を現すのにこんな例え話がある。
 日本という国を大きな船に例えれば、船の甲板上に居る日本国民の大勢は誰かのかけ声に従って、一度に右か左に偏って移動し、真ん中に自らの意思に従ってとどまろうという人間が少ない為に船全体が大きく、右に傾いたり、左に傾いたりする事が多いのだと言う。
 確かに大東亜戦争(太平洋戦争)前夜からその終結に至るまでの日本は正に大きく、右に傾いていたのであり、終結からその後、十数年はまたその正反対の左へ大きく傾いた部分もあった様である。

 私は日本人の全てがこんなものだとは思わないし、この説を全面的に支持している訳でもないが、今回の衆院選挙の結果を見るにつけ、そうした一面も否定出来ないなと思った。
 総選挙というのは本来は国勢を左右し、国の運命を決めるはずのものであるから、各党、各候補の今までの総実績とその掲げた政策の全てによって、投票の判断がされるべきであろう。しかるに今回は小泉首相の掲げた郵政民営化に賛成か反対かという決断のみ迫るようなやり方により、国民は一種の催眠術にかかったように今までの小泉政権のやって来た事、そして郵政民営化後の日本がその他色々な面でどうなるかという事に対して殆どその思考を停止させてしまったのではないかと思える程、単純に自民党公認候補に投票してしまったのではないかと思われる。
 今まで何回も書いたが、日本の国には郵政民営化などという事より大事な懸案が幾つもあり、選挙の争点でそれらを殆ど無視、埋没化させて反対派を駆逐し、自分の周りにはイエスマンだけ置き、そして本来なら当選するはずもない実績も力もないような国会議員を多く生み出させた小泉首相のやり方は日本がこれから本当に重要な懸案に向かうのに著しくその国力を削いだのではないかと思う。
 反対派として今回、駆逐された人達の中には郵政民営化以外の懸案を解決するのに大変、有力な力を発揮し、日本国と日本国民の為に重要な役割を果たした人達も沢山いたかも知れないからである。

 私は今回の選挙結果のつけが今後、我が国の外交、内政その他もろもろの懸案事項において回って来ない事を祈る。

堀 浩二
by koujihori | 2005-09-15 12:26 | 時事問題 | Trackback | Comments(8)

「とらわれない」ということ

 先日の土曜日、またテニスのシングルストーナメントに出た。そして、その日の最後の試合、1-4とリードされた所で私はサーブを打つ時のラケットの引き方とフットワークの使い方が突如ひらめいたのである。

 サーブを打つ際、ラケットを引いて行く時、背中でラケットの先端を回さなくてはならないのだが私はどうしてもそれが出来ていない所があり、それによりサーブの確率と威力が低かったのである。その事はクラブの上級者から指摘されて、自分でも言われた通り練習していた。しかし、その事は頭で分かっただけであり、本当に体で分かっていなかった。しかし、土曜日の試合を全力で戦っている内に、そうすることが本当に効果的であるという事が体で理屈抜きで本能的に分かったのだった。
 それにより、打ち方が改まった事でその場ですぐ、私のサーブの威力が倍増し、相手コートに効果的で早いサービスをたたき込む事が出来るようになり、面白い様にポイントを重ねていった。また、同時にフットワークの使い方も分かった。
 今までシングルスの試合で相手とストロークを打ち合う際、打ち負ける事が多かったのだが足を常に動かしてフットワークを効果的に使う事により威力と正確さのあるストロークを相手に打ち返す事が出来るということもその時に分かり、それから1-4で負けていたスコアを一気に5-5のタイにまで持ち込むことが出来た。
 試合は結局5-6で落としたが、私は遂にテニスのシングルスのやり方を見出したと思って、帰りの車の中で有頂天になった。

 私はもうこれでテニスのシングルスの勝率が飛躍的に上がると思ったので本当に浮き足立って喜んだ。そして翌日の友人とのダブルスのゲームでもけっこう調子が良く、全試合勝利した。
 しかし、その次のテニススクールの練習試合でどうもサーブでラケットを背中に回すことにとらわれてしまい、全然調子が上がらず、戦績は1勝4敗というていたらくであった。

 私はそれからどうも頭が混乱してしまい、良くなったはずのテニスの調子がどうしてしまったのだろうと思った。私は究極のコツを知った以上、もうこの力を手放したくなかった。これでやっと連戦連敗していた相手にも勝てる、テニスのトーナメント会場でも幅を利かせられると思ったからである。
 しかし、そう思えば思うほど、考えがまとまらず、迷いが出て来てしまうのであった。そして、その後、私は次の様な事を悟ったのである。

 我々は経験により色々な事を悟るが、次の瞬間、その悟った事さえも心から放たなくてはならないのである。これは究極の事を悟った、分かったと思ってもいつまでもその事にとらわれていると自己の生命のそのままの自由自在さを失ってしまうからである。
 悟った事はことさら、次からは意識しなくてももう自己の生命は踏まえているのであるから、もう余り、その事に心を引っ掛からせない方がよいのである。

 私はサーブの打ち方のコツの一つにとらわれてしまい、全体の調和した動きがおろそかになり、また相手や飛んでくるボールに対しても注意力が散漫になっていたのだった。
 頭でなく経験により本能的に体で分かった事、悟った事はもうことさらそれ以降意識しなくても体が覚えているのである。だから、その体の自然な動きに任せて、もうその分かったやり方にとらわれない方がよいのである。

 よく、世間でいいこともあんまりとらわれると良くないと言われるが恐らくそれは上記の様な事を指しているのだと思う。
 
 生長の家でも創始者の谷口雅春先生がかつての日本と世界の状況に応じて説かれた事にとらわれて現在の総裁・副総裁の清超先生、雅宣先生の仰る事が雅春先生の仰った事と違うと言って、それを理解しようとしない人がいるが真理というのは一つの形に現れたら後は切って捨てていかなくてはならないのである。
 そうでなければ形にとらわれてしまって形骸化が起こるのである。宇宙の大真理は常に形を表現し、そして次の瞬間、それを自ら壊し、永遠に新しい創造活動を続けて行くのである。
 
堀 浩二
by koujihori | 2005-09-13 12:59 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

選挙について

 今度の日曜日、9月11日に衆議院選挙が行われる。今回ほど一般大衆の目には争点が分かり易い選挙もないだろう。「郵政民営化賛成か反対か」だけなのだから。
 そして、大方の人は賛成か反対かと聞かれれば「賛成」と言うに決まっている。今度の選挙は国民の関心が高く、この分だと投票率も高いだろうから、おそらく自民党は勝利すると思う。
しかし、私は今回の郵政民営化法案参議院否決、衆院解散、総選挙の流れを眉につばをつけて見ている。国民をトリックにかける非常に単純な小泉劇場を観ているような気がするのである。

 これは正に衆愚政治ではないのか?国民に取って、耳当たりの良い、無駄な公共事業の廃止、郵政民営化して経営の効率化、それを支える為の税金の無駄遣い廃止、300兆円と言われる郵便貯金の資金を民間に有効に使われるようにする等々のお題目は確かに有効であり、それで日本が旧態依然とした官僚国家に終止符を打ち、民間の為の真の民主的社会が到来する様に感じさせるのには充分である。

 しかし、よく考えて欲しい。郵政民営化なんて事にかまけている以上に大事な問題が現在の日本には山積しているのではないだろうか?識者に言わせれば一番に取り組まなくてはならないことは年金問題でその次に医療保険制度だそうである。そして、争点の郵政民営化に関しても、前掲に掲げたメリットがあるようでその実、国家による公共事業は確かに必要であり、その為の郵便貯金のお金は大切な資金源になるという見方もある。
 そして前回のブログでも触れたが、拉致問題、対北朝鮮問題、対中国問題等、内憂外患が現在の日本はひしめいているのである。小泉内閣はこれらの重要懸案では殆ど成果を上げていない。私はそれをよく覚えている。拉致問題であれだけ伸展があったじゃないかと言うかも知れないがあれはアメリカの圧力による世界的流れでああなったのである。
 小泉首相はこれらの内政、外交の失点で段々支持率が下がってきたのを郵政民営化という国民に取って聞こえの良い問題にすり替えて、人気挽回を図ろうとしているだけではないのか?

 今日のニュースでホリエモンこと堀江貴文ライブドア社長が「象徴天皇に違和感」と発現したことが報道されている。それによれば憲法の象徴天皇に違和感を感じ、いっそのこと日本は大統領制にしたらいい、その方が効率的だと言明したそうである。これはとんでもない大馬鹿者の言うことである。彼は「結局、世の中金」とかほざいているそうだが、私の見る所によるとこの男は唯物論者であり、物質的、表面的な繁栄を手っ取り早く、効率主義、技術万能主義で実現させて行けば、日本の伝統とか文化とか人情とかというものは唾棄してもよいと思っているようである。

 私は小泉首相も殆ど同様ではないかと思っている。この人は内政外交で殆ど成果を上げていないが、日本の大事な部分を破壊する行為はこの四年間で重ねてきたと思う。度重なる大銀行の合併、地方自治体の合併は没個性化、合併にかかる無駄なコスト、細かいサービスの低下等、殆どデメリットばかりが指摘され、また大店舗ばかりが繁栄し、町の個人商店がそれに押されて、廃業倒産に追い込まれている現状は多様性の否定、そして弱者、庶民切り捨て、大企業、金持ちばかりが優遇され、繁栄する社会ではないのか。

 私は政治は愛であり、本当の神様に対する信仰が基盤になっていなくてはならないと思う。
 神様は全宇宙に拡がっていて、全ての生きとし生けるものの中にあるのであるから、神様の御心に中心帰一していく政治をする所、それは真に民の為になり、真に民に愛情を注ぐ政治になると思う。それは時に国民に取って、理解が得られない事もあるかも知れないがそれを断じて行うことが国民の為になると思って断行するのである。
 それが真の民主主義である。国民に取って、一見聞こえが良い政策、公約を掲げ、それで支持を取り付けて、その実、本当に国民に取って必要で為になる政策を実行しようとしないのは衆愚政治であり、民主主義とは言わないのである。

 あの大東亜戦争(太平洋戦争)突入時、朝日新聞を始めとした報道機関により、鬼畜米英の悪感情をたぎらせたのは正に日本国民であり、その圧倒的支持の元、日本は開戦に踏み切ったのであり、そうした国民のうわべの声に迎合し、戦争に突入していったのは当時の東条内閣である。

堀 浩二
by koujihori | 2005-09-07 13:00 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

信仰について

 私は先日、会社である失敗をしてしまった。
 それはこういうことである。休日である土曜日に会社のキュービクル(受電設備)の管理業者がキュービクル点検の為に夕方4~5時までの一時間、会社の全電源を停電させるということになっており、私はそれを担当者として事前に承知していた。
 しかし、停電したら会社の全パソコンのデータが保存されているサーバーも電源が落ちてしまうことを失念していたので、停電の前日の金曜日に停電に備えて、適切にサーバーの電源を落としておくのを忘れて帰ってしまったのである。

 サーバーは常時、電源が入っているものであり、それが停電になれば電源が落ちる訳だが、正しい手順で電源を落とすならともかく、停電のような乱暴な電源の落ち方をするとそれが元でサーバーに蓄えられた全データが消失してしまう可能性もなくはないのである。
 それが分かったのが停電予定の土曜日の夜、自宅でくつろいでいた時であり、それは既にもう会社で停電の処置が取られた後であった。
 私は焦った。もしかしたら最悪の場合、私のミスでこの何十年の会社の技術的情報その他の大事な情報がパーになっているかも知れないからである。サーバーのデータは毎日、自動バックアップで保存されているのであり、また、停電で電源が落ちたからと言って、サーバー内のデータがそう簡単に駄目にはならないだろうとは思ったが、それでも最悪の事態が頭をかすめ、恐怖心が出て来た。
 私は居ても立ってもいられなくなり、会社のサーバーが大丈夫かどうか今すぐにでも会社に行って確認したい衝動に駆られたのである。しかし、私は思いとどまった。そんな風に自分が安心する為に自分の外に安心する為の証拠を求めるという行為は間違っていると思ったからである。
 
 本当の信仰は全ての全てが自分の中にあるという事を信じ、その通り実行することであり、自分が不安だからと言って、自分が安心する為の証拠を外に求めるようではいけないのである。  私は全てを神様にお任せし、自分と会社に取って、悪いことは断じて起こらないという信念を持ち直し、土日はそのままにして他のやるべきことをずんずん進めていった。
 そして月曜日の朝、会社に来てみたら、問題のサーバーは電源が入り、何の異常もなく正常に稼働し、大切なデータも無事であった。電源は日曜出勤していたある社員の人が適切に入れ直してくれたということである。

 信仰している人の中には普段は私は神を信じていますとか言っておきながら、いざという時はそんな信仰は全て吹っ飛んでしまって、狼狽する人がいるが、それは自分の中に神の国があるという事を忘れた信仰であるからなのである。尊い頼るべきものは自分の外にあると思い、それにすがるような信仰だから、何か大変な事態に陥った場合、自分に自信を持つことが出来ず、自分の外に救いを求めて、狼狽するのである。

 本当の信仰は自分の中に全ての全てがあり、神の国があり、他に何ものも頼る必要はないというものである。そういう信仰であれば、この世界は自分の認識が映っている世界であるから、その自分の確固とした信念が外界にも反映し、トラブルの起こらない全てが行き届いた平和で安定した世界が展開するのである。
 生長の家の信仰が実はそういうものであって、生長の家では人間は一人一人が神の子であって、それが完全円満の素晴らしい生命であると説き、それを礼拝するのである。だから生長の家では特にご本尊なんてものはなく、あるとすればそれは我々人間一人一人の中にあると説くのである。だから、生長の家での挨拶は「有り難う御座います」であり、それはお互いの尊い生命の実相こそが拝む対象であるということを意味しているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-09-05 12:18 | 信仰 | Trackback | Comments(3)