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悪はナイ

 ある会社の支社があって、その支社長が数年に一回、本社から交代で赴任して来るのであるが、そこの支社の古株の従業員は今の支社長が嫌いで、こういう欠点もある、ああいう足らない所があるとその支社長を批判していたのである。

 そんな時、次期にはまた新しい支社長が赴任して来るという事が決まり、その人が噂によると素晴らしい支社長らしいという事でその支社の従業員は皆、新しい支社長に期待し、その人が赴任して来る事を心待ちにし、今の支社長が早く去ってくれる事を願っていた。

 そして、念願の新しい支社長が赴任して来て、今までの支社長は他の支社に移って行ったが、そうこうして数ヶ月経つ内、段々とそこの支社の従業員は新しい支社長の欠点、ほころびが目について来て、前と同様、その新しい支社長の批判を始めたのである。曰く、「前の支社長の方がまだましだった」と。

 そう言えば、前の支社長も赴任して来る時は大変素晴らしい人物と評判だった人で皆、最初は期待していたのであった。

 皆さんはこの話しをどう思いますか?実はこのたとえ話と同様の事は現実にいくらでもあるのである。遠くのもの、過去のものは良く見えると言ってしまえばそれまでだが。

 この世界は具体的に実在する世界ではなく、我々の想念が映っている文字通り現世(うつしよ)であるというのが真理である。
 我々はあの人が悪い、これが問題だ、悩みだと嘆くが、現象世界の奥にある真実世界の霊的世界は完全円満の神が作り給うた世界であるから一切の悪も悪人も問題も悩みも罪もナイのである。
 従って、どんなに悪い姿が目の前に展開していようとも具体的な悪人とか問題というのは存在せず、全て自分の想念が作り出したものであるのである。
 それらは全て、この世には悪あり、問題ありとして悪とか問題を勝手に心に描いて、それをつかむ自分の心が映っているだけなのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-10-28 08:09 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

自己決定の時代

 現在の日本及び世界を取り巻く環境はある意味、非常に難しいものになって来ている。要するに科学技術の進歩が過剰とも言えるほど顕著であり、バイオテクノロジーの発達により、クローン人間の生まれる可能性の他、己の弱った臓器をいくらでも再生出来る技術の実現ももうすぐそこまで来ている。

 その他、環境破壊の問題もあり、人間の裁量一つで地球上の動植物の存亡が左右される事態となって来た。
 また青少年の間ではテレビゲーム、携帯電話の普及が当たり前になり、それにより昔の子供の様に自然の中で遊んだりする事で培われる感性であるとか、本物の人間とか動物と相対する事により学べる相手への思いやりとかを学ぶ機会が損なわれて来ていると思う。
  
 こうした状況下ではただ流されるままに周りがそうするからそうするという生活態度で生きておればどうしても人間として本来持っている当たり前の道徳性とか感性とかが消失して行くと思うのである。
 テレビゲームと携帯ばかりに没頭して本当の生の人間を知らない子供、自分の目先の利益の為に経済活動を第一にして環境を破壊して結局、おのれの首を締めて行く大人やどこかの国の政府、そして、おのれの親として子供を持ちたいという欲望を満足させて、将来の子供の事を考えない親によるバイオテクノロジーの乱用、また、自分の肉体をただ長持ちさせたいだけの肉体生命という物質に対する固執で自分の臓器を次々と人工的に作って行って、不自然に長生きする老人達。

 現在の流れにただ無批判に乗っかって行くだけならこんな人間になってしまうのである。こうした時、おのれの中に真の理性を見出し、自己決定力をきちんと確立させて、正しい道にかなった事、生き方を自分自ら選んで行く以外、この科学技術が過剰に発達するこの現代社会、そしてますますその傾向が強まるであろう来る未来社会においてまっとうに生きる事は出来ないのである。

 そういう意味ではこれから人類の二極化が進んで行くかも知れない

堀 浩二
by koujihori | 2005-10-27 12:33 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

集中力について(2)

 私は十年来、英会話の勉強をやっているが、その中で気が付いた事は集中力が如何に大切かという事である。

 去年、初めて英検一級のテストに挑戦してから自分の英語のヒアリング力が余りに乏しい事に気が付いた私は毎朝出勤時、家から駅までの徒歩25分の中で携帯ラジオでAFNのナチュラルイングリッシュを聴く練習をする事にした。

 日本人が中々、英会話に上達しないのは日本語の発音の種類に対して英語の発音の種類の方が遙かに多いからであり、子供の頃からそれに慣れている人はいいが大人になってから英会話の勉強を始める人はこの発音の壁に悩まされるのである。

 それを克服するのは一筋縄では行かず、外国人同士で話すナチュラルイングリッシュを何回も何回も繰り返し聴く訓練をしなければならないと思う。
 しかし、ただ聞き流すだけでなく、そのセンテンス全体が何を意味しているかということを瞬時で判断しなければならないがそれをするのに英語を一つ一つ日本語に置き換えてから、センテンス全体を日本語に組み直してそれで一々頭で考えて意味を理解しようなんて事をしていたら恐ろしいスピードで流れていくナチュラルイングリッシュはとてもじゃないが理解する事は出来ない。

 私はAFNの非常に早く、しかも日本人の私に取っては大変聞き取りにくい発音の英語を聴く訓練を毎日している内に今、聴いている英語に全神経を集中させる事で一々頭で考えなくても意味が自ずと分かって来るという事が体験的に分かって来た。
 一々英単語を日本語に置き換えなくても英語を英語そのものとして集中して聴いている内に時折、部分的ではあるが、直感的にそのセンテンスが何を意味しているのかという事が自ずと分かる様になって来たのである。

 集中力こそは全てである。今、目の前の事に集中する事で一々頭で考えなくても今に対する判断力、理解力は自ずと研ぎ澄まされ、能力も発揮出来る様になるのである。
 それは我々がそのままで完全円満、無限の力を有した神の子であるからである。

 今に集中する事で未来に対する取り越し苦労は消え、過去の失敗にいつまでもくよくよ悩む事も無くなるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-10-25 17:39 | 潜在能力 | Trackback(1) | Comments(0)

政治家と信仰

 今回、郵政民営化法案が衆議院において賛成多数で議決され、小泉首相の念願通り、郵政民営化法案が遂に施行される事になったが、その中で先の国会で法案に反対した議員が今回はその大部分が賛成に回った。

 賛成に回った議員曰く、「民意を尊重した。」という事だが、それが余りにも見苦しい政治的信念に欠けた保身的行為であるという事は誰が見ても明らかであろう。

 しかし、そんな中、敢然とその信念を曲げなかった議員がいる。それは平沼赳夫元経済産業大臣である。詳しい事は今週の週刊文春に掲載されているから興味のある方は是非ご一読をお勧めする。
 今回、自民党執行部では平沼氏の様に法案反対を最後まで貫いた議員に対しては除名処分という政治家としては一番厳しい処置をするのは明白である。それを誰もが分かっているから、前回の国会で法案に反対した議員も本意を翻して賛成に回ったのである。
 平沼氏は拉致問題他、日本人の生命と財産と誇りを守る為に重要な役割と使命があると言われている政治家で次期首相候補にもなっている。
 今回の国会の法案議決選挙でも周りから「あなたは他に大事な政治的使命があるから、ここは一つ賛成票を投じて、後々の日本の為に生き残った方がいい」と説得された様だが氏は次期首相というその栄えある将来をかなぐり捨て断固として己の信念を貫き、反対票を投じたのである。

 この世界は実は物質の世界ではなく、我々の心が映し出す世界であるから、道に外れた事をしてずるい事をして、一時的に栄えても、長期的に見れば、その者は必ず滅びて行くのである。
 しかし、例え除名、打ち首になっても己の信念を貫き、本当に民の為、国の為に殉ずる者はその功績は世代を超えて讃えられるのである。坂本龍馬しかり、吉田松陰しかりである。

 私は平沼氏の様な政治家は現在はその政治的生命を絶たれてもその信念と行動は後世で高く評価されると思う。そして、その意思を受け継いで行く人間は必ず現れる。

 ところで平沼氏のこの強い信念はどこから来るかと言うことであるが、別にここで生長の家の宣伝をするつもりはないが、氏は生長の家の信仰を持っている。自分は若い頃、生長の家創始者谷口雅春氏著作の「生命の実相」を読んで、その影響を強く受けたとはっきりとテレビで表明したのである。
 私は政治団体と宗教団体が結託するのは良くないと思っている。お互い批判が出来なくなり、段々とお互いが堕落して行くからであり、また宗教団体が国政に口を出すなどもっての他である。その弊害は織田信長の時代に延暦寺の僧が政治に口を出して世の中が乱れた事が歴史の教訓として残っている。

 だが、政治家が正しい信条を貫く為にはしっかりした信仰を個人的に持つ事は大変重要である。今回の郵政民営化法案可決の件で多くの反対派議員が賛成に回ったのは内心はこの法案が真に国民の為にならないという考えがありながら、自分が除名される事を恐れての事である。
 要するに政治的には死を意味する除名がされては自分はもう駄目だと思ったから賛成に回ったのである。

 それに対して平沼氏は除名即ち、政治家としての死を恐れなかった。これは自分が死んでも必ずその政治的信念は誰かが受け継いでくれる、自分は永遠不滅の生命を持っているから殺されても大丈夫だという信仰があったからだと思う。これが平沼氏と他の議員との決定的な差なのである。

堀 浩二
 
by koujihori | 2005-10-21 12:57 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

富者の自覚

 我々は富者でいたいと誰でも思うものである。欠乏の恐怖というのは割合あると思う。私はお陰様で余り金銭の苦労を今までしてこなかったが健康を失う恐怖、能力が発揮出来ないかも知れない恐怖というのは随分味わって来た。

 この現象世界だけ観ているとこれは物質世界であるから、富んでいるというのはこれ即ち物質が富み、肉体が健康であるという事であると普通誰でも思うと思う。
 そして、それを得る為、もしくは失わない為に皆、しのぎと削って、汲々としているのが現状ではないだろうか?そして、他から奪い、己の利のみをとことん追求するという事になりがちではないか?
 
 だが、それに歯止めを掛け、人間の心にバランスを持たせるのが宗教の役割である。宗教は肉体、物質を超えた存在、即ち神又は仏の存在を説き、それへの信仰、もしくは畏れの念の中から人間は物質欲だけではない人間らしい、他者への愛の生き方、公への奉仕の心を持ち合わせて来た。
 しかし、日本は元々特定の宗教を信仰している人が外国に比べると極端に少ないのである。だが、日本は村社会等、鎮守の森の神社などを中心とした共同体の存在があり、お互い思いやりを持ち合いながら、暖かみのある社会を育んで来た。
 ところが、戦後はアメリカから肉体の権利を第一とする思想の民主主義が日本に入ってきた為、肉体の快楽、物質の価値を追求する考えが大部、日本に浸透する様になって来た。そうした流れの中で村社会、共同体の思想が徐々に衰退し、極端でドライな金儲け主義がはびこりつつある。
 楽天とかライブドア等の敵対的買収騒ぎもそうしたドライな金儲け資本主義の流れの特徴的事象である。しかし、資本主義の金儲け主義というものは唯物主義であり、物質の富を出来るだけかき集め、利潤を追求しようというものであり、儲けたら、またもっと儲けたくなって、我利我利亡者の様になるのである。
 日本は特定の宗教を持たない人が多いからこの金儲け第一主義資本主義の思想に歯止めをかけるものは何もないのである。

 しかし、本当の富というものはそんな物質の富を追求する所には出て来ない。富の本質とは与える心である。他に与える豊かな心の所に富が自ずと集まって来るのである。
 この世界は我々の心の思いが映っている世界である。物質、現象の富は豊かな与える心の展開である。決して他者の富を敵対的買収で自己の為に取り込もうという心の中にはない。
 この世界は現象世界であり、我々の心が映っている現世(映し世)なのであるから、この現象世界が繁栄し、肉体が健康になる為には先ず我々の心が豊かな与える心にならなくてはならないのである。

 それでは我々の心が豊かな与える心になる為にはどうしたらよいかと言ったら、この現象世界が本物の世界でこれが実在する世界であるという考えから脱却して、この現象世界の奥に本物の無限供給の霊的実在世界があるのであるという真理をどうしても悟る必要があるのである。

 そして、現象的には如何に貧しく、また不健康であっても、そのままでその現象の奥に完全円満の無限供給の霊的世界が存在しており、今、そのままで我々は既に完全に必要なものは与えられ、生かされ、悦びを与えられており、それは物質を超えた霊的実在であるから永遠に砕けない、金剛不壊の世界であるという事を自覚する必要がある。

 その自覚のある所、心が真に安定した豊かなものになり、現象的にも感謝が出来る様になり、不足の部分に文句を言うのではなく、既に与えられている所に感謝出来る様になる。
 自分が豊かであると自覚するので健康的にも速やかに回復するであろうし、また自分が豊かで生かされているという悦びを他人にも伝えたくなり、自分の持っているものを与えたくなるのである。他に与えれば、またこちらが与え返されるのであって、そうした豊かな思いで与える者はますます富んで行くのである。

 これが真理に基づいた繁栄の法則である。

堀 浩二
by koujihori | 2005-10-18 17:21 | 繁栄 | Trackback | Comments(0)

楽天のTBS株取得に思うこと

 楽天がTBS株の15.46%を取得し、三木谷浩史社長がTBS側に経営統合を申し入れているという報道がされている。

 これは以前のニッポン放送株大量取得により、フジテレビを実効支配しようとしたライブドア社長ホリエモンこと堀江貴文氏と似たようなケースであるが先日も報道されたばかりで現在の進行中の村上世彰氏率いる村上ファンドなる投資ファンド会社による阪神電鉄株大量取得の件もあり、こうしたインターネット関連の事業で財を成したインターネット長者や投資ファンド会社などの金満家による企業の敵対的買収が日本社会で頻発する様になって来た。

 こうした敵対的買収(ハゲタカファンドなどがある企業の株をその資金力にものを言わせて大量取得し、その会社を実効支配し、事実上その会社を乗っ取ろうというもの。)は資本主義の権化のアメリカ社会では通常行われて来た事であり、会社は株主のものであるという非常にドライな考え方である。
 資本主義社会における株式会社というものは突き詰めていけば理論的にはそういうものであろうが、人と人との共同体というものを大事にしてきた日本社会ではそういうえげつない事を発想する人間は今まで出なかった。
 ところが日本が今から13年前にバブルがはじけて以来、体力の弱った企業、銀行を外資ハゲタカファンドが安く買いたたき、それを付加価値を高める事により利益を上げるという事が出て来た。
 その中でホリエモンという「時代の寵児」が出て来て、去年、経営不振によりオリックスと合併すると発表していた近鉄バッファローズを是非買いたいという事で日本のプロ野球界に殴り込みを掛けてきた。私もこの時点では日本プロ野球界を救う救世主としてホリエモンを讃えていた。

 しかし、その後のフジテレビの件、そして、現在進行中の阪神電鉄、TBSの件などで彼らホリエモン、村上氏、三木谷氏などのやり方をみていると金の力にものを言わせて、ひたすら金儲けに走るという拝金主義に思えてならない。
 先日の衆院選挙で郵政民営化を掲げた小泉自民党は大勝したが、「官から民へ」と何でもかんでも民営化することが至上の善みたいな価値観は全ての事業を資本主義の元に置くという事である。
 資本主義の本質とは何か。それは利潤追求である。ズバリ言い換えればそれは「金儲け」なのである。全ての事業を資本主義の元に置くというのは「金儲け」を至上の価値とすることである。
 日本は正にその方向に向かってまっしぐらに進んでいる様に思われる。しかし、資本主義が過度に発達する社会は富裕層と貧困層がくっきり分かれるということである。いわゆる「勝ち組」と「負け組」ということであるが、富んでいる者はますます富み、贅沢な暮らしをし、弱者、負け組は社会から切り捨てられて行く。

 そういう流れの中の非常に象徴的な事件として、現在の三木谷氏、村上氏、ホリエモンの買収騒ぎがあると思う。
 今までの日本は共同体を大事にし、お互い、強者が弱者をかばい、その足らざるを融通し合い、助け合ってきた。今やその日本の美徳は失われようとしており、資本主義のドライな考え方の元、強者が弱者を食い物にしようとする社会が実現しようとしているのではないか?

 資本主義というのは利潤追求が目的であり、利潤追求とは金儲けの事である。それは至上の価値を金に求めるという事であり、そういうのを拝金主義というのである。
 人間は生きていく為には自らの行動指針が必要である。自分自身のコア(核)が必ず必要なのである。そのコアなる行動指針が正しい信仰に基づいたもの、自分の中に完全円満の神なる基準があるというものであるなら、良いがそれがないと金とか物に価値を置く拝金主義にならざるを得ないのである。
 そうなると人は自分の物質的利益のみ追求し、お互いの思いやりの精神は失われ、公に殉ずる潔い心意気は薄れて行き、弱者をいたわる心も消失して、どんどん堕落して行くのである。
 
 アメリカの金儲けの資本主義のシステムをアメリカの利潤の為に世界中に拡げようというのが所謂グローバルスタンダードである。それを全面的に受け入れたのが小泉首相と竹中大臣である。その思想の元に郵政民営化という戦略があり、それにより300兆円と言われる郵便貯金はアメリカの外資にどんどん流れ、アメリカのグローバルスタンダードに寄与するであろう。

 しかし、そうした拝金主義はどこから来るかと言ったら、人々が自分の中に金以上の価値を見出していないからである。我らは今こそ、金以上の価値、完全円満なる神という価値を自らの中に見出して行かなくてはならないと思う。
 そういう事がグローバルスタンダード(国際基準)になって行くなら世界に真の繁栄と平和が来るのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-10-14 12:13 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

「偉い」ということ

 先日、ご逝去された生長の家宇治別格本山の榎本恵吾先生の偉大さが生長の家の組織の公の場で余り、明らかになっていないという事を以前のブログで書いた。
 私は榎本先生は親鸞、日蓮に匹敵する偉大なお方だと思っているが、偉大な宗教家や芸術家が生前は世間から認められていなくてもその偉大さを世間が認識するのは死後大部経ってからというケースが多いから、榎本先生も今後、数百年後に世界中で評価されるようになるんだろうなと何となく思っていた。

 でも、最近、そんな世間の評判なんて実はどうでもよい事なのだと思う様になった。そもそも世間なんて昨日まで礼賛して来たかと思ったら今日はその人物を酷評するなんて事はざらにあるからである。
 世間なんて浮き世であり、現象であり、そんなものは移り変わりゆくものであるから本来、確固として存在しないものなのである。

 大事な事は本人の存在が如何に周りの人から喜ばれているかという事である。本人が人間の真の姿である神の子完全円満ということを心底悟り、そしておのれの神性を自覚すると共に周囲の人の実相も拝めるようになって、その人が如何に周囲の人に悦びと癒しをもたらしているかということが大事なのであって、世間の評判とか有名さなんてどうでも良いのである。
 人間は神の子であって、無限生長するものである。その人の魂が生長し、周囲の人に悦びを与え、周囲を生かしておれば、それはその人の魂が周囲の人にまで拡大し、生長したという事である。その事が本当に「偉い」という事である。

 榎本先生は生長の家の神髄である人間神の子という真理を極められ、ひたすら周囲の人達の生命を礼拝されていた。そして、本当に周囲の人達の魂を救い、癒し、悦びを与えておられたのである。だからこそ、先生を直接知る多くの人達が先生を慕い、そして先生のご逝去を悼み、告別式には400名を超える参列者で一杯になったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-10-13 12:27 | 家庭生活 | Trackback | Comments(0)

自分のスタイルについて

 昨日、またテニスのシングルスの草テニス大会に出た。二試合目に入った所で雨が相当降ってきたので途中中止ということになった。

 内容は一戦目が2-6で落とした。相手は若い相手で、サーブが相当強くエースを2,3本取られた。でも私もめずらしく自分のサービスゲームを二つもキープ出来た。前回、私はサーブとフットワークに関して、相当なヒントを得られていたのでそれなりの期するものがあったが、試合結果には出なかった。

 そして、二戦目に入ったがその相手はいつもこの大会で上位に入っている実力者で年も体格も私とそんなに違わないし、サーブはそれほどでもないが試合巧者なのか試合ではいつも実績を残している強敵である。
 私の今までの実力から言えば、殆ど一方的に負けてしまう相手である。今回もあっという間にゲームカウントを0-4とされてしまいこのままダンゴ(0-6で負けること)で負けてしまうかと思った。
 実は私はその前の試合からもうこの様なテニス大会に出るのはやめようかとチラチラ思っていたのである。自分の普段やっているテニス仲間が相手なら何とかなるのだが、こうしたシングルスの試合に出て来るような連中は皆、それなりの自信があるから出て来るのであり、強者(つわもの)揃いであるからである。単にサーブやグラウンドストロークが出来るという位ではこうした連中からポイントを奪うことは難しい。

 でも自分の可能性を見限ってしまうのも性に合わないし、かと言って、活路も見出せない気がしていた。
 こうした事を考えながら、ゲームを0-4とリードされた所でふと気が付いた事があった。それは自分は大してサーブも早くないし、素早いネットプレーも出来る訳ではないがグラウンドストロークに関してはここに出ている連中よりも上手いのではないかと思ったのである。その前の試合でもたまに打ち合いになると相手のストロークミスで度々ポイントを取ることが出来たし、今対戦している相手も単にフォアハンド、バックハンドの正確さでは自分の方が上を行っていると思ったのである。

 スポーツの試合は漫然とやるのではなくて作戦を立てることが大事だと言われる。自分は今まで自分の特性を生かさず漫然とプレーして、失敗していたのだと気が付いた。そしてテニスのシングルスの試合で作戦を立てるということは自分のプレイスタイルを確立させる事だと思った。
 そう言えば有名な選手は皆、自分のプレイスタイルを持ち、それで試合に勝っている。一昔前の選手のビヨン・ボルグは正にグラウンドストロークを主体にしたプレイヤーだし、ジョン・マッケンローはサーブアンドボレーのプレイヤーである。
 こうした自分の長所を生かした自分独自のプレイスタイルを確立させてそれで押し通すということが試合に勝つためには大変重要であるということを自分の身に置き換えて本当に思い知った。

 自分の最も得意で他人より優れている部分はグラウンドストロークであるから、それを主軸にしたプレイスタイルを確立させようと思ったのである。そうしたら今までどうやってポイントを取ったら分からないと思っていたのが、急に視界が開けて来た感じでこうやればよいのだと思えて来た。
 するとこの強敵にも勝てるという気がしてきたから不思議なものである。心に余裕の出て来た私はサーブの調子も良くなり、私も持ち味であるトップスピンのグラウンドストロークをじっくりして行く中で徐々にポイントを重ねて行き、たまにネットプレーをするような場合でもポイントを奪えるようにもなったのである。

 そうして1-5というゲームカウントで相手のサービスゲームをブレークして2-5とし、自分のサービスゲームとなってこれからという時に雨が激しくなり、中止となったのである。

 私は得意部分を生かした自分のプレイスタイルを確立し、道が開けたのであるがこの様にテニスに限らず、自分の特性と個性を生かした自分のスタイルを確立するということが人生に勝利する上で大変重要な事であると思う。

 私がグラウンドストロークを主体にしたプレイスタイルにしたら心に余裕が出来て、余り得意でないサーブまで良くなったように自分の得意分野を生かし、それをどんどん伸ばす事によって、自分の得意分野以外の部分も伸びて行くと思う。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-10-09 12:21 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

鎌倉いとこ

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 私の友人にMさんという人がいる。私より二歳年上で、息子の小学校時代にPTAのソフトボール大会でチームメートとして知り合い、かれこれ6,7年のおつきあいをさせて頂いている。

 PTAのソフトボール大会で盛り上がったのでMさんの提唱でソフトボール大会のメンバーで野球チームを作ろうという事になった。チーム名はやはりMさんが名付け親になり、パパスと命名された。そしてチームの会長は何故か私が引き受ける事になり、現在も続けさせて頂いている。

 このMさんという人は野球がうまくて相当造詣が深く、私も野球に関してはよく指導してもらった。そして、企画力が相当にあり、野球チームにしろ、そのチーム名にしろ、彼の企画力による所が大きいのである。
 実は当ブログを立ち上げる時も、ブログのスタイルに関して大変貴重なアドバイスをMさんに頂いた。

 そのMさんが今年になって、和菓子のきんつばのお店を鎌倉の長谷で始められた。店の名前は「鎌倉いとこ」という。何故いとこかと言うと、きんつばの材料にカボチャとアズキを使っていて、カボチャとアズキはいとこの関係にあるからだそうである。

 私も友人の一人として、一度はMさんのお店「鎌倉いとこ」に行かなくてはならないと思っていたので先週の土曜日に家内と二人で行ってきた。ちょうとMさんがお店にいたのでご挨拶して、そのご自慢のきんつばを二箱買って来た。

 正直、味はそれなりだろうぐらいに思っていたが一口食べて見て、ビックリ。これがうまいのである。お世辞抜きでこれはいけると思った。甘さがしつこくなく、なんともいい風味がして大変おいしい。写真はそのきんつばである。

 皆さんも鎌倉に来られた際は是非立ち寄ってみて下さい。鎌倉の長谷観音から歩いて2~3分の所にあります。

堀 浩二
by koujihori | 2005-10-08 23:16 | 家庭生活 | Trackback | Comments(0)

榎本恵吾先生を偲んで

  去る7月12日、生長の家宇治別格本山、祈願部長、榎本恵吾先生が逝去された。 67歳であった。

 私は先生に救われた身で先生には大恩がありながら、うかつにもご逝去の事を先生が亡くなられた後、3ケ月近くも知らなかった。その事を知ったのは今週の月曜日、先生の奥様からのお手紙でであった。
 以前の文章でも書いたが、私は今から8年前の平成9年に生長の家の宇治別格本山で先生と巡り会い、それまで苦悩に満ちていた魂が先生により完全に救われたのである。そして、その後、地元の神奈川に戻って以降、私は内側から悦びの言葉が時折、浮かび上がるようになったので、メモ帳を持ち歩き、その都度、メモをしていた。それを「悦びの記録」という文集にまとめたのである。私はその文集を何よりも榎本先生に捧げたくて、それから数ヶ月毎に定期的に先生に自分の文集をお送りしていた。
 私が先生に文集をお送りする度に先生は毎回、丁寧なお返事、讃嘆のお言葉をハガキに書いて送って下さっていた。そのお言葉は短いものであったが正に珠玉の言葉であった。そして温かい、温かいお言葉であった。

 先月、9月30日いつものように文集を先生にお送りした。しかし、今回は先生からのいつものお返事のハガキは届くはずもなく、代わりに先生の奥様からお手紙を頂き、それで先生の訃報に私は初めて接したのである。

 私は奥様のお手紙で先生が御昇天された事を知った時、一瞬、何の事やら分からぬような気持ちになった。そして、呆然自失としてそばに居た家内に「榎本先生、亡くなったんだって。」と告げたのである。
 私はとまどいと動揺を禁じ得なかった。「どうしてだ!あのような道を極めたお方が、何故、急に亡くなってしまうのだ!」と思った。そして、自分はこれから誰を師として仰いでいけばよいのかとも思った。

 とにかく、先生が亡くなったということが信じられなかった。実感が湧かなかったのである。しかし、生長の家宇治別格本山の機関誌に書かれた先生の奥様の御文章を読んでいる内に、私は先生の死を幾分、受け入れる事が出来るようになったのである。
 それはこういう事である。先生は亡くなられる日まで何の体の調子も悪い所もなく、亡くなられた日も午前中はきちんと本山のお勤めをこなされていたそうである。しかし、午後、幾分体調が悪いと訴えられ、そしてご自宅で生長の家のお経である「甘露の法雨」を奥様と読まれている時にそのまま仰向けに倒られたそうである。そして救急車で病院に運ばれたということだが、救急隊員によれば、ご自宅で既に心肺停止されていたとのこと。即ち、先生は「甘露の法雨」の真理のお言葉を唱えられながら天界に旅立たれたようなのである。

 私はこうした事情を知って、合点がいった。これは先生はこの世での御使命を完全に終わられ、これから更に大なる御使命を天界で果たされる為に時期が来て、旅立たれたのだと。

 先生の素晴らしさ、偉大さは案外、生長の家の組織の公の場で知られていない。でも、私は先生は生長の家の奥義を極められた極めて偉大な宗教家であるという事を知るものである。生長の家創始者、谷口雅春先生をお釈迦様に例えるなら、榎本恵吾先生は間違いなく、空海、親鸞、日蓮に匹敵するお方である。

 私は生長の家に幼い頃から触れて、自分なりの求道、伝道をして来たが、今から9年程前に行き詰まり、どうにもならなくなったのであるが、本当に不思議な縁で先生の元に導かれた。
 私は先生の薫陶を受け、魂が救われ、そして生長の家の奥義を授けて頂いたのである。私が今、こうして悦びに満たされた生活が出来ているのも全て先生のご恩によるのである。
 先生は私の話にいつも真剣に耳を傾けて下され、魂のご指導を下さった。それはこの上なく深く、かつ温かいものであった。先生は私に生命を、悦びを、否々人生の全てを下さったのである。そのご恩を思うと私は百万遍感謝しても仕切れない位である。

 先生は生前、私以外にも多くの方の魂を救い、その告別式には400名を超える人達が全国から駆けつけたそうである。
 先生は今頃、天界でより自由な境涯になられ、神通力を発揮して、生長の家の人類光明化運動を支えられ、生前で救われたより以上の多くの人々の魂を導き、救って行くに違いない。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-10-06 18:26 | 信仰 | Trackback | Comments(1)