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天分について

 人間の本質は物質ではなく霊的なものであり、それは無限の可能性を秘めた完全円満のものなのである。生長の家ではその事を「人間は神の子である。」という言葉で表現している。

 無限の可能性を秘めた完全円満なものという事は無限の能力を内蔵しているという事である。無限の能力を秘めているという事はそれを開発、掘り起こす事により、うわべはどうでも、これからいくらでも無限に能力を引き出し得るという事である。
 しかし、それを掘り起こすのは一筋縄では行かず、本腰を入れた訓練を要するのである。その訓練の期間は一年二年という訳にはいかず、何十年かかるのである。だから、人間は無限の能力を秘めてはいるが、一つの人生で開発出来る能力は限られており、例えば、絵の才能を引き出すのに何十年かかるとして、それを引き出し終えて、絵の大家になるには一生かかるのである。
 しかし、その人は絵の才能の他にもあらゆる能力の可能性があるのであり、それを引き出すのはその人の一人生だけでは不十分であるので、また何回も生まれ変わって、次の人生ではスポーツの能力を引き出す人生を送ったりして、また何十年かけてスポーツの能力を引き出すのであり、この様にして人間はその無限の可能性を引き出す訓練を何回も何回も生まれ変わってやって行くのである。

 しかしながら、人間にはその人でなくてはならない天分というのもある。神様は無限の多様性をお持ちであるから、神様の最高表現体である人間も無限の多様性があるのであり、一人として同じ人間はおらず、その人その人でその人でなくてはならない個性と天分が与えられ、その人一人が欠けても神様の無限の多様性の表現が完成しないのである。
 従って、我々人間は一人一人が神様とこの宇宙全体に取ってなくてはならないかけがえのない存在なのである。
 しかし、それは人間の能力、可能性というのは訓練をしないと出て来ないから自分はまだ駄目で神様に取って必要な唯一の存在にはまだなっていないのだなどと思ってはいけないのである。

 我々は無限の可能性を秘め、訓練次第であらゆる能力を引き出しうる存在ではあるが、我々の天分と個性というものは現在何かの事の訓練途中であっても今、そのままで宇宙に唯一の神の表現体として花開いているのである。それがオンリーワンという事である。

 例えば自分は英会話を勉強しているとして、それの能力はある程度、伸ばしてはいるが、他の人はもっと自分より能力を開発されているとする。そんな時、自分は他の人よりくだらない存在であるという事はないのである。英会話の勉強はそれはそれで引き続きやって行けばよいが、自分の個性と天分は人と仲良く出来るとか打算的、物質的な事より純粋に信仰を持って生活出来るとかその他、言葉で言い表せない様な他の人にはない自分でなくてはならない味というか個性と独自性が今、このままで既にここに息づいているのであり、それが天分という事である。
 そうなると全ての人は必ずその人ではなくてはならない美点があるのであり、それを自覚する事で如何なる人も今、即自信と誇りと悦びを持つ事が出来るのである。

 それを自覚する事が自分の神性を自覚するという事であり、そうした目で他人を観る事が他の人の光明面を観るという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2005-11-29 13:01 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

何もしない練習

 亀田興毅という若いプロボクサーがこの頃、話題になっている。テレビのバラエティー番組などにも度々出て来ているからご存知の方もおられると思う。
 私の個人的意見としてはボクサーというのは世界チャンピオンになって初めて世間で認められるのであり、そうなる前の修業時代にこんなに世間でちやほやしていいのかと思う。本人の為にならないんじゃないだろうか。

 この亀田選手はプロ8戦全勝7KOの素晴らしい成績でもう世界タイトル挑戦のレールが敷かれているようである。その為の前哨戦として元世界チャンピオンの30歳の選手と今度対戦する事になっている。
 亀田陣営としてはこの前哨戦に豪快に勝って、一気に世界挑戦への弾みをつけたいようで、その意味でも何としても負けられない試合である。

 ボクシングというのは大変過酷なスポーツで野球とかサッカーとか他のスポーツの様に勝ったり負けたりを繰り返しながら進歩して行くという性質のものではなく、一回負けたら終わりみたいな感じがある。だから世界チャンピオンでもKO負けすると引退をささやかれたりするのである。

 だから普通、プロボクサーというのは負けるのを大変恐れている。この亀田選手はその負ける恐怖心をどのように克服しているかと言ったら、がむしゃらにひたすら練習する事で乗り切っているそうである。よく他のスポーツ選手も口にする事だが、自分はこれだけ過酷な練習に耐えたから強いんだと思ってそれが自信になるそうである。

 それはそれでいい事だと思うが、スポーツではいわゆるオーバーワークという言葉がある。練習し過ぎたが為に却って本番で力を発揮出来なくて自滅するのである。
 かつて輪島功一という偉大なボクシングの世界チャンピオンがいた。
 彼は六度目の防衛戦でアメリカのオスカー・アルバラードという選手を相手に最終回の15ラウンドで痛恨のKO負けをしたのだった。
 輪島選手曰く、この時は相手をなめちゃいけないと思って練習をやりすぎた為にオーバーワークになり、本番で息切れしてしまったのだと言う。この教訓を生かし、リターンマッチではオーバーワークにならないように出来るだけ練習したいと焦る気持ちに打ち勝って、余裕のある練習メニューにして、見事、相手に判定勝ちを収めたのだった。

 私も生長の家の誌友会という会で講師として生長の家の講話を一時間位する機会があるのであるが、かつての私はそこでいい話をしようと意気込んだり、話がとぎれる事を恐怖したりするとその焦る気持ちから、話す為の準備を事前に、し過ぎてしまう事があった。
 そして、沢山本を読んで、沢山原稿を書いてきて、話の骨子、流れまで綿密に決めて臨んだのにかかわらず、いざ本番となって、話そうにもどうにもいい言葉が出て来なくなった経験がある。

 これは私の中のそのままで完全に働く叡智、話す力を私自身が信用せず、それを補う為に準備し過ぎたが為に自分の思ったとおり、肝心な時に私の力が発現しなかったのである。
 何でも普段の習慣、トレーニングというのがいざという時に出る。私は沢山、準備、努力した積もりでそれが却って己のそのままの力をふさぐマイナスの訓練をしていたのである。

 我々の中には神の国があり、真理があるのであるから、そのままで無限の力があるのである。それを信じ、それに任せる訓練をしなければならぬ。それは自分がやるんだという我(が)の心を振り捨てて、そのままの心になる事である。そして、そのまま自分の中には無限の力があるのだから、それに任せる練習をして、そして自分が何となくしたいと思った事をそのまま素直にやればよいのである。
 何か講話とかスピーチをしなくてはならないのだったら、自分が何を話すかという事を事前に考えるのは当たり前の事であり、その当たり前の事を当たり前にやって話を組み立て、それに必要な書物があれば、当たり前に目を通せば良いのである。

 全てを自分の中の神に任せ、心を解放した時、自然法爾(じねんほうに)にこれをしたいという事を当たり前にやっていけば、いざ本番になった時に当たり前に力を発揮出来る。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-11-25 13:02 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

鳥インフルエンザについて

 現在、鳥インフルエンザの流行に関して懸念が表明されており、中国やインドネシアで何人死んだという報道が毎日の様にされている。
 政府も安部官房長官が具体的な対策案を発表し、こういう報道が為されるとさすがに人々も戦々恐々として来るのではないか?

 治療薬にはタミフルという薬が有効だそうでそれの地方自治体の備蓄の割合を引き上げるのどうのこうのと言われている。
 しかし、私は余りに心配し過ぎるのもどうかと思う。人間が生きるのは我(が)の努力でどうこう出来るものではない。人間は基本的に神に生かされているからである。従って、死ぬ運命ならそれを受け入れればいいのであり、生きれるならば、それは神様が自分をこの世界に取ってまだ必要であると判断されたから生かしてくれるのだという風な気持ちでいればいいと思う。

 人間は生きよう生きようとすると返って死の虜になるものである。昔から「生きようと思ったら死ね」「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある」「生命を得んと欲するものは却ってこれを失い、生命を捨てようとするものは却ってこれを得る」という言葉がある。

 人間は神に生かされているのであるからそれを絶対に信頼して、自分の生き死には神に全面的にお任せすればよいと思う。
 その上で何となくこれをしたいと思うものがあれば自然にやればよいと思う。それが予防接種などをする事であればそれもいいだろう。
 また、先日細木数子がテレビで言っていたが、現代人は余りに薬漬けになっているので却って抵抗力が無くなっているのだそうである。何かと言えばすぐ薬に頼り、また食べ物でも化学肥料、農薬まみれの野菜、卵等を日常的に食べているといつしか体の抵抗力を失って、癌などにもかかりやすくなるし、伝染病などにも抵抗力を無くして来るのである。

 私は何をどうこうしようとするものではないが今朝、家内に食べ物に関して、出来るだけ有機肥料を使った野菜を買う様に言った。そしてなるべくコンビニとかファーストフードの食べ物を食べないようにしようと思う。


 堀 浩二
by koujihori | 2005-11-22 08:22 | 健康 | Trackback | Comments(0)

人生経験というのは全てにおいて必要か

  我々は人生を送っている。人生を送っていないという人は居ないでしょう。そして、人生には色々あり、その中でいいこともあれば、いやなこともあり、成功することもあれば、失敗することもある。

 我々は肉体を持っているが肉体そのものではなく、肉体は人生を送るための道具であり、宇宙服の様なものである。我々の本体は肉体を超えた、肉体が滅んでも永遠に生き通す所の完全円満なる神の生命である。
 我々は内在的に無限に完全円満な神の生命を宿しており、それは無限次元の存在であるから、そのままでは何ものにも感覚されないものである。従って、その内在の素晴らしさを表現するには縦横厚みの三次元にまで次元を落として、表現されるのである。それがこの人生であり、肉体を持つという事である。
 そして、その肉体を持った人生を通して内在の無限の素晴らしさを表現して行くのであり、それを生長の家では「実相顕現」と呼んでいる。そして、その表現は最初は稚拙な段階から表現して行き、それで色々経験、失敗体験を重ねて行く内に色々な事を学び、徐々にその表現を高度なものにして行くのである。
 それは丁度、無限に才能のある画家が居るとして二次元のキャンバスにその絵の才能を表現するとして、それがまだ駆け出しの画家ならその表現が稚拙だが、何枚も何枚も絵を描く練習をして、失敗をして行く内に段々と絵の技量が上がって来るようなものである。

 その様に人生において様々な人生体験、失敗体験をしている人はそれだけ、色々な事を知っているし、能力も伸ばしているという事になる。
 しかし、そうなると我々の能力は内在されたものは無限であるから、その無限の能力を完全に現して行く為にはあらゆる考えられる限りの人生経験、失敗体験をしなくてはならないという事になる。そして可能性が無限ならそれに近づくのも無限に失敗して行かなくてはならないという事にもなり、そうなるとその人は永遠に失敗し続ける人という事になり、こんなのが無限に素晴らしい神の生命の表現者と言えるだろうか。
 それではいつまで経っても自分が完全であるという自覚にならないのである。

 ここで私の体験を言うと、実は会社の業務で私は社員の給料計算をしているのだが、去年の年末調整の計算の仕方にミスがあった事が今日、税務署からの連絡で判明したのである。それは長年私がやって来た給料の年末調整の計算の基本的な考え方に間違った部分があったからであり、たまたまそれが目に見える形で現れて、税務署から指摘されたから分かったのである。そうなると私は会社の給料計算事務というものについての過ち、迷いがこの失敗経験、体験により、改まり、私の能力がそれだけ伸びたと言える。
 しかし、会社の担当の税理士の女性に聞いたら、私が今回学んだ知識、内容は当然知っていますと言うのである。その人は別にその年末調整の計算の仕方を私の様に失敗経験で学んだ訳ではないのである。即ちこの人の方が私より頭の状態がクリアーであったという事である。だから、失敗経験なんかしなくても先刻承知だということである。

 これはどういう事かと言えば、我々が生長し、能力を伸ばし、おのれの実相の素晴らしさが顕現する為には人生経験のみではなく、自分が始めから完全円満な生命の実相であるという事を悟ってしまえばそれで良いという事なのである。

 私の恩師の榎本恵吾先生がお使いになっていた例えを引用させていただくと暗闇の中でものにつまづいたらそこに何かつまづくものがあるから危険であるという事を学び、二度とそこに近づかないようにしたら安全であるという事が分かったという点ではある意味、進歩があり、生長したと言えるが、そこに明かりを灯し、そのつまづいたものは単なる障害物ではなくて、素晴らしい宝物であったと分かれば、もう自分には障害となるものはなく、あるのはただ宝の山のみであると分かるというのである。

 暗闇に居て、何かにつまづいて、そこに近づかない方が安全であるという事を学ぶというのは人生の中の失敗体験により、こうしたらよい、ああしたら悪いという事を単に学ぶという事である。
 一方、明かりを灯し、そのつまづいたものが単なる障害物ではなく宝の山であったと気が付くのはこの世界の現象の奥の姿、本当にある世界、即ちこの世界の本当の姿は完全円満の善のみの神の国であったという事を信ずる信仰を持つという事である。

 即ち、あらゆる失敗体験を積まなくても自分の肉体の奥の実相はこのままで完全円満の神の生命であるという事を悟れば、今、このまま自分が無限に素晴らしいという事を実感し、全ては完全円満で何も悪いものは無かったと無限の感謝と悦びが出て来て、人生につまづく事なく、失敗する事なく能力をどんどん発揮する事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-11-18 12:49 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

罪は赦される(3)

 現象を見れば、この世は不完全だらけであり、完全で落ち度のない人生を歩んで来た人は先ずいないのではないか?あの時、あんな事をするのじゃなかった、言うのじゃなかったと後悔する事は誰でもあると思う。

 でも、人間はそれらの現象がアルと思って、自分はこれだけの失敗をした、罪を犯したという事に心を引っ掛からせ、自分を責めていても又、同じ様な罪を犯してしまうのである。

 例えば、自分は酒や煙草が体に悪い、悪いと認識していて、それをやめたいやめたいと思っていても、そう思えば思うほど酒や煙草に心がひかれてしまうとか又、過去に女をこれだけ泣かせて来た、これだけ不幸にしてきたという事を後悔し、心を痛めていても、不思議と又、同様に女と恋に陥り、また不幸な結末となり、女を泣かせてしまうのである。

 自分のやって来た事を間違っていたと反省するのは良いが、それにいつまでも心を引っ掛からせ、それを償う為にああしなくちゃならん、こうしなくちゃならんとあくせくして、例えその通りやったとしてもそれでは本当に罪が赦された事にならないのである。
 
本当に罪が赦されるという事は現象はどうあろうともそれは単に自分の心の影であって、真実在ではないと悟り、その奥の真実相の世界では自分は完全円満の神の生命であり、何の罪穢れのナイ存在であったと自覚する事である。
 それを大懺悔という。小懺悔というのは自分はこれだけの失敗を犯しました、あれだけの罪を犯しました、どうぞ赦してくださいというものだが、本当の懺悔、大懺悔というのは現象は心の影であってナイと悟り、本当の自分は未だかつて一度も失敗も罪も犯した事が無い完全円満の神の子であると悟る事である。
 その自覚を得る事が真に罪が赦されるという事である。その自覚になれば自ずと罪に心が惹かれなくなる。そして自ずと女癖が治ったり、酒煙草が止まったりするのである。

 そして、その自覚は現象の奥にある真実の実相世界が始めから完全円満で何の罪も未だかつて一度も犯された事もない、従ってその犠牲になった生命も全然ないという世界を認めるという事である。
 実相の世界では堕胎された胎児も、戦争で虐殺された犠牲者も何もないのであり、そこにいるのは始めから完全円満の少しも傷付けられた事の無い神の子の生命だけである。

 その生命の実相を本当に拝み、そして、それを祝福する所、自ずと現象的にもこの世界が整って来るのである。何故ならばこの現象世界は我々の認識が映っている映し世(現世)であるからである。それこそが罪が真に赦されるという事である。

 戦争は良くないから止めよう、起こさない様にしようという事は普通、誰でも思う事であるが、それでも中々戦争がこの地球上から無くならないのは人類がこの現象が本当にアルと思って、自己に罪あり、罪ある者は罰せられなければならないと自己処罰しているからである。
 9.11のアメリカの同時多発テロでもそれを引き起こしたテロリストに飛行技術を伝授したのは他ならぬアメリカ人自身である。即ちアメリカ人は自分で自分を罰したのである。

 現象は我々の心の影であり、それは真には存在しないのであり、その奥にある霊的実相世界は完全円満であり、未だかつて一度も罪が犯された事もなく、その犠牲になった生命もない世界である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-11-16 15:12 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

皇統について(2)

 前回のブログで皇統を巡る動きが慌ただしくなって来ていると書いた。しかし、それは現象の事であって、実相の立場から観れば、皇統は盤石なものとして何らの危機に瀕しようがないのである。

  本当の皇統、即ち神性は我々の中にある。それを悦んでおれば、我々の自覚の投影である現象の皇統は自ずと盤石なものになる。
 
 今は天の岩戸隠れの時である。こういう時は現象の皇統を慌てて保全しようとしないで我らの中の神性を先ず悦ぶべきである。
 そして、古事記にあるように飲めや歌えで悦びの宴をしウズメノミコトの裸踊りでどっと笑えば良いのである。 その悦びの中から、天照大神がお顔を出されて、現象に実相の光が照らし出され、全ての憂い、矛盾、危機、罪が自ずと雲散霧消し、現象の皇統も自ずと盤石なものとなる。

堀 浩二
by koujihori | 2005-11-09 11:19 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

同情は無用である。

  世の中には可哀想な人がいて、心ある愛深い人はそうした人達に同情し、色々ボランティア活動とかして、そうした不幸な境遇の人達を救済しようという人達がいる。それはそれで大変尊い事である。

 でも、それがオレが偉くて、相手を見下して助けてやる、救ってやるという様な恩の押し売りの様になってはならないと思う。
 同情は無用である。何故なら現象はどうあろうともその奥の本当の世界、神様がお作りになったそのままの実相の世界では同情の必要な不完全なものは神様は一切お作りになってはおられないからである。
 同情というのは相手を不完全なものとしてこれを見下す事である。それは完全円満なものしかお作りにならなかった神様への冒涜である。神の恵みを素直に受け取っていない事である。
 そして、是非オレ様がその神様がやり足りなかった所を埋めてやろう、神様が完全にし損なった不完全な見下すべき可哀想な相手を救ってやろうと思うのである。しかし、その鼻持ちならない傲慢さはいつしか心の重荷になり、救わなくてはならない、整えなくてはならないという心の焦りになるのである。

 そこには心の平和はなく、むろん神様への全幅の信頼も無ければ感謝もない。常に自分がああしなくちゃならん、こうしなくちゃならんとあくせく動き回り、疲れ果ててしまうのである。

 何でこんな事になるのだろうか?それは神様がお作りになった世界ははじめから完全円満であるという真理に目を閉ざしているからである。神様がお作りになった世界、全ての存在、生きとし生けるものはそのままで完全円満であり、こちらが同情して助けて手当しなくちゃいけないものなんて一つもないという事を心の眼で観ていないのである。その完全円満の実相世界に目を閉じて観ていないから、その心の現れとして自分の周りに不完全な世界を自ら映し出し、不完全だ、可哀想だと嘆き、同情しているのである。

 この世界、この世界の生きとし生けるものは皆、はじめからそのままで完全であり、尊敬すべきものである。それを観じるのが生長の家で言う「感謝」である。

堀 浩二
by koujihori | 2005-11-06 10:39 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

組立について

 私はテニスをやっているが、その中で気が付いた事は「組立」が大事であるという事である。
 テニスの試合に勝つには無闇にラケットを振り回しても駄目である。もちろん、正しい打ち方、技術力というものが不可欠であるが、それに勝るとも劣らないのが戦略である。つまり、如何に試合を進めるかという事であり、それが試合に勝つのに非常に大事な要素になって来る。
 例えば、サーブを相手コートのこのエリアに打って、そのレシーブボールがここに返って来るだろうから、そのボールをまた、相手コートのここに打って、それを相手が苦し紛れに何とか打ち返して来るのをこちらがチャンスボールとして決めてポイントを取るというものである。
 
 これがテニスの試合における戦略であり、その戦略がぴたっと決まれば、ポイントを取る事が出来、試合に勝つ事も出来るのである。
 これは戦略とも言うが、組立とも呼ぶ。すぐに試合の勝利を得ようと強引にポイントを取ろうとしてもそれでは得点する事は出来ないのである。人並み外れたものすごいサーブを打てれば別だがそんなのは先ずあり得ないのであり、結果を出すには忍耐強くゲームを組み立てなくてはならない。

 ある評論家が言っていた事だが、現代人というのはすぐに結論と収穫を求める傾向にあるそうである。テレビの視聴者、選挙の有権者などの動向にその傾向が顕著に表れているとか。
 それは郵政民営化が改革の第一歩だと聞かされれば、その他の政治課題の事など殆ど考えずにすぐにそれが国民の生活の改善につながるかと思って自民党に投票する人達、そして、この頃はテレビ界では細木数子を出せば、視聴率を取れるそうで、彼女は殆ど毎日の様にテレビに出て、芸能人とかスポーツ選手を相手にこれらを叱りつけているが、これも彼女の様に自信満々で「お前はこうだ!」と結論を言い切る所が現代人に受けているのだと言う。

 細木女史は現代の日本人に取って必要ないい事も多く言ってくれていると思うが、この評論家曰く、皆にはもうちょっと他人に結論を出してもらう前に自分で分からない状態に耐え、そこで自己努力する気概を持って欲しいと言っていた。私も全く同感である。

 ものごとの収穫、結論はすぐに我(が)で得ようとするものではなく、色々な人生経験という過程を経る中で自ずと得られるものだと思う。余り目前の結果、利益、勝利というものを性急に求めないで、そこに到るまでのテニスで言えば、組立、人生で言えば、過程を大事にして、そこで耐えつつ、人生を進めるのがいいと思う。

 それが本当の人生の楽しみではないだろうか?

堀 浩二
by koujihori | 2005-11-04 12:58 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

自信について

 皆さんは自分は自信がある方だとお思いだろうか、それとも無いとお思いだろうか?
 人はそれぞれ、天分が異なるから、得意分野が異なり、それぞれ得意な事に関しては自信はおありだろう。

 自信とは自分を信じる能力であり、それは何を為す上でも最も大事な事である。人間は神の子であり、内にと言うか、潜在的に無限の可能性、無限の能力を秘めているのである。しかし、それを引き出すのはそれを信じる力である。

 どんなに力のある巨人でも小さな蚊が自分に病気をうつすのではないかと恐怖すれば力の発揮のしようがないのである。
 従って、我々は子供とか部下、後輩を育てるのは大声で威嚇して、自分の言うことをきかせたり、失敗したからと言って、それをきつく言葉の暴力で責めて、相手を萎縮させてはならないのである。
 故に誰に対しても相手の非を責めるのではなく、相手の長所をほめて、自信をつけさせてあげるという事は本当に大事な事であり、この間、日本一になったロッテのバレンタイン監督などはその点は徹底していて、選手が失敗しても責めるということは先ず無かったそうで、その代わり、良いところ、ナイスプレーをほめまくり、選手の潜在能力を充分出させ、日本一になったのである。それをボビーマジックと呼ぶらしい。

 それはともかくとして自信というのはその様に他の人に言葉の力でつけさせて上げる事はもちろん大事だが、だからと言ってこちらが自信をつけさせてもらう事を他人に期待してはならないと思う。即ち、本当の自信というものは他人からの賞賛に頼るものであってはならないと思うのである。

 私は割合、デリケートな所があり、他人からバカにされたり、言葉でくさされるとそれに引っ掛かり、落ち込む様な所が多分にあったのである。
 ことに女性からの自分の男としての評価というものが非常に気に掛かり、十代、二十代の頃は女性にふられる事を極端に恐れていた。だから、結婚前は自分から積極的に女性にアプローチした事は殆ど無かった。ふられるのが恐かったのである。

 女性にふられるのが一回、二回なら良いがそれが何回もになったら、自分は自信を完全に打ち砕かれて立ち直れなくなるのではないかと思っていた。自信を失うのが何よりも恐かったのである。
 それは他の事にも同様であり、趣味のテニスにしても、他人から私のテニスの腕前をほめられる事もたまにあるが、くさされる事があったりすると非常に落ち込む所があった。私は野球とかもかじっているが野球はそれほど本腰を入れていないがテニスは本腰を入れているのでこれの腕前を否定されると自分の存在を否定されたような気がしたものである。

 でも、自分の自信のより所を他人からの評価に求めるという事自体が自信が無いという事であると気が付いたのである。
 自分が自分の可能性については一番分かっているのであり、自分の中に無限の可能性があるのだから、自分がそれを認め、自分で自分を信じておれば、それで良いのである。

 それこそ正に文字通り本物の自信であり、それがあれば他人が何と言おうとどう思おうとどうでもよいのである。
 それが分かれば自分が他人にどう思われているかということを気にする心の苦しみも無くなり、ただ自分が相手またはものごとに対して努力と愛情を注ぐ事だけを考えて、与える悦びだけで生活する事が出来るはずである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-11-03 20:22 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)