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分かってないと分からせてくれる

 私は母のお陰で生長の家の信仰に幼い頃から触れさせて頂き、そして高校生の時に合宿形式で生長の家の真理を学ぶ生長の家高校生練成会に参加してから、真剣に道を求め始めて大学の時に生長の家の活動を始め、現在に至っている。

 そこで自分なりに一所懸命やって来たつもりだが、信仰の神髄が分かっていなかったので、中々大変な思いをした事もある。その様な求道をして行く中でお陰様で私の生涯の師である生長の家宇治別格本山の故榎本恵吾先生に約八年前に巡り会い、その薫陶によって生長の家の神髄に目覚める事が出来た。

 でも、神髄に目覚めたからと言って、それで終わりではなく、そこからまた更に深い求道の日々が続くのである。何故なら真理は無限のものであるからである。
 私は生長の家の神髄を究めた積もりでいたが自分は正しいという思いが相変わらず強く、それで周りの人達を自分の尺度で裁いていた。
 自分はこれだけ正しい事を実行しているという自負は会社においても生長の家の組織においてもまた家庭生活においても強く、それは自信というより尊大な鼻持ちならない傲慢さであったと思う。

 そんな傲慢さがあると会社とか家庭とかで自分から見て、正しい事を実行していない相手がいると歯がゆく感じ、相手を見下し、責める心が沸き立って来るのである。
 でも、それは生長の家の神髄、即ち我(が)というものは本来存在せず、自分が生きているのは自分が偉くて生きているのではなくて、これ全て神様の内側からの生かしによるという事を本当には分かっていない状態であったのである。
 そういう不調和な感謝出来ていない心であるとこの世界は我らの心が作る世界であるから必ず問題が起こって来るのである。私はそういう不遜な心であったので宇治から帰ってきた後も何度となくこうした問題に見舞われた。

 しかし、そうした感謝を忘れた独善的な心により問題が起こって来るからこそ、それにより感謝が大事であるということ、我(が)の力なんて本当に大したものではないこと、他の人には自分にはない良い点が沢山あって、それにより自分は助けられ、生かされているのであるということが如実に分かるのである。

 即ち我々は分かっていなければその自分自身の分かっていない心が作りだした問題により本当の事を分からせて頂けるという事になっているのである。だから、誠に有り難い世界、良くなるしか仕方のない世界に我々は住まわせて頂いているという事になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-12-28 13:05 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

全日本フィギユア選手権を観て

 去る25日の日曜日、全日本フィギユア選手権が東京代々木で行われ、その結果、安藤美姫、村主章枝、荒川静香の三選手がトリノ五輪フィギユア日本女子代表に選ばれた。テレビ視聴率は33%に達したそうで日本中がこの選手権、そして代表選考を固唾を呑んで見守ったのである。

 年齢制限規定にわずか3ケ月足りなくて出場出来なかった浅田真央は残念だったが彼女の演技は本当に素晴らしく、何のてらいも作為も感じさせないその一つ一つの動きには天然のそのままの人間の無限の力の発露を見た様な気がする。
 この様に伸び伸びと本来自分が持っている力を素直にそのまま出す事が出来、そして、年齢制限で出れないトリノ五輪にも何の不満も執着も見せず、次出れればいいとコメント出来る大らかさをこの子は持っている。こういう素晴らしい子を育てたコーチ、ことに親御さんの育て方は本当に素晴らしいと思う。

 今回の選手権で本当に見事な演技で優勝した村主選手だが、その演技の最中、神様を感じたそうである。試合後のインタビューでコメントしていたが、演技の最中、自分ならざる神様の力が自分に働いて自分に素晴らしい演技をさせてくれたと実感したそうである。
 私も口はばったいがテニスの試合をしている時、同じ様な事を感じる事がある。事前にうじうじ技術的な事を考えていてもいざ試合が始まるとそんな雑念は消え去り、自ずと全力を傾けざるを得ず、そこで素晴らしいインスピレーションを感ずる事はよくある。

 そして、今回、惜しくも代表に選ばれなかったがここ最近、生長著しい中野由加里選手は試合前に「失敗を恐れずに思い切り全力をぶつける事を考えてやる。」とコメントしていた。
 これはスポーツの神髄であると思う。私がスポーツをやって行く中で常々感じる事はスポーツで学ぶ一番大切な事は結果を求める事より、全力をぶつける事であると思うがこの選手はその事を良く分かっていると思う。

 また、安藤選手も荒川選手もそれぞれ本当に素晴らしいと思う。荒川選手は選ばれた三選手の中では総合力は現時点では一番上だと思うし、何よりこの人には気品がある。

 八年前の長野オリンピックの時もそうだったが、オリンピックの時は本当に日本中が清められる気がする。それはマスコミがこれらのトップアスリートの活躍と必死な生き様、コメントをリアルタイムでテレビ、ラジオ等で一斉に流すからである。
 トップアスリートのコメントは先の村主選手や中野選手のコメントの様に宗教的神髄と相通ずるものがある。普段、マスコミは殺しだ、偽造だ、背信だと人間の一番くだらない、闇の部分をことさら、それに注目して大々的に取り上げてその闇の言葉で日本社会を穢しているのであるが、オリンピックの時はそれが一時的に清められるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-12-27 08:37 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

分かろうとすると分からなくなる

 私はテニスをやっているが、何回かここで申し上げたが、一番苦労するのはサーブである。私は初めてラケットを握ってからおよそ25年経つが、グラウンドストロークはテニスを始めて三年位で自信を持つようになったが、サーブは本当に苦労した。

 八年前にテニススクールに入って、三年前にテニスクラブにも入って色々な人の指導を受けてこの頃はお陰様で大部上達出来たと思うが、そのサーブの打ち方の研究をするのに正しいやり方を分かろうとして、プロの選手のビデオを確認する事がある。

 しかし、そんな事を続けていると段々気分が悪くなり、却って分からなくなるのである。自分本来でない生き方や心の持って行き方をすると何となく不快になるものである。
 生長の家創始者、谷口雅春先生作のある詩がある。正確な語句は思い出せないが内容は以下の様なものである。それは「幸福とは蝶の様なものである。それはそれを求めよう求めようと追い回すと却って、逃げてしまうのである。しかし、追うことをやめ、そのままでいれば知らぬ間に自分の肩にとまって来るのである。」という内容である。

 我々は今、既に神の子であるから、そのままで無限の智恵を内蔵しているのである。だから、全ての事、全ての必要な智恵は既に我々の中にあるのである。だから、そのままにして今やるべきことをやり、どんどん他人に対して愛の行いをして行けばよいのである。そうしている内、何となく自分の求める智恵や必要な事は自分でインスピレーション的に浮かび上がって来るか誰かの言葉を通して明らかになるものである。
 しかし、自分は分からない、分からないから分かろう、分かろうとあくせく自分の外に智恵を求めようとすると自分自身の「自分は分からない」という思いの通り、分からなくなるのである。

 ものごとを分かろうとしない事である。幸福を求めようとしない事である。それら必要な事、智恵は無限に既に我らの中に与えられているのである。既に必要なものは全て与えられているという事を認識して、他にどんどん与える生き方をすべきである。

堀 浩二
by koujihori | 2005-12-25 13:14 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

肉欲、物質欲を捨てるということ

 生長の家の聖典「生命の実相」には鶏の話が出て来る。それは鶏を両手でぐっと握って、そして地面に押しつけて、その目の前の地面に白墨で線を引くと、鶏はその目の前の地面に引かれた白墨の線を自分を縛る縄であると勘違いして、人間が手を放した後も、じっと身動き出来ない状態になるのだそうである。

 これは鶏の話で賢い人間様はそんなトリックにかからないと思うかも知れないが、あに図らんや同様のトリックにかかって自分の魂を縛り付け、自ら自由を失っている人はざらにあるのである。
 人間は目の前の白墨の線を実際の縄と勘違いはしないが、肉がアル、現象がアル、物質がアルと思うと、それが自分を縛る縄の様に感じられて、自由自在を失うのである。
 現象というのはただ我々の心が映し出した映像に過ぎないのであって、真に実在するものではないのである。
 
 だから、肉欲にふけったり、金銭欲、物質欲、名誉欲にふけると皆、魂が縛り付けられ、果ては地獄の苦しみを味わうのである。地獄とは具体的に存在する世界ではなく、自ら物質アリと迷いを描いて自己の魂を縛り付けている状態であるのである。
 
 そういう場合は一念発起して、肉ナシ、金銭ナシ、物質ナシ、全てがナイと一刀両断してしまうのが良いのである。そして、真の実在は自分の中にある神の国であるという事を心の眼でじっと観ずるのである。それが所謂、瞑想、神想観というものである。
 その時、自分を縛る障害、縄は消え(ナイーFREE)、魂そのままの自由自在、歓喜勇躍となる。
 そこに肉を追わずとも金銭を追わずとも名誉、地位を追わずともそのまま、今、悦びとなるのである。それが今、ここにある天国浄土、神の国を実感するという事である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-12-22 08:13 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

思い切りの良さについて

 私は自慢じゃないが小さい時からいわゆる「思い切り」が悪かった。私の生まれた鎌倉市には海岸沿いに市営プールがあり、子供の頃、私はよく友達とそこに泳ぎに行った。
 そこには飛び込み台付きのプールがあり、その飛び込み台は大体5メートル位の高さがあるのだが、他の子供達は嬉々としてそこからプールに飛び込んでいたが私はどうしても怖くてそこから飛び降りる事が出来なかった。

 私はその様に思い切りが悪いというか恐がりというか、そんな子供であったから、ものごとは全て慎重を期して完璧にやろうという性質であった。それは人一倍努力するといういい面もあり、私は大学受験の時も一日12時間位勉強して、勉強に万全を期して、そして滑り止めも二つも三つも受けて大学受験に臨んだ。

 私は早稲田大学を目指していたがそれは落ちて、東京池袋にある立教大学に入った。そこで、色々な事に挑戦し、野球同好会にも入ったりした。でもいくら努力しても自分が本当に自信がある様な感じがしなかった。

 ところで私は現在、会社の昼休みに会社の仲間と卓球をしているのだが、入社以来やっているのでもう17年も毎日やっている。でも余りうまくならず、後から入ってきた若い社員の方がうまくなって、その相手にも中々勝てなくなって来た。

 私は上手くならないどころか段々下手になって来たのである。しかし、あるきっかけから私は一念発起してうまくやろうとか勝とうとか体裁を保とうという気持ちを捨て、思い切り自分をぶつける事のみ考えるようになった。

 卓球のうまい人のやっているのを観察すると失敗を恐れないで思い切ってやっているのである。それに対して下手な人は技術的な打ち方がどうのというより失敗を恐れて固くなっているのである。
 失敗を恐れないと体も柔らかくなるし、腰も良く入るし、ボールへの反応も良くなるし、ボールの伸びもいいし、思い切ってやるから色々冒険出来るからどの様にやったら上手くできるか体で直接体験出来て、ますます上手くなって行くのである。

 私は結果を気にせず、思い切ってやる事に決めてから卓球でも大部勝てるようになれたし、また、他のあらゆる事にも自信が出て、内からの力のみなぎりを実感するのである。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-12-21 08:32 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

糟糠の妻

 キリスト教式の結婚式の時、神父さんが「汝ら健やかなる時も病める時もお互い、合い睦み、慰め合い、愛し合う事を誓うか?」と新郎新婦に訪ね、彼らが「誓います。」と言ってキスをするシーンがある。

 糟糠の妻(そうこうのつま)という言葉があり、その意味は広辞苑には「[後漢書宋弘伝] 貧乏な時から連れ添って苦労を共にしてきた妻。「―は堂より下さず」(糟糠の妻は夫の立身出世の後にも家から追い出してはならない)」とある。
 このように中国の後漢書には「夫がまだ若くて社会的に芽が出ないで苦労している時に共に苦労してくれた妻は本当の魂の半身であって、それを夫が出世して、経済的にも恵まれて来てもその妻の有り難さに感謝して一生大事にして添い遂げよ」という教えが書いてある。
 
 男は若い頃、自分がまだ芽の出ていない時に共に苦労してくれた妻がいても、自分が後に出世して、社会的地位も上がり、経済的にも豊かになって来ると妻は年老いて行くが自分はますます男盛りになったりして、若い女性にももてるようになるから、時として糟糠の妻を捨てて、若くて美人の女に乗り換えるという不届き者もいるようである。
 しかし、私はそのような男は本当に可哀想な男だと思うのである。本当の愛を知らないのだから。
 
 「コクーン」という今から20年位前のアメリカ映画がある。それは宇宙人が昔、地球の海の底に仲間をコクーン(繭)に入れて残していったのを再び戻って来てその仲間達を連れ帰るというストーリーであるが、その際、宇宙人のパワーに触れてパワーアップした地球人の老人達が宇宙人と一緒に宇宙に行くのである。しかし、その中で頑としてその仲間に加わらなかった一人の老人がいるのだがこの人には痴呆症気味の妻がいるのである。
 その妻の面倒を見ながら二人だけで暮らしていたのだが、その妻がある晩、夫との楽しい思い出を語りながら老衰で安らかに死ぬのである。その老人は妻の亡骸を両腕に抱え、こっそり宇宙人の家のプールに入れて(このプールには不思議な力があってこれに入ると老人達がパワーをつけるのである。)、懸命に生き返らせようとするのである。
 私はこのシーンを観て本当に夫婦の愛の深さ、尊さというものを感じ、自分も年老いてもこんな風に妻を愛し続けてやりたいと思った。
 
 人間は調子がいい時は人が寄ってくるし、異性にももてるものである。しかし、この様な人達は自分が人生のどん底に墜ちたら離れて行くのである。
 自分の魂の本当の半身というものは自分が表面的に一番悪い状態でもそれを審かないで優しく包んでくれ、そして励ましてくれる相手である。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-12-16 23:26 | 家庭生活 | Trackback | Comments(0)

相手、ものごとの光明面を観るということ

 「全ての人、もの、ことの光明面を観て、暗黒面を観るべからず。」というのが生長の家の信徒行持項目にあるが、それは表面の仮存在である現象を観ないでその奥の真実在であるそのものの実相を観るべしという事なのである。

  我々は現象がアルと思って、それを心につかむと真面目な人ほどそこに理想像即ち神とか実相を求めようとするから、それを良くしようと懸命になるのである。
 良くしよう、良くしようという心はその対象となるものの悪い面を良くしようという心であるから、その相手の悪をどうしても心につかむ事になるのである。その結果、善を実現させたいと強く念願する真面目な人ほど相手とかものとか事の悪を心に描いて相手を審くという事になってしまうのである。

 この現象世界は我々の心が映っている世界であるから我々が相手の悪を心に描いてそれを審いていれば、良くしよう良くしようと懸命に努力しているにも拘わらず、相手は悪くなって行くのである。
 
 そして、余りに良くしよう良くしようと思う心は心の裏ではまだ良くないー悪いと思っているから、そう思えば思うほど心に焦りが出て来て、自分自身が何かをやろうとしても好機を逃してしまい、うまく出来ないのである。

 我々は現象というのは単に我々の心が映っているだけの映像の世界に過ぎないものでそんなものは真実存在しないという事を知り、それをアルとして執着する心を解き放たなくてはならないのである。
 そして既に完全円満なる相手の実相を心の眼で観なくてはならない。生長の家ではその基本として「神想観」という瞑想を勧めている。

 堀 浩二
by koujihori | 2005-12-16 08:19 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

地獄の真下は極楽である。

 地獄の真下には何があるのであろうか?
 
 ある例え話でこんなのがある。それは地獄に堕ちるまい墜ちるまいとしていてもどんどん地獄にはまってしまう人がもう観念してこのまま墜ちるに任せようと力を抜いて地獄の底を突き破ったのがあにはからんやそこは極楽浄土だったそうである。
 
 ものごとは事態が深刻になって来て、どうにもならなくなって来た時が実は解決が近づいているのである。
 
 私の体験で言えば、私はこの世界には不完全、不幸が充ち満ちでいてそれが救いを必要としていてそれを何とかしなければならないという事を思い詰めすぎて神経衰弱になって夜も全然眠れなくなった事がある。今から8,9年前の事である。
 その時は本当にこの世の地獄と思ったものである。しかし、それは生長の家の神髄即ちこの世界の奥の本当の世界には自分が救わなくてはならない相手即ち、病気の人も貧乏の人も争っている人も一人もそんな不完全な人はおらず、皆、既に救われた、尊い拝むべき仏様ばかりいらっしゃるのであるという真理を如実に悟る為の伏線というか基礎工事であったのである。  
 私はそれらの基礎工事があったればこそ、生長の家の宇治別格本山での榎本恵吾先生の「そのままでよい」というお言葉の意味を如実に感ずる事が出来、自分の中に既に完全円満な神の国があるという事を悟り、同時に全ての人類、全宇宙の実相が既に救う必要のない完全円満なものであったという事を観ずる事が出来たのである。
 正に地獄の底を突き抜けた時、極楽浄土があったのである。

 現在、この日本も目を覆うような幼児殺しの事件が殆ど毎日の様に起こっている。また地球温暖化の為の異常気象が世界を覆い始めている。このままでは我が日本国、人類は累卵の危機の様に見える。しかし、こうした状況になったればこそ、人類が真理、即ち、国益とか物質的利益、経済的利益を超えた本当に大切なものを学ぶまたとない好機が到来して来ていると言えると思う。

 堀 浩二

 
by koujihori | 2005-12-13 17:46 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

便利さへの疑問

 我が家は私が映画好きで、スポーツ好きであるのでその手の番組ばかりを放送しているWOWWOWという有料テレビに申し込んで観ている。
 
 それで先日、そのWOWWOWで「ハリー・ポッター アズガバンの囚人」という映画を観ていた。私は集中して観ていたが、家族の者はその横で何となく他の本を読んでいたり、適当に過ごしていた。
 私はその時、こんな事は二十年前には無かった事だと思った。というのは映画が映画館でロードショー公開されてからそれが後に「日曜映画劇場」とか「金曜ロードショー」などのテレビ番組で放送されるのはその二、三年後でその時はあの有名な大作映画がテレビで観られると家族みんなでテレビにかじりついて悦んで観たものである。

 でもその後のレンタルビデオの出現、そして現在はレンタルしなくても殆どどんな映画でも1,000円から1,500円位でDVDを購入すれば自分の好きな映画が観れるという状況になって来ていて、先に述べた「ハリー・ポッター」などは映画館で公開されてからまだ一年にも満たない作品なのにもうテレビで観られるのである。
 昔は映画というのは本当にわくわくして観たものである。でも、それがビデオとかDVDとかWOWWOWとか便利なものが沢山出て来て、ちょっと前に公開された映画でも割合自宅で手軽に観れるという事になって、映画に対するときめきというかわくわくした心が庶民の間で薄れて来ていると思う。

 技術的な事が進歩して生活が便利になったからと言って、また物質的に豊かになったからと言って、人間が幸せになったとはどうしても思えないのである。
 私が子供の頃の昭和三十年代、四十年代には現在の様にインターネットもメールも携帯もパソコンもDVDも何も無かったし、ものが有り余っている社会でも無かったが現在の日本よりも遙かに毎日の生活が生き生きとして殆どの日本人は未来に対して希望に満ちた生活を送っていたような気がする。
 昭和三十三年当時の日本の庶民の生活を描いた映画「オールウェイズ」が今、話題を呼んでいるがその当時の貧しくとも人々の心がまだ温かかった日本に対する郷愁を多くの人達が私同様感じているのではないか?

 前述の様に最新の映画がどんどん自宅のテレビで観れるようになり、家に何台もテレビや車がある家が珍しくなくなり、携帯もパソコンもインターネットも普及し、カードで何でも買える様になっている一方、毎日の様に目を覆いたくなるような異常な事件の頻発、親が子を虐待し、子が親を見下している様な事態が世間を蔽っている。
 生活がテクノロジーの進歩により便利になり、物資が豊かに有り余る様になったからと言って、それが決して人間の幸福につながってはいないのである。

 人間の幸福とは物質の豊かさにあるのではなくて、我々人間自身の心の中にあるのである。貧しくとも家族お互い思い合う心、小さきもの弱いものに対して、思いやりと愛情を注ぐ心、そしてそれに感謝出来る心、そして自然と神様に信頼して感謝出来る心、これらの純朴な人間の心の幸福の中にこそ真の幸福がある。

 それを自覚し、物資を無駄遣いする事を止め、物資が少ない状況でも感謝出来る様になれば我々は今すぐ幸福になり、そして資源の無駄遣いを自ずと自粛する様になり環境も破壊しないようになれると思う。

堀 浩二
by koujihori | 2005-12-12 08:46 | 時事問題 | Trackback | Comments(0)

捨身について

 「捨身(しゃしん)」という言葉は広辞苑によれば、仏教用語で「修行・報恩の為に身を犠牲にする事、飢えた生物の為に身を投げ出したりすること」とある。

 広辞苑の定義というのはともかくとして、捨身即ちおのれの身を捨てるという事は悟りの極地の姿である。キリストは「人、友の為に命を捨てる。これより大なる愛はなし。」と仰った。生長の家の創始者、谷口雅春先生はこれになぞらえて、「人、国の為に生命を捨てる。これより大なる愛はなし。」と仰って、大東亜戦争(太平洋戦争)中に戦況が悪化した戦争末期、日本国を守る為に敢然と自らの生命を国に捧げた神風特攻隊の若者達を讃えたのであった。

 人間は神の子であり、我らの内に神の国がある。神の国、即ち人類が理想とする楽園というのはこれから人間の努力で少しずつ作られて行くものではなく(現象的にはそうであるが)、現象の奥の真実在の霊の世界では神の国、理想世界が理念として既にここにあるのである。
 それを自覚する事がいわゆる「悟り」である。そして、その悟りを人類に得させる為に神様が既に悟りを啓いた救世主的高級霊を地上に遣わし、それが釈迦となり、キリストとなり、マホメットその他の偉い導師となり、その救世主達が説いた教えが現在の世界三大宗教の仏教、キリスト教、イスラム教その他の尊い教え、宗教となっているのである。

 そして、それら宗教に縁あってふれた修行者達が毎日の修行で求めているものがこの「悟り」である。また、もっと広義で言えば、全ての人類が実はこの悟りを求めて、毎日の生活を送っているのである。本人がそれを自覚するしないにかかわらず。何故ならば、全ての人類は神の子であり、内に完全円満な神の国を蔵しているから、それを求めずにおれないからである。

 そして、人間は何回も生まれ変わり、その悟りを求め、又は深めて行くのである。自分の中に神の子の実相があり、神の国があるという事は生長の家の本を読めば、書いてあるから単なる頭の知識としてそれを得る事は容易である。
 しかし、単に知識として知る事と実感として悟る事はもちろん、全然別である。実感として悟る為には色々の経験を踏み、かつ教えの先駆者を師として仰ぎ、その人、又は団体の元で修行したりする事が大事である。それらの事を地道に長い間かけてやって行く内に自分の中に真理があり、神の国があるという事をこつねんと悟る時が来るのである。

 そして、そのこつねんと実感で悟った真理、自分は神の子であるという事が日を追って、その実感が深まり、生活の中で実際の生き方として出て来るのである。そして、その究極の生き方が正に「捨身」である。自分の事は一切考えない、自分の利益は一切考えない、自分の対面は一切気にしない、即ち結果、現象は一切考えず、与える事だけに徹するという生き方である。

 それこそ法悦の極地であり、無限力の吹き出しである。人間は誰でもこの境地を目指して人生学校を送っているのである。
 そして、大東亜戦争で国に生命を捧げると決意した青年達は一気にこの悟りの極地に到達したのである。鹿児島の知覧という町には大東亜戦争中、神風特別攻撃隊の基地があった。そこで悪化した戦局の中、特攻隊員達は出撃の命令を待っていたのである。
 その中で明日出撃が決まっているという隊員達の写真を私は見た事がある。それは隊員達が数人で子犬と戯れている姿であるがどう見ても明日死ななくてはならないという恐怖も悲壮感もその表情からは読み取れない。どの隊員も本当に済みきった、むしろ明るささえ感じる表情をしているのである。
 それはおのれの肉体を国の為に、故郷の為に捧げる事を決意し、自分が肉体を超えて、もっと大きな存在になるという事を悟った顔である。

堀 浩二
by koujihori | 2005-12-09 08:35 | 信仰 | Trackback | Comments(0)