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因果律(2)

 人間というのものは惰性に流されて行くものである。一度、癖がつけば、その人はずっとそのまま同じ様な事を繰り返して行くものだ。女癖の悪い男は相手をとっかえひっかえ、女遊びを繰り返して行くし、職場に不満のあるものは職場の体制が変わっても常に自己の待遇の悪さを嘆いて行く傾向にある。

 そのままではその人は変わる事は出来ない。それが所謂、業の流転というものであり、因縁因果に縛られた人間というのである。しかし、こういう人でも清められる時が来る。それは人生において、一大事件、一大難関等何か大激動が起こる時である。
 それは生死に関わる大病であったり、離婚であったり、倒産であったりである。それらははた目から見て、不幸な事であるが、その人に取っては清めの時であり、一大自己変革のチャンスの時である。

 そうした不幸は外から襲って来るのではなくて、そもそも自己の心が招いたものである。それによって、自己の心を反省し、真理を知り、自らの意思で良い心を起こし、今までと異なる正しい事をして行くようになるのである。

 そうした時、強力な導きとなるのが正しい信仰である。それにより正しい真理を知り、それを自らの意思で生活の中でコツコツと実践して行く事が業、因縁を超越する事になる。

堀 浩二
by koujihori | 2006-01-27 08:33 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)

因果律

 因果律というのがある。自分が心と行動で原因を作れば、それはいつかは形となって自分に帰って来るというものだ。良き心を起こし、良き行動をすれば、良き事が起こって来るし、逆に悪い心を起こせば、悪い事が起こって来る。自分はあの時あれだけの罪を犯したのではないかと気に病む人もいるが心配しなくても自分が他に施した事は必ず自分に返って来る事になっている。
 
 人を傷付けたら必ず自分も何らかの形で傷付けられるのである。因果律の法則の外には何人も出る事は出来ない。
 しかし、だからと言って業の流転を超越出来ないという事ではない。我らは神の子であり、業の流転、因果応報も何も無い唯、完全円満な存在のみの唯神実相の世界に生きている。それを悟れば業の流転を超越出来る。超越しながら、心の法則、即ち因果律を駆使して、この現象界に実相完全円満を表現して行くのである。
 我らは業の流転を超越しながらも因果律の法則を通して、己の心を反省し、それにより実相顕現、生長して行くのである。
  
 それは具体的にはどういう事かと言うと、我らは内に神の子として無限に素晴らしい生命を持っているのであるが、自分がそれをまだ悟らず、目先の利益を何とかかすめ取ろうと自分本来でない迷った心即ち人を陥れるとかずるい事をしてお金を儲ける様な事をするとホリエモンみたいに必ずそれは自分が他に施した通り、自分がおとしめられる事になる。
 しかし、そんな中でその当人が心から反省し、自分のした事は間違っていた、自分は神の子であるからそんな事をしなくても当たり前に人のために働いていたら豊かになると心を入れ替えて出直せば、それでその当人の内在の素晴らしさが現象的にも顕現するのである。
 それ即ち、己の無限に素晴らしい自由自在な実相、因縁因果に縛られない生命の実相を悟ってかつ、因果律に則って自分のした事を確実に刈り取る事により生長して行くという事である。
 
 堀 浩二
by koujihori | 2006-01-26 12:30 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

神風

 昨日、ライブドアのホリエモンこと堀江貴文社長が証券取引法違反容疑で逮捕された。彼らは法律に触れなければ、金儲けの為には何をやってもよいという考え方だった様で法の盲点をついて、株式時間外取引等ゲリラ的な手法で買収工作を繰り返し、また近鉄バッファローズ買収に名乗りを上げたり、その他様々な派手な話題を世間に提供して、自社の株価の時価総額をつりあげてあぶく銭を手にしてきた。だが、今月16日に東京地検の強制捜査を受け、ついに昨日夜逮捕された。

 私は彼らのやり方、即ち法に触れなければ金儲けの為にどんな事をやっても赦されるという考え方自体がおかしいと思っていたし、そんな事ではいつかは破綻するのは分かっていたが、こんなに早くその結果が出て来るとは正直思っていなかった。

 周りの側近は別としてホリエモン自体は私の推測では本当に自分達のやって来た事は法律違反すれすれのきわどいやり方ではあるが法には触れないと思っていたのではないかと思う。
 だから、法に対する無知が今回の墓穴を掘ったのではないかと思うが、そんな事は私は問題ではないと思う。そもそも富というのは生長の家の教えにある通り、それは人の為になる働きが形になったものである。それはその人がこのアイデア、この働きで何とか価値あるものを創造したい、社会の為に役立てたいという思いからコツコツと血と汗をにじませて努力する中からそれぞれの工夫を凝らして、価値あるものが出来上がり、それが社会の人々の為になった時、それが結果として収入という事になるのである。
 企業価値というものは社員達のそうした地道な毎日の働きが製品やサービスに現れ、その事により伸びて行くのであって、それによりその会社の株価が上がり、時価総額も上がって行くのが本来の姿である。

 ホリエモンみたいなうわべのパフォーマンスと人としてのルールを逸脱したようなやり方で自社の時価総額をつりあげて一時の富を得てもそんなものは砂上の楼閣であり、正にあぶく銭なのである。そして本人は法の網をくぐっているつもりがやはり彼のやり方は証券取引法では違反という事で引っ掛かって今回の結末を迎えたのだと思う。

 私は今回の事は日本社会に取って、本当に良かったと思う。これは社会に対する一大教訓であり、教育であると思う。ちょっと頭のいい人間が人と社会をなめ、適当にずるがしこい事をしていれば、富が来るんだという考えが如何に間違ったものであるかという事を世間はこれでよく分かったのではないかと思う。

 そして、こんな彼をかついで選挙に利用した小泉自民党が現在、BSE問題、マンション耐震強度偽装問題の併せてトリプルパンチで窮地に陥っているがこれも私は日本に取っていい事だと思う。
 小泉自民党は先の衆議院選挙でホリエモンを支持し、人寄せパンダに使い、選挙圧勝に一役も二役もかわせたが、それが如何に浅はかな表面的なものであったかという事が今回、露呈した。
 そして、マンション耐震強度偽装問題は小泉自民党の進める改革というもの、即ち何でもかんでも民営化という方向性が起こした落ち度であり、また、アメリカからの輸入牛肉が危険部位の背骨を含んでいた事が発見され、輸入再開わずか一ヶ月で輸入停止になった問題も、こんな事は事前に充分予想された事であったに拘わらず国民の健康よりもアメリカとの政治的関わりを重視して輸入再開したのであり、これらの諸問題が一気に露呈し、小泉自民党が如何に国民を籠絡し、表面的な政治運営をして来たかという事が白日の下にさらされたのである。

 私はこれら一連の動きが日本を救う「神風」になり、これを契機に我が日本国の本来の姿が現れてくれる事を願っている。

堀 浩二
by koujihori | 2006-01-24 08:36 | 時事問題 | Trackback(13) | Comments(0)

アンビリバボーを観て

 ここでも何回か取り上げたが、またテレビ番組「アンビリバボー」の事を書こうと思う。昨日は脊髄損傷で全身麻痺になった女性が奇跡的に回復したというものであった。

 この女性は北海道の小樽の手宮という町に住んでおり、自転車屋を営むごく普通の主婦として幸せな生活を送っていたが、今から13年前に自転車事故で脊髄を損傷し、一命は取り留めたもののそれ以来、全身麻痺になってしまい、口もきけなくなってしまった。言わば意識があるだけで座る事も口を利くことも出来ない寝たきりの状態になってしまったのである。

 しかし、東京などと違って北海道の田舎の人達には近所同士でもお互い人情味溢れるつながりがあり、この主婦の幼なじみであり夫婦同士で近所づきあいしている男性がこの主婦を何とかリハビリで立ち直らせようとするのである。

 しかし、医者は脊髄損傷で全身麻痺になった患者はリハビリのしようがないからあきらめてくれと言うのであった。
 だが、この男性はあきらめず、自分の仕事を休んでこの女性の為につきっきりで懸命に自分で考えた方法でリハビリの訓練をさせて行ったのであった。
 この女性は全身が麻痺していたので立つことはおろか椅子に座る事も出来なかったのでその為に腹筋を鍛える為のリハビリをしていた時に図らずも偶然、今まで出なかった声が何と出るようになったのである。

 そして、その内、自分の力で椅子に座れるようにもなり、遂に自力で立つ事も出来る様になった。
 これは医学の常識を根底から覆す奇跡である。この男性は自分でも言っていたがもし医学的な知識があったら、この女性をリハビリして立ち直らせようなんてしなかったに違いない。なまじ医学的知識が無かったから良かったのである。

 脊髄損傷で全身麻痺になった人で他に俳優のクリスファー・リーブがいる。残念ながら去年、亡くなったが、彼は生前、自分の脊髄を再生させる為にアメリカ国内のバイオテクノロジーの医学的適用に関する規制を緩和する為の運動に携わっていた様だが、この北海道の主婦はそんなバイオテクノロジーの助けを受けなくても自分の頑張りと他の人の深い思いやりによって立ち直ったのである。

 一昔前の医学の常識では脳細胞というものは一度死滅したら二度と再生しないというのが通説になっていた。しかし、数年前にある学者の実験によりこの説は覆され、今では脳細胞も再生するという事が医学界の常識になっているのである。

 私は医学的には造詣が深くないから余り詳しい事は分からないが脳髄というのはとどのつまり、神経の塊ではないかと思う。脳細胞が再生するのなら一度破壊された神経も再生し、つながるという事があるのではないかと思う。そういう理屈で脊髄なども本人があきらめないで一所懸命運動訓練していけば、再生するという事ではないだろうか?
 だから、この主婦も脊髄が損傷していながら立ち直ったのだと思う。

 老人ボケとかも脳の萎縮から起こっているのだから、本人が自分はもう年だからとあきらめずに希望を持って自分の好きな事、使命と感ずる事に一所懸命邁進し、脳を使って行けば、脳細胞が再生して、老人ボケなどもある程度回復するのではないかと思う。

 ちなみに私の父親はもうすぐ満89歳になるが今でも現役のエンジニアとして毎日出社し、頭を使い、精力的に設計開発の仕事をしている。同い年の他の老人と比べるとその脳力において雲泥の差がある。
 人間は自分の可能性を自分で限定しないでどんどん訓練して行けば脳細胞も復活し、かなりの年になっても能力が発揮出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-01-20 08:41 | 健康 | Trackback(1) | Comments(0)

自然ということ

 私は「そのままでよい」という事をよくこのブログで文章にして来たし、それは私の人生のモットーである。何故なら私は以前、余りにも一所懸命色々な事を完璧にやらなくてはならないと思っていたので肩に力が入りすぎて、夜も眠れなくなった事もあるからである。

 我らは神様に生かされているのであるから、自分でどうこう取り越し苦労しなくても神様が必要な事は全て整えて下さるのである。だから、我らは大船に乗った気持ちで毎日安心して暮らして行けば良いのであるが、それは何もしないでのうのうとしているという事ではないのである。

 何も心配する事がなく、全て神様が面倒見て下さる、生かして下さる、整えて下さる、解決して下さるという全託の心であれば、自ずと必要な事は何となくしたくなって来るのであり、それは鳥が産卵に備えて巣作りするのと同じである。鳥は何となく巣作りしたくなるからするのであって、それは何も自分が巣作りしなければ大変な事になると恐怖して巣作りするのではない。鳥は神様に完全に生かされ、導かれその中で自然の催しで巣作りするのである。

 だから自然とか神に生かされている、神に全託して生きるという事を何もしない事と思うのは間違いである。
 必要に応じて意識的にこれをやろうと思う事を綿密に注意深くやるのである。注意深くやるからと言ってそれは神様を信じていない事だなんていうのは間違いである。

 神の生かしというものは自然の本能的な無意識的な身体の働き、生理作用とも現れるし、人間の意識的な創意工夫とも現れる。自然、自然と言って余りに無策にこだわり、何も考えないという事にとらわれるととんでもない間違いを犯す。

 家では心が緩み、感情をストレートにぶつけていれば、それは自分に取って一番大切な相手を傷付ける事になるのである。それが高じれば家族離散または家族の誰かに重い病気が起こって来るのである。家族だからいいや、いいやで自分の感情の赴くままに激情をぶつけていれば、不幸になり、神様の幸福な世界は出て来ないのである。家族に対しても心を制御して、やさしい言葉を表現するのである。それが真に神に生かされた生き方である。

 また、スポーツの試合などでも私はテニスなど何も考えないでただ本能のままにラケットを振り回してもある程度、プレイ出来たのでテニスなんてこんなものスポーツなんてこんなものと高をくくっていた事がある。しかし、本気になってテニスをやって行く中でやはり、試合中も本能的な動きだけでは駄目でやはり、自分で意識して体を有効的に使っていかなれければ駄目な場合があるという事がはっきりしてきた。

 自然という事は自分は何も考えないでただ本能に任せるという形にも現れるが意識的に色々創意工夫するという形でも現れるのである。いずれにせよその根元になるのは我らの中の完全円満なる神の心である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-01-18 08:27 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(5)

神の国は我が内にあり

 キリストは「神の国は汝らの内にあり。」と仰った。生長の家の聖経「甘露の法雨」には「汝らの内にのみ神の国はあるなり。外にこれを追い求むる者は夢を追ひて走る者にして永遠に神の国を得る事能はず。」とある。
 これは大変、深遠な真理であり、この上もなく有り難い事である。

 人は誰でも理想を追い求める。どんな人でも今よりもっと素晴らしい状態を望み、それを追い求めている。誰かが言っていたが、今、まさに自殺しようとしている人でさえ希望を求めているというのである。

 そして、正直な人、純粋な人ほどこの願望をストレートに現し出すものである。自分の中に「人とはこうあらねばならない。ものごとはこういう理想的な形で行われなければならない。」という基準が高い人はそれを実現させようと頑張るのである。しかし、現実は中々そうは行かない。それで現実と理想のギャップに悩むのである。それで大抵の人は適当に妥協し、人生こんなもの、現実なんてこんなものと思ってあきらめるのであるが、心の純粋な人、強力な個性を持っている人は現実に理想を求めて努力を注いで行く。

 それはそれでよい事だが余りにその傾向が強いと現実を批判するという事になって来る。そして、それが現実の相手、家族とか会社の同僚とか友人とかを批判する様になる。
 他人に対してはある程度、遠慮もあるし、相手が間違っているからと言って、ストレートに批判の心をぶつけていれば、組織内で相手にされなくなるから、ある程度、セーブするのであるが、ことそれが相手が家族、しかも自分より下の存在である相手に対しては自分のいらいらをストレートにぶつける事になる。
 家庭の中では一番立場が上の存在は父親であるから父親は外でたまったうっぷんを家で発散するという事になりがちである。その相手は奥さんだったり子供達であったりする。それで家庭内暴力、虐待という事が出て来るのである。

 しかし、これらは皆、神の国即ち理想的な状況というものを既に内にあるものとして感謝しないで外即ち現象に求める中からその現象の相手が自分の理想と違う場合、それに対して批判し、イライラするという所から起こって来るのである。決してその父親が根っからの横暴でひどい虐待者という事ではないのである。 

 内に素晴らしい可能性を秘めている人ほど、一時的にひどい状態になるのである。何故ならばその人の持っている基準、人間とはどうであるべきかとかその他の基準が非常に高い為にそれを求めようとするからである。しかし、大抵はそれが既に内にあるという事を悟らずに外部にそれを求めようとするのである。それが相手を過剰に責めたり、自分を必要以上に審いて神経衰弱になったりするのである。

 神の国は内にのみありーという事は本当の世界は自分の中にのみあるという事である。それは完全円満な世界であり、何の罪も不完全も穢れもない世界である。それのみが真実存在する世界であり、外界の世界、現象の世界は本来存在しない世界であり、それは我らの心の影に過ぎないのであり、不完全極まりない、罪だらけの世界である。
 だから、外界、現象世界に完全を求めてはならない。現象を良くしようとしてはならない。そんなものはどんなに良くしようと思っても始めから不完全であるという事を認識しなくてはならない。我らは完全円満な世界は我らの内にのみあるという事を悟らなくてはならない。それが真理の悟りであり、その認識が深まれば、内なる理想世界が自ずと外界即ち現象世界に拡がって行くのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-01-17 12:17 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

長所、短所

 何回かここでもご紹介したが、私は約4年前にある名門テニスクラブに入会した。ある程度、テニスには自信があったからこういうクラブにも入会したのであるが、実際そこでテニスしてみると自分より上手な人ばかりで中々大変である。
 試合は原則ダブルスで行われるが、ここの原則としては相手を選り好みしないでプレイしましょうと言うことになっている。しかし、実際は上手い人は上手い人同士、そうでもない人はそういう人同士でプレイしている。私はまだ、ここの最上級の人達と殆どプレイした事がない。要するにそれらの人達と私ではテニスの力量が違うのでプレイさせてもらえないのである。

 私は一日でも早く彼らのレベルに追いつけるようになりたいと思って努力しているのであるが、反面、そうした上級者達に対して、「何を偉そうに」という反発心も持っていた。それと同時に自分を卑下する心、要するに彼らに対して自分がつまらない存在の様にも感じていた。しかし、そうした認識は間違っているのである。

 人間は長所、短所があるのである。そして人間は色々な能力を伸ばして行くのである。忍耐力、継続力、そして芸術の能力、スポーツの能力、科学技術の能力、その他人間には様々な能力が表面にまだ現れていなくても潜在的に無限にあり、その一つ一つを何回も人生学校を生まれ変わりながら開発して行くのである。
 そして、その開発された能力というのがそれぞれの人の長所であり、まだ開発されていない能力がその人の短所である。だから、他人が自分にはない能力を持っているからと言って、それを徒に羨望し、妬み、自分を卑下する事は要らない。自分は自分ならではの有意義な人生を歩んで来ているのであるから自分には他人にない能力が既に開発されているからである。それを誇りに思って、また他の人は自分にはない能力を持っているのだから、それを尊敬すればよいのである。
 
 また他人が自分と同じ能力、意識を持っていないからと言って、軽蔑する事も要らないのである。それはその人のその部分の能力がまだ開発されていないに過ぎないからであり、そういう時はその相手の長所、即ち自分には無いその人において既に開発されている能力を拝み、讃嘆し、感謝すれば良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-01-13 08:25 | 潜在能力 | Trackback | Comments(2)

そのままでよい(3)

 我々は内に完全円満の神の生命を宿しているから現象的にもそれを実現させたいという願望を本来持っているのである。それは自分をもっと良くしたい、向上させたいという願望である。それを持つから人間は努力するのであり、一所懸命生きるのである。

 しかし、それがこれでもかこれでもかという我(が)による頑張りにならない事が肝要である。それには正しい信仰を持つ事が大事である。人間を物質であると思う人間観を持っているならば、出来るだけ自分の肉体を生きながらえさせよう、出来るだけ自分に物質をかき集めよう、出来るだけ金儲けをしようという気持ちになるだろう。そうすると人間はいくら儲けても、富をかき集めてもまだ足りないまだ足りないと一種の餓鬼の様になってしまうのである。

 また、物質的な事を求めていなくてももっと高級な求道的な事、即ち悟りとか、また自己の能力の開発とか、また、信仰を深める事によって自己の悩みを解決しようとかしている求道者も何かと自分を信仰を良くしよう、悟りを深めよう、心を清めようと「これでもか、これでもか」となる傾向があると思う。

 しかし、「そのままでよい。」のである。迷いのあるまま、罪の意識のあるままでよいのである。それらの迷い、罪の意識で煩悶するそのままが我らの内の神のいでゆく姿である。無理に悟ろう、罪の意識を取り去ろうとしなくてよい。そんなのは我(が)である。

 我らが色々過ちを犯し、悩む中で自ずと我らの中の神性が出て来るのである。それが我らの中の神様が御自分で出て来るという事であり、それが「自ずと」という事であり、自律という事であり、自然という事であり、我らが神に生かされているという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-01-12 08:38 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

平常心

 今月四日に放送された「古畑任三郎」という田村正和主演の刑事物のテレビドラマに何とシアトルマリナーズのイチローが犯人役として出演していた。
 イチローの様な演劇の素人がどんな演技を見せるかと思ったが、これが中々の名演技ぶりだった。「一芸に秀でる者は百芸に通ず」という諺があるが本当にそうだと思った。

 イチローは実際の自分通りの役柄、即ち大リーグで活躍するイチローという名のプロ野球界のスーパースターという設定でドラマに登場した。そして、そのイチローがやむにやまれぬ事情で殺人を犯すのだが、それを田村正和演じる名刑事古畑任三郎が事件を解明し、犯人であるイチローを逮捕するというストーリーであった。

 その中でイチローのセリフで「自分のモットーは常に平常心を保つ事である。」というのがあった。おそらくこれは実際のイチローのモットーであろう。しかし、結局、イチローのこのモットーはまんまと古畑任三郎の計略により打ち破られ、それが事件解明、イチロー逮捕につながって行くのである。

 私はこのイチローのモットーは本当にそうだと思う。我々は何か問題とか悩みを抱えているとそれを解決しようとその事に心が引っ掛かり、その事ばかり考えるようになる事がある。そして、今をおろそかにし、他人への思いやりを忘れたりする。しかし、これはイチローの言う平常心を失っている状態であるのである。

 我々は神の子であるから、既に全知全能の神様が内側におられるのである。従って、他に求めずとも必要な智恵は既に内側に備わっているのである。
 我々は何かの問題、悩み、迷いが生じた時はそれを解決しようとつかまないで、その事は心から切り離して神様にお任せして、今やるべき事に全力を傾注し、当たり前の事を当たり前にやって行くがよいのである。そうする事が平常心を保つという事であり、その中から自ずと本来、既に我々の内部にある所の神様の無限の智恵が必要に応じて浮かび上がって来て、自分の抱えていた問題を解決する為のヒントが与えられるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-01-10 08:35 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

二兎を追う者は一兎をも得ず

昔から「二兎を追う者は一兎をも得ず。」という諺があるが、これは本当だとつくづく実感する。

 プロ野球の選手を見ていると高校まではピッチャーで四番バッターというのがよくあるケースであり、元巨人の江川卓も西武の松坂もそうである。しかし、これらの選手はプロ野球に入るとピッチングのみに専念し、DH制のパリーグに所属している松坂は当然の事ながら、ピッチャーも打席に入るセリーグに所属していた江川もピッチングに専念してバッターとしては単なる9番目のバッターとしてバッティングは殆ど期待されなかった。
 私は昔からこれが不思議であった。野球の他色々やるならともかく、野球だけやってるんだから、何故、ピッチャーとバッターと両方の能力を開花させる事が出来ないのかと。かつて巨人の桑田がこの両立に挑戦しようとした様だがやはり挫折して、ピッチングのみに専念する様になった。

 人間は無限の力を内に宿しているのであるから野球選手なら同時にピッチングとバッティングと二つの能力を花開かせる事が出来そうであるが、現実はそんな人はいないのである。人間は無限の力を宿していると言ってもそれを開発し、開花させるには一筋縄では行かないからである。
 私はかつて自分には無限力があるからテニスと野球と両方上手くなれると高をくくっていた事がある。それで両方に力を入れていたが、途中でテニスに絞った。それはやはり一つの事を極めるには一筋縄では行かないと思ったからである。しかし、私は本当にはその事が分かっていなかったようである。私は会社の昼休みに毎日、卓球をやっており、それも強くなろうと努力していて、結構マジになってやっていた。それでスポーツは精神的な集中の仕方は根本的には皆同じと思っていたので卓球で会得した精神集中の仕方が単純にテニスにも応用出来ると思っていたのである。

 だが、私はテニスのシングルスの試合に幾度と無く挑戦して上級者にはどうしても勝てないという現実を突きつけられる中、自分はまだまだテニスの事が分かっていないという事を認識させられた。
 そうするとテニスと卓球ではフォームはもちろんの事、試合中の心の使い方までも微妙に異なるという事が分かって来たのである。テニスのシングルスの試合で本当に上手い人と渡り合う為には卓球で相手とやり合っていたのとは異なる心の動かし方、集中の仕方を用いなくてはならないのである。
 テニスのシングルスの試合で上級者に勝つためには様々な経験を積み、努力を重ね、独特なテクニック及び頭の使い方、精神の集中の仕方を会得しなくてはならない。これらを会得するにはやはり、これに集中して努力を傾注するしかない事がテニスをやり続けて行く内に自ずとはっきりしてきた。やはり「二兎を追う者は一兎をも得ず」であったのである。

 逆にこれも良く言われる事だが一つの事に集中してそれを極めれば、これは他の事の神髄につながるのである。だから、何でも一つの事を極めている人は偉いのである。
 そして、私もここで様々な事を書かせて頂いているが、その私の論旨がただの空理空論にならない為に一つの事を実際に深く極めて行く事が大事であると痛感した次第である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-01-08 22:03 | 潜在能力 | Trackback(1) | Comments(0)