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国家について

 世界のニュースを見ていると毎日の様にどこそこの国では、こういうテロがあった、ああいう暴動があった、こういう虐殺があった、ああいう内紛があったという報道があふれている。こうした報道を見ていると国が安定しているという事が如何に尊くて有り難い事かという事を痛感させられる。

 個々人はいい人なのに国家になるといやな国家、悪い国家になる事があり、戦争を起こしたり、内紛が起こって来てしまう。
 
 その点、日本は内紛や暴動が起こる訳でもなく、平和が保たれている。それは政権は時代時代によって交代するが、日本には神代の昔から二千六百年以上に渡って、万世一系の皇統が不動の中心としてあるからである。
 日本の皇室はかのアインシュタインも指摘した様に世界で最も由緒正しい、歴史と権威のある家である。それは中心帰一という宇宙の大真理が自然発生的に出て来たものであるから、神に支えられたものである。神という実在に支えられているからこそ、それは神意に基づいたものであり、真実の存在であり、真実は永続性があるのである。従って、如何なる巨大権力と言えども皇室には手を付ける事が出来なかったのである。
 こうした尊い皇統を不動の中心として頂いているから日本国は内紛も暴動も起こらず、国民が仲むつまじく平和で安定した国家で居られるのである。

 だから、個々人がいくらいい人であってもそれがただの群れ集まりの烏合の衆であっては混沌とするばかりであり、それだけでは安定した国家は形成されず、従って平和な争いの無い世界は来ないのであって、神意に基づいた皇統が不動の中心として、連綿と続いて行く国にこそ平和と安定があるのである。
 従って、皇統は日本国に取って、引いては世界に取ってかけがえのないものなのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-02-28 12:18 | Trackback(4) | Comments(0)

おめでとう!荒川静香選手

 日本時間今朝、トリノオリンピック女子フィギユアスケートで日本の荒川静香選手が見事、悲願の金メダルを獲得した。

 大会後半になって、これまで日本選手団は金メダルはおろか、一つのメダルも取れていないという低迷ぶりだったが、それまでの鬱憤を完全に晴らすかのような金メダル獲得である。
 それもどちらかというとマイナーな競技ではなく、冬季オリンピックの最高の華と言える女子フィギユアでの金メダルである。そしてオリンピックの女子フィギユアでの金メダルは日本人はおろか東洋人でも初めてである。

 これは言うまでもなく素晴らしい快挙である。これで今までの日本人選手団の低迷で落ち込んでいた国民感情も一気に晴れたというものだ。

 オリンピックはよく魔物が住んでいると言われる。オリンピックは他の大会と違って一種独特の雰囲気、緊張感があり、実績のある選手もそこで実力を発揮するのは至難の業と言われる。
 そんな中、荒川選手は自己ベストの191.34ポイントをあげて見事優勝した。これは本当にすごい事だと思う。

 銀メダルはアメリカのコーエン選手、銅メダルはロシアのスルツカヤ選手、日本の村主選手は惜しくも4位であった。
 コーエン選手は何でも足首を傷めていたという事でジャンプの着地で二回転倒し、スルツカヤ選手もやはり着地に一回失敗し、転倒した。
 そして完璧な演技をした荒川選手が見事優勝したわけだが、私は金メダルを取れた事は日本国民としてもちろん嬉しいが、本当は金メダルというのはあくまで結果に過ぎないと思う。何故ならスルツカヤ選手やコーエン選手がノーミスで本来の演技をしていたら荒川が勝っていたがどうか分からなかったからである。

 それよりも私は荒川選手がオリンピックという特別な舞台でおそらく本人に取って生涯最高の演技が出来たという事がこの上なく素晴らしい事だと思う。今朝、家族と一緒にテレビにかじりついて生中継で見ていたがその優雅さ、技のキレ、全てにおいて完璧なその素晴らしい演技に対し、それが終わった直後、家族みんなでテレビに向かって拍手を送ったくらいだった。
 本当によくやったと思った。その時点で出来れば金メダルが取れたらいいなと思ったが順位はどうでもいいと思わせる位のものだった。

 私は以前の文章でニューヨークヤンキースのトーリ監督がアスリートに取って大事なのは百%の力を出す事であると言っている事を紹介したが、それは本当に真理であると思う。
 結果を出そうとして無理して自分の実力以上の事をやろうとするのではなく、結果を気にせず、今の自分に出来る事をただ全力でやり切るという事が大事であるというのである。その様に地道にやっていけば段々と実力も上がって来て、素晴らしいパフォーマンスが出来るのである。

 私は今回、荒川選手にかかるプレッシャーの大きさは計り知れないと思った。何故ならこれまで日本人選手が誰一人メダルを獲得出来ていないので、日本人全体が荒川選手のメダルを期待するその重圧は大変なものであり、それを一人背負うという事になるのではないかと思ったからである。

 だから、私は荒川選手にメダルを取ろう、結果を出そうなんて一切考えないで自己のベストを尽くす事だけに集中してやってもらいたいと念願していた。
 荒川選手はそんな私の願いを分かってくれたかの様に終始、落ち着いてマイペースで見事な演技をしてくれた。その事が本当に素晴らしい事である。金メダルはおまけみたいなものだと思う。

 でも、本当に荒川選手、金メダルおめでとう御座います。

堀 浩二 
by koujihori | 2006-02-24 08:28 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

飽く事を知らない人々

 アメリカの大統領とか日本の首相を見ていると自分が選ばれる為の選挙の時はそれに一所懸命になって、再選を果たして、自分の任期満了が近づいて来ると今度は歴史に名を残す大統領とか首相になろうとして色々画策する様である。
 
 一般人から見れば、大統領とか首相になったらそれは一国の頂点に立ったのだから、それ以上に欲を出して、歴史に名を残そうなんて考えなくてもいいではないかと思う人もいるだろう。でも、こうした政治家の欲望というのは飽く事を知らない様である。 

 何故、こんな事になるのだろうか?それはこれらの政治家が悪い人だからではなくて、本来、無限に素晴らしい神の子の実相を内蔵しているからである。
ただ、それを内蔵しているだけで自覚しないと自分の外にそれを求める様になり、もっと豊かになりたい、もっと名誉を得たいという事になる。

 人間は本来、無限力であり、無限に素晴らしい存在であり、無限に尊ぶべき存在である。従って、力を発揮したいし、認められたいし、幸福になりたいと思うのは当然である。
 しかるに自分が肉体を超えた永遠不滅の存在であり、既に完全円満であるという事を自覚していないと人は自分は素晴らしくありたいという願望はあるのに自分はこのままではまだ不完全であると思うものだから、より今より名誉を得たい、より人に賞賛を得られる様になりたい、より物質的に豊かになりたいとかと飽くる事なく餓鬼の様にとめどなく名誉と富を現象に求めて行く様になる。
 
 だから、政治家はより立派に尊敬される立場に立ちたいと思い、大統領や首相を目指すのであり、それも任期がもう終わりという時期になって来ると大統領や首相という現在の名誉よりもっと上の歴史に名を残す大統領や首相になりたいとか思って、色々画策するのである。

 でもこんな政治家に限って、歴史に名を残すなんて事は出来ないのである。
 
 これらは自分の中にそのままで既に完全円満な存在、神があるという事を悟っていない凡夫が現象の外の世界にその完全円満さを求めて、もっと良くなろう、もっと良くなろうとするものである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-02-23 10:35 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい(4)

 世の中には色々な宗教や哲学やセラピーや心理学があり、そこで精神的な事の重要性が説かれ、どうやったら心の平和が保てるかとか緊張しない為にはどうしたら良いかとか潜在意識を良くする為にはどうしたら良いかとかプラス思考にする為にはどうしたら良いかとか色々の教え、方法、アドバイスが説かれている。

 私も殆ど同様の事をこのブログで書いて来たし、これこれこういう時の心の舵取りの仕方をどうしたらいいかとかそんな事で分かった事を自分なりにしたためて来た。

 しかし、前にも書いたが、一つの型にとらわれると他の事に対してはスキが出来るので良くないのである。例えば大胆に勇敢に思い切りよく事を進める事が大事であるという事のみにとらわれると細かい所に気が行き届かないとかそういう事が出て来る。
 そうならない為にはどうしたらいいかと言ったら、一つの事以外に色々な型、方法を駆使してその場その場にふさわしい事をやって行かなくてはならないと言えるのだがそんな事は口で言うのは簡単だが実際にお前やって見ろと言われても中々出来ないだろう。

 私はテニスの試合に良く出るので自分が今、何をどのようにやらなくてはならないかという事は一つの型にとらわれず、臨機応変にその場、その場で判断してやって行かなくてはならないという事を体験的に知っているのだが、その判断はどうしているかと言ったら、それは百%、自己の直感による。

 私は昨日、私が信仰している生長の家の神奈川教区の大会で司会を仰せつかったのであるが、数百人も入る大きな会場で司会するのは初めてであり、またその大会は生長の家神奈川教区の大切な行事であったので慣れない私はかなり緊張した。

 そして、司会を滞りなく行う為に自分なりに今まで会得してきた心の使い方の工夫をして、緊張感を和らげ、仕事を遂行して行ったのであるが究極の緊張の場面まで行くと、もうそうした型も頼る事が出来ず、頼れるのは「そのままのおのれ」のみであるという現実を突きつけられた。
 その時、私はそのままで完全円満な自分であるという事を思い出し、そしてそのままの自分で勝負したのである。
 結果は完璧とは言えないものの悪くなく、全力を尽くしたという満足感は残った。
 
 単に知識的にこういう型をやれとかこういう時はこういう心の使い方をしたらいいと知っていても、それだけでは実際、本当にせっぱ詰まった時に使い物にならないのである。
 一番大事な事は小手先の心の使い方とか持って行き方とかの知識ではなく、自分の中にそれらの有用な心の使い方とかその他色々なやり方、型の元になる完全円満、無限力の神がおられるという悟りを得なくてはならないのである。

 それはこれこれこういう時にはこういう心の持って行き方にせよとかこれこれこういう時にはこうせよ、こうしなくてはならないという事を外側から「ねばならぬ」と縛り付けるのではなくて、我々の中に「そのまま」でそうした全ての智恵、方法、型を自ずと必要に応じて駆使出来る完全円満の神の生命があるという事を自覚する事である。
 それが「そのままでよい」という事であり、全ての小手先の智恵、こうしなくてはならないという縛りを解放した時、そのままで完全円満な我々の中の実相が動き出すのである。

 それこそ魂の解放であり、解脱であり、真の無限力の発揮である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-02-20 08:40 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(0)

御利益信仰

 宗教を信仰するのにそれを何か病気治しだか何らかの恩恵にあずかろうという考え方で信仰している人がいる。
 こういうのを所謂、御利益信仰というのであるが、こういう考え方は最初はいいが、それが段々と「これでもか、これでも御利益が出ないか」という感じになって来て、本来の悦びの信仰にならないのである。だから、その感謝のない、要求のみの、不満だらけの心により、やればやるほど、自分が期待した治病とかその他の御利益は得られず、却って自分はまだ足らない、まだ駄目だ、だからこの宗教の行をやるのだという気持ちになり心に平和がますます無くなって来て、その本人の不安の心通り、ますます不完全な現象が出て来て尽きないという事になる。

 重ねて言うが自分がこういう行や訓練をやったら健康とか富とかの御利益が来るからやるというのでは御利益信仰である。
 自分の間違った行いから病気やその他の不幸が起こって来るのはそれが間違った行いであり、考え方であるという事を神様が教えて下さっているのであり、それによって自分の考え方、行いを反省する為のものであり、反省し、改めたらそれで良いのである。
 
 それをその改めた事により、何か御利益を期待するというようでは駄目である。 自分が人生経験により正しい信仰に目覚め、正しい行いを知ったら、それをただやったら良いのである。ただ自分がそのままで完全円満な神の子であるという事を悦んだらいいのである。それをただ信仰する、そしてその通りの行いをやる、ただその事が悦びであり、尊い事であるというのが本当の信仰である。

 その時、この現象界は我々の心の影であるから、そうしたただ悦びの、ただ感謝の、ただ与えたい愛の心になった時にその人の健康他のあらゆる境遇が素晴らしく良くなる。

 堀 浩二
by koujihori | 2006-02-15 12:28 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

吾が業(わざ)は吾が為すに非ず

 私は会社で総務の仕事をしているが、経理、給与計算、庶務、社会保険関係等々仕事は多岐に渡っている。

 その上、現在、弊社でも社員の評価制度を構築しようと計画中である。私が立場上まとめ役を仰せつかっているのだが、これが中々雲を掴むような話なのである。一応、この手のガイドブックの様なものを毎日読んではいるのだが、こんなのが本当に弊社で実現出来るのかという気もするし、非常に前途多難の様な気がする。

 日常の仕事の上にこの様な難題を抱え、そうこうしている内に非常に気が重くなって来て自分にこんな計画がまとめられるのであろうかとか焦って来たのである。

 しかし、私の様な例に限らず、世の中は常に営みが為されているのである。何も行われなかったらそれは死の国であろう。この世界が生きた人間が活動している限り、様々な営みは果てしもなく行われて行くのは当然の事と言わなくてはならないのである。
 しかし、これらの営みを自分がやると思ったら大変なのである。全ての世の中の営みは自分ではなくて神様がやって下さる。何も取り越し苦労は必要ない。何故なら、本当の世界は神様の世界であり、全ての営みは神様が全知全能の力をもって遂行して下さっているからである。

 生長の家の招神歌(かみよびうた)という歌には「吾(わ)が生くるは我が力ならず天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)、吾(わ)が業(わざ)は我が為すに非ず。天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)」と歌われている。
 この歌の様に我らが生きているのは自分という我(が)が生きているのではない。神に生かされているのである。
 自分があれもこれもしなくてはならないと思い、あれこれ取り越し苦労するから大変に感じるのである。全ての事は神様がやって下さると信じ、今にのみ集中しておれば、全ての働きは神が自分と他の人を通して判断し、働いて下さる事を実感するのである。

 その事に気が付いた時、私は自分の両肩にかかった重荷がすうっと軽くなって行くのを感じた。神がその重荷を引き受けてくれたからである。
 そして、無理しないで今、当たり前の事を当たり前に心を込めてやって行く内に今まで何から手を付けていいか分からなかった仕事が段々と整理されて展望が開けて来たのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-02-14 17:37 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

敵は我が内にあり

 男は外に出れば、七人の敵が居るとよく言われる。私もそれにほぼ同感であった。男たるもの自分の信念に従って生きれば、他人と安易に妥協しないで生きる事は当然であり、むしろ敵が全然居ない男なんてそんなのは八方美人みたいなものであり、ふがいない信用ならない男であると信じていた。

 しかし、敵というものは果たして本当に存在するものであろうか?それは勝手に自分が心で夢想して現象の世界にそれを相手に投影して独り相撲しているだけではないのか?

 というのは生長の家の真理では本当にある世界、実相世界即ち神の国は完全円満であり、一人も不完全な人間も悪人も本来存在しないというのである。
 そしてこの現象世界は本当にある世界ではなく我々の心が映し出している現世(うつしよ)であるから悪い人間、自分に敵対して来る人間は本当は神の子でいい人であるのに自分がその実相を観ないで、相手を悪いやつである、この世には悪いけしからん人間が存在するのであるという自分の認識を相手に投影させているだけという事になるのである。

 私は長い間、小泉首相を愚かな悪い首相であると思い、郵政民営化選挙の時の法案反対派をつぶす女刺客作戦そして、先日の皇室典範改悪に向けての画策等に対し、非常な憤りを感じていた。しかし、それが紀子様の御懐妊でいったん、小泉首相の皇室典範改悪の目論見が頓挫して、やれやれと思ったが、その時、自分の心が完全に晴れず、また新たな批判する相手を探している自分がそこにあるという事に自ら気が付いたのであった。
 これは具体的に小泉首相という悪い人がいるのではなく、自分が勝手に悪い人間というものを想像し、それを小泉首相という対象に投影させていただけではないかと悟ったのである。

 そう言えば、私は自分の組織内で自分の上司とか上役が悪いとか理解が無いとか常に嘆いていたようだ。
 
 この世界は自分の認識が映っている世界であり、本当は自分の外部に具体的な悪とか敵は存在しないのである。全てのもの、人の実相は神に作られた完全円満な無限の善なる存在であり、それを我々が心の眼で観さえすれば、その実相が現象的にも現れる。


「敵は我が内にあり」である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-02-13 16:46 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

100%の力

 現代人は忙しすぎると良く言われる。会社員は仕事、家庭サービス、自分の趣味等、主婦は主婦業、子育ての他、パートや近所づきあい等々。

 大方の人が分刻みで時間に追われて毎日の仕事と生活のノルマをこなしているように見える。そして、車やパソコンを始め、仕事と生活の便利さと効率化を追求する為の様々なツールの開発のお陰で時間が効率化されて余裕が出て来るかと思いきや、そんな事は殆どなく、人々はますます忙しい生活に自分を駆り立てているように思う。

 しかし、「忙しい」という言葉の「忙」というのは読んで分かる様に「心が亡い」と書くのである。即ち、忙しくしているというのは仕事をこなしている様で実はそこには心が亡い(無い)即ち、心ここにあらず、心がこもっていないという状態なのである。心の亡い仕事というのはそこに本来配られるべき心遣いや注意が散漫になっているという事であるから、如何に効率的に仕事をこなしている様でも肝心な所にほころび、ミスが出て来る。

 しかし、それは結果をすぐに求めようとする心の姿勢に問題があると思う。

 話は変わるが、松井秀喜の在籍する大リーグのニューヨークヤンキースのジョー・トーレ監督は彼の自伝などから拝察するに中々の名将で素晴らしい人材育成者であり、コーディネーターであり、指揮官であると私は思う。
 トーレ監督のモットーというのは100%の力を出し切るという事だそうである。それは彼によると人間というのはそれぞれ持って生まれた力があるのだから、それぞれがその時その場で自己の持っている力の100%を出す事だけを心掛ける事が重要だという事である。
 人によれば、100%じゃ駄目だ、無理して120%の力を出せという人も居るが、トーレ監督はそんな事をすれば、その当人に取って、余計なプレッシャーになり、本番になって本来持っている力も出せなくなるというのである。

 私も全く同感である。無理して背伸びして現在の実力以上の事をやろうとするとそのプレッシャーというのは大変なものであり、それでどれだけのストレスがかかり、本来の力を削ぐか分からないと思う。
 かと言って、自分に出来る事も怠けてやらないようでは言語道断である。要するに今、自分に出来る事を真心を込めて、全力を出してやって行く事が何よりも大事な事であると思う。

 それは同時に無理せず、じっくりと今、自分に出来る事を精一杯やって行く事だけに集中し、結果を早急に求めようとしないという事である。それが精神統一であり、心の安定であり、その過程の中で自分の実力も上がり、次の機会ではもっと上のレベルの事が出来るようになって行くのであり、その様にしてその人の実力は徐々に発揮されて行くのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-02-02 08:39 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)