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トラウマ

 我々の意識というのは心理学によると現在意識というものと潜在意識というもので成り立っているということである。
 現在意識というものは現われている意識という意味で自分ではっきりと意識している意識であり、潜在意識というのはその下に潜在した意識であり、表面に現れておらず、俗に言う無意識で働く意識の事を言う。
 そして、我々の意識の殆ど95%がこの潜在意識と言われ、現在意識はわずか5%と言われる。それはよく生長の家の講話でたとえ話される所の意識というのは氷山みたいなもので氷山というのは上に現れているのはその一部に過ぎず、現在意識というのはその氷山の一角みたいなもので大部分の意識は潜在意識として水面下の氷山の様に隠れていると教えている。

 そして、我らの運命とか肉体の状態は我らの意識に左右されるのであるから、我らが幸福に、健康になるには現在意識だけを良いものにするのでは足らず、潜在意識を清まった良いものにしていかなくてはならないと生長の家では教えているのである。
 それでは潜在意識を変えるにはどの様にしたら良いかと言ったら、潜在意識というのは現在意識の繰り返しにより、刻印されて行くのであるから、良い思いをする練習とか良い行いをしていく事が後々と潜在意識を良い、清まったものにして行く事が出来ると教えている。
 我々が何かスポーツとか稽古事でも繰り返し練習をやって行けば、徐々に上達して行くのも同じ道理である。

 そして、潜在意識というのは幼少期の体験とか心の思いというものが深く深く沈殿しているものである。
 幼少期というのはその人の一生の人格形成の為に大変重要な時期なのである。幼少期に愛されなかったり、いじめられたものは成人になってから中々他人を愛せなかったり、またその人自身が他人や子供を虐待する様になる。
 またスポーツその他の稽古事でも3,4歳の幼児期からやるとそれが深く当人の潜在意識に刻印され、素晴らしく上達する。

 だから、人間は幼少期を如何に過ごすかという事で殆ど一生が決まってしまうと言っても過言ではない。
 幼少期に親に虐待を受けたり、その他の心の傷を負うと(大体はこれは親兄弟から受けるのであるが)それが大人になってから心の病となってその人の一生のハンデとなってその人を苦しめたりする事がある。
  そうなると幼少期に心に傷を負った者はもうどうしようもないのかと思うかも知れない。実際、そうしたトラウマを本人が成人してから克服するのは並大抵の事ではない。しかし、だからと言ってどうしようもないという事では決してない。 
 
 我らの抱えている全ての問題というのは実は本来ナイのである。それは勝手に自分が心で描いて映し出しているに過ぎない。そして、それは自分が実相を悟る為に自分で自分の運命を過酷なものにして、問題を作り出し、それにより人生において真剣に真理を探究するのである。
 
 我らは本質は神の生命であり、それをこの人生というカンバスにおいて表現する事を念願しているのである。そして、我らの生命の実相である完全円満の神の生命が自ら創り出した人生問題で真摯に道を求めるという過程を通して、我らの生命の実相自らの力でその素晴らしさを表現しようとしているのである。
 従って、我らの生命の実相の素晴らしさ、完全円満さが表現出来る様になり、悦びに満たされる時が必ず来る。それが悟りという事であり、実相顕現という事である。
 
 その時、我らを苦しめていた具体的問題が自ずと消滅する。如何なる具体性を帯びた問題であろうともそんなものは神がお作りになっていないから本来存在しないのであり、それはただ我らが心で自らこの人生に映し出したものに過ぎないから、我らの心が悟って、実相の完全円満さが出て来れば、自ずとあらゆる具体的問題は消滅する。
 それはあたかも闇が光により、一瞬の内に消滅するかの如くである。
 
 その時、その人は今まで自分を苦しめていた問題の原因がどこにあったのか具体的に知る事が出来る様になる。問題を解決する為にはその問題の原因をつきとめて、これを解決する必要があり、その為に潜在意識の奥深く沈殿した自分の病気の原因、問題の原因を探る必要があるが、我らの中の実相の生命が自ら出て来て、悟りが啓ければ、その様に自ずと自分の問題の原因を知る事が出来るのである。そして、そうした自分の考え方、心は間違っていたと自ずと反省出来る。
 例えば自分の心の病の原因が幼少期に家族の誰かから受けた心の傷にあるとはっきり分かるのである。そして、その心の傷の原因となっている自分の考え方、思いというもの自体が間違ったものであるという事も分かる。
 何故なら、その自分を傷付けた相手は本来は悪い人ではなく、自分の前世からの迷い、即ち人間は虐待をするような恐ろしい存在であるという自分自身の生まれる前から元々持っていた迷いがそうした意地悪な家族を自分の幼少期において自分自ら、創り出していたという所まで自ずと分かるからである。
 
 それは我らが自分自ら創り出した人生問題で真剣に生長の家をやったり、その他真摯に道を求めて来る中で我らの悟りが動いたから、そうした自分の潜在意識そして、それを形成させた幼児体験、そしてその幼児体験のトラウマが間違ったものであり、この世界には良い事、良い人しかいないと一瞬の内に悟るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-04-27 14:03 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

他人の評価

 生長の家の教えで「人からどう思われているかという事を気に掛けてばかりいる様では心の苦しみは去らぬものだ。」というものがある。

 よく、他人は自分の事を自分が思っているほど、評価しておらず、自分は自分可愛さで自分を実際よりも高く評価しがちであるが、他人はそんな事はないので自分の本当の評価は自分の自分に対する評価ではなく、他人の自分に対する評価であるという話がある。
 
 私は他人の自分に対する評価というものに対しては非常に敏感でかつ、傷付きやすかった。
 要するに私は「人が自分をどう思うかという事ばかり気に掛けている人」であったのである。だから、他人より自分の名前の方がリストで後の方に記載されていたりすると面白くないし、スポーツの試合などでレギュラーから外されたりすると非常に傷付いた。
   
 しかし、他人の自分に対する評価などどうでも良いのである。何故なら今の本当の自分を一番良く知っているのはやはり、紛れもなく自分自身であるからである。
 他人は自分の表面的かつ、過去の限られた情報を断片的に知っているに過ぎないのである。本当の自分は日々、進歩し、その実相が明らかになりつつあるのである。昨日まで駄目であった者が今日は自己に宿る無限の可能性を掘り当て、それを自由に駆使しているかも知れないのである。重ねて言うがそれを一番、良く知っているのは紛れもなく自分自身である。
従って、他人がどう言おうと、どう思おうと自分が自分に恥じない生き方をし、自分自身の価値を認めておればよいのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-04-26 12:24 | 家庭生活 | Trackback | Comments(2)

親の愛

 先日、小田急線の中央林間駅のホームで電車の来るのを待っていた所、何か奇声が聞こえてきた。すると母親と16歳位の息子の親子が階段を上がってきたのだが、奇声の主はその息子さんであった。

 その子はどうもちょっと障害を持った少年の様で奇声を発しているのだが顔つきなどは至って普通な感じがした。母親は横で息子が奇声を発していても、動じることなく、息子と手をつないで歩いてきた。その顔は暗さとか狼狽さとかは微塵もなく母親としての立派な覚悟と障害者の息子への確固とした深い愛情をたたえた顔だった。

 数年前に松田聖子主演で7歳位で夭折したダウン症の子供をその死の瞬間まで一所懸命、育て、全力で愛するという夫婦のドラマをやっていた。これは実話をモデルにしたもので、元々は明治生命のコマーシャルでこの親子の軌跡が写真で紹介され、小田和正の歌をBGMに数行のコメントが添えられたものであったが、このわずか30秒ほどのコマーシャルで私は不覚にも涙してしまった。

 私は親の愛というものは本当に深く尊く有り難いものだと思うのである。世の障害を持つ子の親はほとんど例外なく、その子を本当に慈しみ、愛深く育てる様である。愛というのは相手に障害があっても欠点があってもそれを優しく包み込んで育む心である。

 そういう意味で我々は本当に親に感謝しなくてはならないと思うのである。親がどんなにわれら子供の事を考え、心配し、愛してくれているかというのは計り知れないものがあると思う。
 しかし、世の中にはおなかの子供を簡単に中絶してしまう親も沢山いるのである。それは何故かと言うと、おなかの胎児を人間の生命と認識していないからである。
 
 認識するという事が大事である。親はどんな子供でも、障害のある子であっても、それを慈しみ、愛するのである。それが親の本当の姿である。それは自分の子供を人間として認識しているからである。
 子供を簡単に中絶するのは親に子に対する愛がないからではない。おなかに宿った胎児を人間の生命と認識していないのである。だから、ちょっとした理由で簡単に中絶してしまうのである。人間は物質ではなく、神の生命である。従って、おなかの子供も小さくても人間であり、神の生命を宿している。それを認識しないとその尊さが分からず、簡単に堕ろしてしまうのである。

 人間の生命が尊ばれ、大切にされる為には人間が単なる肉体ではなく、その本質は肉体を超えた神の生命であるという認識を我々、人間自身が持たないといけないのである。

堀 浩二



 
by koujihori | 2006-04-24 16:08 | 家庭生活 | Trackback | Comments(0)

実相を観る

 昨日、またフジテレビのテレビ番組「アンビリバボー」を観た。番組の前半はアメリカのある女性の話であった。これは勿論、フィクションではなく、実際にあった話である。

 舞台は55年前の1951年、アメリカ、アラバマ州の小さな町、アニストンという所である。そこに住んでいた普通の主婦にある時、立て続けに不幸が襲うのである。
 まず、夫が吐き気を感じる病気になり、そのまま死亡してしまう。しかし、不幸はそれだけではなく、その後、家が火事になったり、泥棒に入られたりし、挙げ句の果てはその女性の娘まで病気になり、入院してしまう。しかも、それは死んだ夫と同じ症状であった。

 この様に悪魔ののろいにかかったかのようにこの女性の家には立て続けに不幸が襲ったのである。しかし、その内、その悪魔の正体が明らかになる。それは何と驚く無かれ、一番、悲嘆にくれていたはずのその女性こそが悪魔の正体であったのである。
 
 この女性が生まれた時は丁度世界恐慌の時であり、この女性の両親は大恐慌の中、苦しい生活を余儀なくされ、共働きで殆どその女性にかまってやる事が出来ず、その負い目から娘の欲しがるものは何でも買ってやるという歪んだ育て方をしたのである。
 そして、この女性は生まれつき美貌の持ち主であったので、成長するにつれ、男からちやほやされ、そして男達は彼女の気を引くためにやはり、様々なプレゼントをこの女性の要求のままに贈ったのである。

 そして、彼女はそうした男達の一人と結婚し、結婚後も欲しいものは何でも夫から買ってもらうという状態であったそうである。しかし、ひょんな事からこの女性は夫に内緒で多額の借金を負ってしまい、殆ど返済不可能になったので夫に多額の生命保険を掛け、毎日ヒ素を食事に混ぜて飲ませて、夫を殺害し、巨額の保険金をまんまとせしめ、借金の返済に充てた。
 
 そして、その後、家に放火したり、泥棒に入られたふりをして、その度に掛けてあった保険金を騙し取った。そして、ついに自分の娘まで単に言う事を聞かないという理由で夫と同じように食事にヒ素を混ぜて殺害しようとした。

 しかし、証拠不十分により、釈放された女性は警察の目を逃れる為に町から姿を消した。そして、別の町で知り合った別の男性と結婚したのである。
 男性は前の夫ほど裕福でなかったので女性に新しい服を買ってやる事が出来なかった。そこでまたこの女性は保険金をせしめようとこの男性に多額の保険金を掛け、殺害する計画を立て、実行しようとしたのである。
 しかし、この男性は、自分はお前がどんなみすぼらしい服を着ていてもお前を愛しているとこの女性にしみじみ語ったのである。今までこの女性は自分のうわべではなく、本質を認め、愛された事がなかったのである。この男性は始めて、その女性をそのうわべではなく、その本質を認め、愛してくれたのである。

 それから、この女性に変化が訪れたのである。女性は男性を殺す事を止め、本当にこの男性をいつしか愛する様になっていった。しかし、そうなってからこんな罪ある自分はこんな素晴らしい男性に不釣り合いであると思った女性は死んだ事にしてその男性の前から姿を消した。
 でも、その男性を忘れられなかった女性は自分は本人の双子の妹という事で髪を染めて、再びこの男性の前に姿を現したのである。
 しかし、結局、警察の追っ手により捕まり、終身刑を言い渡されたが、三日間だけ外泊を許可された際に男性に会いに行き、その後、姿をくらまし、そして、行き倒れて死んでいる所を発見されたそうである。

 私はこの番組を観て、本当に感動した。夫ばかりか娘まで自分のわがままの為に殺害しようとした女でも、その本質を観て、それを認め、愛してやれば、この様に内在の神性さ、もともと持っていた善が発現するのである。

 この女性の周りの人達は両親を始め、その女性の本質の素晴らしさを観ようとせず、単にこの女性のごきげんを取ろうとして、本当の愛情を注いでいなかった。だから、この女性の本質の善が発現しなかったのである。

 人間はどんな冷酷、残忍な人間でもその本質は神の生命であり、素晴らしい善なる完全円満な生命なのである。その本質を正面から見つめ、認める事が真に相手を愛するという事である。そうした心であれば、相手を甘やかすだけでなく、相手が間違った事をしたら、命懸けでそれをいさめたりする事もあるのである。
 それは相手の本質の善を観るが故にそんな事をするのは本当のお前ではないという事で厳しくいさめるのである。
 しかし、この様に命懸けで自分の本当の姿を認められ、見出され、愛されたものは自ずとその本質の善なる神性を顕しだし、この女性の様な極悪人でも善の本性を顕すのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-04-21 15:46 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(0)

迷いはナイ

 私はテニスをやっているが、テニスの技術的な事で悩んだり、迷ったりする事がある。それは主にサービスに関してであるが、サービスは昔から苦手意識があって、よく悩んだ。それに引き替え自信のあるグラウンドストロークに関しては全然と言っていい位悩んだり、迷ったりした事はない。

 だから自信があって得意であるということはまた、迷いや悩みもナイという事でもあると思う。それはともかく、サービスの事で悩む時というのはコートで実際に仲間とゲームをしている時ではなくて、素振りの時とか壁打ちで一人で練習している時なのである。

 即ち、一人でうじうじと考えている時に悩んだり、分からなくなったりしているのである。しかし、そういう場合でも一旦、コートに出て、仲間とゲームしたり、試合に出たりして対戦相手とやりあっているとそうした悩みとか迷いが自ずと氷解して、確かな上達のヒントやコツが自ずと分かるのである。要するに下手な考え休むに似たり、という事であろう。

 我々は迷いが出て来ると何とかその迷いから抜けだそう、もつれた思考の糸をほどこうとして考えすぎたりする事があるが、そんな事をすると却って、頭がこんがらがり、ますます分からなくなって、迷いの渕に沈んで行くのである。
 それは自分が元々迷ったでくの坊の物質の塊であり、それをうまい方向に導いてくれるのは自分以外の何か別の偉い人の導きとかヒントが無くては駄目であり、そんなものに巡り会うのは滅多な事では出来ないから、そのヒントや叡智を外に探し求めなくてはならないと何となく思っているからである。

 しかし、我らは表面的には迷いだらけ、悩みだらけの凡夫に見えていてもその本質は肉体や物質ではなく、神の子であり、それはそのままで完全円満、無限叡智なる全宇宙に拡がった神に生かされ、導かれているのであるから、われらの本質は今、そのままで完全円満の叡智そのものなのである。
 であるから、じたばた他に叡智を求めて、考えすぎたり、他人に聞いて回ったりしないでも今、そのままで無限の叡智そのものなのである。それを自覚すれば、それが現象的にも明らかになるのである。  
 であるから迷いが出ても、そのままでいろ。そのままでよいのである。そのままで本来迷い無きなり。うじうじ考え込まずにいざ、実際の生活に入って、実際に他の人と交わって行くならば、その様な迷いや考え込みはふっとぶのである。
 自分の迷いなるものをひっつかんでうじうじ考えずに積極的にどんどん人と交わり、実際行動して行く中で我らの中のそのままで完全円満の叡智そのものが自他との交流の中で自ずと発現するのである。

 その様に我らの本質は無限叡智なる神に導かれた神の子であり、この現象世界の奥には今、そのままでここに神の無限叡智が充ち満ちている完全円満の実相世界が展開しているのであるから、我らが心をしたばたさせないでそのままであれば、その本来の無限叡智が自ずと浮き上がって来るのである。
 
堀 浩二
by koujihori | 2006-04-20 12:29 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

現象はナイ

 生長の家の根本の教えというのは「人間は神の子である。」という事である。人間は神の子であるというのは現象の人間の事ではなく、実相、即ち現象の人間の奥にある霊的実在の真の人間の事であり、それは完全円満であり、不老不死の永遠不滅の生命であり、それを神の子というのである。
 
 そして、神の子の人間ばかりが暮らしているのが実相世界という霊的実在世界であり、そこには一切の悪、矛盾、罪、不完全、病気は存在しない完全円満の世界である。
 そして、その実相世界のみが本当に存在する世界であり、それは全宇宙の隅々まで拡がっており、この現象世界というのはそれの投影に過ぎない影の世界である。その事を「実相独在」というのである。

 その完全円満な実相世界というのはどこにあるかと言うと、肉体死後にあるわけでもなく、遙か西方にあるわけでもなく、今、ここにあるのであり、我々人間も今、このままで神の生命であり、それにより我らは生かされているのである。それを見出す事が所謂「悟り」という事であり、その悟りを得る為に古今東西の求道者は血のにじむような宗教的修行をして来たし、今もしているのである。

 そしてこの現象世界というのは我らの心の自覚が映っている世界であるから、本当に実在する世界は霊的実在の完全円満の実相世界であり、そこに住む人々は完全円満の神の子でいい人ばかりであるという事を悟るとその自覚が投影されて、現象世界がその通り、完全円満なものとなって行くのである。

 現象はそういう意味で本来ナイのである。しかるに我らの感覚器官はこの現象世界を感知するように作られており、またそれを実在するかのように感ずる様にも作られているから、普通、無自覚に生活しているとこの感覚器官で感知しているこの現象世界を真に存在する世界として生活する事になるのである。

 しかしながら、その様に現象をアルと勘違いしたままの状態であると悩みと恐怖心が出て来るのである。
 自分の過去を振り返るに恥ずかしい思いで一杯になるという人は沢山いると思う。あの時、あんな醜態をさらしてしまった、あの時、あんなひどい事をあの人に言ってしまった。あの時、あんな罪を犯してしまったと自分の過去の現象に引っ掛かれば、我らは悩みと罪の意識で一杯になるのである。

 しかるに生長の家の真理は現象はナイという事なのである。生長の家の人の中には教えを誤解して、信仰すれば現象が良くなるから現象を良くする為に生長の家を信仰する人がいるがそれは間違っているのである。生長の家は現象ナシの教えであるから現象を良くする教えではなく、現象はナイと一刀両断する教えである。
 現象はナイ。現象に引っ掛かるな。現象を良くしようとするな。そして、ひたすら完全円満な実相のみを観よ。そして、それは今、ここにあるという事を悟れ。
 過去の失敗した現象の自分はナイ。不完全な自分、そして不完全な相手はナイ。

堀 浩二
by koujihori | 2006-04-19 09:34 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)

力について

 世の中には正義感あふれる人々が居て、決して悪は赦さないとか、巨悪に屈せず立ち向かってやるとか、自分の大切な人を守るために命を賭して戦うとか威勢のいい事を言う人が居る。
 そう思う事は尊い事ではあると思うが、いざ、自分が自分より力の強い相手と対峙して、それに屈せず戦い抜けるかと言ったらそれは疑問である。

 私は正義感が強く、悪を決して赦さぬという思いが昔から強かったから、道路で変な駐車の仕方をしている車とかあったりすると、大声で怒ったり、花見の時に弱い者いじめしている若者の集団がいた時もどなりつけたりした事もある。それなりに腕っ節には自信が無い方でもないからである。

 でも、私でもやくざにはかなわないし、格闘技経験者にもかなわないのである。我らは神の子であり、無限力を内蔵しているがそれは我(が)の力ではない。我(が)でどんなに力んで、強がった所でより力の強い相手にはどうにもならないのである。
 
 力というのは我(が)で出せるものではなく、我らの中の神がその時の必要に応じて、出すのである。本当の我らの無限力というのは宇宙に拡がった神の力である。それが必要に応じて、自分を通して又は他の人からの助けや協力ともなって作用するのである。
 従って、自分が誰に対して、何時、どこで、どういう力を出したら良いかという事を思い煩う必要なない。あの時、ああ言ってやれば良かった、こう言い返してやるべきだったとかを後悔する事も要らない。その時々の自分の中の神様の判断と力に任せるが良い。

堀 浩二
by koujihori | 2006-04-17 09:37 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

何故、人生問題があるのか。

 ニール・ドナルドウォルシュというあるアメリカ人の書いた本で「神との対話」という本がある。1,2,3の3巻あり、その他に「神との友情」というような続編もある。

 私は書店でこの本のタイトルに引かれ、手にとって立ち読みしたが、最初はちょっとこれはまゆつばものではないかと疑っていた。というのはこの著者は神と称する霊と対話して、それを筆記して本にしている様だが、神と称して、実はくだらない低級霊だったりする場合があるからである。

 しかし、数ページ立ち読みした時点でこれは中々の内容であると判断した私はさっそく第1巻を購入して読んでみた。するとこれが本当に素晴らしい内容なのである。そして、すぐに第2巻・第3巻と購入してあっという間に読破してしまった。

 その本の中で「神」が著者との対話の中で唱えている数々の言葉の中にこういうものがある。それは人間がこの世界で色々苦痛や迷いを体験するのは真理を悟ったり、魂が癒されるという事を体験する為であると言うのである。
 即ち、元々霊の世界では完全円満で悟っている人間がこの現象界でその悟り、または完全円満さを体験するという事は迷いの状態、又は不完全な状態をまず体験し、それが悟る、または癒されるという事を体験する事で本当にそれを体験する事が出来るというのである。

 私はこの事は真理であると思う。私は先月で47歳になったが、今まで、精神的な内面の葛藤というものがけっこうあり、それで不自由な思いもしてきた。
 他の人はあんなに気軽に色々人生で力を発揮し、楽しんでいるのに何故、自分だけこんな苦労をしなければならないのかと思って来た。しかし、今思えば、自分の今までのこれらの苦労、不如意というのは全て、自分がこのままで完全円満な神の生命であったという事を如実に体験する為のものであったという事が分かったのである。
 その事が次第に分かって来ると自分の人生には何も無駄な事が無かった、表面的にどんなにつらくとも全て、意義ある事であったという事が次第にはっきりとして来た。

 正に今までの迷いは「悟る」為のものであった。その事は生長の家創始者、谷口雅春先生の御著書「神真理を告げ給う」にも書かれている。そこには神様の言葉で迷いが何故あるかという事に対する答えとして「迷いは悟りの基礎工事である。」とはっきり記されている。

 何故、恐ろしいもの、試練を自らの心で映し出すかと言ったら、恐ろしいもの、試練は本来ナイという事を如実に悟る為である。従って、悟りが出て来る時はどうしてもその前段階として迷いが出て来るのである。
 
堀 浩二
 
by koujihori | 2006-04-14 09:41 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

相手の光明面を観るということ

 人間は正義感の強い真面目な善人ほど、ものごとをゆるがせに出来ないものである。そういう人は他人が本来でない事をしているとそれが気になってしょうがない。そして、批判を始めるのである。批判を始め、相手を責め、いつも鬱々としていなくてはならない。

 だが、こんな事を習慣にしておれば、自分の中に他人の悪というものを沢山、取り込む事になり、自分の人格の醸し出す雰囲気は悪くなり、こんな人と接していれば、他の人は何か常に責められているような居心地が悪い感じがするから、その人と一緒に居たくないのである。
 その様に常に人の悪を心でつかみ、批判する心であれば、それは人を討つ心を常に持つという事であり、それが高じると鬱病になる。鬱病というのは「うつびょう」であり、それは「人を討つ病」である。

 人間に取って一番大事な事は人を赦す心である。 そうしておれば、自己の人格が穏やかになり、楽しくなり、大安心となり、魅力的となる。
 人を赦すとはその相手の悪い所を我慢するという事ではない。悪はそのままナイと知り、相手が悪い様に映っているのはこちらの「悪をつかむ心」が相手に映っているだけであると知り、相手はそのままで既に良い人であるという実相を観て、相手の現象の良い所のみを観る事である。
 
 相手の悪い所を見て、相手を非難するというのはどういう心理かと言うと、相手の悪い所をつかまえてそれを矯め治そうという心理である。悪というのは本来ナイのであるから、それを良くするも矯め治すも無いのである。
 
 相手は神の子であるから、こちらが良くしてやらなくてはならない悪とか欠点は本来ナイのである。従って、相手の悪を良くする必要は全然無いのであり、相手の悪は見ないで放っておいて、相手の善だけ見て、接していけば良いのである。

 そうする中で相手が更に生長、進歩出来るようなヒントを自分の口を通して自分の中の神様がその相手に伝える事がある事もある。その時はその内側からの催しに従って相手にもの申せば良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-04-13 08:47 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)

家庭の大切さ

 夫婦喧嘩をしたとして、それは大抵の場合、どちらかが一方的に悪いというのではなくて、お互い様である。そして、夫婦の仲が修復不能となり、離婚に到るという様な場合でも、それは双方に原因がある場合が多い。

 大抵は妻が夫の愛情を受け止めず、性生活も拒絶したりして、夫がその寂しさに耐えきれず、外に女を作ったりして、それで夫婦破局に向かうのである。
 それは夫にハイと言えず、我(が)を通した妻も悪いが、そんな事で外の女に逃げて、それに手を出すなんていうのも夫の裏切りである。従ってこの場合、どちらも悪いのである。

 夫婦関係というのは一つの道場であり、それでお互いの人格を磨くのであり、夫は夫としての人格を磨いて行き、妻は妻としての人格を磨いて行くのである。夫婦間で問題が起こるというのは正にお互いの人格を磨く為の試練の時であり、練習台である。この様な時に今の課題とは何かという事をお互いに良く考えて、それを乗り越える事である。

 妻は夫の要求に対しては出来るだけハイと言って、それに従うというのがこの際の妻側のテーマであるから、それをやって行ったらいいし、夫は妻に対して言うべき事は言って、かつ出来るだけ妻に対しても要求ばかりしないで、相手に誠心誠意、心を配ってあげているか、悦びを与えているかという事を自問自答すべきである。

 この様に家庭及び夫婦というのは人生のそれぞれの夫として、又は妻としての人格を磨く為の道場であり、そこでお互いの人格を磨いて行く事が家庭を大切にするという事であり、めったやたらな事で夫婦関係を簡単に解消してはならないのである。
 
 そして、そうした家庭の愛、夫婦の愛を貫いて、鍛え出していった所にオアシスとしての本当に大切な愛の体現した姿がある。それが我らの実相を顕現するという事であり、それこそは巣であり、家であり、生長の家であり、真理である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-04-12 08:53 | 家庭生活 | Trackback | Comments(0)