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赦すということ

 私は仕事で会社のパソコンを使って、会社で必要な振込の手続きをしている。先日その業務をいつも通りしていたら、パソコンが途中でフリーズしてしまったので、今、振込手続きしたデータがきちんと銀行に送れているか分からなくなってしまった。
 そこで銀行にその事を問い合わせたら、それは自分の所では分からないので他の所に問い合わせてくれと言うので、その指定された所に電話してみた。すると、それは自分の所では分からないからここに問い合わせてくれとまた言われ、またそこで指定された所に電話してみるとその事は自分の所でも分からないと言われた。
 そんなこんなで結局、また最初に電話した銀行に問い合わせて見ると、別の担当者が出て来て、あっさり、私の問い合わせに答えてくれたのである。

 それまでにおよそ45分もかかり、その間、私は3箇所の相手に言わばたらい回しにされたのである。その振込手続きはどうしても、その日のうちに終わらせなくてはならず、振込手続きの終了時間まで時間が迫ったいた事もあり、そんな状況でこの様に45分に渡って本来ならされなくてもよいたらい回しをされたのである。
 私はその事に非常に憤り、その日は夜も中々寝付けない程であった。最初に私の問い合わせの電話を受けた女性銀行員の愚かで行き届かない対応が赦せなかったのである。

 しかし、翌朝、静かに反省してみると私はこうでなくてはならない、絶対に今日中にその振込手続きを終わらせなくてはならないと自分で勝手に自己限定していたから、こんなに焦り怒ったのであると思った。その日手続きが出来ないなら出来ないでその時、また別の対応を心静かに考えれば良かったのである。

 それはともかく、変な事を言ったり、やったりする相手を怒る、赦せないというのは程度の差こそあれ、普通誰にもあると思う。しかし、それが余りに高じると常に組織内でも不満を持ち続けなくてはならなかったり、あまりに、他人や上司の欠点や悪い所に引っ掛かっておれば、精神衛生上も良くない。

 相手が赦せないというのは自分の求める本来の理想像というのが誰にもあって、その理想に著しく外れた事をする相手が居る場合、どうしてもこれを赦す事が出来ないのであると思う。
 事にそれが自分の上司であったり、先輩であったりするとその上司、先輩に常に憤り、審き、そして、会社の不平分子になり、そうなるとある日、ちょっとした事がきっかけでその組織を飛び出すこともある。そんな人は一つの組織に長く居着けず、社会の不平分子になってしまうのである。

  それは取りも直さず、自分の求める理想像というのを他人、言わば外部に求めるからである。生長の家では現象は本来存在せず、それは我らの心が映っている世界に過ぎないと説く。そして、本当にある世界は現象の奥に、そして我らの内に存在する霊的世界であって、それは完全円満の神が創造した完全円満の世界であり、それは宇宙に偏在していると説く。そしてその霊的実在世界を実相世界と生長の家では呼んでいる。そこに住む人達は皆、完全円満な人間ばかりであり、それが我らの本当の姿であると説いている。

 その様に外部言わば現象は本来、存在せず、それは自分の自覚が映っているだけの映像に過ぎない。そんな所に理想を求めるから、憤慨ばかりしていなくてはならないのである。理想を現象に求めるな、外部に求めるな、相手に求めるな。押し付けるな。理想は外にはない。既に内にある。
 外部、現象はナイのであり、本当に存在する世界は我らの内なる実相世界である。その実相世界こそ、完全円満の神が創造になられた宇宙に偏在している所の霊的実在世界である。そこにのみ我らの理想とした国があり、人間がいる。その内にある理想を悦んでおればよいのである。

赦しとは相手に理想を求めないという事である。神の国は自分の中にあるという事を認める事である。それは相手を赦すという事であり、自分をも赦すという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-05-31 10:02 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)

力について

 我々は人として生まれた以上は他人に対して寛大でやさしくありたいと思う。そして、他人を愛し、その成功を祝福したいと思うのである。

 しかし、世の中にはそんな人はまれである。自分の子供や夫または妻ならともかく、その他の他人に対して、その成功を心から祝福したり、愛情を注げる人がどれだけいるだろうか?
 よく正義感の強い人がいて、世の中には可哀想な人が沢山いるから、それを救うべくボランティア的な運動をする人も多くいる。しかし、目の前の例えば仕事の同僚とかそうした人達には割合、そうした自分が救いたいと思ういわゆる世の中の恵まれない人達ほど愛する事が出来ず、その同僚がずるいとか悪いとか言って、審いて毛嫌いする事が多いのである。

 そして、自分が出世競争(今、これは余り流行らないと聞くが)で同僚に敗れた時にその同僚の成功や立身出世を心から祝ってやるなんて事は到底出来ないのである。そして、あれほど人類愛を普段唱えておきながら目の前の同僚又は部下が伸びるのが気に入らず、意地悪なんて事をしてしまう事もある。
 それは何故であろうか。それは自分に本当に自信が無いからである。人間は自分に本当に価値を見出せば、自己の中にそのままで完全円満で無限力の生命の実相を発見するから、自ずと嫉妬心が無くなり、他人に対しても真に優しくなれるし、その成功を心から祝福出来るのである。
 
 ボランティアなどの活動にいそしんでいる者はこれはこれで尊い事だと思うが、それは本当にその相手を愛しているからではなくて往々にして自分より可哀想な人に単に同情して気持ちよくなっているだけという人が多いのである。
 こういう人は人を救いたいと普段言っているのに人が良くなっている即ち救われている状態に対して素直に喜ぶ事が出来ないのである。要するにこういう人は人を救いたいと表面的には言っているし、思っているが心の底では人が救われて欲しくないと願っている人である。人間は実は自他一体であるからこういう人は実は自分自身が救われたくないと思っているのである。

 自分が救われたくないというのはどういう心理であるかというと自分自身を抑えたい深層心理である。自分で自分の生命を縛っているのである。そして、そのままであれば、自ずと伸びよう、伸びようとする自己の生命をそのままではいかぬと思い、これを良くしようとするが為に却って、それを縛り、生命の無限の可能性の出口を自分で塞いでいるのである。

 だから、人を救いたい、救いたいと一見、博愛精神で頑張っている人ほど実は他人の成功を妬み、嫉妬し、その成功を何とか阻もうとするのである。
 人を本当に愛し、本当にその成功を祝福出来る様な人間になるには、自分自身の中に既に完全円満な神の生命の実相がある、自分の中に神の国があるという事、即ち自分がそのままで完全な無限力の神の生命そのものであるという事を悟らなくてはならないのである。即ち、人に優しくなる為には自分に無限の力があるという事を自覚しなければならないのである。

 それが自己の生命の実相に穿ちいるという事である。生長の家の様な正しい信仰を持ち、それを極め、そして自己の中に完全円満な生命の実相を悟る時、人は他人の成功を真に祝福し、他人を本当の意味で愛する事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-05-28 22:06 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

師について

 私は生長の家の地方講師をしている。地方講師というのは大体が主に生長の家の信徒の自宅を開放してされている生長の家の信徒の会、誌友会という会で一時間ほど、生長の家の真理の講話をするのである。この講話に出かける事を出講するというのであるが、生長の家の行事で生長の家の講師として、生長の家の真理の講話を誌友(誌友会の参加者)に対して行うと普段の弱い、又は我(が)の強い自分はどこかに消え、自分でも驚く様な素晴らしい深遠な真理の話をしている事が多いのである。

 それは一旦、生長の家の誌友会という生長の家の行事が生長の家の招神歌(かみよびうた)という祈りで始められるからにはそこで講師として話しをするという事は肉体の自分ではなく、生長の家の運動を司っている生長の家の大神の働きにより、その講話がなされるからである。

 しかし、私の所属している神奈川教区下の色々な誌友会に出講しに行くとまるで講師の講話を聞く態度のなっていない誌友がたまにいる。それは特に男性の年配者の誌友に多いのである。
 私は47歳と生長の家の地方講師としては若手の部類なので、そうした男性の年配者の誌友は私の事を自分より若輩の講師が来たという事で「この若造が」という様な態度で始めから聞く耳を持っていないのである。
 こんな人にはいくらこちらがいい話をしても馬の耳に念仏である。こうした人は生長の家の真理を観ているのではなく、47歳の若輩者である肉体としての私しか見ていないのである。
 相手が自分より若輩者であろうが、一旦、生長の家講師として誌友会に出講して来た相手に対してはそれを師として観て、その教えを素直に聞くというのが肉体ではなく、生長の家の真理を観る者の態度である。

 これは生長の家に限らず、何に対しても言えると思う。相手が自分より年下であろうが、自分が何かを勉強、又は習得しようとしている時にその指導者として自分に相対している者に対しては肉体の年齢など関係なく、それを師として奉るのが当たり前である。
 私などはテニススクールに通っているが、コーチは私よりずっと年下の若者であるが、テニスを習っている時はそのコーチを私は師として奉って敬語を使っている。そうでなければ真理はこちらに流れ行って来ないのである。

 私はそれなりに生長の家の真理を勉強し、ある程度その神髄を会得していると思う。しかし、私は生長の家の信徒又は地方講師である以上は私の師は現在の生長の家の中心者である生長の家総裁、谷口清超先生であり、生長の家副総裁、谷口雅宣先生である。
 私は両先生のご指導を素直に受ける。それは私が両先生の肉体を見ているのではなく、両先生の奥に流れる生長の家の真理を観ているからである。両先生を通して生長の家の現在の生きた真理、そして運動の展開が為されるのである。

 私はある非常に重大なテーマに関して自分独自の考えを持っていたが、それが生長の家副総裁、谷口雅宣先生のお考えと異なる事があった。その時は正直、私は困惑した。だが、私は心を静かに素直にして、自分のそれまでのその事に関する考えが本当に正しいか自問自答した。
 そして、自分なりにそのテーマに関して勉強し直している内にそのテーマに関して谷口雅宣先生のお考えの方が遙かに自由でかつ思いやりがあって、実際的であり、そして何より真理であるという事に自ずと気付いたのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-05-25 11:34 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

人間の死は社会的行動?

 先日またフジテレビ番組アンビリバボーを観た。今年の2月、肺気腫を患っていたイギリスの65歳になる男性が容態が急変し、病院の救命病棟に担ぎ込まれた。
 肺気腫というのは気管支と肺の組織が徐々に破壊されて行く病気で、この男性は担ぎ込まれた時は症状がかなり進行し、自力呼吸がほぼ不可能という状態で生命維持装置がつけられた。
 医者は生命維持装置で生命の維持は出来てももう意識が回復する見込みは無いとして、男性の娘に生命維持装置をこのままつけておくかそれとも外すかの決断を問うてきた。

 男性は以前、自身が危篤状態になったら延命処置をしないで欲しいという文書を残していた。従って、その男性の意思が尊重され、生命維持装置が外される事になった。医者はこれで一時間位で息を引き取りますと娘に告げ、病室を去っていった。

 娘は夫と共に父親の臨終を見送るつもりで父親のベッドの脇に座っていた。
 娘はわずか数日後に結婚式を挙げる予定でそれを父親に出席してもらう事を何よりも楽しみにしていたし、それは父親も同じだった。だから娘はそれに間に合わなかった事を心底残念がった。
 娘夫婦はそもそもきちんとした結婚式をあげていなかった。お互い離婚歴があり、夫も前の妻との子供の養育費を少ない収入から払い続けなくてはならない等の経済的事情があり、結婚式をするだけの費用が捻出出来なかった。
 イギリスでは結婚式は盛大にやるという風習があり、経済的に相当、余裕がないと結婚式を挙げられないのだそうである。だが、娘はさんざん苦労をかけた父親に自分の結婚式を見てもらいたいと思っていたのでやっとの思いで結婚式をする算段を立てた。そんな矢先、父親が危篤になってしまったのである。

 娘はやっと父親に自分の晴れ姿を見せられると思っていたのが、あとちょっとの所でこんな事になってしまって、父親に申し訳ないと思っていた。
 ところが、生命維持装置が外されてから1時間位たった時、父親の手がかすかに動き、その後、何と父親は意識を回復し、そして、退院したのだった。その後、父親は娘の結婚式に元気に参加し、パーティーで娘とダンスまで踊った。そのビデオも残っている。
 この奇跡はイギリスでも新聞、メディアに大きく取り上げられ、父親はインタビューで「娘の結婚式に出席出来たのは自分の生涯で一番、自分に誇れる事だった。」と答えている。
 そして、その後まもなく父親は息を引き取った。

 私はある社会学者が言った言葉を思い出した。それは「人間の死は一つの社会行動である。」という言葉である。人間は自分がいつどの様に死ぬかというのはどこかに出かけたりするかを自分で決めるが如く自分で決定する一つの社会行動だというのである。この奇跡的回復をした男性は娘の結婚式に出席する為に殆ど死にかけた状態から生還し、そして自分の用が済んだから霊界に行ったのである。
 私も仕事などで心身共に疲れ果て、頭がどうにもうまく働かないという時に、これから生長の家の誌友会という所で講師として生長の家の真理の話をしに行かなくてはならないという時があった。
 一時間ほど話をしなくてはならず、こんな疲れた頭で話が出来るのかと思ったが、あにはからんや話している内に自分の体と頭の疲れの事は忘れ、自分でも驚くくらい正確でまとまった話が出来た事がある。

 人間は社会的使命があれば、肉体が疲れていても、またこのイギリスの男性の様に肺気腫で肉体が死にかけていても肉体を超えて、その使命を果たす事が出来るのである。
 人間は肉体ではない。肉体に支配されるものではない。神に支えられた使命があれば内なる神の力によって肉体を超えて、その意思を働かせて肉体を蘇らせ、その使命を全うする事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-05-24 09:39 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

感謝

 世の中には正義感が強い人がいる。それはいいのだが、独善的になっては駄目だと思う。「オレはこれだけやっている。」「オレはこれだけ心掛けよく、真理も実行しているし、国を愛しているし、日頃の善行もやっているが、他のヤツは全然駄目じゃないか。」などと言うのである。
 
 しかし、私こそはその独善の塊の様な人間だったのである。自分ほどやるべき事から逃げないできちんとこなしている人間はいないと自負していた。それに比べて他の人はずるくて、弱くて、本来やるべき事からすぐ逃げる連中だと何となく思っていた。
 
 そんなある日、私はこんな体験をした。仕事から心身共に疲れ果てて帰宅してみると、一通の封書が来ていた。開けてみると私がチームの責任者をやっている早朝野球の新しい試合スケジュール表が入っていて、それには今度の日曜日に他チームの試合の審判を我がチームが担当するという事が書かれていた。
 
 それが、その試合当日のわずか三日前の事であった。早朝野球というのは朝6時試合開始だから、審判は5時30分頃にグラウンドに行かなくてはならず、そうなると日曜に拘わらず、朝4時50分位には遅くとも起きなくてはならず、審判というのは4人必要だから、そんな事を自分以外に三人も今から依頼しなくてはならないという事になった。
 ただでさえ疲れているのに勘弁してくれと思った。しかもその日曜日は私は自宅で生長の家の誌友会という会を主催しなくてはならないし、その後すぐに今度は自分が他の生長の家の誌友会で講話をしなくてはならず、超ハードスケジュールであったからとてもではないが、出来ないと思った。
 しかも、私は野球の審判というのが苦手で、自信が無かった。そういう苦手意識、忌避したい心も手伝って、そのスケジュール表を送って来た早朝野球のリーグの幹部の人に今度の審判はちょっと出来そうにないと伝えた。
 理由は余りに直前に予定を知らされたからだと言った。そうしたら、その人は何とかリーグの幹部の者で代行してくれると言ってくれ、お陰で今度の日曜の審判に行かなくてよい事になった。

 しかし、その後、なんだか後ろめたくて、その気になれば自分以外に三人くらい電話ですぐに集められたのではないかと後悔し始めた。そして、それが翌朝、目覚めて、その事を思い出した時、激しい良心の呵責に悩まされた。自分は他の人に比べて、きちんと正しい事を苦しくてもこなして来たという自負があった為に審判の仕事から逃げた自分が赦せなくなったのである。
 しかし、神様に全託する事にして、起床したが、その後、気が付いた事は自分はこれだけ正しい事をやっている、しかし、他のヤツはやってないじゃないかなんて言っていたのは自分の我(が)であったという事である。
 そんな我(が)なんて結局大した事は出来ないのである。自分は正しいと思った事はちゃんとやれると思っていたが、自分自身もどうしてもやりたくないという苦手意識に負けて、相手の申し出から逃げてしまったのである。本当に偉大な働き、力はそんな我(が)の頑張りを超えて働く神様の力である。
 オレ様が正しくて、オレが偉くて、他のヤツは駄目だというのは我(が)の心である。そこには生かされている、お陰様ですという感謝は無い。我(が)の力なんていくら頑張った所で大した事は出来はしない。我らは我(が)の力の無力さを知り、ただ他の人、又は神に生かされている、持ちつ、持たれつであるという事に目覚めなければならない。そこに感謝の心があると思う。

我々が何かを出来るという事は自分だけの力ではなくて、他の人の協力とか力づけによって出来るのであり、だからお陰様なのである。
 ちなみに後日談だが、この審判の件は私がその後、リーグの幹部の人に電話で今後の他の試合で他のチームが審判の担当になっているのを私のチームが代わりにやらせて頂きますという旨申し出た。先方からは必要があったらまた頼むという事であった。

堀 浩二
by koujihori | 2006-05-19 13:44 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)

「世界の中心で愛を叫ぶ」を観て

 先日、遅ればせながら、映画「世界の中心で愛を叫ぶ」を観た。ビデオレンタルショップで以前、レンタルされていたのが中古品で販売されていたので、購入して観たのである。

 これは2年前の2004年の作品であり、主演は大沢たかお、柴咲コウである。この作品はまず小説がベストセラーとなり、その後、映画化され、平井堅の歌う主題歌も大ヒットし、そしてテレビ化の後、舞台にまでなった。セカチューという流行語も生まれ、一つの社会現象になった。

 私はある程度、色々の評論等から映画のあらすじは知っていた。それは医者である主人公が高校生の時に恋人を白血病で失ってから、その恋人の思い出をいつまでも引きずっていくというストーリーであるらしいというものだ。

 私はこれでもけっこうロマンチストなので、レオナルド・デカプリオ主演の映画「タイタニック」でも涙したし、ヨン様、ジウ姫の「冬のソナタ」にもかなりはまった。事に自分が男なので恋人の女性が病気で死んでしまうなんていう悲恋物語にはかなり弱い。

 ビデオを観ていて、死んだ恋人、亜紀役の長澤まさみがかなりキュートで、それが主人公サクと甘酸っぱい愛を育てながらも段々と病に冒されて行き、その中で色々の胸を締め付けられるシーンそして、現在、亜紀の思い出を追っていくサクにその回想の中で亜紀がサクに愛を告白するシーンなど私にはたまらなかった。甘く切ない悲恋が良く描かれていると思った。

 亜紀の生前、サクと亜紀はカセットテープで交換日記みたいなものをしていたのだが、亜紀が最後に吹き込んだカセットテープがそれをサクに渡すように託された女の子が渡しに行く途中で交通事故に遭ってしまい、とうとうテープを渡せずじまいになってしまう。そして、その女の子、律子こそが後にサクの婚約者になるのである。
 
 律子はサクとの結婚の直前になって、無くしたと思っていたそのカセットテープがたまたま出て来て、それを聞く。そして、一旦サクの前から姿を消し、サクの故郷に行く。
 サクは律子を追って、自分の故郷に行くのだが、そこで様々な亜紀の思い出が蘇って来て、悶々とするのである。

 そんな中、律子はサクにそのカセットテープをついに渡す。そしてサクはその亜紀の最後のメッセージを16年ぶりに初めて聞く事になる。それは「自分はこれから死ぬと思う。でも、自分が死んでもいつまでもそれを引きずらないで今を生きて行って欲しい。」というものであった。

 それを聞いたサクはやっと過去の思い出を振り切る決意をし、律子と一緒にオーストラリアの大地に亜紀の遺灰を撒き、亜紀と正真正銘別れを告げたのである。それは過去を振り切り、今を生き、今の婚約者を本気で受け入れ、愛する決意を固めた事だと私は思う。

 私はここまで観て、やっとこの映画の意味を見出した。気持ちは分かるが単に死んだ恋人の思い出を引きずってセンチメンタルになっているだけであったら、何の意味があるのかと思っていたし、それでは何より現在の婚約者に申し訳ないではないかと思っていたからである。
 
 愛とは単に相手に執着して、同情してセンチメンタルな感情に浸っていい気持ちになる事ではなく、今を生きる事であり、今の相手に思いやりを持ち、心から愛する事であると思う。
 そして、相手を解放する事であり、相手の幸せを願う事である。亜紀は自分の事は忘れて、今を生きて欲しいと言うメッセージを残して、あの世に行った。この様に相手を解放し、相手の幸せを願うのが本当の愛情であり、そのメッセージを受け取ったからこそサクもふんぎりがついたのだと思う。

堀 浩二
by koujihori | 2006-05-17 13:37 | 映画・ドラマ | Trackback | Comments(0)

真の学びとは

 生長の家では人間は神の子でその実相は完全円満であるという。そして、実相においては既に完全円満であるから、既に幸福であり、無限力であり、完全円満であると説く。

 だから、どんなに表面的に愚かで悪い人でも、それは表面だけの事で、その実相は完全円満で無限力で素晴らしい神の子であると説くのである。だから、我々はどんなに下劣に見える人間、能力を発揮していない人間がそばにいたとしても、それは仮の姿であって、その人の実相は既に悟りを啓いた、無限力であると観なければならないのである。

 しかし、同時にその相手が愚かな事をする場合、まだその相手の自覚の段階が完全に目覚めた状態ではなく、まだ魂が幼いと言う事も出来る。それでは我々はそうした相手に対してはどう観るべきであろうか?まだ魂の自覚の幼い人であるとみなすのか、それとも既にその実相は悟りを啓いた人であると観るのか?

 私はやはり、どんな下劣に見える人でもその人の真の姿は完全円満の神の子であり、既に悟りを啓いた尊敬すべき人であると観るのが信仰であると信ずる。そして、具体的にはその人の現象に出ている良い面のみを凝視する様にするのが良いのである。

 我々は人生学校において、色々の経験、学び、修行をして生長して行く。しかし、今の自分を不完全であると思って、これから、これだけの経験、修行をして、これだけの事を勉強していかなくては完全になれないなんて言っていては我々は永遠に完全になる事も救われる事もないのである。  
 我々は今、既に神の子であり、完全円満であり、そうした人生経験、修行というプロセスは全て我々の既に完全円満の実相の展開であり、現象に過ぎない。
 そんなものは本来存在しないのであり、本当に存在するものは今、完全円満の自分と相手がここに神に生かされているのであるという事だけである。

 我らは人生学校に於いて、色々学び、こういう失敗をしたら、こういう事はまずいなとかうまいやり方ではないなとその都度、学ぶ。それはそれでいい事だが、そうした事を全て、学ばなければ、神の子になれないというのでは我らは永遠に神の子にはなれない。
 
 本当の学び、悟りとは自分が今、そのままで完全円満で無限力であるという事を悟る事である。それが一気に実相の中心に飛び込むという事であり、今、ここに神の国があるという事であり、我、神の子なりの自覚である。

 我らの実相においては我らは皆、今、無限で完全円満で完全な悟りを啓いている。それが真理である。それを悟る事である。その悟りが実相の中心に一気に飛び込むという事である。しかし、その悟りを得る中でも現象的には色々と具体的な進歩のヒントを得て、現象的にも一歩一歩、生長、進歩して行くのである。
 例えば、私などはテニスをやっているが、私は自分のテニスの技量が今、完全であると信ずるのである。それが自信であり、自分はまだ下手だ、まだ駄目だと思っておれば、練習すればするほど下手になるのである。自分は今、既に上手い、出来ると思った時、始めて上達するのである。それが生長の本道に乗るという事であり、それは取りも直さず、自分が今、既に完全円満であるという自覚であり、悟りであり、実相の中心に飛び込むという事である。
 しかし、現実には試合経験からいくらでも新たに学ぶ事がある。即ち、現象的には一つ一つ学んで、少しずつ上達するのだが、自分の自覚の上では自分は完全であり、無限力であると確信している。
 それが有限即無限、無限即有限という事である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-05-16 16:23 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

罪とは

 人は罪を犯す。罪には刑法上の罪もあるが、刑法に触れなくても、人をだましたり、言葉で傷付けたりする罪もある。また戦争なんていうものも国際法に触れなければ罪にならないかと言ったら、そんな事はなくて、やはり罪である。

 我々は神の子であり、誰でもその魂の奥底には善なる神性がある。しかし、その自覚が魂の奥底に深く眠っている者は残酷な罪を平気で犯す。それは人間の生命の尊さが分かっていないからである。
 そして、いっこうに罪の意識なく、非道な事をやり続けるが、信仰などに触れ、魂の神性、善性に幾分目覚めて来ると本来持っている神性の働きにより罪の意識が出て来る。
 そもそも罪というものは自分の本物の魂である善なる神性の上に積もり積もった積みが罪という事であり、その罪のごもくの山があまりに沢山積もっている場合は何でもないが、自分の善なる神性の魂が幾分目覚めて来るとその上に積もった罪というごもくがブスブスと燃えだし、煙を出すようになる。そして、それが本人に取っては煙くてたまらなくなるのであり、それが、罪悪感、又は良心の呵責である。
 
 そうなると、人は自分が過去に犯した罪を振り返って、その罪の深さに慄然とする。あの時、あの人を傷付けてしまった。自分の責任で大変な損失を会社に与えてしまった。私は何人も子供を堕ろしてしまった等々。

 しかし、そもそも罪とはなんであろうか?生長の家では罪とは既に述べた様に本物の善の魂の上に積もった、積みが転じて罪であるとも教えているが別に「つつみ」という言葉がつまったものであるとも説いている。
 即ち罪とは包みであり、それは我々の本来の完全円満な実相を包んで覆い隠している事が罪であるというのである。

 即ち、罪とは自分が過去にこれだけの間違いを犯しました、これだけの失敗をしましたという事ではなくて、実は我々の本来完全円満な実相を認識しないで覆い隠してその素晴らしさを発揮していないという事が罪という事なのである。

 従って、どんなに形上の罪を犯した事がないような人でも自分の完全円満な実相を自覚していないで実力を発揮していない人は罪人であり、どんなに過去に人に迷惑を掛け、悪いことをした人でもひとたび、自分の生命の実相はそんな不完全な事をするものではなく、そんな罪を犯したという事は本来存在しないことであり、自分の本当の生命の実相はこのままで完全円満な清浄無垢で無限力で無限健康であると自覚し、その実力を発揮した者は罪が赦されているという事になる。

 しかし、そもそも人間は何故、罪を犯すのであろうか?それは真理を知らないからである。今までそして今でも人類は戦争を繰り返し、実におびただしい数の人類が戦争や大量虐殺等の犠牲となって来た。
 それは戦争する敵国人を悪いやつだと思っているからである。悪いやつだから、殺しても何してもそれはいいことだと何となく思っているのである。それが人類に罪を犯せしめる元の元の迷妄である。相手が自分に対して何の悪意もない素晴らしい神の子であるという認識があれば、相手を攻撃出来るものではない。そうなれば相手を攻撃するどころかそれを理解し、愛する事が出来るのである。
 しかし、人類は迷い深い時代は、人間の生命の実相は完全円満な神の子であるという真理に目覚めないから相手を自分を攻撃して来る悪いやつであると思って相手に平気で残虐な行為をしてしまうのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-05-11 15:25 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

現象はナイ(2)

 我々は皆、現象の幸福を求める。健康でありたいし、家族同士仲良く暮らしたいし、お金も欲しい。だから、現象的に良い状態であれば、確かに幸福である。しかし、現象的な幸福のみが幸福だと思って、それに酔いしれていれば、その幸福が崩れた時の痛手は大きい。

 我らは現象をアルとして、それに幸福の基盤を置いている様では現象とは必ず崩れるものであるから、本当に幸福にはなり得ない。

 現象は我らの心の投影に過ぎないのであり、第一義的には存在しないのである。本当に存在するのは現象の奥の実相世界である。それこそが金剛不壊の真実存在世界であり、そこに住んでいる実相人間こそ本当の人間であり、それは完全円満で永遠に死なない神の子であり、それが我らの本当の姿である。
 実相独在である。現象は無である。実相は始めから完全であるから、我らは始めから、今、完全円満であり、それ以外に何の意味を持たない。私はこれだけの失敗をしました、完全になる為にはこれから、これだけの修行をしていかなくてはなりませんなんていうのは勝手に自分が創り出した自己限定であり、実相即ち神様のお作りになった本当の世界の立場から観れば、そんなものは何の意味も持たない。
 ただ意味あるものは我らが始めから完全円満であるという事であり、それがますます現象に展開するという事だけである。

 我らの実相はただ清浄無垢であり、完全円満である。そして、それを観じた時、自ずと今、ここにその完全円満の実相世界が展開している事が分かる。そうすると自分の具体的な過去、現在がそのまま、完全なものの展開であった事が分かる。それが現象が我らの自覚の展開であるという事である。
 
 その様に実相を観じた上での自然な現象肯定又は賛嘆ならよい。しかし、現象をアルとして、現象の良さに引っ掛かるとそれは無に引っ掛かった事となり、無とは罪であり、矛盾であり、悪の別名であるから、現象に引っ掛かった途端、自分及び他人の現在と過去が罪だらけ、矛盾だらけの不完全なものと観じられるのである。
 生長の家は現象に引っ掛かって、それをアルとして、それを信仰によって、良くしようとする教えではなく、このまま現象ナシ、実相独在を説く教えである。
 
堀 浩二
by koujihori | 2006-05-09 13:20 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

迷いはナイ(2)

 私が以前、聞いたある大学の哲学の教授の話によると、神というのが全知全能であるならば、神は考えるという事をしないというのである。即ち、全知全能であるならば、答えを探るのに頭で考える必要がなく、最初から、答えを知っているからであるという事だった。

 それを聞いたのは今から約30年前の事であるが、その時はそんなバカなと思っていた。ものごとを決めたり、判断するのに全然、考えないなんてバカな事があるものかと思った。しかし、それは真理ではないかと最近、思うようになったのである。

 というのは我々が頭を使う時には自分の判断を信じて今、何をどのようにするかという事をどんどんやって行くのに頭を使ったり、計算をしたりする以外はあまり、答えを求めて考え込まないという方が健全な状態であると思う。
 私はテニスをやっているが、その打ち方、戦略は色々やり方があり、何のプランもやり方も無しにやって行く事は到底出来ないが、だからと言って、頭でああだこうだと悩んだり、考えすぎたりするとろくな事にならず、迷いばかりが出て来て、結局うまく行かないのである。

 テニスの正しい打ち方や戦略は頭であれこれ考えずに、真剣にプレイする中でインスピレーション的にスパッと内側から思いついて、分かる事が多く、あれこれ頭で考えた事では駄目なのである。
 自分に自信がある技、例えば私などはグラウンドストロークに自信があるが、それに関しては殆ど考え込んだり、悩んだりする事はなく、自分の技に何か問題があっても、それの向上の為に更なるヒントは偶然、誰かから教えてもらったりして、上達するのであり、自分で悩んで考え込んだりした上で上達するという事は無かった。
 それに引き替え、自信が無く、苦手だと思っていたサーブに関してはいつも悩んでいて、常にもっとうまいやり方はないだろうかとあれこれ頭で考えているという状態であった。そして、いくら考えても、研究しても本当に得意になるという事は無かった。

 即ち、自信がある、出来るという事は既に自分の中でズバリやり方が分かるという事であり、何の迷いも無いという事で、それはやはり、「考えない」という事なのである。それは自信があるという事は自分の中に全知全能があるという事であるからである。
 そして、我らは神の子であり、自分の中に完全円満の神の国、即ち全知全能の神がいらっしゃるのである。それが真理である。

 それを自覚しないと人は自分は分からないと思い、分からないから答えを求めて、自分の外に真理を探究しようとするのである。そして、色々考えて、迷ってそして結局ろくな答えは見つからないのである。
 そして、自分の決断とか人生に自信が持てず、常に何か間違った人生を送ってきたんじゃないかとかいつもくよくよし、そしてどうしたら良いか常にうじうじ考えているのである。そして、過去に下して来た自分の判断、そして現在の判断を疑い、自分の人生を疑い、常に悶々としているのである。

 自分が神の子であり、自分の中に神の国があると自覚すれば、自分の中に真理があるという事が分かるから頭で考えなくても自己の内の神の声に耳をすませておれば、それがそのまま最も良い判断となって、我らの人生を良い方へ導いてくれるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-05-01 15:25 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)