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状況の力

 私がよく観るテレビ番組でここでも何度も紹介した事のあるフジテレビの「アンビリバボー」とう番組がる。そこで、以前やっていたのが、「状況の力」というものが如何に恐ろしいものかという事であった。

 それはアメリカの大学で行われた実験なのだが、被験者は学生であり、実験を企画、主催したのはそこの大学教授である。
 それはどういう実験かと言うと、刑務所のシミュレーション実験である。被験者の学生を看守役と囚人役に分け、実際の刑務所とそっくりな状況で、それぞれアドリブで看守と囚人の役をやってもらうというものであった。
 それは二週間かそれくらいの限定期間で行う予定で、教授のねらいはそれぞれの被験者の学生が看守役と囚人役に分かれてアドリブの演技をする事により、その心理と態度にどの様な変化が訪れるかという事だった。

 実験が経過して行く中で学生達はそれぞれ役になりきって、アドリブで見事に演じていったが、それが段々とエスカレートして、看守役の学生は囚人役の学生に言われ無き虐待をするようになり、それが日を追って段々エスカレートして行った。
 それを心配した実験を見守る側の学生が教授に実験を中止する事を提言したが、教授はその提案を退け、そしてとうとう囚人役の被験者の学生の親が実験場を訪れた時のただならぬ状況に危惧し、強く教授に実験中止を求め、ようやくあらかじめ定められた実験期間終了前にこの危険な実験は中止されたのだった。

 これは後からその実験を企画、実行したその大学教授自体が後で自ら解説していたが、「状況の力」というものの為せるわざなのだそうだ。
 当たり前ならば、ごく普通の友人関係であったはずの学生同士が実験とはいえ、看守と囚人という役割、状況を与えられると「状況の力」というものが加わって、看守役の学生は囚人役の学生に優越感と相手を卑下する心理が生じ、虐待をする様になってしまうのだそうである。
 事にそれが権威ある教授の下に意義ある実験を行っているという意識が加わるとより自分が偉い、権威的存在になった気になって、囚人役の学生をいじめたくなってしまうらしい。
 そして、この実験を企画、実行した教授自体がその状況の力の虜になってしまって、この実験を何としても完遂しなくてはならないという様な気持ちになって、実験中止を提案した学生を虐げる行動をする様になってしまったのである。そういう状況になってしまった事をこの教授自体が自ら認め、後に告白している。

 昨日、北朝鮮の拉致被害者の横田めぐみさんの夫とされる韓国人の男性が記者会見していたが、それによると横田めぐみさんは北朝鮮政府の言い分通り、病院で自殺したと言い、そして北朝鮮から日本政府に提出されためぐみさんの遺骨を偽物と断定した日本政府を非難し、そして、自分は拉致されたのではなく、単に海に漂流してたのを北朝鮮の船に助けられたと発言した。

 これはめったな事は私もここで言えないがその主張は殆ど北朝鮮政府の主張通りであり、殆ど信用出来ないと思う。この人は北朝鮮政府に無理矢理言わされているかも知れないが、私はあながちそうでもないと思う。日本人の拉致被害者である蓮池薫さんも北朝鮮から帰ってきた直後は北朝鮮政府を本気で礼賛し、日本政府に対して不信感を持っていたと聞く。
 やはり、ここでも状況の力というものが働いて、一般大衆はともかく、北朝鮮で、ある程度の地位や役割を与えられて、その自分が属する国家の権威というものが自分に取って絶対的なものと思っている人に取ってみれば、この様に自国の政府の主張が正しくて、それを否定する日本政府は間違っているものと本気で思うのではないだろうか?

 ところで生長の家は創始者の谷口雅春先生の時代から現在はその法燈を継承された総裁、谷口清超先生・副総裁、谷口雅宣先生の時代になっている。生長の家の根本の教え、人間は神の子であるという教えは永遠に変わらないものであるが、その教えの時代に応じた具体的な展開の仕方や説かれ方は時代と状況に応じて異なって来る。

 だから、たまに現生長の家副総裁の谷口雅宣先生の仰っている事が自分の考えと異なると感じる事もある。
 そんな時、単に上の人がこう言うから、現副総裁がこう言うからという事でそれまでの自分の意見を何も考えないで否定して、単に、はいはいと先生の仰る事を妄信的に受けていれば、それは単なるマインドコントロールであり、ロボットであり、そんなのは全ての自主性が自分にありという人間神の子の生長の家の真理と根本的に矛盾する。

 そういう時は自分の考えが本当に正しいものであるか、もう一度自問自答して、祈りを深め、勉強すべき文献があれば、勉強したりして自分自身の中にある神の国に、より穿ち入り、後は日常の事を当たり前にずんずんやって行くのが良い。そうした中、自ずと気付くべきものであったら気付いて行くのである。

 私の経験によれば、私は神の子であり、内に無限の神の叡智を秘めており、そして、その事を自覚はしているが、やはり、生長の家の組織の中心者である総裁・副総裁となられる様な方の方が一信徒である私よりも遙かに神の叡智をより掘り下げ、より自身の生活にそれを顕現させておられるというのが紛れもない実感である。だから、一時的に先生の仰っている事が自分に分からなくても自分の心境が進むに従って、先生の仰っている事が自ずと分かって来る事が多い。
 そういう方であればこそ生長の家の中心者であられ、全信徒の師であられるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-06-30 12:22 | Trackback | Comments(0)

良くしようとすると悪くなる

 世の中には真面目な人間が沢山いる。几帳面な人間も沢山いる。しかし、これが度を越すとろくなことにならない。

 よく余りに真面目すぎるとノイローゼになるから、ちゃらんぽらんな方がいい、あまり真面目に思い詰めるななんていう事を言う人もいる。しかし、だからと言って、真面目な人がそれを聞いて「はいそうですか」と次の日からちゃらんぽらんに、いい加減になれるかと言ったらそれは無理である。
 ちゃらんぽらんのフリは出来ても真面目な人は本当には不真面目にはなれないのである。何故なら真面目である、完璧主義であるという事は決して悪い事ではなく、その人に完全円満の神が宿っていて、内側から完全でありたい、真摯でありたい、ちゃんとものごとをやりたいという欲求があるから、完全にやりたい、ものごとをいい加減にすませないという心理になっているからである。

 しかし、確かに真面目で完全主義の人は何度も確認なんかして、失敗しないだろうか、うまく行っただろうかと悪くなる事を恐れているが、そんな事を繰り返していれば、ストレスも溜まり、またそうなると判断力や記憶力も更に落ちて、そうなるとますます自分の仕事に自信が無くなり、またもっと完全にやらなくてはならない強迫観念にさいなまれ、そうした悪循環から本当にノイローゼになってしまう事もある。

 こういう人はどうしたらよいだろうか?それは真理を悟る事である。自分がやっきにならなくても、完全にしようと焦らなくても既に完璧な世界が今、ここに、そして自分の内に存在し、そして、その完全円満の実相世界こそが本当にある世界であり、この現象世界というのがその映しに過ぎないという真理を悟る事である。

 「良くしよう、完全にしよう」という心理は「このままでは完全でない、良くない」という心理である。それは映し世に過ぎないこの現象世界を本当にある世界であると勘違いして、本当にある世界が我らの内にある既に今、全てが完全円満である神の世界、実相世界であるという事を悟っていないのである。

 だから、その我らの内にある既に完全円満な世界、神の国のみが本当にある世界であると信じて、影に過ぎないこの現象世界、事物を一切良くしよう、完全にしようという考えを捨てる事である。
 そうしたらこの現象世界は自分の心が映っている世界だから、本当にある世界は既に完全だという自分の信念通り、完全な落ち度のない世界が展開するのである。良くしよう、完全にしようという心はこのままでは完全でない、良くないという心だから、いくら努力しても却って悪くなり、穴が出来、失敗を多発するのである。

 しかし、この世界をそして自分の肉体を良くしよう、健康にしようという心を捨てることはちょっと勇気が要る事でもある。現象や自分の肉体に執着する心を放たなければならないのだから。でも、我々は魂の修行の中でそれをやって行くしかないのである。そして、内側からの神の導きのままに当たり前の事を当たり前にやって行けばよい。

 その本当の世界を観る行として生長の家では神想観という観法がある。

  堀 浩二
by koujihori | 2006-06-29 15:12 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

生長の本道に乗る

 生長の本道に乗るという言葉がある。我々は神の子であり、内に完全円満な神の無限生命を宿している。この現象世界は縦横厚みの三次元そして時間という概念を足した四次元世界だが、その四次元の限定された現象世界に無限次元のその完全円満な神の国又は神の子人間の生命を表現して行くのがこの人生である。
 
 内に無限の可能性を秘めていても、それを表現するには先ず自分の中に完全円満な神の生命が宿っている事を自覚し、自覚した上でそれを掘り起こして行く作業が必要になって来る。人類は開闢以来、その我が内に宿る完全円満な神の生命を如何に悟り、如何にそれをこの現象世界に表現するかという事を繰り返して来たのである。
 
 だから、この世界は人生学校と言い、我々は肉体での人生を何回も何十回も生まれ変わりながら、この人生学校の学びを深め、自分の中の完全円満な無限力を人生に表現して行くのである。
 その学びというのは大抵、色々な経験、ことに失敗体験を重ねる中で進んで行く。だから人生において如何なる失敗体験をしようともそれは表面的にはマイナスかも知れないが魂の向上という面から観れば人生学校に於ける大切な学びである。
 これはこういう事をすれば、こういう考え方、こういう心持ちであれば結果としてこういうまずい結果、失敗になるという事を直接体験し、その中で徐々に本来の心の持ち方、生活の仕方を肌で学ぶのである。
 その過程に於いて、色々な人生上の間違い、言い換えれば罪を犯し、その報いを刈り取る事により、こういう事をしてはいけないんだという事を悟っていくのである。
 しかし、それを誰の先達の導きも受けないでただ独力でその魂の修行をして行くならば、罪を刈り取る時の大変な苦痛の期間を大変な長い期間、経験しなければならないので神様がそれを不憫に思って、人類の道しるべとなるべき宗教的天才を地上に遣わすのである。
 それが釈迦、キリストなどの古今東西の有史以来の宗教的天才である。もちろん生長の家創始者谷口雅春先生もその中に入る。
 
 こうした宗教的天才の導くままにその教えをハイと受けて、努力精進するものは自分の犯した罪の報いを受ける大変苦しい清めの期間を比較的速やかに卒業して、悦びの中で生き生きと人生勉強、魂の無限生長をする事が出来る。
 それが生長の本道に乗るという事である。生長の本道に乗るという事は神が遣わした宗教的天才の教えに素直にハイと従って、努力精進し、そして、人間は今、そのままで完全園円満な神の子であるという教えを素直に受けて行く事である。
 
 人間は内に無限の可能性を秘めた完全円満な神の生命を宿しているから、伸びたい、学びたい、生長したいと常に思っているのである。しかし、そう思う者は人間は色々な失敗経験をしないと学べない、思い知らない、真剣にならないと何となく思っている。
 それは表面の意識ではそうはっきりとは思っていないかも知れないが、人間には表面の現在意識が意識の5%に過ぎないとすれば、その下に無意識層、潜在意識層があり、これは人間の意識の95%を占めているが、その潜在意識が自分は伸びたい、生長したい、その為には失敗経験をしなくてはならないと思っているのである。
 すると失敗経験というのは罪の事であり、その報いは苦痛であるから、自分は苦痛を受けないと生長できないと固く信じているのである。そうなると生長したくて仕方がないのが我々の本当の生命であるから、自分を生長させる為には苦痛が必要だと強く思っている。それは苦痛を潜在意識で常に望んでいるという事になる。そうなると5%の現在意識で如何に苦痛を嫌っていても、人生に心の力で苦痛を常に呼び寄せる事になる。
 
 しかし、自分がそんな失敗体験なんてしなくても今、そのままで完全円満な神の生命であるという事を如実に悟ると苦痛経験、失敗体験無しでずんずん進歩生長するのである。
 正にそれこそが生長の本道に乗るという事である。それは「出来る」「無限力」「神の生命」が現象世界に直接、投影して来て、その為、ずんずん日を追って、生長、進歩するのである。
 生長の本道に乗るとは我(が)がこれから良くなろうともがく事ではなく、神が直接出て来る事であり、既に吾、無限力なりの自覚、悟りが展開する事である。

 自分が今、そのままで完全円満で何も問題がナイという事が分かると、今すぐ無限力が出て、かつ目も開けて来て色々な事が一度に分かってくる。失敗体験即ち苦痛は要らないのである。
 そして、自分が今、そのままで完全円満で何も問題がナイという事が分かると、全ての人との人間関係が今すぐ良くなるのである。仲違いしていた人とは和解し、侮辱していた人に対しては尊敬出来る様になり、また逆に自分も尊敬され、好かれる様になり、そして不倫、浮気なども自ずとしなくなる。これらの不調和は本来の調和した人間関係が単にちょっと歪んで映っているに過ぎないからである。
 生長の本道に乗れば、ただ良くなる一方、悟る一方、悦びが増す一方、実力がどんどん伸びる一方の光が光するのみの無限生長となるのである。
 苦労しなければ、生長出来ないと思う心は受難礼賛の心、不幸、苦労を呼ぶ心である。自分が何も苦労しなくてもこのままで完全円満であると悟れば、光が直接出て来て、その光はますます輝きを増し、どんどん良くなり、どんどん無限生長するのである。

 私はこの事を趣味であるテニスをやる中で如実に実感した。私はまだ自分は駄目だ、まだ下手だ、うまくなる為にはこれだけの研究と訓練と失敗経験が必要だと思っていた時はあの問題が良くなったと思ったらこっちの問題が悪くなるの繰り返しで一向に本当にはうまくならず、常に苦労と挫折と屈辱の繰り返しだったのが、ある日、忽然と悟って、自分はこのままで無限力で完全円満なテニスプレーヤーであると悟った瞬間、すぐに問題や悩みが全て消え、ずんずんうまくなり、何故今まで試合で中々勝てなかったかという事が急にあたりが明るくなって来たように手に取る様に分かって来たのである。
 こうなると苦労とか失敗とか恥かきなどを経ないで今すぐ力を発揮し、それが日を追ってどんどん更に上達するという感じなのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-06-28 13:27 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(9)

妻とデート

 昨日、休日を利用して、妻と東京現代美術館で行われている「カルティエ現代美術財団コレクション展」を観に行った。

 我が家のある鎌倉からJR横須賀線で東京駅まで出て、そこから地下鉄に乗り換えて、木場という駅で下りて行くのだが、東京駅から地下鉄の大手町の駅まで20分近くも歩き、木場駅で下りてからもまた20分近くも歩いて美術館にたどり着いた。

 現代美術だから、普通の風景画とか彫刻ではなく、何か意味を持たせたエキセントリックな現代アートの展示である。色々と面白い現代アートばかりだったが中でも人目を引いたのは「イン・ザ・ベッド」という題名のつけられた巨大な女性の彫刻だった。それは女性がベッドの中で仰向けに寝ている彫刻で幾分頭を起こした状態なのだがそれが驚くほど巨大で顔の大きさだけでも二メートル位もある。しかも非常にリアルな造りで特殊な材料を使っているのだろうが、蝋人形以上に本物そっくりで本当に生きている人間の様で今にも何かしゃべり出しそうなほどだった。

 展覧会観覧後、昼食をしようという事になったが、ちょうど美術館内に手頃なレストランがあり、中々良さそうな雰囲気なので入ってみた。そこはフランス料理店でコース料理が2800円の手頃な値段でしかもとても美味しくて大満足だった。

 計画ではそれから池袋にある私の母校の立教大学にちょっと立ち寄ってみようと思っていたが、二人ともけっこう歩いて幾分疲れていたので、翌日、お互い仕事もあるので無理しないでそのまままっすぐ帰宅した。
 とても楽しい休日の妻とのデートだった。

 この頃、夫婦の絆という事が冷めたものになって来ている夫婦も多いと聞くし、熟年離婚なんて言う話も良く聞く。新婚の時は誰でも蜜月だが夫婦生活も十年以上過ぎるとお互い空気の様な存在になって来て、新鮮味が無くなり、また奥さんも仕事を持つようになると生活のすれ違いなども生じてきて、そうなると休日などもお互いバラバラな過ごし方をしたりして、それで会話も段々少なくなり、溝が出来てしまうケースもある様だ。

 しかし、お互い共働きでも休日は一緒にどこかにデートに行くとかして、楽しめば楽しい夫婦生活が保てると思う。今回は私の方から誘ったが妻は最初はちょっと乗り気ではなかったが、結局私の求めに応じてくれて、昨日のデートになったのだった。
 妻は本当に面白かった、良かったと言ってくれたし、私も妻の可愛さ、美しさに改めて惚れ直して、(のろけてすいません)本当に楽しい一日だった。
 こうなれたのも妻が翌日自分も仕事があるにも拘わらず私のデートの提案を素直に受け入れてくれたからだと思う。

堀 浩二
by koujihori | 2006-06-26 12:55 | 家庭生活 | Trackback | Comments(0)

スランプ脱出

 私はテニスをやっているがたかがテニスと言うなかれ。テニスと一口で言っても、これは中々、奥が深くて人生の真理を学ぶ事はいくらでもある。

 私がテニスを始めたのは21歳の時だ。大学の体育の授業でテニスを選択したのがきっかけだったが、最初は本当にうまく行かなかった。
 ラケットは現在は技術が進歩してラケット面が大きく、しかも軽く反発力もあるので所謂スイートスポットが大きく、多少下手でも球は飛んでいくが、私が始めた頃はフレーム材質は木でラケット面も現在より遙かに小さかったのでスイートスポットが小さく、単なるグラウンドストロークをするのもとても難しかったのである。

 それはともかく私はテニスを始めて三年くらいでグラウンドストロークが一人前に出来る様になった。その後、社会人となり、色々と忙しくなったのでテニスから遠ざかっていたが、今から九年位前からまた本格的に再開し始め、現在は毎朝、素振りの練習をし、週三回位はコートでプレイしている。

 私は近所のテニスクラブに入っており、息子も数ヶ月前から同じクラブに入り、たまに二人でシングルスの練習試合などするのだが、一ヶ月前に息子とシングルスの試合をした時からサーブの調子を崩して不調になってしまった。
 その後、ああだこうだと考え、自分の考えた通りにやって見たが、うまく行かず、仲間との練習試合でもダブルフォルト(サーブの二回続けて失敗する事。これで一失点になる。)を連発し、仲間からあきれられる始末であった。

 うまく行かないからどうしたらいいのだろうとまたああだこうだ考えた。それで素振りなどで感触を確かめてから、一応こうやったらいいと考えがまとまったので、先日の月曜の夜のいつものテニススクールでの練習試合で試してみるとまたまたさっぱり駄目であった。

 テニスのサーブというのは難しく、これでけっこう苦しんでいるプレーヤーは多いのだが、私の場合はそれがひどかった。しかし、以前に私はある事に気が付いたのだった。それは私はグラウンドストロークは自信を持っていて自分自身は上手いと思っていたがサーブに関してはどうだろうかと自問自答して見たのである。
 そうしたら私はサーブがどのように上手くなるかといつも考え、その努力もしているが自分はまだサーブが上手くない、まだ下手であると自分で自分を思っている事に気が付いたのだった。

 生長の家の教えでは人間は無限の可能性を持った神の子であり、本来無限の力と知恵を持っていると教えている。そしてそれは将来そうなるというのではなくて、現象はどうあろうと我々の神の子無限力というのは今、ここにあるというのである。
 私はそれを分かってはいたが、実際の生活の中でそれを本当には行動化してはいなかった事に気が付いたのだった。私はサーブはまだ上手くない、まだ下手だ、だから研究と練習を積まなくてはならないと信じていたのである。
 いくら人間神の子無限力と言っても、それを如実に自覚していなければその力を発揮する事は出来ない。私がサーブがうまく打てなかったのは自分はまだサーブが上手くない、下手だと自分で自己限定していたからだったという事に気が付いたのだった。

 その事に気が付いたのは今から数ヶ月前の事でこのブログにもその事を書いたと記憶しているが、それから私のサーブはすぐに見違える程良くなり、ずんずん上達して行ったのである。
 しかし、一ヶ月前に息子と練習試合している時に相手が息子だったからか我(が)が出て、過去の迷いの自分がまた顔を出し、もっと上手くなろう、良くなろうという無限力を外に求める焦る気持ちになった為にサーブの調子を崩してしまった。
 調子が悪くなったからまた焦って良くなろう、上手くなろうと焦って、またああだこうだ考え出してしまったのである。

 しかし、前述の様に今週の月曜日の夜のテニススクールでの練習試合で、頭で考えた型通りにやって見てもうまく行かないという事になった直後、こうしたら上手く打てるだろうとか頭で考えた理屈、型を捨て、自分の中の無限の叡智に全託して今、自分は出来るんだと言うことを思い出し、その智恵のままに打っていったらサーブが再び、どんどん入る様になり、スランプを脱したのだった。

 繰り返しになるが我々は神の子であるから今、自分の中に、ここに無限の力、無限の智恵があるのである。それを自覚して行動すればその無限力はすぐ出て来る。それを勝手に自己限定して、まだ自分は駄目だ、下手だ、無限力なのは実相の事で今の現象の自分はまだまだ駄目で下手だからそれを良くする為に自分はこういう練習や行をやらなきゃ駄目なんだなんて言っていたら、自分のそのまだ駄目だという信念の通り、いくら練習しても工夫しても、いつまで経っても下手なまま、駄目なままと言うか、逆にやればやるほど「どつぼ」にはまって行くのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-06-22 12:16 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

ジーコジャパン(2)

 先日はジーコジャパンの事について書いたが、またちょっと思う事があるので書かせて頂く。
 今、行われているサッカーワールドカップだが、周知の様に日本は予選の一戦目でオーストラリアにまさかの逆転負けをし、そして、二戦目のクロアチア戦ではからくも0対0の引き分けとなり、日本は予選敗退はまだ決まってはいないものの予選を勝ち上がるにはブラジルに2点差以上つけて勝ち、かつクロアチアがオーストラリアに引き分け以上の成績を上げなくてはならないという正に首の皮一枚の瀬戸際まで追いつめられた。

 今までのオーストラリア戦、クロアチア戦を見ると頑張っているのはゴールキーパーの川口ぐらいで柳沢などの攻撃陣は殆どと言っていい位機能しておらず、決定力の無さというのが指摘されている。
 そして、柳沢などの選手の問題に加え、否それ以上に指摘されているのがジーコ監督の指導者としての資質である。その事は連日週刊誌、テレビ、ラジオ等のメディアで指摘されており、余りにも放任主義の指導方針、作戦の立て方や選手の交代時期のまずさ、又はそのポリシーのあいまいさ等、その無策さが非難されている。

 しかし、私はいつも思うのだが、日本のメディアというのは何故こうもいつも手のひらを返した様な報道の仕方、横並びの言論しか出来ないのだろう。
 それはライブドア元社長のホリエモンこと堀江貴文容疑者の場合もしかり、村上ファンドの村上容疑者の場合もしかりである。昨日まで時代の寵児だなんだと持ち上げておいて、逮捕されるや水に落ちた犬は叩けとばかりに一斉にバッシングの集中砲火を浴びせる。
 ジーコジャパンに関しても同様ではないか?選手に対する行きすぎた放任主義、その無策ぶりなどジーコが監督をしてきたこの四年間に指摘したメディアがあっただろうか?私が知る限り皆無である。しかし、先日のオーストラリア戦で今まで良かったものが一挙に悪くなるはずがないのだから、ジーコ監督の問題点というのはそれ以前に存在していたはずである。しかし、それを指摘する評論家、メディアは殆ど皆無であり、皆がジーコジャパンをもてはやしていたのである。

 そして、オーストラリア戦で残り僅か8分でまさか3失点をきっすると今までとは手のひらを返した様にジーコの批判をメディアは展開し始めた。しかし、本当に見る目と真実を伝える勇気があれば、ジーコの監督ぶりに対する批判の記事はそれ以前に書けたはずだと思う。

 日本のメディアというのは時の権力者や皆がもてはやすものに対して、個性と勇気を持って、悪い所、批判すべき所は批判するという報道者としてのモラルが欠けているのではないか?時の権力者にすり寄り、横一線の報道しか出来ず、それが転落すると今度は一斉にまたそれを叩く。
 その傾向は大東亜戦争の時から変わっていないのではないだろうか?メディアは鬼畜米英を事ある毎に唱え、そして、国民の対米英に対する敵愾心を掻き立たせ、それが戦争につながったのは否めない所があると思うし、戦争が始まったら始まったで実際負けているのに勝った勝ったとうその報道を繰り返し、そして、戦争に負けたら、今度は手の平を返す様に戦前の日本の指導者の責任を追及し始め、今まで鬼畜米英と言っていたアメリカを賛嘆し、そして、それどころか戦前の日本の本来持っている良き面まで全て否定する様な報道をつい最近まで延々と続けていたのである。

 これは一重に真実を報道するという報道者としての個性と使命感に欠け、時の情勢、権力者にすり寄る横一線の報道しかしない日本のメディアの報道姿勢に問題があると思う。

堀 浩二
by koujihori | 2006-06-21 08:05 | Trackback(2) | Comments(0)

生長の家龍宮住吉本宮団体参拝練成会を受けて

 ちょっと、生長の家の信徒だけのローカルな話題になってしまうかも知れないが、私は九州の長崎にある生長の家総本山で開かれる龍宮住吉本宮団体参拝練成会という行事に先週の金曜日に有給休暇を取って、土日の週末も入れて、2泊3日の日程で参加して来た。

 生長の家の練成会というのは生長の家の練成道場に何泊か宿泊して講師から生長の家の講話を聞いたり集団で色々な生長の家の行をする事によって、生長の家の教えを体得出来る様に練成する為の行事である。
 私は高校一年の時に二回、この練成会を受け、それから生長の家を本格的にやる様になり、その後、30代半ばで求道が行き詰まった時に改めて、この練成会を宇治の生長の家の道場で受け直し、そこでまた教えを勉強し直す事が出来た。

 ところで私は生長の家の神奈川教区の男性の組織である相愛会という所で一つの対策部を担当している関係で、この団体参拝練成会に自然の流れで去年から参加する様になった。
 この練成会の会場である生長の家九州総本山には生長の家の宇宙浄化の神様である住吉の大神をお祭りしてある龍宮住吉本宮があり、ここで行われる団体参拝練成会は現在、生長の家では一大行事になっており、毎年、教区の有志全体で団体で参加するのである。

 前述の様に私は九年前にそれまでの求道生活に完全に行き詰まって宇治の生長の家別格本山で練成会を受けた。そして、そこの幽斎殿という場所で生長の家の神示である「本当の信仰についての神示」という文章を拝読している時に直感的に生長の家の神髄を悟ったのである。
 その後の生活の中ではその悟った真理を如何に生活化して行くかという事の連続であった。しかし、去年、初めて九州の総本山の団体参拝練成会に参加した時、その自分の悟った真理、即ち私の中の神の国が正に一気に表に出て来る感じがしたのである。
 即ち宇治の別格本山の幽斎殿では龍宮即ち実相本源世界に正に入って行く感じで、真理の内奥に穿ち入り、そして九州の総本山の顕斎殿ではその内奥の悟り、真理が外側に正に顕れ出る感じで私の中の実相の素晴らしさがますます顕在化する感じなのである。

 その実感は理屈ではなく中々一言で言い表せないのであるが、今回の体験で一つこんなのがある。私は最近、約五年ぶりに携帯電話を買い換えたので現在私が使っている携帯電話はテレビも観れる最新式のものだ。メールもビデオメールが手軽に出来る優れものであるが、私は生長の家総本山に来てから朝に夕に妻にビデオメールをセリフ入りで送ってその素晴らしさを報告していた。しかし、妻から私に返って来た返事はそっけない言葉のものが一通来ただけで後は皆無だった。

 それで二日目の晩、直接家に電話してみたがいつまで経っても出ないので妻の携帯に電話してみた。そしたら代わりに息子が出て、今、お母さんは家の電話で電話中であるというのである。家はキャッチホンなので家の電話中に家に電話してもかけた方はお話中の音がせず、普通に呼び鈴を鳴らしている状態に聞こえるので分からなかったのだった。

 私は腹が立った。私がこれほど何回もビデオレターを送っているのに妻からの返事は殆ど帰ってこないで私が電話してもチャッチホンにも出ないで他の誰かと延々と長電話している事に。
 それからすぐ消灯時間になったが、怒りは中々収まらなかった。このままでは眠れないのではないかと思った直後、私はやはり、放つ愛が出来ていないという事に気付いたのである。愛とは相手から何かを要求する奪う愛ではなくて、相手からの見返りは無くてもただ相手に与える放つ愛が大事だと生長の家では教わるし、私も講師としてそれが大事だと人にも説いて来た。
 私はそれを日常生活の中で他人には実行出来ていたと思うが全てを赦せる家内に対しては我(が)が出て、それが実行出来ていなかったのだった。
 私はその自分の真の姿を自分に突きつけられ、ああ自分は本当に放つ愛が実行出来ていなかった、最愛の妻に対して何故、今まであれほど大事だと思っていた放つ愛を実行していなかったのだろうかと妻に申し訳無い気持ちになった。そうしたら心が安らかになって、その後、ぐっすり安眠する事が出来た。

 生長の家の龍宮住吉本宮団体参拝練成会というのはこの様に普段自分が気付かない自分のあら、醜い姿が一旦あらわになり、自分に突きつけられるが次の瞬間、すぐその間違いに気付き、その醜い迷いを洗い流し、自分の中の神の子の実相の素晴らしさがより顕在化出来る場所であると思う。

堀 浩二
by koujihori | 2006-06-19 10:39 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(14)

ジーコジャパン

 久しぶりにスポーツの事について書こうと思う。現在、話題のワールドカップサッカーの事である。

 ワールドカップについては日本中のメディアが連日上や下への大騒ぎをしているが、既に周知の様に日本は予選リーグの初戦、対オーストラリア戦で痛恨の逆転負けをした。
 FIFAの世界ランキングでは日本の方がオーストラリアより上なので他の相手である強豪のクロアチアやブラジルに比べれば比較的くみしやすい相手と誰もが思っていたはずである。
 しかし、後半の30分過ぎまで1-0でリードしていたのに残り僅か10分でまさかの三失点で逆転負けした。

 これは本当に選手、監督達はもとより日本国民全体が茫然自失という所だろう。日本は前哨戦の対ドイツ戦でも後半の中盤まで2-0でリードしていたのにやはり残り20分で同点に追いつかれた。
 どうも日本はせっかくのリードを守りきれない特徴があると言わざるを得ない。私はサッカーは余りというか殆ど詳しくないので戦略的、技術的なコメントは出来ない。しかし、周りのサッカーに詳しい人から色々話を聞いて行く中で私なりにジーコジャパンの実情というものが分かって来た様に思うのでちょっと意見させて頂く。

 日本人選手の思いきりの悪さから来る決定力不足とか色々問題はあるかも知れないがどうもこれは主な敗因は監督の采配に問題があるようだ。というのはサッカーに詳しい人によると後半戦で控えの選手を出すタイミングが遅い事、それから最後の10分から20分の間のフォーメーションの拙さ等が今回の逆転負けの原因だと言うのである。

 ジーコ監督というのはどうも前任のトルシエ監督が徹底管理型であったのに比べ、その正反対の放任主義な様でその指導方針は選手の自主性を尊重して自分で考えさせるという事らしいが、ある人に言わせれば、放任すべき時は放任してもいいが管理すべき時は管理しなくてはならないのにジーコはそれを怠ったというのである。
 最後の10~20分で虎の子のリードを守れないというのはやはりジーコ監督が点を守る為のフォーメーションの指導をきちっとしなかった事に問題があるようで海外メディアは日本のフォーメーションの拙さに驚いていた。

 ジーコと言えばブラジルでペレと並んだ国民的英雄でサッカーの神様とまで言われた名選手中の名選手である。しかし、彼は世間で良く言われる「名選手必ずしも名監督ならず」という一例ではないだろうか。

 野球の長嶋茂雄は名選手であったが組織を管理、運営する術(すべ)という部分では駄目であったし、ジーコも今見る限り同様ではないかと思う。
 人には長所短所がある。生長の家では「他人の光明面のみ見て、暗黒面を見るべからず」という教えがある。光明面というのは人間神の子の部分が出ている部分でその人の現象の奥の完全円満の神の生命が出て来ている部分であり、暗黒面というのはまだその人の実相の完全円満さが出ていない部分で本来存在しない部分であるから見るべからずというのである。

 しかし、野球の王貞治の様に選手としても世界一、監督としても世界一という素晴らしい人もいる。これはたぐいまれな例であると思う。
 王は長嶋と比べ、あまりちやほやされなかった事が逆に良かったのではないかと思う。王は選手引退後、巨人の監督になったが芽が出ず、言わば巨人から追放された感じで巨人を去るのである。しかし、彼はそれに屈せず、ダイエーという新天地を求め、そこで不屈の努力で監督としても成功し、そして先日のWBC、野球世界一決定戦で見事、世界一の監督となったのだった。だから私は心から王を尊敬する。

 人間は本来無限の力があり、無限の種類の才能があるのである。しかし、それを全て開発するのは一代限りの人生でやりきれないから何回も生まれ変わって色々な才能を開発して行くのである。
 そして、自分がどの才能を何時開発して行くかという事は全て神様の御心の中にある。だから、自分があることの才能が非常に発達していてそれに長けているとしてもそれに満足せずにその次の神様から与えられた課題の中でそれが自分に取って例え不得手な事であったとしても、その中で切磋琢磨して王の様に色々な才能を頑張って花開かせて行く事が大事だと思う。

 さて、ジーコジャパンに関しては勝手な批判を私はしてしまったが、まだある意味戦いは始まったばかりである。残りのクロアチア戦、ブラジル戦をジーコ監督そして選手達には例え結果が出なかったとしても是非全力で悔いを残さずに頑張ってもらいたいと願う次第である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-06-15 13:04 | スポーツ | Trackback(1) | Comments(0)

真の成功とは(2)

 私はテニスとか英会話をやっていて、やるからにはそこで力を発揮する事を目指して練習している。しかし、いいパフォーマンスが出来た時は気持ちがいいが、駄目な時は多少ブルーになる。

 例えばテニスでサーブが素晴らしく決まり、試合結果が良い時とか、また英会話でも相手の言っている事がよく分かり、自分も滑らかに自分の意見を英語で表現出来た時などは気持ちいいが、そうでない時は鬱々となり、ああだこうだと考えすぎる様になる。

 そういう悪い時は心が焦り、良かった時を取り戻そうとしたりして心が引っ掛かり、今を生きていない事が多いのである。要するに成功とか上出来を外に求めて焦り、今やるべき事に気が行かないのである。
 しかし、こんな事をしてぐちゃぐちゃ考えても決してよいヒントは思いつかない。それは自分を見失っているからである。

 我らは肉体の奥の本当の姿は肉体を超えた神の子であり、それは今、そのままで完全円満で何ら欠くるものがないものである。それはこれから良くしようと我(が)があたふたしなくても始めから完全であり、無限の力がある。うまく行かないで良くなろう良くなろうと焦っている時はその本来の自分を見失っているのである。だから、それを取り戻そうと心があくせくして今を生きていないのである。

 生長の家創始者谷口雅春先生は「形の成功を追わずに、今、この瞬間に自分の中の完全円満の生命の実相を自覚し、今を全力で生きれば、それが本当の成功である。我らはその様にすれば何人と言えども今、すぐ成功者となれるのである。」と教えて下さっている。
 我らは肉体の奥の真の姿即ち、実相は完全円満な神の子であり、我らの中には大調和の善のみの神の国がある。それを自覚し、それに全託して行けば自分が今、そのままで既に成功している尊い存在であるという事を実感する事が出来るのである。 
 
 それを自覚して今を全力で生きる事が真の成功である。外形的条件を整えなくても自分の中の神を信じ、それに全託して、心おきなく今に全力を尽くしていく中で、外形的成果も我らの丁度いい時期に出て来る。
 しかし、そんな外形的成果はどうでも良いのである。我らはそんな形の収穫や外形的成功など得ようとしなくても、今、そのままで完全円満な神の生命を既に内に蔵しているからそれを自覚し、それを悦び、今を全力で生きればよいのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-06-13 09:15 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

運命について

 生長の家ではこの現象世界は本当に実在する世界ではなく、我々の心が作る世界であると教えている。言うなれば我々の心が展開している世界であると言うのである。

 従って、我々の運命は全て我々自身で創るのである。我々の病気も我々で創るのである。それらが展開される時、偶然こういう事が自分に起こって来たから、誰かからこうされたから、そうした運命や病気になったと見えるがそれは元々、自分の中にあったものが現象的に展開した時、そういう形になったに過ぎない。
 例えば、あの時、あの人がこういう不注意で自分にぶつかって来たから私はこんな事故にあったとか、あの時、たまたまあの人にこういう事を言われたから自分は人生で希望が持てるようになって、頑張れる様になった等々。しかし、これらはたまたま自分以外の何か、又は誰かが自分にこういう作用をしたからこうなったと表面的には見えるがこれ全て自分自身で組み立てた運命が出て来たに過ぎない。

 その様に全ての運命というのは既に我々の心に原型があり、それが展開して出て来るのである。その中で色々偶然の出来事みたいに感じるのは全て自分の心の展開の中で出て来る事であって、自分が幸福になったり、不幸になったりするのは偶然の所産ではなくて、全て元々自分の中に原因がある。

 しかし、その展開というのは一見、事故や病気などの不幸に見える事であっても、その元には我らの生命の実相が内側から展開するという事があるのである。要するに全ての我々の現象的展開というのは表面的には外から偶然自分に巡ってきた色々の不幸や災難みたいに感じるかも知れないが、それは長い目で見れば、我々の素晴らしい完全円満の生命の実相が展開して行く姿なのである。

 だから我らはどんな不幸に見舞われても決して人生を諦めてはならない。それはよりよい人生への展開のステップに過ぎないからである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-06-12 12:33 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)