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真の愛行とは(2)

 以前にも、ここに書かせて頂いたが、生長の家では「愛行」の尊さを説いている。生長の家で大事な行として「神想観」「聖経読誦」「愛行」の三つがあり、これを三正行と言って、生長の家の信徒が励行すべきものである。

 ところでこの三正行の一つの「愛行」だが、これが中々難しいとされていて、愛行の中で一番尊いものが相手に生長の家の真理を伝える事であると教えられている。だが、日常生活の中でこれを実行するのは中々大変で勇気と忍耐の要る事であるのは言うまでもない。

 こういう時、これも生長の家の教えだが、小さい事からやって行く訓練をしたらいいのである。自分に出来る事で何でもいいから愛の行い、人の為になる行いをするのである。これが形から入るという事であり、こうした小さな愛行を地道に日常生活の中で重ねていけば、いつかは本当の心のこもった愛の行いをする事が出来る様になる。

 ところで私は生長の家をやって久しい。子供の頃から母親のお陰で生長の家のお祈りとか誌友会と言われる生長の家の信徒の勉強会にも親しんできた。そして、47歳に至る現在までお陰様で生長の家をずうっと続けさせて頂いている。
 私は青年期は生長の家青年会に入り、その組織活動もして来て、どちらかと言えば、愛行はベテランであると思っていた。自分の時間とか資金を人類光明化の為に捧げるという愛行がもう習慣づけされているから自分は愛行が完全にマスター出来ていると思っていた。

 しかし、私は割合最近、自分がひどい利己主義者で我が儘であるという事を発見した。お恥ずかしい話だが。
 その経緯についてはちょっと人前でとても発表出来るものではないので省略させて頂くが、ともかく私ほど自分の事しか考えない人間はいないと心の底から実感し、反省したのである。

 しかし、その瞬間から私の愛行というものが形だけのものではなく、本物になって来たと思う。というのは以前は人の手伝いをしなくてはならないという時、人を助けなくてはならないという時は心の底から本当に悦んで、自発的にやっていたかというとそうでもなく、そうしないと世間体が悪いから、そうするのが筋だからという感じで愛行していたと思う。

 しかし、私が自分が利己主義者で自分の事しか考えていない人間であったと如実に実感した瞬間というのはやはり、私の自覚が変わった瞬間だったのだと思う。
 私は口では自分と他人は神において一体だから他人に対する愛行が大事であると唱えてはいたが、それが本当の実感とはなっておらず、心の奥底からの実感ではやはり自分は肉体であり、個体であり、自分と他人はバラバラな存在であると信じていたから、自分だけの事を考えていたのだと思う。

 でも私の中の悟りが進み、真に自分が神の子であり、自分と他の人達は神において一体であるという悟りが出て来たから、それまでの自分が利己主義者であったと実感出来たのだと思う。
 そうすると今まで日常生活において、人助けとか人のために動く、働くという事が本当はやりたくないが、仕方がないから、世間体があるからという事でやっていたのが、人の為に働く事がごく自然で悦びの中で出来る様になって来た。
 これが本当の「愛行」であると思う。「愛行」は本当はつらい行ではなくて楽しいものであったのである。人に笑いかけ、親切にするのが真の悦びとなり、人の成功を我が事の様に悦べるのがごく自然に出来るのである。
 そしてそういう生活こそが心の底から楽しい、嬉しい生活である。利己主義の頃は常に不安で心が平和でなく、他人が伸びるのがつらくて仕方が無いものである。
 生長の家の聖典「生命の実相」に書いてあるが人間は自己の本性が悦びそのものだから、それが解放されて来れば、悦び一杯の生活になるのであり、人間の本性というものは神において他の人達と自他一体であるから真に自他一体を生きた時、魂が解放され、心の底から悦べる生活になるのであるとある。

堀 浩二 
by koujihori | 2006-07-27 13:30 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

赦すということ(2)

 私はけっこう、かんしゃく持ちである。昔から正義感が強く、人として道を外れた事をしている人がいると相手が誰だろうとどなりつけたりする所がある。

 ところで私が一番嫌いなのが待たされるという事である。私は時間というものはお金より遙かに価値があると思っているので、時間を無駄にすることが大嫌いである。だから、私はどこに行くにも英単語帳とか色々な本を持ち歩いてちょっとの待ち時間でも英単語を覚えたりして時間を無駄にしない様にしている。

 だから納得できない事で人を待たせる様な人が私は赦せなかった。先日も仕事でハローワークに行った時、約1時間も待たされたが、その時のハローワークの事務員の処理が非常に要領の悪いものに感じられて言葉にこそ出さなかったが非常に憤慨した。
 また会社内で必要な書類をいつまでも提出して来ない社員に対しても心で責める様になっていた。
 でも、そんな事だと自分が一番、心に平和がないのである。人を赦せず、憤っているのは自分が一番苦しい。

 私は「他人は他人」といい加減に済ませないたちだからこうであったと思う。しかし、先日、私はある事を反省した。
 それは私が代表を務めている野球チームの事であるが、今度の日曜日にリーグ戦の試合予定が入っていたのでメールでメンバーに連絡した所、その内の一人がメールで連絡して来て、今度の日曜のその時間はソフトボールの練習試合が入っているので野球チームの殆どのメンバーが出場出来ないというのである。
 野球チームのメンバーはそもそもPTAのお父さん達のソフトボール大会のメンバーで結成したのであり、その後はメンバーの多くは野球もやるが毎年、8月に行われるソフトボールの大会に出ていて、現在は私とは違う人がソフトボールのチームとしての活動を運営しているので、私が知らない所で野球のリーグ戦の試合時間と同じ時間にソフトボールの練習試合が組まれていたのであった。
 それを知らない私は野球の試合の連絡をメンバーにしたのであるが、その時間は野球チームのメンバーが殆どソフトボールの方に行ってしまうという事を知らされた私は誰にも相談しないで即、今度の野球の試合を我がチームの不戦敗という事に決定し、メールでチームのメンバーに連絡した。今度の日曜が皆の都合が悪いなら、不戦敗ではなく、延期という事で相手チームとも話し合って新たな時間と場所を決めて再試合するという選択もあったが正直私はそんな事をするのが煩わしかったのである。
 というのは私は野球の他にも生長の家の活動とか色々やっているので、そんな事にかまけていられないと思ったのだった。普段なら、チームとして何か決める時はチームの幹部の意見を十分聞いてから決定するのだが、忙しくてこれ以上手を煩わせたくないと思った私はすぐに不戦敗を決定してしまった。

 しかし、その後、あるメンバーから「不戦敗ではなくて試合の延期という事に出来ないか」とメールで言って来た。
 「オレの忙しさも知らないで勝手な事を言うな」と思った私はすぐにその相手にメールで「現在はグラウンドを取りにくい状況だから、延期して再試合するという事は難しい」と回答した。

 しかし、翌朝よく考えてみるとこれはいつも私が他の人に対して憤慨していた事をそのまま自分もやっているなと気が付いた。
 私は組織の管理者や長たるもの、独断でものごとを決めないで、その幹部達の話、意見をよく聞いて決断しなくてはならないと思っていて、組織の長でありながらそれをしないで独断でどんどん勝手に組織の全体の事を決めてしまう人を常に心で非難していた。
 私は忙しいから煩わされたくないからという理由で自分が普段、非難していることを自分がやっている事に気が付いたのだった。私は野球の代表を引き受けているからにはそれをいい加減に御茶を濁す様な事ではいけないと思った。やるなら徹底してやらなくてはならないと反省した。

 そして、私は普段非難している相手は正に自分の欠点を映してくれる鏡であったという事を実感したのだった。
 その時、私は初めて、今まで心で責めていた人達を赦す気になったのである。赦すという事は相手に怒りたい気持ちを無理に抑え込む事ではなく、相手と自分は別物ではない、一つのものであったという自覚が芽生えたとき初めて本当に赦せる様になると思う。

 自分が非難していた相手は具体的に悪い人ではなかった。自分と一体であり、自分を映してくれる鏡であったと気が付いた時、心の奥底から相手を赦せるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-07-26 10:01 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

真の愛行とは

 生長の家では「愛行」という事が強調される。愛行とは文字通り、愛の行いである。思いやりとか愛情を実行するのだ。

 大体、愛とは何かと言ったら、単なる「好き」という感情とは違うと生長の家では教えられている。生長の家創始者谷口雅春先生は「リンゴを好きという心はリンゴを食べてしまって、その味覚を楽しみそれを好み、後はそのリンゴの皮と芯を捨ててしまう様な心である」という絶妙の例えで、単なる「好き」という感情は極論すれば、この様な事であり、それはある男がある女を「私はお前が好きだ。」という場合はその女の肉体が単に好きだという事であって、それを抱いてセックスした時の肉の感触が単に好きであるという事と同じであるとお教え下さっている。

 だから、単に相手を好きであるということは極論すれば相手を自分の肉体的快楽の為に犠牲にしたいという考えであるのである。

 それに対して愛するという事は相手の幸福をひたすら願い、相手に対して思いやりを持つという事であり、時として相手の為に自分の生命を投げ出し得るという事である。それを実行したのがキリストであり、また大東亜戦争末期の日本の特攻隊員達である。
 キリストは人類の為に自らの身を捧げ、特攻隊員達は国の為に身を捧げた。それは犠牲になったのではなく、自分と他の人々または祖国というものが本来バラバラでない一つのものであるという自覚から来る感情であり、その様な自他一体の自覚を愛と言うのである。そしてそれを実行する事が愛行である。

 ところで生長の家では冒頭でも申し上げたが、この「愛行」を実践する事の重要性を説いている。それで最も尊い愛の行いであるのは他の人に生長の家を伝えるという事であると説いている。

 しかし、ともすればこの愛行というのを生長の家の人は他の生長の家を知らないで救われていない可哀想な人達を救う事であると思っているようだ。
 他人に思いやりを持ち、愛を行ずるという事は他人を不完全な救われていない可哀想な人達と思ってこれに同情して、救う事ではない。そんなのは憐憫愛と言って、真の愛とは異なる。
 これも谷口雅春先生の教えだが、相手に同情する憐憫愛というのは相手を却って堕落させ、不幸にするのである。
 真の愛情というものは何かと言ったら、それは自分と他人は本来神において一体であるという悟りであり、神は完全円満のものであるから、相手を完全円満のものとして尊敬するという事である。それが真の愛であり、その心を実行する事が真の「愛行」である。
 
 従って、人類はまだ救われていない人が多くて、それに同情して哀れんでそれを救う為に相手に生長の家の真理を伝えましょうというのは単に憐憫愛であって、真の愛行ではない。
 真の愛行とは現象はどうあろうとも実相においては今、ここが完全円満の神の国であって、自分も他人も全ての人も始めから救われている完全円満の神の子であったという自覚から来るものでなくてはならない。

 ここがこのまま神の国であり、自分が今、そのままで完全円満の神の子であったという事を今、遠慮無く悦び、その悦びの中から嬉しくて魂が発動する時、真に今に集中し、それにより真の心のこもった仕事が出来、また他人に対しては常に行き届いた心で思いやりの行動をする事が出来るようになるのである。その結果、相手に真に悦ばれ、時期に応じて自ずと自分の中の神様から相手に生長の家の真理が伝えられる事になる。

堀 浩二
by koujihori | 2006-07-24 09:41 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長

ものごとをする上で努力が大事であるというのは言うまでも無い。しかし、いくら練習しても努力しても全然進歩しない事がある。練習とか努力をすれば、上達すると思うから練習するのであるから、上達したい、スポーツの試合などで勝ちたいと思っている人は当然、練習に励むのである。
 しかし、以前もここでちょっと紹介した事もあるが、余りに練習をし過ぎるのもオーバーワークと言って、却って本番の試合で良くない結果になる事がある。ボクシングの世界ジュニアミドル級元チャンピオンの輪島功一選手も、柔道の井上康生選手も素晴らしい努力家であり、それが為に余りに練習をし過ぎて、オーバーワークになって大事な試合で負けてしまった事がある。
 
 そういう人は試合に対する不安、恐怖があり、練習に励む事でそれを払拭しようとするのだと思う。つまり自分はまだ駄目だ、まだ力が無い、だから練習をしてもっと強くならなくちゃいけない、今は弱くても練習すれば、強くまたは上手くなるだろうと何となく思っていると思う。
 しかし、実は我々は自分の練習や努力を重ねる事で徐々に強くなったり、上手くなったりするのではない。

 練習や行に励む事により良くなったり上達するのではなく、練習したり、行に励む中から、自分の中にある日、突然本物を発見するのである。そうなるとぐっと実力が上がる。それが上達という事であり、生長という事である。
 練習や努力や宗教で言うなら行を積むという事は大事であるがそれでろくでもない力のない自分が徐々に力をつけ、よいものになると思うのは間違っている。
 そうではなくて、たぬまぬ努力をして行く中である日ふっと自分の中に本物を発見するのである。それは練習とか努力なんて事で良くしていかなくても始めから完全円満のものである。それを我らの実相と呼び、内なる神というのである。それを発見すると格段に上達する。
 
 だから、ものごとの進歩とか上達というのは毎日の練習をする中でスロープ的に徐々に進歩するのではなく、いくら努力しても全然進歩しない状態が続くがある日、突然格段に進歩するという階段的な進歩するのである。

 その中で自分が練習などしなくてもそのままで完全円満であるという事を発見する。そうなると却って自ずと練習や行をしたくなる。それが我が内の神による自ずからなる発動、行である。それは自分は駄目な、弱い自分であると見て、それを良くする為の練習や努力ではなく、自分の中の始めから完全円満の神の生命、即ち実相が自分で出て来て、自分で嬉しくて活動する事による自然な練習となる。

堀 浩二
by koujihori | 2006-07-18 09:35 | 信仰 | Trackback | Comments(1)

パートナー

 私はテニスが趣味であり、週三回は仲間と練習したり、ゲームしたりしている。こうしたテニス仲間とのゲームは殆どがダブルスである。ダブルスだと当然パートナーがいるのだが、強い人と組めば、当然勝率も上がるが逆に弱い人と組むとやはり勝てない。
 
 当然といえば、当然なのだが、以前の私はダブルスの試合をしていて、パートナーが凡ミスをすると口では「ドンマイ、ドンマイ(気にするな)」とは言いながら、内心穏やかではなく、「自分がこれだけ、頑張って球をつないでいるのに何故あんなイージーボールをミスするんだ、お前の為に勝てないじゃないか」と心でパートナーを責めていた。
 それでゲームに負けて、組替えして、また次の試合をやるとさっき自分と組んで、散々しょうもないミスをした人が今度は私の対戦相手になった途端、凡ミスを殆どせず、逆に素晴らしいショットを決めて来たりして、また私のチームが負けてしまうなんて事もよくあった。
 そうなると何故この人は自分と組んだ時は全く駄目なのに自分の対戦相手になった途端、力を発揮するのだろうと不思議に思った。自分個人としてはそつなくプレーしているのに自分はパートナーに恵まれないから勝てない、同じ人でも不思議と自分と組んだ時は駄目になると思う事がよくあった。
  
 この様にテニスのダブルスの試合ではパートナー同士で険悪な雰囲気になるとまず百%勝てない。お互いパートナーが悪いと思っているか、責められた方が萎縮してしまって、本来の力を発揮出来ないからである。
 これは個々人が全くの別物と考えて、自分さえちゃんとしていれば自分はいいのであって、ダブルスでチームとしての成績が悪いのは自分のせいじゃなくてパートナーのせいだと思っているからである。
 しかし、人間は肉体は見てのとおり、各自バラバラであり、分かれているが、実は心の世界、魂の世界では神において一体のものである。それが人間の実相である。だから、パートナーは自分であり、自分はパートナーである。自分はちゃんとしているがパートナーは駄目だなんて事はあり得ないのである。
 だから、パートナーの責任は自分の責任であり、自分の責任はパートナーの責任である。そして自他は神という完全円満の大生命において一体であるから、私もパートナーも本来完全円満である。それを自覚してパートナーを卑下しないで尊敬すれば、パートナーも自分も十分に力を発揮出来るのである。

 だから、日常生活でも仕事をする上でもパートナーとか相手を駄目なバカなやつだと思っているとこちらの力が出ないのである。相手を神の子と思って尊敬して、仕事もスポーツもやるべきである。
 
堀 浩二 
by koujihori | 2006-07-13 09:41 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)

神様とつながる事の大切さ

 私は母親の影響で生長の家の信仰に幼い時にふれ、生長の家のお祈りとか生長の家のお経である「甘露の法雨」などに子供の頃から親しんできた。
 そして、高校生になってから生長の家の高校生練成会に参加し、その後、生長の家青年会に入り、現在に至っている。
 その間、創始者の谷口雅春先生が昭和60年にお亡くなりになって、その後、二代目の谷口清超先生の代になり、現在は三代目の谷口雅宣先生が副総裁として全国で行われる講習会などの御指導を中心に実質的に生長の家の組織の運営に当たっておられる。

 しかし、代替わりする度に何だかんだと難癖を付けて、生長の家から離れる人がいる。その理由は二代目の谷口清超先生や三代目の谷口雅宣先生の運動のやり方、説き方が創始者の谷口雅春先生とは違うからという事らしい。しかし、信仰の運動というものは神髄とその具体的表現、展開とがあり、神髄は永遠不滅のものとして一貫しているが、その表現や展開は時代時代によって、自由自在に変化して行く。 生長の家の組織の中心者が代替わりして、その真理の展開の仕方が時代に応じて変遷した場合、真理の展開の仕方自体が真理そのものであると思っている人達は真理そのものがねじ曲げられたと勘違いして、生長の家を離れるようである。これは誠に残念な事である。

 しかし、何故こんな事になってしまうかと言うと、それはひとえに神様を第一にしよう、神様の御心に耳を傾ける事を第一にしようという純粋な信仰姿勢が欠落しているからであると思う。人間は神の子であるから、神様と離れる事は実相の本当の世界においてはないのであるが、それを悟っていないと現象的に神様と離れる事になる。

 そんな人が生長の家から離れていくと思うのである。生長の家の本の「菩薩は何を為すべきか」には「生長の家の信徒は神意につくべきであって、決して人についてはならない」という事が書いてあるが、こういう生長の家から離れる人は真理、神を第一にしているのではなく、正に現象の人間、例えば自分を指導してくれた何々先生とか誰々さんにつき、その人が生長の家をやめたと言ったら、芋づる式に自分もやめてしまうのである。
 こういう現象人間につくから現象、言い換えれば真理の表現、展開の仕方にもつくのである。

 私は普段殆どこの手のサイトは見ないのであるが先日、たまたま私の文章が紹介されたサイトがあると知人から教えてもらったのでそのサイトを覗いてみると、現在の生長の家を自分の勝手な判断で好き勝手に批判する数々の匿名の文章が書かれているのであった。
 それは一見もっともらしいような文章もあったが、何かが違うという事が私には直感的に分かるのである。それは神様につながっていないという事である。
 こんなのを所謂、外道というのだろうが、一見理路整然としてもっともらしいのだが、私が見るにこれは偽物であるという事が分かる。いくら頭脳明晰みたいでもっともらしくても神様につながった智恵に導かれていないととんでもない間違いを起こす。

 私は以前、ある重要な事に関して独自の考え方を持っていた。独自と言っても、私は自分の読んだ本とか自分の周りの人の意見を鵜呑みにしていた事を自分独自の考えと思っていたのではないかとも思うのだが、ともかくある自分の意見を持っていたし、同じ考えの人達の集会にも参加した。
 しかし、生長の家副総裁谷口雅宣先生の御文章により自分の考え方の間違いを自ずと修正する事が出来た。今となっては自分が以前に何故あんな考えを持っていたのだろうと不思議な位だ。

 でも、昔、生長の家にいたが、生長の家を離れて行った人の中にはまだ私が一旦陥った重大な間違いを正しいと信じている人が沢山いるのである。その人達と私の違いは何かと言ったら、神様とつながっているかいないかの違いだけなのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-07-12 09:54 | 信仰 | Trackback | Comments(1)

天国への階段

 私は生長の家の信仰を持っており、人間は神の子であり、この世界は現象世界で本当には存在する世界ではなく、その奥に完全円満の実相世界、神の国があるという事を信じている。
 そして、この現象世界は我々人間の心が映っている世界だから、我々人間が心を整え、実相世界の完全円満さを観て、それを実行する訓練をして行く中で心が歪んだ状態から真っ直ぐな迷いの無い状態になり、その結果、実相世界の完全円満さが現象世界にも投影して、幸せになり、健康になると思っている。

 だから、心を真っ直ぐにする為に常に良い念を持ち、人を赦し、感謝し、そして、その自覚を常に生活の中で実行しなくてはならないと思っている。そうする事で心の迷いが無くなって行き、心が清まり、そうすると心の影である肉体も完全なもの、健全なものになって行くと信じている。
 従って、生活の中で常に心を平静にし、人に感謝し、間違っても、切れたりしない様にしている。

 しかしながら、この様にしようと心掛けても、どうしても生活の中で心を乱し、人の欠点が目につき、いらいらしてたまに切れてしまう事もある。そんな時、今までコツコツと積み上げて来たものが一挙に瓦解し、自分は取りかえしのつかない事をしてしまった、心を乱してしまった、それにより自分の肉体や心を傷付けてしまった、又は人をも傷付けてしまったと後悔し、悩む事がある。

 しかし、これは間違っているのである。何故ならば、それは自分と実相世界即ち天国というものを別物と考えて、実相世界、天国に至るまでにはコツコツと自分を清め、高め上げ、一つ一つ天国への階段を昇って行く事でやっと何時の日かそのあこがれの天国に辿り着けるだろうと思っているからである。そんなのは今、既に自分が神の子であり、完全円満であり今、このままで既に自分は神の子として実相世界、神の国にいるのであるという生長の家の教え、神髄とは異なる。

 それはバベルの塔の考え方である。人間が一つ一つ積み上げて行って、バベルの塔を作り上げて行って、遂に天国に到ろうというのがその考え方であるが、そんなのは人間の我(が)の傲慢であると神からの怒りを買い、バベルの塔は打ち砕かれてしまったのである。

 傲慢というのは人間の我(が)であって、それは自分は肉体であると思い、それを少しずつ積み上げていけば神に至るであろうという迷いが我(が)であり、傲慢である。それは迷いであるから非実在であるから、神という実在により破壊される(本来の非実在とされる)のである。

 そんな我(が)の一歩一歩の努力など天国に至る直前に瓦解し、我(が)は天国に至る直前の階段からすべり落ちて奈落の底に転落するのである。それが迷いが破壊される事、本来非実在であるという事である。

 我々は神の子であり、今、ここにある完全円満の神の国、天国に正に今、いるのであり、住んでいるのである。だから、我々は現象はどうあろうとも今、そのままで完全円満であり、無限力であり、無病であり、愛溢れる素晴らしい存在である。そして悩みや問題もたった今何もナイのである。
 これから天国に到る必要は無いのである。如何なる病人もけが人も悪人も力のない駄目な人間もそれを悟れば今すぐ、健康となり、善人となり、無限力を発揮する事が出来るのである。

 先日も会社から帰宅して、私が冗談で妻に軽口を叩いたら、妻がそれにからんで来て、なんだかんだと当たって来た。私は不愉快になり、妻を怒った。そして自分の部屋から出て来た息子も帰宅した私に対して何の挨拶もしないのでその時、かなり不機嫌になっていた私はその挨拶をしない事を強く叱りつけた。
 それから、楽しいはずの家族団らんの時間が暗い、険悪なものとなってしまい、後から妻に何故不機嫌だったかと聞くと、職場で事件が起こって心労していたからだと言うのである。そうなるとこれはやはり、妻に仕事を辞めてもらった方がいいのではないかとか色々考えたし、息子の反抗的な態度も多少気になった。

 問題山積みたいに見えるが、それは私の迷いなのである。私の家庭にはたった今、何も問題が無いのである。問題があるみたいに見えるのは単に私が心が歪んで問題ありと思う迷いが映っているだけである。何も問題のナイ天国浄土は今、ここにあり、我が家は今、そのままで天国浄土で私の妻も息子もそのままで素直ないい子なのだから、全て神様に任せて、この家庭の問題を良くしよう、妻の問題を良くしよう、息子を良くしようなんて考えないで良いのである。

 それが今、自分がそのままで完全円満の神の子であり、今ここが天国浄土であるという自覚である。そうする中、私の心の通り妻は元の明るい妻となり、息子はいつもの素直ないい子になっていたのである。
 問題は始めから何も無く、今、ここがそのまま天国、極楽浄土であった。

堀 浩二
by koujihori | 2006-07-07 09:42 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

今、与えられた問題は必ず解決出来る問題だけである。

 私は地元の草野球のチームの代表をやっている。地元のPTAのお父さんが学校対抗のソフトボール大会をやったのがきっかけでその時のソフトボールの仲間が野球チームを作ろうという事で、結成されたのである。

 その時、ソフトボール大会でチームのキャプテンをやっていた私が必然的に野球チームでも代表になったのであるが、私は生来それほど野球が得意ではないので主にマネージャー的に人集めとか、相手チームとの折衝とかの役目をしている。

 野球チームは地元の早朝野球のリーグに入っており、大体毎年、5月から10月位まで日曜の早朝6時試合開始でリーグ戦を行っている。リーグは我がチームを含め、5チームが加わっているが、審判はお互い、その時、試合予定のないチームが担当する事になっている。私はチームの代表者であるから、人より率先してこの他チーム同士の審判に行かなくてはならない。

 でも、私は大学の時に野球同好会にいた時から感じていたのだが、審判というのは自分が試合するより遙かに緊張するのである。
 他チームの野球のうまい連中同士のしかも大事なリーグ戦の勝敗がかかった真剣な試合の審判をするというのはそれほど野球に自信のある方でもない私に取って、かなりのプレッシャーになる。
 きわどいクロスプレーなどちょっとでも間違った判断をしようものならただでさえ試合で気が立っている選手はたちまち激高して来る。野球の審判は主審と塁審というのがあるが、主審は野球を熟知している人がやってくれるので私は塁審をやり、ランナーがアウトかセーフかの判定をするのだが、余りに緊張するとその判断が出来なくなってしまう。

 だから、3年前に大学以来20年ぶりに審判をやった時、あまりの緊張感に判断力が全然無くなってしまって、あきらかなアウトをセーフとコールしてしまい、選手達からひどく抗議を受けるという大失態を演じた。
 それから、私は野球の審判をするのが恐ろしくて仕方が無くなってしまったが、とにかく審判の練習しようとテレビの野球の中継などでアウト、セーフの判定をする練習をした。

 その後も立場上、他のメンバーより率先して審判をやらなくてはならない私は何度か審判をやったが、練習などしてもどうしてもうまく出来なかった。しかし、私はこれは必ず神様が自分に大事な事を教えてくれていると思った。
 私は根が非常に真面目で責任感が人一倍強いから、完璧に絶対に間違いなく判定しなくてはならないという気負いが強過ぎたのである。しかし、そう思えば思うほど、正常な審判の判断が出来なくなってしまうという事を発見した。

 余りに自分がやろう、うまくやろうという心が強くなると却って、自分の本来のそのままの自然な力を自ら栓をする事になってしまうのである。
 それから、私は普段の生活の中で何事もきちんと完全にうまくやろうという気持ち、良くしようという力む心を捨て、力を抜いて、出来るだけ自然体でそのままでいようと心掛けた。それは力みを取るという事であり、現象や自分の肉体やその他、物質的な事に執着する心を捨てる事だから、一種、捨て身的な心境であり、ちょっとそれをするのは勇気が要ったが、それでも一念発起して、捨て身の心、何かうまくやろう、巧もうと力む心を捨てる訓練を日常生活の中でしていった。

 そして、今年も野球のシーズンとなり、昨日の7月2日が我がチームの審判担当日になっていたから、私は三人の仲間と共に試合会場に赴いた。
 私は一週間位前から昨日の審判の日が気に掛かり、憂鬱な気持ちになり、出来れば逃げ出したいという気持ちになった。しかし、生長の家の教えで「今、自分が与えられた問題は全て解決可能な事だけである。」という事を思い出した。
 自分が3年前に審判した時に失敗して得た教訓通りに日常生活で自分のメンタルトレーニングをして来たんだから、必ず今度の審判は出来るんだ、自分がやるんじゃなくて自分の中の神様がやって下さるんだと自分に言い聞かせ、昨日の審判に臨んだ。

 昨日の試合では私は三塁の塁審をやったが、一回裏でいきなり三塁にランナーが盗塁を試み、飛び込んできた。キャッチャーからは鋭いボールがサードに送られて来て、ランナーにタッチするというクロスプレーとなった。
 きわどいタイミングだったが、私はアウトと判定した。それは冷静な正しい判定だった。それから、試合終了まできちんと審判の仕事をやり通す事が出来た。
 私は神様に感謝した。私が力まなくても私を通して神様がきちんと審判の仕事をしてくださったのである。以前の私は神様を信用せず、お任せせず、私がやらなくてはならないと余りに力が入っていた為に却って、それが私の本来の力に栓をしていたのだった。

 繰り返しになるが我々は如何なる問題でも、それはその時の自分に解決可能な問題しか与えられない。何故ならその問題を造ったのは自分自身であり、自分の中の神様が自ら顕現する為にその時の自分に丁度いい問題を自ら心の力で創り出すからである。

 だから、我々は如何に困難な事が出て来てもそれから決して逃げてはならないのである。それは逃げさえしなければ必ず解決出来るのだから。そしてそれを解決する事により一層今まで以上に我らの生命の実相の素晴らしさが顕現して行くのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-07-03 17:37 | スポーツ | Trackback | Comments(4)