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結果は神様にお任せする

 私は趣味が多い。それは再三、ここでご紹介しているが、テニスに始まり、会社の昼休みは卓球、そして地元では野球チームのまとめ役、そして、英会話等々。

 人間はその時、それがやりたいと思う事を素直にやるのがいいと思う。私は子供の頃は絵を描いたり、粘土細工をやったりするのがとても好きであったが、現在はテニスとか野球とかの球技をやりたくて仕方がない。それは多分、それをする事により、集中力が如何に大切かという事、そして人間の潜在能力がいかほどのものかという事を肌で学び感じたいからだと思う。

 ところで前回の文章でも書かせて頂いたが、人間は何をするにも集中力が一番大事だと思う。もちろんその前に自分を信じる事、自信が大事であるが。
 私はテニスとか野球とかの球技、そして英会話などのヒアリング(聴く練習)を通じて、集中力を持って訓練する事が如何に大事かという事を学んだ。
 集中しなければいくら練習してもざるに水を汲んでいる様なもので何の実りも無いのである。

 私は昔からせっかちですぐに収穫を求めるタイプであった。スキーを習い始めた時もスキーの技術を習得する為のステップをおろそかにして、すぐ滑れるという結果を求めすぎると友人から指摘された事もあったが、私はテニスをするにもその他、何をするにも過程というものを余り、重視せず、結果、収穫というものをせっかちに求めるタイプであった。
 だから、テニスなどの試合でも試合に勝つという事が全てでそうした試合の結果を良くする事をせっかちに求めたのである。試合の結果だけではない。テニスの技の習得という事にも執着を持っていた。試合でサービスがうまく打てないとそれに引っ掛かり、完璧なサービスの打ち方を習得する事に執着して、それに引っ掛かり、ああだこうだと頭を悩ました事も良くあった。

 今、目の前の事をおろそかにし、くさくさと考え込んでいたのであった。しかし、それはものごとを自分の思い通りの状態に何でもしておきたいという我(が)であった。
 そんなこんなで過ごして来たが、自分の取り組んでいるテニスとか英会話がちっとも実力が伸びず、それどころか却って、下手になって来て、どうにもならない状態になったが、私はふとしたきっかけで、自分が我(が)が強く結果ばかりすぐに求めていたのが良くなかったと気づいた。そして、今、目の前の事にひたすら集中して、おのれを全て目の前の事に捧げて、結果は神様にお任せするのがいいと悟ったのだった。
 テニスとか卓球などの球技では一つ一つその場でやるべき事を基本通りきちんとやる事に集中してやっていけば、結果的に効果的なスマッシュとかサーブを決める事が出来て、その集積としていい成績を残す事が出来る。

 この様にものごとというのは性急に結果を求めないで、今目の前の事を心を込めてやる事が大事なのである。
 ところで善人というのはこの世の中を良くしたい、可哀想な人を救ってやりたいと思って、一所懸命、色々やるが、そうした事を全て自分の両肩に背負ってやって行くとしまいにはつぶれてしまう。
 この世界、この全宇宙を完全に運行せしめているのは宇宙に遍満している完全円満なる神様である。宇宙全体の働きというのは自分というちっぽけな肉体人間、我(が)では針の先ほども変える事の出来ないものである。
 全ての全てはただ神の働きである。神の営みである。我々は今、こうして生きるのも神に生かされているのである。可哀想な人達が救われるのも神様が救って下さるのである。全ての不幸は神様が消して下さるのである。自分という肉体、我(が)では何事も為し得る事は出来ない。
 私がテニスをするのも英会話をするのも何もかも私がしているのではなかった。だから、私が我(が)で強引に結果や技の習得を求めて、やるのではなく、結果は神にお任せして、私はひたすら今、目の前の事に心を込めて、全力を尽くせば良いのであった。
 英会話で相手の話を理解するのもただ、相手の話を全神経を集中させて、一言一句聞けば、結果として自ずと相手の話が頭に残るのであった。テニスなどのスポーツも勝つ事とか、技を習得する事などそうした収穫、結果をすぐに求めるのではなくてボールなど今、目の前の集中すべき事に集中して、やるべき事にひたすら一所懸命やることが大事なのであった。
 その他全ての事も今、目の前の事にひたすら集中し、心を込めて、丁寧に扱えばいいのだった。そして、結果は神様に全てお任せすれば良いのでった。
 それに気が付いた私はあらゆる事に以前とは格段の差で力が発揮出来る様になったし、記憶力も判断力も上がってきたと思う。それに何よりも神様に生かされているという大安心と満腔の神様への感謝が以前にも増して湧き出て来るようになったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-08-31 22:44 | 潜在能力 | Trackback(1) | Comments(0)

集中力

 私は英会話をやっている。英語には読む能力、聴く能力、話す能力、書く能力があるが、私が一番苦手だったのが実は聴く能力である。英語を聴く練習をヒアリングというが、私はこのヒアリングを英会話の勉強を始めてからこの14年の間、毎日訓練して来た。でも、英会話学校の仲間と比べて、自分は英語を聴く能力が劣っていると感じていた。
 でも何故、これほど毎日訓練しているのに伸びないのだろうと思っていた。

 ところで、私は子供の時から、余り授業を聞いている方ではなかった。先生の言っている事を聞いて勉強するよりも、自分だけで参考書を買ってきて勉強する方が頭に入ると思っていた。
 また、小学校の給食の時などは人より早く食べるのが偉いと思って、良く噛みもしないで飲み込む様に食べていた。
 しかし、それらは今、目の前の事を味わい、集中し、今を生かすという生き方ではなかった。私はそうした考えが改まないまま、その後、色々な事に挑戦した。野球やテニスもやったし、英会話も先に述べた様に14年前からやっている。

 私はコツコツと色々努力はしていたが、それが余り実を結ばず、それどころか段々力が低下していたのだった。私は練習はしていたが、それは今、目の前の対象に集中し、充分味わうというものではなかったのである。
ただ、数多く、練習していれば、上手くなる、上達すると思っていたが、そのやりっぷりは全然集中したものではなかったのである。いくら練習しても、今、目の前の事に集中しない練習は穴だらけの風呂桶に一所懸命お湯をくんでいるようなものであり、目隠しや耳栓をして、テニスの練習や英語を聞く訓練を繰り返しているようなものである。
 そんな動作を繰り返した所で上手くなるどころかやればやるほど下手になるのは自明の事である。

 しかし、私はある時、こつねんと自分の長年に渡る到らない点に気が付いたのだった。それは息子とテニスの試合をしている時だった。
 テニスではサービスを相手のサービスエリアに入れなければならないがそれまでの私は入るかどうかはボールに聞いてくれという感じのサービスを打っていた。サービスはボールをうまく順回転させる事が出来れば、確実に入れる事が出来る。その為にはボールの表面をラケット面で効果的にこすり打たなくてはならない。その為にはボールがラケットのガットにインパクトする瞬間まで凝視しなくてはならない。私はそれまでその当たり前の事をやっていなかったのだった。そして、その事に如実に気が付き、それをきっかけとしてテニスの様な球技ではボールによく集中しなくてはならないという事を肌で学んだのだった。
 それを境に私はテニス以外のあらゆる事において、今、目の前の事に集中していなかった事に如実に気が付いたのだった。努力している割に却って実力が低下して来たのはその為であった。
 テニスだけでなく、英会話で相手の言っている事が良く分からないのは相手の一言一句に集中していないからであるという事も分かって来た。

 コツコツと人知れず、地道に訓練する事も大事であるが、何より大事なのは集中力である。人の話も集中して聞いておれば、よく頭に入るし、球技などもボールに集中しておれば、うまくボールをコントロール出来る。集中しておれば、よく目の前の事、周囲が見えて来るから、判断力も自信もつき、能力が発揮出来る。

 私はその事に気が付いてから、英会話でも相手の話が以前に比べて、格段に聴き取れるようになったし、テニスなどのスポーツなどでも以前より遙かに力を発揮出来るようになったのだった。

堀 浩二 
by koujihori | 2006-08-22 18:35 | 潜在能力 | Trackback(1) | Comments(2)

肉体に引っ掛からない

 人間は表面的には肉体であり、物質であるが、その奥には霊なる魂がありそれは神の子であり、肉体の状態はどうあろうとも、その奥の霊なる本体は完全円満、無限力である。完全円満であるから永遠不滅であり、肉体は単なる我らの完全円満なる霊なる本体の道具であり、表現体に過ぎない。

 真の信仰とはその人間の実相、即ち人間とは死すべき肉体ではなく、その奥に肉体を超えた完全円満な神の生命を宿しているという真理を人間に悟らしめる為のものである。それ以外の信仰は全てにせものと言っていい。

 ところで我らは本来神の子完全円満であり、そのままであれば、能わざる事無しの無限の力を発揮しうる。しかし、我らがそれを悟らず、単に自分の事を肉の塊に過ぎないと自覚していれば、その自覚した通りの力しか出せない。
 そして、本来無限力なのにその力を発揮し得ない所が色々の人生上の問題とか肉体の病気とかになっている。
 そして、胃の病気の人は始終、自分の胃に心が引っ掛かっている。心臓の病気の人は始終、自分の心臓に心が引っ掛かっている。その様に病気の人は常に自分の肉体の病気の臓器、胃とか心臓の事を考えていて、もっと悪くなりはしないかと恐怖している。しかし、我らの肉体は我らが肉体に気を引っ掛からせるとその力を発揮し得ないのである。
 我らの肉体は我らが肉体の事を忘れている状態が一番、その機能と力を発揮出来る。だから、この肉体、この臓器の病気を良くしよう、良くしようと肉体に引っ掛かるとますます病気は良くならず、力を失うばかりとなる。
 
 この世界は思った事が実現する世界であるから、肉体に完全にその本来の力を発揮させ、病気が治る為には自分が肉体ではなくて、完全円満の神の生命であるという事を悟る以外無いのである。
 何故なら、肉体というものはいくら健康に見えても、所詮、滅ぶべきものであり、有限であり、有限で滅ぶべきものというものは完全円満とは言えず、完全円満でなければ不完全という事になる。だから自分を肉体であると思っていれば、自分を不完全な不自由なものと見なす事になり、そうなると長い目で見て、いずれ力を発揮出来なくなり、病気になる以外ない。だから、肉体に引っ掛かっていると肉体の力を充分に発揮出来ないのである。

 肉体は今、如何なる状態であろうともそれは過去の自分の迷いの念、即ち自分は有限の肉体であると思っていた間違った認識の念の残像に過ぎないものであるとし、自分は霊なる完全円満なる神の生命であるという事を認め、その通りに行動すれば良いのである。
 肉体とか現象は変化するのにある程度の時間がかかるが実相の自分の本当の生命、神に生かされた霊なる存在というのは肉体や現象が如何なる状態であろうとも「今、即、既に完全円満、無限力」である。これから完全円満になるのではない。今、たった今、完全円満である。
 その事を自覚して、自分はこのままで今、完全円満であると悟って、今、その通り行動して立ち上がれば、その自覚通り、直ちに完全円満、無限力を発揮出来、肉体も健全となる。

 人間は肉体であり、肉体が滅べば、その人間という存在はこの世から消えて、無になるというのが一般的常識であろうが、その様に思っておれば、自分を不完全、不自由なものと限定する事になり、本来、人間は肉体を超えた自由自在の完全円満、永遠不滅の神の生命であって、そのままであれば、その力を発揮し得るのにその力を充分に発揮出来なくなる。
 だから、我々はどうしても人間は本来神の生命であるという真理をこの人生を通じて学ばなくてはならない。

堀 浩二
by koujihori | 2006-08-16 21:55 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

自信(3)

 前回の本欄で自信というのは漠然としたものではまだ、本物ではなく、自分の具体的な特性、長所を自分で発見した時、本物の自信となるという事を書いた。

 そして、自分の短所に引っ掛かり、そればかり見つめて、それを良くしよう、良くしようとしても却って駄目になるという事も書かせて頂いた。
 生長の家総裁、谷口清超先生もその事を強調されており、良いところを伸ばしていく事が大事でそうしているとそれにつられて悪いところも良くなって行くとご指導下さっている。

 それでは我々は具体的にどうしたらいいいかという事になろうと思う。自分の良い所、長所を伸ばして行けば、短所もいつのまにか良くなっているのなら、人間は自分の得意な事、好きな事だけやって、自分の不得意な所はまるで努力せず、それをするのをやめてしまっていいのかという事になるのではないかと思う。

 でも、そうなるとまた考え込んでしまうだろう。例えば私の場合は芸術方面に向いていて、スポーツに向いていないんだから、芸術的才能をのみ伸ばして行って、スポーツは一切やめてしまうのが本当ではないかなんて事にもなる。

 しかし、心配や考えすぎは無用である。我々はそのままでよいのである。そのままで今まで通り、自分に与えられた仕事を当たり前にやり、自分がやりたいと思う趣味とかスポーツを今まで通り当たり前にやっていったら良いのである。
 私が何故、不得意だと思っていたスポーツを20歳過ぎから始め、比較的自分では才能があるのではないかと思っていた芸術方面の事を殆どやらなくなって行ったかと言えば、それはやはり私の中の真の個性が花開く為に内側から欲した要求通りに動いたからだと思う。私はあえて自分としてはまだ才能が充分に開発されていないスポーツをする事により、それを通じて人間の潜在能力を充分に研究し、それにより私の真の個性である真理を皆様にこの様な場で研究発表するという事に寄与しようとしたのだと思う。

 だから、我らは考えすぎずとも今、何となくこうしたいという事、そして、自分に与えられた使命、仕事を素直に受けて生きていけば、それがそのまま自分の個性、特徴、長所を伸ばす事になるのである。

 それともう一つ。長所を発見し、それを見つめ、伸ばして行くという事は自分の長所のみやり、短所に関しては何もやらなくなるという事ではない。
 人間は自分の短所、苦手な事をやらなくてはならない時もあるのである。長所を伸ばすという事は短所に関して何もしなくなるという事ではなく、短所に引っ掛かって、それを良くしよう、良くしようとせずに自分の長所を見つめ、それを悦び、その特性を主に生かす働きをするという事である。それが美点凝視という事である。
 
 例えば、私の場合はテニスにおいて、グラウンドストロークが他の人よりも数段勝っていると思う。またボレーも悪くはない。だが、私の難点、短所はサービスである。以前の私はサービス以外の技は皆、自信があるからこの苦手なサービスを良くしよう、良くしようとして自分の短所に常に引っ掛かっていたのである。だから、それの為に大部、努力と研究を注いだが、努力をするという事はそれ自体はいい事だが、それが自分はこの事が苦手だ、短所だ、だから努力するという風にやっているとこの世界は自分の思った事が実現する世界であるから、自分がこの事が苦手であると思っているとその思った通り、いくらその事に関して努力しても一向にうだつが上がらないのである。

 そうではなくて、自分の出来ている所を先ず悦んで、それを認め、試合中もそれを生かす様な試合展開にして行ったら良かったのである。
 私の場合はグラウンドストロークとボレーが得意なのだから、その事を先ず、認め、そしてそれを悦び、そのいい印象を持って試合もやって行く事が大事だったのである。
 そして、いざ試合に入ったら自分のその特性を生かして、じっくりポイントを取って行けば、有利に試合を進められる。そうして行く内に気分も良くなって苦手だったサービスも段々良くなって行くのである。
 実際、昨日はそのやり方で強敵相手に5-5のドローの試合をする事が出来た。

 この考え方を他人に適用すれば、それは相手の光明面のみを観て、暗黒面を観ないという生長の家の信徒の行持要目に示された生き方になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-08-11 11:08 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

自信(2)

 8月2日の本欄で「自信」の事について書いた。それは自信というものは我々人間が生きていく中で一番大切なものであり、それの根拠は我々が肉体ではなく、その奥には神なる完全円満の生命が宿っているからであるという事を書かせて頂いた。

 ところで自分は神の子、無限力だ、だから何でも出来る、何か悪い事、いやな事があってもその自信があれば、へこたれないで頑張っていけるという信念を持つ事は大変大事な事だが、それが漠然としたものであると本当の自信になりにくいと思う。

 例えば何でも出来る無限力だというのは素晴らしい事であるが、それだけではちょっと漠然として抽象的な感覚ではないかと思うのである。
 私は子供の頃から余り、スポーツは得意な方ではなかった。ただ家に卓球台があったので小学生の頃から家で卓球に興じていたので私は何かラケットとかバットで飛んでくるボールを打つのは割合得意である。だから野球では割合、バッティングは悪くないし、テニスでもグラウンドストロークは得意である。でもそれ以外は総じて余り他の人に比べて、スポーツは得意な方ではないのである。
 しかし、私は幼い時から生長の家の信仰を持っていたので人間は無限の可能性を持った神の子であるという信念があったから、自分は苦手なスポーツでも頑張れば出来るんだと思って、大学に入ったら野球同好会に入って、野球を始めたし、それと平行してテニスも頑張った。テニスの方は今も続けており、毎日素振り練習もしている。

 しかし、こんなに頑張ってもスポーツでは他の人に中々勝る事が出来ない。いつも屈辱的な思いをするのである。
 それは人間神の子無限力と言っても、その能力を充分に開発して行く為には一代や二代の人生では足りず、何回も生まれ変わって、その潜在能力を磨きだして行かなくてはならないからである。私の前世、前々世それ以前の人生では私は余りスポーツの訓練が充分にされていなかったから生まれつきスポーツは得意な方ではなかったのだと思う。得意な方ではないから、子供の頃に余りそれに親しまず、だから余計にスポーツは得意ではないのである。
 私がスポーツを始めたのは二十歳過ぎである。それまで私の得意分野と言ったら、芸術方面、音楽方面に長けていたのである。子供の頃から絵や粘土細工はクラスで一番うまい方だったと記憶しているし、だから大学の時は野球同好会にも入っていたが、美術部にも入っていた。そして、私は自分で言うのも何だが、歌が非常にうまい。歌や音楽は一度聴けば、そのメロディーはほぼ憶えてしまう。それは私が子供の頃、姉が家で毎日ピアノの練習をしていて、それを来る日も来る日も聴いていたので絶対音感が身に付いたのだと思う。

 要するに私はスポーツはいくら頑張っても人と比較して駄目な方だが、こと芸術的方面、そしてやはりこのようなブログに書く信仰的方面では一日の長があると思う。そして、私のもう一つの長所は人を育て、組織を有効に機能させる経営的なセンスであると思う。
 それは組織を扱う事であるが何故、それが得意であるかと言ったら、組織は人であり、人に対する研究が基礎であり、それはまた同時に信仰にもつながるからである。信仰とは人間の本質とは何か、組織の中心は何かという事を研究して行くものであるから、信仰を極める事と組織論、育成論を極める事は殆ど同じである。だから私は信仰的センス、経営的センスに関しては一日の長があると思うのである。

 私の自慢話になってしまって大変恐縮だが、何故こんな話をしたかと言うと、人間の自信というものは漠然としたものでは駄目で、具体的に自分の個性、特性、長所を自覚した時に初めて、実感として本物の自信になるという事を私を例に上げて説明したかったからなのである。
 自分の短所、優れていない所に引っ掛かってそれを良くする事ばかりに関わっていると何時しか自分の長所を忘れ、長所さえもつぶれてしまう。私は無限力だから何でも出来るだろうと思って自分の短所をあえて開発しようと頑張ったがそれも良いがその事ばかりに引っ掛かって、自分の長所を忘れると段々自信が無くなって行くのである。

 私は私の長所、特性を自覚し、発見した時、初めて自信というものを具体的なものとして持つ事が出来た。本当の自信というものは自分の具体的長所、特性を発見する事で初めて得られるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-08-09 21:37 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

亀田興毅VSランダエタ戦について

 おとといの水曜日、横浜アリーナにおいてプロボクシングWBA世界ライト・フライ級タイトルマッチが行われた。前チャンピオンが王座を返上したので同級1位のファン・ランダエタ選手(ベネズエラ)と同級2位の亀田興毅選手(日本)により王座決定戦が行われたのだった。

 試合は判定となり、その結果、亀田選手が2-1のスプリットデシジョンで判定勝ちを収めたが、周知の様に試合の判定結果に関して、非常な物議をかもしている。

 第一ラウンドの終了間際、いきなりランダエタ選手の右フックを食らい、亀田選手はプロ入り初のダウンを食らう。そして中盤は幾分盛り返したものの11,12ラウンドでは再び、有効打を浴び、ダウン寸前のピンチになった。
 試合が終わった時、誰もが亀田の判定負けと思ったはずである。しかし、判定結果は意外にも亀田の勝ちであった。ジャッジはレフェリーを含め全部で三人であった。国籍はそれぞれフランス、韓国、パナマでパナマ人のジャッジがランダエタ選手の勝ちとしたが残る二人は亀田の勝ちと判定した。

 私もこの判定結果にびっくりしたし、観客もテレビ視聴者もボクシング解説者も皆、同様に驚いた事だろう。そして、この判定に疑問と怒りを持った視聴者がテレビ中継したTBSに抗議の電話やメールを5万件以上送ったと言う。
 ガッツ石松や輪島功一などの前世界チャンピオン達も判定に疑問を呈していた。今や日本中で亀田の判定勝ちに対してバッシングの嵐が吹いているという感じである。

 石松や輪島がそういうのだから、大方の人はやはりこの判定はおかしいと思うだろう。私もそう思った。でもインターネットニュースを観ていたら、やはり前世界チャンピオンである大橋秀行氏のコメントが目を引いた。それは今回の判定は皆がさわぐほど変なものではないというのである。
 というのは今回の試合の採点方法というのはラウンド毎に必ずどちらかに優劣をつけるラウンドアップ方式を採用しており、仮にダウンしたとしてもそのラウンドはダウンさせた選手が10-8で2ポイント差をつけられるが、仮にその次のラウンドでダウンさせられた方が頑張って、ちょっとでも有利なラウンドにする事が出来れば、その選手はそのラウンドを10-9とする事が出来、それを2ラウンド続ければ、ダウンの失点をカバー出来るのである。

 今回は初回に亀田がダウンしたが、その後の2~10ラウンドでは亀田はよく反撃に出て、亀田が10-9で取ったラウンドも少なくなかったのではないか。だが、最後の11,12ラウンドでは亀田は殆どフラフラの状態であり、これは文句なくランダエタのラウンドだろうが、ダウンはしていないので両ラウンドとも10-9の1ポイント差しかなく、そうなると印象とは別に冷静に試合のポイントを集計すれば、今回の判定の様な結果になったとしても不思議ではないという事になる。

 私は亀田選手やトレーナーである父親や弟たちに対するマスコミの持ち上げ方には常々反感を抱いていた。
 亀田などというまだ経験も浅い若いボクサーを周りでちやほやしてスターに祭り上げ、散々飯の種、金儲けの道具にしようという周りの大人達の根性が気に入らなかった。こんなのは本当に本人の為にならないと思った。
 亀田は一応、戦績はおとといの試合まで11戦11勝8KOの素晴らしいものだがその殆どはタイ人のアルバイト感覚のかませ犬ボクサー(若い有望なボクサーの踏み台として使われるボクサー)が相手であり、少しまともな相手とは2~3戦しかしていない。まだまだ経験不足、準備不足なのである。それを皆ではやし立て、おだてて、スターに祭り上げ、時期早々の世界戦を行わすなどと言うのは言語道断だと思っていた。

 だから、本当の世界クラスの相手は実はおとといのランダエタが初めてだったはずである。私はそういう状況が見えていたから、テレビで語られる様な楽勝ムードは全然持っていなかった。多分、負けるのではないかと思っていたのである。だが、試合が始まったら、やはり本気で応援した。こうなったら死ぬ気で頑張れと思ったのだった。
 
 だが、初回、終了間際に亀田はダウンを喰らい、恐れていた事が現実となってしまった。もう駄目だと思ったが、亀田はその後、2ラウンド以降中盤は盛り返し、終盤はまたやられたが、最後まで戦い抜いたのであった。
 私はよくやったと思った。初めて世界クラスの相手とやって、初回ダウンしながらも本当に最後までよく頑張ったと思った。当然負けたと思ったが、判定は前述の様な理由で幸運にも亀田に転がり込んで来た。

 亀田は辰吉丈一郎の様な天才ではない。努力型のボクサーである。初回ダウンしながらも12ラウンド戦えたのは並はずれた練習量に支えられたものである。
 そして、亀田の試合後のコメントに私は希望を見出した。それは「今回は課題が沢山見つかった。これをふまえて練習して自分はもっと強くなる」というのである。私もテニスをやっているからよく分かるが、本当にスポーツを向上しようとしている人間、そして実際、伸びる可能性を持った者の発言であると思う。

 それともう一つ、亀田興毅選手は生意気ぶっているが私が見た所、いい青年である。繊細で努力家で、スポーツに対する考え方もいい。そして、何よりいい所はトレーナーである父親に全面的な信頼と感謝を寄せている所である。だからこそ今回も12ラウンド戦い抜く事が出来たのだと思う。また国歌斉唱の時もきちんと礼をわきまえていた。

堀 浩二
by koujihori | 2006-08-04 17:45 | スポーツ | Trackback(3) | Comments(0)

ふじみ野市のプール事故について

 今週の月曜日、埼玉県ふじみ野市の市営プールで、小学2年生の女児が流れるプールの吸水口に吸い込まれ、死亡した事件だが、私は怒りを抑える事が出来ない。
 こんなのは事故ではなく、プールの管理者に殺された様なものだからだ。流れるプールは強力な水ポンプで水を吸引し、水の流れを作っている様だが、その吸入口の一つがフェンスが外れており、そこにこの女児は吸い込まれて、命を落としたのである。これは言うまでもなく完全な人災である。

 何故、こんな事になってしまうのだろうか?報道によれば、吸入口のフェンスが外れていた事は事故直前に客の一人から監視員に知らされており、監視員は声で吸入口には近づかない様に客に声を掛けたというが、その直後、事故が起きたらしい。何でもこの女児は潜っていたから監視員の注意が聞こえなかったのではないかという事だが、そんなのは理由にはならないだろう。 
 本来ならすぐにでもポンプを止めるか、客を全員、プールから出すか、それともその吸入口の真ん前に監視員の一人でも立っていたら、いくらでもこの事故を防げたはずである。何とも表現のしようのない無策ぶりである。
 近頃の日本ではこの様に業者による過失致死事故が余りにも多い。パロマの湯沸かし器の不完全燃焼による死亡事故もそうだし、シンドラー社のエレベーターによる死亡事故、また数年前の六本木ヒルズの自動回転ドアによる男児の死亡事故等々。

 これは人命よりも金儲けを優先する金儲け第一主義の弊害でもあり、また、人の生命を守る為に今、何を第一にして行動すべきかという覚悟の欠如が原因であろう。
 私は人命という一番大切なものを守る為に今、何を第一になすべきかという判断力、決断力、そして実行力が今の日本人全体に欠落しているのではないかと思う。それは生命体なら当然持っているはずの自己防衛本能である。
 生命体は自然の抵抗力というものがあり、仮にばい菌が傷口から入ったらそれを排除しようという働きがある。それが生命力というものである。だから、国家というものも大きな生命体であるから当然、ある程度の適当な防衛力といざとなればそれを行使する意志を持たなくてはならない。そうでなければまともな外交も出来ず、諸外国からなめられてしまい、自国民を拉致されても、ミサイルを撃たれても、そうした相手国に対して、毅然とした態度には出れないのである。
 国全体がそんなだから、国民も同様に生命という一番大事なものを維持する為に何を今、第一に行動しなくてはならないかという当たり前の生命体の抵抗力みたいなものが働かないのだと思う。

 それは一重に自己の生命の実相をきちんと自覚していない人達が多いからだと思う。自己の生命の実相を自覚していなければ、本来我々が持っている内部の生命の自己防衛本能、抵抗力もきちんとまともに働かないのである。

 それともう一つ、責任の所在というものが今度の事故の場合、どこにあるかという事が極めて不明瞭である。市営プールであるからその責任は市にあるのかも知れない。そうなると大元の責任者は市長という事になろう。だからこそ市長は翌日すぐに記者会見を開き、謝罪した様だが、この市長はもちろんのこと、市のこのプールの担当者も実際にこのプールでの管理体制、状況というものを一切、把握していなかったのである。
 それは何故かという言うと、プールの運営、管理業務は民間会社への委託、即ち今はやりの丸投げにされていたからである。丸投げだから丸投げした市の方は全然、その実態を把握していないのである。そして、今回は何とその丸投げされた会社がまたもその業務を他の管理会社に丸投げするという二重の丸投げが行われていた様である。

 こんな状況では管理はずさんにならざるを得ない。要するに責任者、中心者が完全に抜け落ちた状況であったのである。責任の所在の無い仕事は確実に穴が出来る。そんな所から今回の悲惨な事故は起きたのである。

 これはやはり、ものの道理即ち真理を知らない、解しない愚かな人達が起こした事である。組織というものは中心がきちっとしており、全ての責任はその中心者にあり、その中心者はその組織における業務は人にやらせるにしてもその内容に関しては私は知りませんなんて事は赦されず、きちっと把握、管理していなければならないのである。

最後に今回、犠牲になった戸丸瑛梨香ちゃんのご冥福を心からお祈り致します。

堀 浩二
by koujihori | 2006-08-03 10:05 | 時事問題 | Trackback(1) | Comments(0)

自信

 この世で生きていくには自信が大切である。自分がどうにもならない何の力もない人間だと信じておれば、およそ人間は一秒たりとも生きていく事が出来ないのである。

 例えば、歩くこと一つ取ってみても、自分は歩けると信じているから歩けるのである。もう駄目だ、自分はもう何の望みが無いと悲観してしまえば、人生をやめるしかない。だから、自信を持つという事はとても大事なのである。

 自信を持つには人から励まされる、良い点を認められるという事も大変大事だが、地球上の誰も自分を信じてくれなくても自分が自分を信じる事が出来れば、人間は生きていける。
 それではどうしたらこの自信を持つ事が出来るかと言えば、それには正しい信仰を持つという事がとても大事になって来る。
 
 信仰が無く、人間というものは肉体であって、物質の塊に過ぎないと信じておれば、本当の自信の持ちようがない。肉体はどんなに強く、美しくてもいずれ老い、病み、死するものであるからである。
 だから、真の自信を持つ為にはどうしても人間は肉体を超えた神の生命そのものであるという真理を悟らなくてはならないという事になる。
 
 それを伝えているのが正しい信仰であり、宗教である。そして生長の家の運動はその真理を最も現代人に分かり易く説く為に出現した運動である。
 「人間は肉体ではなくて神の子である。」というのが生長の家の根本的真理である。全てはこれから始まっているし、ここに人間の自信の元がある。
 自信とは現象的にどんなに絶望的な状況であっても、絶対大丈夫だという事である。それは何故、大丈夫かと言ったら、人間は完全円満の神の子であるからである。そして、神以外のものは本来宇宙に存在しないという事であり、従って悪は本来ナイという事である。
 
 現象がどんなでもそれは本来存在しないものであり、我々の心が映し出した映像に過ぎない。それはどういう事かと言ったら、自分の内ポケットに百万円の札束が入っていたとしても、それを知らずにいれば、何か買いたいものがあってもそれを使う事が出来ず、自分は貧しい、百円のパンも買う事が出来ないと勘違いしてしまうのである。その様に思っていれば、例え本来百万円持っていても百円のパンも買えないという事になってしまう。

 同様に自分が本来、百万円どころではない無限価値の力を持っているのにそれを自覚しなければ、それを使う事も出来ないのである。
 病気とか貧乏とかその他あらゆる人生の不幸は本来持っている我々の無限力を自覚しないが為にその力を行使し得ない事から来るのであり、それが我々が本来完全円満な無限力の神の子でありながら、それを我々が自覚しなければ、その自信の無い心が色々の人生上の不幸、悲惨を映し出すという事である。
 それは単に自分で勝手に勘違いして勝手に自己限定して自分は駄目だと思って、その心を映し出しているだけであるから、そんなものは本来存在しないというのである。
 そんなものが如何に不完全で絶望的なものであっても、本当の存在から見れば、取るに足らない一場の夢である。
 
 本当の存在である人間神の子は如何なる時でも傷付かず、病まず、老いず、死せずであり、現象はその素晴らしさを単なる表現しているだけの劇場である。

 この真理が我々の自信の根拠である。だから、正しい信仰を持つということが大変重要である。また、我々の実相が完全円満の神の生命であるから、神の生命というものが自信そのものであるから、我らの本体は自信そのものである。

 我々の自信の根拠である我々の本当の姿が完全円満の神の生命であるという事を悟る為に生長の家では神想観と言う独特の瞑想法があり、それにより、自己の完全円満の神の生命をじっと観ずるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-08-02 08:49 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)