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仕事について

 私の本職は会社の事務職であり、主に経理とか総務等の仕事をしている。そして、プライベートでは生長の家の組織活動、講師活動もしている。
 ところで来る11月12日の日曜日は我が生長の家神奈川教区で生長の家講習会が生長の家副総裁、谷口雅宣先生を講師として横浜市の横浜アリーナで開かれる。この講習会というのは2年に1回各教区で開催される生長の家の最大のイベントであり、組織活動であるから当然、どれだけ、動員出来るかという動員目標というのがある。私は鎌倉地区の生長の家の会の会長をしており、そこにも15名の動員目標が割り当てられた。そればかりか私は教区内の他地区のフォローもしなくてはならない立場であるから、9月位からそのノルマがのしかかり、ちょっとプレッシャーを感じていた。

 その上、10月15日は英語検定の試験も控えている。しかも、会社では2年程前から会社の社員の評価制度を取り入れるプロジェクトを立ち上げており、私が一応、担当者となって、運営しているのだが、それを今年の賞与支給時までにある程度の目鼻をつけなくてはならない。
 しかし、この7,8月は決算業務で多忙であり、そのプロジェクトに殆ど手をつけられていなかった。その期間は他の通常業務も大部、たまっていたが、8月で一応決算業務が終了したのでさあ、これから今まで手が付けられなかった評価制度プロジェクトに手をつけなくてはと思っていた矢先、先日、私の会社担当の税理士から電話が入った。
 
 それは来月の10月に私の会社に税務署の税務調査が入るというのである。私は冗談じゃないと思った。税務署の税務調査というのは大体、3年に1回位のペースであり、1回の調査期間は大体3日間だが、その間は経理担当である私は他の仕事は全く出来ず、しかもそれだけで済むのではなく、必ず何かしらの修正点を指摘され、それの修正処置にまた数日費やす。

 公私ともにただでさえてんてこ舞いの時であったのにそれに追い打ちをかけるかの様な今回の税務調査の実施の話である。
 私は担当の税理士からその予定を聞かされた時、思わずちょっと切れてしまった。そして自分の現在の状況を訴え、何とか税務調査を来年にしてもらえないだろうかと頼んだ。しかし、相手は国である。そんな事は通る訳はなく、予定通り来月10月に税務調査が弊社に入る事になった。

 しかし、この時に私は悟ったのである。それまでは何となく、色々な予定があって大変だ、大変だと思って、何となくプレッシャーに感じて、あれもしなくちゃならん、これも片付けなくちゃならんと焦っていたのが、このとどめの税務調査の予定が入った事で却って、私の目が覚めたのだった。そうだ、仕事は私がするのじゃなくて神様がやって下さるんだと。

 自分にやるべき仕事が多くて、大変だ、困難だなどと言ってはならなかったのである。そんなものは本来ナイのであり、それらの仕事は実は自分の中の神の生命の自ずから成る展開であり、神の営みが形となったのである。
 それは当たり前の仕事であり、実際やって見れば、困難でも何でもない。その仕事が自分以外に具体的に存在していて、それを自分という我(が)の肉体がやって行かなくてはならないとそれをやる前から取り越し苦労するから困難だ、大変だと感じるのである。
 そのままであれば、自分の中から自ずと生命の営みが展開して、仕事を自ずと遂行して行くのである。仕事は神様がやって下さる。

 それに気が付いた私は今まで溜まりに溜まっていた業務をするすると片付けて行く事が出来るようになったし、その為のアイデアもぐんぐん内側から湧き出て来る様になった。それまでの私は大変だと気ばかり焦って、実は大した仕事はしていなかったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-09-28 13:29 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

真の愛行とは(3)

 生長の家の聖典「生命の実相」に出て来る話だが、生長の家創始者の谷口雅春先生が生前、ご活躍されていた頃、道場で先生が信徒にご指導されていた時、ある不眠症の人が先生に自分は不眠症だがどうしたら治るのですかという質問をしたのである。
 そうしたら、先生は「ああ、不眠症とかノイローゼというのは利己主義の人がなる病気だ。愛他的になったら治るよ。」とお答えになったのである。

 私は約十年前に不眠症になった事があり、現在はお陰様で完治しているが、この時はこの生命の実相の話を思い出して、自分は利己主義者なのかとますます落ち込んだ憶えがある。

 ところで谷口雅春先生のご指導の様にノイローゼとか不眠症とは言わずとも、自分の事ばっかり考えているから不安になるのは誰でも分かると思う。自分の名誉も肉体の生命も要らない、ただ相手の為に国の為に生きるという捨身の心境になれば、恐怖とか不安とか心配なんて無くなるのである。何故なら不安とか恐怖というものは自分が悪くなる事に対する心配とか恐怖だからである。だから、大東亜戦争の時の特攻隊の青年の出撃前の写真など実に澄みきった穏やかな顔をしている。
 実際、不安になるのは自分の事ばっかり考えているからで自分を捨て、真に愛他的になれば、そこに本当の悦びと生き甲斐がある。何故なら、我々人間の生命は本来バラバラに分かれたものではなく、自他一体であるからである。

 ところで愛他的になるという事はどういう事であろうか?他の為に生きる、自分の事は気にしない捨てるという事だが、それを我(が)で無理にしようとしてもこれは中々難しいと思う。
 私が私こそが国の為に人の為に生きているのだなんて言った人はもう既に真の愛他的とは言えない。
 私は愛他的になる瞬間というのは無理に我(が)でするのではなく、自分の中の神の働きによりそうなるのであると思う。即ち、自分の中の神の愛が自分で出て来る事により、真の愛他行が為されると思う。
 
 それはどういう事かと言えば、自己の生命の実相を悟るという事に他ならないと思う。愛他的になるという事は悟るという事であり、悟るという事は愛他的になるという事である。
 悟るという事は自己の生命の実相が完全円満であると悟るという事であり、そうなると他の人の生命の実相も完全円満であるという事が分かる。他の人の生命の実相が完全円満であると悟るという事はその相手の実相を拝むという事であり、その相手の実相を拝むという事が真に相手を愛するという事、即ち愛他的になるという事である。
 従って、悟って来た人は同時に自分を捨て、愛他的になるのである。それが真の人類光明化運動である。即ち、人類光明化運動というものは最高の愛他行であり、真の愛他行というのは相手の生命の実相を完全円満のものとして拝むという事である。従って、真の人類光明化運動というものは救われていない不完全な人類を可哀想だから救ってあげましょうというものではなくて、既に一人も救う必要もない完全円満な全人類の生命の実相を拝むという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-09-21 16:23 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

性について

 パソコンでメールのやりとりをしている人は良く分かると思うが、どこでどうやって知ったのか知らないが、自分のメール宛に毎日、実にくだらないセックスの勧誘のメールが来る。それは大体、毎日、30~40件は来るのだが、その内容はお金持ちの有閑マダムみたいな人達からお金がもらえて、セックスも出来るとかいうものが殆どである。そんなのが毎日何十件も来るのである。私はパソコンを立ち上げる時はいつもこうした下らない出会い系の勧誘メールを削除する事から始めるのが毎日の日課みたいになっている。中にはこうした下らない勧誘メールに引っ掛かる愚かな人も居るようでそれでいくら騙し取られたとか何とかというニュースもたまに耳にする。

 しかし、こんなネット上の下らない勧誘メールに限らず、どうも世の中は性的な乱れが激しくなって来ているようだ。
 生活に疲れ、表面的な感覚的な快楽を手っ取り早く求めたい人達が増えているからではないかと私などは想像するが、こんな事をしていたら、快楽を求めているつもりで苦痛を得る事になるのである。

 ところで性的な事を忌み嫌う傾向が昔から宗教、ことにキリスト教に多く、牧師とか僧侶は女を抱くという行為自体が穢らわしいとして、終生、独身を貫くなんて人達がいる。しかし、日本神道においてはそんな事はなく、道祖神などは男性性器をかたどったものなどがあるし、神社の鳥居は女性器をかたどったものであると言われている。
 即ち、日本神道においては性的なものは忌み嫌うものではなく、生命を生み出す源として明るいものとして見なされていた様である。我々の体は単なる肉体ではなく、神の体であるから、人間が男の肉体と女の肉体に別れ、それぞれの性器が備えられ、その性の営みにより、生命が誕生するという事は性の営み自体が神の営みであるという事であるのは明らかである。

 しかし、それが人事処をわきまえていないと乱れたものとなる。それが良くないのである。セックスするのはきちんと社会的に認められた夫婦間で愛情の表現として、されるのは良い。そして、その悦びの性の営みから新たな生命が誕生するので、それがお目出たい事であり、明るい事である。しかし、お互い夫婦でもない男女が肉体の快楽を目的としてセックスをするのはそれは人事処を得ない事であるから、これは汚い、穢らわしい行為という事になる。生長の家の教えでは汚いという事はそれ自体の事を言うのではなく、それが人事処を得ない事を汚いというと教えている。例えば唾液は自分の口の中にある間は汚くない。しかし、それを公共の場で無闇にペッペと吐き捨てるなんて事をすればこれは汚いという事になる。

 そして、こうした肉体的快楽を求める所、肉体というものは本来ナイものであるから、却って苦痛を得る事になる。何故ならば苦痛というものは本来ナイものであり、それは神の悦び、生かしがそこにナイという状態であるから、神を求めず、肉の快楽を求める所、そこに神は無いから、神の無い状態即ち、苦痛を得る他はないのである。

 現在の性的乱れの中でこうして神の道にそむき、肉体的快楽を本来の相手でない相手から得ようとする者の行き着く先はそんな所である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-09-19 09:37 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(3)

光明面を観る

 今朝、私が代表をしている地元のPTAのお父さん達で作っている野球チームの練習があった。朝、6時30分から9時位までやったのだが、練習メニューはキャッチボールから始まり、トスバッティング、それから内野ノック続いて外野ノック、最後はフリーバッティングで終わった。

 毎回、練習はこういうメニューだが、私は最初のキャッチボールの時が本当に憂鬱になるのである。何故なら私は実はキャッチボールが満足に出来ないからである。

 私は野球は大学の時に始めた。人間神の子無限力という生長の家の教えを信じていたから、元々野球は得意ではなかったのに自分の可能性を信じて、野球同好会に入ったのである。そこで私は週三回の練習はもちろん、家では毎日バットで素振り練習をした。そして、三年生の時にレフトの守備位置でレギュラーになり、チームの所属していたリーグ戦でそのシーズンのリーグ打点王にもなった。
 私は元々野球が得意でなかったのに努力次第でこの様な成績が上げられた事に満足し、生長の家の教えは間違っていなかったと思った。

 その後、社会に出て、就職した会社で野球チームを結成して、そこでもサードなどやって、バッティングは元々悪くなかったのでそこそこ活躍していたと思う。しかし、その後、ある事が原因で体をこわして、それ以来、野球のボールがまともに投げられなくなってしまった。

 それまでの私はバッティングは自信があったが、スローイング即ちボールを投げるのもそこそこ自信があった。キャッチボールの時もサードを守っていた時も殆ど狂い無く伸びのある球を相手の胸元に投げる事が出来ていたが、今から十年くらい前にある体のアクシデントがあって以来、それがうまく出来なくなってしまった。ボールを投げる時、コントロールが余り出来なくなってしまったのである。

 私は丁度やはり十年くらい前から地元のPTAのソフトボールの大会に出場する様になったが、ボールがうまく投げられないのでファーストを守った。その後、五年ほど前にそのソフトボールのチームが母体になって野球チームを作る様になったが、私のボールがまともに投げられない状態は改善する事はなく、それは今、現在も続いている。

 だから、練習の時、皆でキャッチボールをしている時、私の投げるボールだけがあっち行ったり、こっち行ったりするので非常に恥ずかしいし、実際、憂鬱である。

 しかし、その他の守備練習とかは一応まともにこなせるし、バッティング練習に関してはかなり力を発揮する。

 そこで私は思った。自分はその出来ている所を悦んで感謝して、それをもっと伸ばす事を考えて、自分の駄目な部分、即ちボールをうまく投げられないという自分の短所、欠点に引っ掛かるのはやめようと。
 その様にして行けば、いつかは自分の欠点も消えるはずである。

 以前の私は自分の境遇とか、その他、もろもろの事に関して、いい所、長所は見ないで、自分の足りない所、欠点、不遇な部分ばかり見つめ、それを良くしよう、良くしようという考え方であった。「自分の鼻がもうちょっと高かったら、自分の目がもうちょっと大きかったら」とか言うエステか美容整形か何かのテレビコマーシャルがあるが、要するにあれと同じで自分が今、与えられている長所、光明面を観ないで自分の小さな、局部的な欠点にばかり目が行き、これを良くしたら自分は完璧になれるなんて思って、その欠点、短所にばかり気が引っ掛かっていたのである。
 その様に他に沢山いい所が与えられているのにそれには感謝しないで完璧主義になって、この欠点さえ良くすれば自分は完璧になれるなんていうのは神様に生かされているという事を忘れ、自分で自分を良くしよう、生かそうと思う我(が)の考えであり、傲慢である。

 しかし、この世界は心で思う事が実現する世界であるから自分の完全主義で欠点ばかり見つめ、不満に思い、これさえ良くなればと思って、それに引っ掛かって、その欠点を良くしよう良くしようとするとその不満の思いを反映してその欠点はますます増大し、そして自分のいい面まで駄目になって行くのである。
 
 そうではなくて、自分がやれている所に感謝し、悦び、それを伸ばす様にすると良かったのである。それは人生全般にも言える。自分が例えば左手が駄目になっても右手他、その他あらゆる他の健全な体の部分に感謝するのである。その他、見つけようと思えば、我々の周囲には悦ばしい事、長所は沢山見つけられる。そこに感謝し、悦び、伸ばすのである。そして、それこそが我々を生かしている完全円満の神に感謝するという事であり、全ての存在の奥にある完全円満の神の生命、実相を観るという事である。

 そうした目を他の人に向ける事が生長の家の教えにある、「全ての人と事とものの光明面のみ見て、暗黒面を見るべからず」という事である。

 その様に自分の長所を見つめ、伸ばして行けば、自分の短所も知らない内に消えているし、他の人に対してもその短所を鋭くえぐり出して、そこを責めるなんて事はしないでいい点、長所を見つけ、そこに感謝するという事をして行けば、その相手の短所も知らない内に消えているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-09-17 18:56 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

型をこわす

 私はテニスや卓球をやっている。卓球はもう二十年近く毎日、会社の昼休みにやっているし、テニスは九年前から週2~3回やっている。それで気が付く事はテニスも卓球も正しい型即ちフォームややり方があるが、それにとらわれてもいけないという事である。

 私は以前の文章で訓練においては集中する事が大変、大事であるという事を書いた。だから、球技においては主にボールに集中してそれをよく見る事が大切だと言うことも分かった。それでその他にもその瞬間瞬間で正しいフォーム、やり方を基本通りやって行く事がいい結果につながるという事も書いた。
 例えば、テニスのサービスではまずラケットを後方に引いて行き、それと同時にトスを上げて、その後はボールをよく見て打つという事が大事な要素であるが、そのボールをよく見るという事にとらわれすぎると、肘を使うとか、ボールをラケットの先の方で打つとかと言ったその他の大事なコツがおざなりになってしまう。要するにボールを見るという基本的な事も余りにその事にとらわれると他の部分がおろそかになってしまうのである。

 だから、テニス、否テニスに限らず球技その他のスポーツではいくらよい事でもその事にとらわれたら駄目で臨機応変にその場、その時に応じて自由自在に色々な型、フォーム、コツを駆使してプレイしなくてはならないのである。これが武道でよく言う所の「無構え」という事である。一つの構えを取るとその構えた方向にはスキが無いのだが、別の角度からだとスキだらけという事になる。だから武道の達人は構えを取らず、無構えでいて、それでいてあらゆる角度からの敵の攻撃に対処出来るのである。即ち、一つの型にとらわれず、状況に応じ、時に応じ、自由にあらゆる型を駆使して、縦横無尽の動きが出来るのである。

 どうしたらそんな風になれるかと言ったら、それは努力と訓練以外ない。テニスならテニスをよい指導者の元、根気よくやり続ける事である。そして、どんどん試合をやり、その中で全力を尽くすのである。そうすると必ず、学ぶ点に気付く。そこから自分自身もしくは指導者に指導してもらって、どういう風なやり方、型、フォームであればもっとうまく出来たのかという事を身をもって学ぶのである。そして、それを踏まえてそのやり方、フォームを練習する。しかし、実際の試合では、一つのフォームや型ややり方にとらわれないで自分の判断を信じて、自由自在に今まで学んだコツ、型、フォーム、やり方を駆使して今、目の前の事に対処して行くのである。

 こんな事が本当にうまく出来るのだろうかという心配は不要である。何故なら、人間は本当にこのやり方が良い、効果的であると体で感じた事は意識的にも、無意識的にも自動的にその通り、やれるからである。何故なら、吾が業(わざ)は吾が為すにあらずと生長の家の招神歌にあるように自分がやっている事は自分がやっているのではなく、自分の中の神様の無限力が直接出て来て、やるからである。
 即ち、自分がスポーツでも他の事でもやる時は自分がやっている様で実は自分の中の神様の無限の力が出て来てやるのである。その力は色々な過程、段階を通して、出て来るのである。それが我々が色々試行錯誤して一つの事に努力、研究を重ねながらやって行くという現象として出て来る。
 その試行錯誤、即ちテニスなら試合経験を積む中でこうしたやり方が本当に効果的であるという事を肌で学ぶ。それは大抵以前、指導者からこうした方がよいと習った事が多いが、その時はそんなもんかなと思っていても、実際自分が試合という場を経験するとそれが本当にそうだなと実感する。その実感した時が自分の中から神の無限力のその部分が出て来た瞬間である。そうなったら、それ以降は頭で一々考えなくても自ずとそのフォーム、やり方を駆使するようになる。そうやって我々は一つの型にとらわれず、自由自在に縦横無尽に効果的な技、フォームを駆使してプレイする事が出来る。この様に経験を通じて、徐々に効果的なフォームを駆使出来るようになる事がテニスが上達するという事であり、それは自分の中のテニスの才能がどれだけ経験を通じて出て来るかという事である。経験を沢山積んで、その人の中のテニスの技が沢山出て来ている人をテニスのうまい人と言うのである。

 この事はスポーツに限った事ではない。我々が人生に対処するのも全く同様である。こうした事が大事だと思って、一つの事にとらわれてしまうとそれが如何に良い事であってもその人は失敗してしまうのである。
 経験や学びにより、この事が良い事だ、大事だと思う事はよい。しかし、その事にとらわれたら我々はもう自由自在にはなれないのである。自分の中に神がおられるのであるから、その内側からの導き通りに自由自在に縦横無尽に生きるが良い。

 一つの「ねばならぬ」にとらわれないで自分を内側から生かしている神様にお任せして、自由にかつ臨機応変に行動するのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-09-14 22:00 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

生かされている

 生長の家の招神歌(かみよびうた)という一種、祝詞(のりと)の様な歌があり、神想観という瞑想の冒頭の時に唱えたりする。

 それは

「生きとし生けるものを生かし給へる御祖神(みおやがみ) 元津霊(もとつみたま)ゆ幸へ給へ。
吾が生くるは吾が力ならず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)。
吾が業(わざ)は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能(ちから)。
天地の祖神の道を伝えんとあれましし生長の家の大御神守りませ。」

という歌であるが、私はこれを生長の家の神髄であると思っている。これは自分が生きているのは自分が生きているのではない。自分の中に生きて、かつ宇宙に満ちている完全円満の神の生命により生かされているという事である。

 生長の家ではこの現象世界は単に映しの世界であり、本当の世界はこの現象世界の奥にある実相世界であると説く。実相世界というのは物質、現象を超えた霊的実在世界であり、そこは完全円満の神の世界であり、病気とか災難とか戦争とかなどの悪は一切存在せず、そこに住む人間も完全円満で一人も悪い人もいないのである。この現象世界はその完全円満の世界の単なる映しの世界でもあり、我々人類がその実相世界の完全円満さをどれだけ自覚しているかという事が反映される世界でもある。

 本当の実相世界、神に創られたままの世界は完全円満であり、それは全宇宙に拡がり、全ての生きとし生けるものを生かし給い、ありとしあらゆるものを完全な姿であらしめている。それを我々人類が自覚すれば、自覚した程度に従って、その完全円満の世界がこの現象世界にも出て来る。

 この世界が単なる現象世界に過ぎないと思っていれば、全ての存在は単なる物質に過ぎないということになり、そうなると物質を超えた完全円満の神様なんて信じられなくなるから、人間は自分が自分で生きていると傲慢になり、そして地球環境を勝手に自分たちの便利な様に開発し、地球資源を自分の欲望のままに浪費して行く様になる。そしてクローン技術まで生み出して、人間はもはや自分の欲望次第で生命さえもコントロール出来るという考えまでに至ってしまった。しかし、その傲慢さと飽くなき物質欲が故に今や地球環境の破壊は進み、地球温暖化による被害は深刻なものとなっている。

 これらは一にも二にも人間自身が自分達が完全円満なる神に生かされた霊的存在であり、全ての存在は単なる物質ではなく、尊い神の生命の現れであるという事を忘れた所にある。

 人間は自分の力で生きていると思えば、傲慢にもなるがその反面、心の平和が得られないものである。日常生活のちょっとした事でも右するか左するかという事に自分の頭を悩まさなくてはならないからである。また、自分が生きていると思えば、自分の過去して来た事に自信が持てなくて常に後悔と不安と罪の意識を持たなくてはならないだろう。何故なら、人間は魂の奥底に真理が宿っているから、肉体人間という物質又は我(が)というものが完全円満な神に比べてちっぽけで力がないという事を知っているからである。そんな不完全な存在である肉体人間がやって来た事などやはり不完全であるという不安と迷いがあるから、神に生かされて生きているという自覚の無い人は常に自分のして来た事に自信が無く、ちょっとした事が気に掛かり、こうすれば良かったとかしなければ良かったと悩むのである。

 しかし、現象は本当には存在するものではなくて、本当の存在は宇宙の始めの始めから完全円満なものとして存在している神であり、我々人間はその神と一体である神の子、否、神そのものであるという自覚を得れば、我々の自覚がくるっと360度変換し、自分が生きているのは自分が生きているのではなかった、完全円満な神の生命がここにあって、自分を生かしていたのであったと悟るのである。

 そうなると自分の今はもちろん、過去や未来に対する考え方もくらっと一変し、自分が生きて来たのは自分で生きていたのではなかった天地(あめつち)を貫きて生くる完全円満な神の生命がここにあって自分を生かしていたのであった、自分がやった事は自分がやっていたのではなくて完全円満な神の御業(みわざ)であったと言う事が分かるのである。

 ここに現象はナイ、物質はナイ、我(が)はナイという事が悟られ、自分の生きて来た歩みは神の歩みであったと自分の過去に対して、感謝も出来る様になり、また自分が今、生きているのは神が生きているという事も自覚せられ、ああだこうだと我(が)の頭で悩む事も無くなる。

堀 浩二 
by koujihori | 2006-09-12 21:08 | 信仰 | Trackback(3) | Comments(2)

夫婦円満の鍵

 近頃、よく世間で耳にするのは熟年離婚とか言う言葉である。お互い夫婦生活を何十年と続けてきたが、共通の話題も会話もなく、仕方なく生活を共にして来たが、子育ても終わり、夫婦二人だけの生活が始まったりすると夫はリタイヤして家にゴロゴロして、そして、それまでお互い愛情表現なんてしてこなかったのだから、大抵、妻の方が夫に嫌気がさして、それで熟年離婚に至るケースが多いそうである。

 私の知り合いでも、離婚した夫婦もいるし、もう性生活が何年もないなんていう夫婦もいる。でも、この人生で夫婦生活がうまく行かない、味気ないものであるなどと言うことは誠に不幸な事であるし、そして子供が独立したらさっさと別れましょうなんて考えで暮らしているなんていう人達は本当に気の毒であると思う。
 夫婦生活というものは本来はこの上なく楽しいものであり、それがうまく行けば、この人生は無上の喜びになるだろうし、また夫婦生活がうまく行かなければ、夫は社会で力も出せないし、成功も出来ないだろうし、また子供がうまく育たないのである。
 
 誠にも夫婦調和というものは人生の成功の基盤である。人間というものは理屈で割り切れるものではなく、自分の伴侶以外の人に心ときめくなんて事もたまにあるかも知れない。しかし、それは単に心でちょっと思うだけなら罪はないが、実際、妻または夫を裏切る様な事があれば、それは良くないのは当然である。
 いくら、表面でそうした浮気とか不倫を隠したとしても、人間というものはそんな表面の現象だけの存在ではなく、心的存在であるから、本当には嘘はつけないものである。その人は神の道に背き、将来必ず何らかの形で報いを受ける事になる。

 お互い夫婦となって、そのパートナーと仲良く調和して、色々な人生の問題、課題に対して手を取り合って、切り開いて行くということは人生の最高の悦びであるし、それが前述した様に全ての成功の元になる。
家とは巣であり、魂の安らぎの場であり、育みの場であり、小宇宙であり、生命の源の場である。そこで夫と妻という陰陽、そして天地がそろって(陰と地は妻、陽と天は夫)、子宝を始めとする全ての良きものが生み出される。そこが不調和でうまく行っていないというのは誠にこの人生において癒しの場を奪われ、人生において寂しい事この上ない。こんな所から夫婦互いに更に心が離れ、夫は外に女を作り、また妻も子供が小さい内はまだ我慢しても、子供が大きくなったら離婚しましょうなんて心に思っている俗に言う「仮面夫婦」になってしまうのである。

 私は夫婦調和の鍵は何かと言ったら、これはやはり、正しい信仰を持つという事に他ならないと思う。夫婦というものはそもそも一つの魂が地上に顕現する時に男と女とそれぞれ半身ごとに生まれて来て、再び巡り会って、一つとなって、この上ない至高の愛を体験または表現するために結婚し、結婚生活するのである。それを先ず信じて、そして、自分が結婚した相手は神様により巡り会わされた相手であるから、自分の本当の魂の半分であると信じる事である。そして、結婚後は相手を自分の半身として、神の子として尊敬し、素晴らしい相手であるという実相を観る事である。

 夫婦生活というものはお互い心で愛し合っていれば、夫婦の性生活なんてどうでもいいと思う人もいるかも知れないがそれは間違いである。夫婦円満の鍵は夫婦の性生活がうまく行って、悦ばしいものであるという事が大変、重要な鍵になって来る。だから、お互い性生活をより良いものにする為にテクニック的に研究するという事も一面大事であり、その事は生長の家創始者の谷口雅春先生も「新しい結婚」という御著書の中で述べられている。

 しかし、やはり、肉体及び現象は心の影であるから、精神面、信仰面でお互いの実相を観て、相手は決して悪意を持っていないという事を信じて、感謝し、感謝するだけじゃなくて、出来るだけその感情を言葉とか態度に表現するという事が大事であると思う。
 そうしたこの世に悪い人、悪い事は一つも無いんだとという信仰が基礎にあって、夫婦お互い感謝し合う所、それが現象にも肉体にも現れて来て、夫婦の性生活も悦ばしいお互い満足出来るものになるのである。そして、夫婦の性生活がうまく行けば、ますます夫婦の調和もうまく行き、夫は外に女を作ったり、また妻は熟年離婚するまで我慢するなんて事をする必要は無くなるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-09-10 21:36 | 家庭生活 | Trackback | Comments(0)

実相を観る(3)

 私は近頃大変重大な事に気が付いた。私は昔から不正が嫌いで組織の中で全体の為にならない変な事をしている人間がいるとそれを批判し、排除し、正義の味方になる様な所がよくあった。

 私は自分を正しいと思っていたし、自分が排除した相手は悪い奴だと思っていた。そして、割合、その批判の目は自分の属する組織の責任者に向けられる事が多かった。そして、私は悪いのは相手で自分は正しいと信じていた。
 
 ところでその私の悪を憎む心、批判する心は我が国で自分と比較して一番偉い人、即ち総理大臣に向けられる事が度々あった。それは具体的には小泉純一郎首相の事であるが、私はそもそも郵政民営化なんてものは外国資本に利するだけの愚かな政策であると思っていて、それで小泉首相をかなり批判していた。そして、皇室典範の改正問題にしても、それを改悪と批判していたのである。
 そして、その当時の私のお気に入りの首相候補は今をときめく安倍晋三内閣官房長官であった。この様な気骨もあり、日本を真に愛している人なら日本を任せられると思っていた。だから、早く小泉にやめてもらって、安部さんの時代が来ないかと思っていた。

 しかしながら、皇室典範の改正について、その後、生長の家副総裁谷口雅宣先生のご指導がきっかけで私の考えが徐々に変化して来て、小泉首相の推し進める皇室典範の改正案に大部理解が出来る様になった。
 そして、時勢は以前の私の希望通り安倍氏が次の首相にほぼ当確となって来たら、今度は安倍氏に対して一種の危惧を私は持つようになってしまったのである。安倍氏の皇室典範の改正に関する考えは私の考えが変わる前の考えとほぼ同じだからである。

 そこで私はようやく気が付いた。これらの現象は本当に存在するのではなく、私の心の影に過ぎないと。要するに私は常に自分の上に悪の存在があると思いたかったのである。その巨悪を常に批判する事で自分が偉いと思いたかっただけだったのである。そういう心を持っていれば、誰が自分の上に来ようと常にその人の悪い面を見て、批判する様になるのである。

 生長の家では現象は現れているだけで本当の存在ではないと説く。即ち、この縦横厚みの三次元の現象世界は言うなれば、立体映像みたいなもので本当の存在ではないというのである。それならば本当の存在とはどこにあるかと言ったら、それは現象の奥というか、中というかそうした所にある。しかし、それは空間的な奥とか中ではない。本当の存在、即ち物質を超えた霊的実在世界は空間そして時間さえも超越しているから、空間的、三次元的な奥とか中に存在するのではない。他に言いようがないから、仮に奥とか中とか表現しているに過ぎない。

 その霊的実在世界、それは宇宙に遍満している完全円満な神様が創造されたやはり完全円満な世界である。それは現象、空間、時間を超えて、宇宙の隅々までやはり遍満している。神がお造りになった実在世界と仮に言うが、それは神御自身の拡がりそのものである。即ち、この宇宙に遍満しているのは完全円満、永遠不滅、無限の智恵、愛、生命なる神そのものであり、それのみが本当に存在するものであり、それは今、ここに我々の中に存在し、我々否、全ての生きとし生けるもの生かし、ありとしあらゆるものを完全な調和した姿であらしめているものである。

 そして、この現象世界はその完全円満な神の世界、実相世界の表現の世界であり、我々人間の自覚の程度の映る世界でもある。その本当の神様の実相世界の完全円満さをどれだけ自覚しているかという事でこの現象世界、表現の世界に本来の完全円満な神様の世界がどれだけ表現されるかと言うことが決まって来る。

 従って、この世界を本来の平和な調和した世界に出来るかどうかは、我々人類がどれだけその本来の神様がお創りになった完全円満の実相世界の存在に気付き、悟り、自覚するかに掛かっているのである。

 そういう意味で我々は現象の悪を見て、悪があるとか悪い奴がいるなんて思ったらいけないのである。現象的に悪い人、悪い事件が起こっても、それは過去の我々人類の「悪はある」という迷いが映っているだけであるとし、本当の人間は本当の世界はどこにも悪人もいなければ、悪とか不幸があるなんて思わないで、その奥の完全円満の実相世界のみがあるという事を悟らなくてはならないのである。

 悪は存在しない。それは自分で勝手に心に描いているだけだ。自分の前に現れている悪は全て、悪があると思いたい自分の心が描いたのである。
 即ち、自分を信じる事が出来ず、自分に自信が無いから、人を悪く思って、批判して、人を低めて、自分をそれと比較して偉いと思いたいのである。その心が人の悪を心に描き、その通りの悪人を現象世界に映し出すのである。それが愛の不足という事であり、利己主義という事であり、その利己主義と自信の無さから他人からますます信用されないという事につながるのである。

 自分を完全円満の神の子であると信じ、自信を持つ事である。そして、悪はナイ、それは自分の悪を思いたい心が映しているに過ぎないと知り、相手の悪い面ではなく、良い面を観て、感謝する事である。それが全ての道徳、思いやり、そして真の世界平和への道である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-09-08 21:16 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相を観る(2)

 私が信仰している生長の家では人間の本当の姿、即ち実相は完全円満であり、永遠生き通しの霊的存在であり、完全円満であるから、それは無限の力を保有し、そして、無限の智恵、愛、生命、供給、悦び、調和に満たされた存在であると説く。
 そして、それは将来そうなると言うのではなく、宇宙の始めの始めから全ての人間は既にそうした素晴らしい存在であると説くのである。
 しかし、現象を見ると、そんな完全な人間など存在しない。病気の人、弱い人、卑怯な人、嘘つき、人殺し等々。いくら聖人君子みたいな人で、美しい肉体を持っていてもその肉体は年齢と共に老い、病み、やがて死する。
 だから、完全円満であるというのはこの肉体の事ではなく、その奥に肉体を内側からあらしめ、生かしている霊的存在の事なのである。肉体はそうした霊的実在である人間の実相の表現の道具であり、またこの地球上の生活の為の乗り物、宇宙服みたいなものである。
 その我々の表現体である肉体や現象生活には我々が正しい信仰を持って、自分の本当の実相の完全円満な姿を自覚するとそれが出て来る。自覚しなければ、いくら素晴らしい才能や力を持っていてもそれを使いようがないから出て来ないのである。即ちこの現象世界は我々が思ったとおりの事が映る世界である。

 ところで、我々の実際生活の中で夫婦間とか組織における上司と部下の関係とか色々な人間関係がある。会社などで心で「この野郎」と思っても、一々その怒りをぶちまけていてはやっていけないから、上司から無理な事、理不尽な事を言われてもぐっと耐える人も多いのだと思う。
 しかし、家では家族に対してそうした遠慮は無いから、家族に対して不満のある時はストレートにその悪感情をぶつける事も多いだろう。親子間、夫婦間、兄弟間などで争いや亀裂が起こるのはそうした遠慮のない関係から起こる事が多いはずである。

 ではどうして、こうした相手への怒りとか悪感情が起こって来てしまうかと言ったら、それは自分は正しくて相手は間違った、悪い相手であると思うからだろう。極端な話、戦争などもそうであると思う。戦争は領土問題とか資源の奪い合いとか色々な原因があるが、根本的には相手は悪いやつ、悪魔の様なものであるという相手に対する悪感情がその主原因にある。
 大東亜戦争などでも直接の原因は色々あるにせよ、その根底には戦前の日本国民のアメリカ、イギリスに対する悪感情に起因する所が多いと思う。何しろ米英の事を「鬼畜米英」などと言っていたのだから。誤解のない様に言えば、それは米英の方も同様であろう。

 この様に相手を悪いやつで自分に害を及ぼすと思う恐怖心があるから、相手に対する怒り、憤慨の心を持つようになるのである。そんな事をいつもしていたら、夫婦間は持たないし、親子間も亀裂が生じ、そして、会社等の組織にいれば、常に上司とか部下の欠点に引っ掛かり、相手を悪いやつと思って、常に攻撃的反感、悪感情を持っていなければならなくなる。
 こんな事が慢性的になれば、心の世界で既に離反しているのだから、その人はやがてその組織ではいられなくなるだろうし、夫婦間、親子間も同様である。
 
 そういう様に常に自分のパートナー、同僚、家族に対して反感、悪感情を持つ者はその相手と離反するだけではなく、その悪感情が自分の肉体にも刻印を及ぼして来る。常に相手に対して鬱々と打つ心を持って居れば、その人は遂に鬱病になってしまうのである。

 こういう場合はどうしたらいいだろうか?答えは簡単である。相手の善なる実相を観るのである。相手は表面的には如何に不完全な状態を現していても、それは単にこちらがその人の善なる実相を観ていなかったその心が映って、不完全な姿を自分に映しているのに過ぎないのであり、その相手の奥の完全円満なる善なる実相を観れない自分に罪があるという事を悟ればよいのである。
 相手を悪いやつだ、だからこらしめてやらなくてはならないんだと思って、相手に高圧的、又は冷たい目で接すると、こちらのその心が映って、ますます相手が悪くなり、収拾がつかなくなるのである。

 相手を悪人と観るから相手が憎くなるのである。そして、そう思うからますます相手は悪くなるのである。相手は表面的には如何に悪くてもそれはそう観る自分の心の歪みが映っているだけであるとし、相手の実相を観て、相手は完全円満で素晴らしい人であると観じて、相手の現象の良い所のみを見て、それに感謝して接していけば良いのである。そうすれば、相手は本来の完全円満の実相をますます顕し、そして、自分の相手を責める心が消えるから、自分の肉体の病気も消えるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-09-05 12:58 | 信仰 | Trackback | Comments(0)