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人間の芯

 現在、子供を虐待死させたとか、逆に子供が親を殺したといったニュースが報道されない日は殆どないのではないだろうか。
 こうした暗いニュースは朝、何となくテレビをつけているとぼんぼん自分の目と耳に入って来るので、我が家ではこうしたニュースが報道されたらすぐ別のチャンネルに変えてしまう。朝のすがすがしい気分が暗いニュースで害されてしまうからである。

 こんな事は私が子供の時、今から30~40年前は一切無かった事だし、現在の日本人が如何に歪んだ状態になっているかは議論の余地が無いだろう。こういう事をする親とか子供が多いから安部首相も教育改革が一番必要であるとして、教育基本法の見直しを検討している様である。
 私もほぼ同意見である。子殺しをするような親など鬼畜も同然であり、人間とは言えないし、親殺しをする子供も同様である。そして本来神の子である人間がどうしてこんな事をするかと言ったら、それは受けて来た教育が悪かったからとしか言いようがない。
 しかし、それは学校教育だけでは方手落ちで学校教育などよりも更に重要なのが家庭教育であろう。その親がどういう親であるかという事でその子の育てられ方、教育が決まってしまう。親が立派な考えを持ち、それを行動に移していれば、子供は自ずと良い子に育つのである。何故ならば子供は親の言う事よりもそのやる事を真似するからである。
 親の考え方と行動こそが最も大きい子供への教育である。

 従って、教育基本法の見直しも大事だが、それよりより大事なのが親達の心である。今現在この様なひどい親がいるというのはそれはその親を育てた親に責任があると思う。
 50~60位の年齢の人達ではないかと思うが、どうもこの年代の人達がきちんとした考えを持って我が子を教育しなかったのではないかと思う。その原因は色々あるだろう。この年代の人達はいわゆる団塊の世代と言われる人達でこの人達は丁度、日本が大東亜戦争に負けて、国民全体が一種虚脱状態にあった時に生まれて来た人達である。
 アメリカが日本を二度と立ち直れない様にしようという意図の元、日本人としての自信を失わせる為にそれまでの日本の歴史と伝統を全否定するような教育が為された事、そして、戦争に負けた事により、この団塊の世代の親達が自信を失い、今までの自分のアイデンティーを自己否定し、家庭で日本人としての誇りとかそうしたものを一切口をつぐんで伝えなかったのではないか?
 私は日本は戦争に負けた事により、終戦時を境にして、それまで日本人が育んできた日本人としての誇り、文化、歴史、伝統というものが遮断された為に所謂、団塊の世代の人達に対する家庭に於ける教育、学校に於ける教育というものに大事な人間としての芯となるものがごっそり抜け落ちてしまった事が今日の悲惨の状況の根底にあると思う。

 それならどうしたらいいかと言ったら、やはりこれは人間としての芯となるものを自覚あるものが叫び、伝えて行く以外無い。その芯の芯とは何か。それは人間は本来、神の子で完全円満であるという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-10-24 09:53 | 時事問題 | Trackback(2) | Comments(0)

自分の中に無限がある(2)

 私が中学校の時にその時の校長先生がある日、朝礼の時にこんな話をした事がある。それはその中学校の図工の授業の担当している先生がいて、その人は彫刻家でもあり、その自分の彫刻を学校内の敷地に飾ってあったのだが、その事を校長先生は朝礼で引用して、「その作品はその図工の先生が作ったのではなくて、彫刻の材料の中にその作品が既に埋もれて存在しているのをその図工の先生が単にその周りの余計な木を削っただけなんですよ」というお話であった。
 私はその時、そんなもんかなと思って聞いていたが、後でデザイナーになった私の友人はその話に痛く感動していた。

 ところで私は最近、会社の仕事で社員の評価制度というのの構築を担当しているが、その社員の評価を賃金や賞与に反映させるシステムがどうしていいのか皆目分からなかった。一応、コンサルタントの先生に何回かレクチャーも受け、それに関する本も読んではいるが、それは割合、一般論であり、それを実際に私の会社に見合ったものにするには暗中模索の所があった。
 取りあえず、7月から12月までの各社員の評価を年末の賞与に反映させなくてはならないのだが、その賞与の決め方がどうにも分からない。ほとほと困ってしまっていたのだった。

 しかし、私はピンと来た。それは今までも賞与は出鱈目に金額を決めていたのではなく、やはり、この人はこれだけの年齢でこれだけの勤続年数があって、これだけの働きをしているからこの位という事で決めていたのである。ただ、それは明確な物差しが無かっただけで、各社員の評価を賞与に反映させるのには今まで何となくやっていたそのやり方が既にあるのだから、後はそれを明確な規則にしてやればいいだけの事だとひらめいたのだった。

 そうしたら、どうしたらいいか自ずと分かって来た。要するに、何もない所から一から私が賞与をどう決めるかという事を考えなくてはならないのだったら、その道の専門家でもない私にはほぼ、不可能であっただろう。しかし、もう既にあるものを私はただ、明文化、規則化すればいいと気が付いたのだった。それに気が付いてからはスラスラと仕事が進み、まともな賞与表が出来上がり、コンサルタントの先生にそれを見せたら、よくこれだけのものを一人で作ったと感心された。

 要するに我らが何かを為したり、作ったり、考え出すということは何もない所から自分の力で作り出したり、考え出したりするのではなく、既に無形の世界にあるものをただ発見し、発見したらそれを掘り出すだけで良いのである。
 スポーツの技などもそうである。スポーツの技、例えばテニスのサービスならそれを素晴らしくうまく出来る様になる為には何もない所から自分が反復練習して行って、うまく出来るようになるというものでもない。自分の中に既にある理想のフォームを度重なる経験と練習の中からただ発見するだけなのである。それを発見したらコロンブスの卵の様にそれ以降は自ずと当たり前にそのフォームを駆使して、素晴らしいサービスを打つ事が出来る様になる。

 全ての良きものはこれから我(が)で構築して行くのではなく、既に自分の中にあるのである。訓練とか修行というものは単にそれを発見して行く作業なのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-10-17 13:12 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

自分の中に無限がある。

 私は生長の家の地方講師をしている。生長の家の地方講師というのは生長の家の一般信徒で本業は普通の仕事をしていて、プライベートの時間を講師として活動している人達の事を言う。いわばアマチュアの講師である。

 ところで私はその資格を大学生の時に取り、それから二十年以上講師活動をしている。生長の家の地方講師は主に誌友会と呼ばれる生長の家信徒の集いに出向き、そこで大体5~6人位の人達に向けて、生長の家の真理の話を一時間位するのである。
 活動している地方講師は自分の教区内の様々な場所で開催されるその様な信徒の集いに毎月、大体1~3回位出向いて講師活動をするのである。

 大体、人前でまとまったきちんとした話しをするのは緊張するものだが、それが一時間も話さなくてはならないというのはけっこう大変である。原稿を一時間も棒読みする訳には行かず、話のプロでもないアマチュアに取っては困難な仕事である。

 私は十五年くらい前に若い女性ばかりの五十人位の講演会で頼まれて講師をした事がある。それはもちろん生長の家の講演会であったが、私はその時、生長の家の青年会という組織の神奈川におけるリーダーをしていた関係でその要請が来たのだが、私はそれをするのに非常に緊張した。
 緊張して話しが出来なくなる事を恐れた私は二百ページはあるその時、テキストに使われた生長の家の本を徹夜で一気に読破して、そして自分としては完璧な原稿を書き上げた。
 そして、準備万端整ったと思って、明け方ちょっと仮眠して、その講演会の講話に臨んだ。最初はけっこう出だしが良く、すらすらと話が出来たが、テーマを変えたのをきっかけとして言葉が出て来なくなってしまった。頭が真っ白になって、言葉がどうにも出ないのだった。それは時計にしたら一分位だったろうが私には途轍もなく長い時間に感じられた。その間、その講演会を主催していたリーダー的女性があからさまに「何をやってるんだ。」という顔つきで私をにらんでいた。

 そうしている内、自分が用意していた原稿に目をやり、原稿をただ足早に棒読みして、その場を取り繕い、そして「これで話は終わります。」と言って、演壇を降りてしまった。私は生長の家の若い女性ばかりいる所で自分を良く見せようとして必死だったが、それが却って仇になり、とんでもない赤恥をかいたのだった。

 その後、私は生長の家の宇治の道場で生長の家の根本、神髄を勉強し直す機会に恵まれ、自分が生きているのは自分で生きているのではない、完全円満の神に生かされているのであると分かった。そして、自分の中に無限があり、自分であくせくしなくても今、そのままで自分の中に全ての良きものがあると悟る事が出来た。

 冒頭でも申し上げたが、大体、人前でまとまった話をするのは緊張を強いられるものである。特に生長の家の真理の話を一時間もしろと言われたら、経験のある人は分かると思うが、もう後がない絶体絶命の心境にまで追いつめられるものである。だから、大抵の場合、生長の家のこの本にはこんな事が書いてありますとか、生長の家の大先生はこんな事を仰っていますとか、真理というものはこういうものだそうですとか何か生長の家の真理を自分とは直接関係ない人ごとのように話す講師の人もいる。

 しかし、生長の家の真理、即ち宇宙に満ちた大真理は自分の命で直接把握して自分の言葉で話さなくてはならない。生長の家の真理の講話をするということは本来それを強いられるものであるから絶体絶命の心境になるのである。即ち自分の生命以外何も頼るものがないという現実を突きつけられるのである。
 昔、女性ばかりの講演会で話をした時の私は自分の中に無限の真理があるという事を自覚せずに自分の外、即ちそれはその時の私に取ってはその講演会に使うテキストであったがそこにあると思っていて、それを徹夜して徹底的に読んで、その要旨を原稿にしてそれを頭に完璧に刷り込ませれば何とか話しが出来ると思っていたが、その記憶が何かのきっかけで飛んだらもう頭が真っ白になって、何も話せなくなってしまったのである。

 人間は神の子であり、誰でも自分の中に無限がある。宇宙がある。全ての良きものが既に今、あるのである。それを自覚する時、そこから必要な時に必要な事はいくらでも得る事が出来る。今、何をどの様にしたら良いか、今、何を話すべきかという事は自ずと内側からインスピレーション的に直感的に感じ取る事が出来るのである。
 それが出来ないのは自分の中に無限があると自覚しない者である。自覚しないから既に与えられていても使いようがないのである。

 私は現在、月に二回位、講師活動をしているが、いつも講話の前は絶体絶命の心境になる。しかし、今の私は神に導かれるまま、必要な文献に目を通し、何を話すかの最低の原稿を要点を書き出して簡単に作成し、後は全て神様にお任せして、うまくしゃべろうとかいい話をしようとか一切、頭を悩ましたり、力んだりしない。そうして当日の講話に臨むが講話が始まったら用意していた原稿さえも捨ててしまう。そして、ただ自分の中の神の生命のみに頼り切り、その導きのままに生長の家の真理の話をさせて頂く。そうするとするすると自分でも感心するような真理の言葉が出て、一時間などあっという間である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-10-12 22:03 | 潜在能力 | Trackback | Comments(4)

そのままでよい(5)

 私はテニスをやっているが、ここでも何回もふれたが、テニスというのは技量的、メンタル的にとても難しいスポーツである。

 私は初めてラケットを握ったのは今から26年前の21歳の時だが、その後、社会に出て、色々と忙しくなって来たので殆どテニスはやっていなかったが、今から約9年前からテニススクールに通い出して、本腰を入れてやるようになった。

 その中でいつも悩むのが主に、サービスの技術的な事である。私は小さい時から家で卓球をやっていたのでフォア、バックのグラウンドストロークは殆ど悩む事なく上手に出来る。しかし、サービスに関しては本当に苦労した。
 私のサービスは確率も良くない、威力もないで、それが試合の時はとても不利になる。だから、サービスの技術を探求し、高める事に躍起になった。しかし、これを無理に我(が)で良くしようとしてもなかなか良くならないのである。

 テニスに限らず、何でも技量的な事のレベルを上げて行くには無理にそれを良くしようとして頭を悩ませても却って駄目である。それは流れに任せて、やって行く内に自ずと出て来るのである。
 即ち、何かの技量を上げていく場合、それを無理に我(が)で良くしよう、うまくなろうとあれこれ、頭で考えたり、又は不得意な部分を良くしよう、良くしようとその事に掛かり切りにならず、それらの技量の上達は全て神様に全託するのが良いのである。
 そして、今、目の前の事を当たり前に心を込めて、どんどん処理して行くが良いのである。そうした中から自ずと必要に応じて、悟りも出て来るし、上達の為のヒント、インスピレーションも出て来る。それは大抵、テニスならテニスの試合を力一杯やって行く中でどうも今までのやり方ではうまく行かないという現実にぶつかる時に出て来る。即ち、今までのやり方ではどうもうまく行かない、失敗するという体験を如実に体験する事で自ずとこうしたら良いという事をインスピレーション的に感ずるのである。それは大抵、以前、うまい人にこうしたらいいと教わったやり方であるのだがその事をそうしたうまく打てない時に何となく思い出す。そうするとその通りやって見るとうまく行く。その時がテニスの技量が進歩、向上した瞬間である。それは自分の中に既にある無限が自分で出て来たのである。それがテニスが上達するという事であり、テニスの達人というのはそうした段階を何回も経て、その技量が相当出て来ている者の事を言うのである。
 
 我らの中には完全円満の神の生命が既に宿っている。それは無限の智恵、愛、生命、供給、悦び、調和そのものである。我らの中には全ての善きものが既にあるのである。そして、それは無限である。だから、何かのやり方が分からなかったり、力が発揮出来なかったとしても我らの中には無限があるのであるから、その中から必要に応じて、自分が今、分からない事、行き詰まった事に関して必要な解決策は自ずと出て来る。
 
 解決策、正しいやり方、ヒントは外に求めずとも既に自分の中にあるのである。自分の中に既にあるのだから、外に求めてあれこれ考えなくても心をそのままにして神様に全託しておれば自ずと神様が教えて下さる。それが即ち、自分の中にある無限を自覚し、そしてそれに信頼し、任せ切るという事である。
  
 それをそう思わないで自分を良くしよう、良くしようとあれこれあくせく行動したり、頭であれこれ考えても決して、自分の中の素晴らしさ、即ち実相は出て来ない。何故なら既にあるのにそれを信じないで外にそれを求めようとするから、その自分の心の通りにその素晴らしさは出て来ない。いくら既に自分に無限が与えられていても、それを信じない者、又は知らない者はそれを使いようがないのである。
 自分を良くしよう、良くなろうということで頭を悩まし、自分の事ばかり考えてそして、今、目の前の事に集中せず、常に自分の心配ばかり、自分の向上の事ばかり考える様になってしまうのが利己主義という事であり、今、目の前の事、相手に対して、心ここにあらずだから、その相手やものごとに対する細かい思いやりも出来なくなるのである。
 
 自分の中に無限があり、それは既に成っているという事を自覚し、その神に全託して、そのままの心になる事が、捨身であり、そして今、目の前の事に対しての集中であり、それが愛他的という事である。その心になる時、自分の中から必要な技量はどんどん出て来て、無限生長し、それは同時に他人に対する思いやりとなる。

堀 浩二
 

 
 
 
by koujihori | 2006-10-09 18:40 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい(4)

 私は一ヶ月位前、会社内でちょっとしたトラブルを起こした。私としてはトラブルを起こしたつもりはないのだが、会社のある従業員との間でトラブルになったのである。
 その人は現場の作業員でもう会社には三十年近く居て、私よりもずっと年上の定年を過ぎて、現在はパート社員の身分の人であるが、私としては仕事の上で納得出来ない事があったから、その人に対して大きな声を出して怒ってしまった。そうしたら、その後、その人は「もう会社なんかやめてやる」と言いだし、給料の締め日の9月20日で会社を辞めると正式に申し出てきた。

 私としては内面的には反省する部分もあった。それは私は会社内では余りに厳しい面があり、他の従業員からも「堀さん、もうちょっと優しく言って下さい。」と言われた事もある。仕事はきちんとやらなくてはならないという気持ちと管理すべき事はきちんと管理しなくてはならないという思いが強かった為に会社の人達の悪い部分ばかり見て、それを厳しくたしなめていた所が多分にあったと思う。私は今回の事を通して、反省し、従業員の悪い面を見て、それを厳しく追及するのではなく良い面を観なくてならないと思った。しかし、それはあくまで私の内面的心情的なものであり、会社の組織的手続き、処置上は自分は間違った事をしていないという確信があった。
 だから、辞めるなら辞めて構わないという気持ちであった。実際、その人に辞められたら会社は困るのだがそれならそれで仕方がないと思っていた。

 でも、実際の所、その人は私よりずっと年上で私が会社に入るずっと前から会社に居た人であるから、そうした人をその様な形で退職させるという事は私としても断腸の思いであったし、社長である父も退職を思いとどまる様にその人に説得していた様である。

 しかし、私はそのままでよいと思った。すなわち神様に今回の事は全てお任せしようと思ったのである。自分のせいでその様な古い社員が辞めるという事は嫌だし、実際辞められたら業務的にも困るのだが、それだからと言って、自分がその人を何とか退職を思いとどまらせようなんてするつもりはなかった。全て神様にお任せしたのである。

 そうしたら、会社の専務である兄が何となくその人の本心を察知して、その人と話し合ってくれたのである。実はその人は一旦、勢いで「辞めてやる」なんて言ってしまったが、実はその人自身も心から会社を辞めたいと思っている訳ではないらしいというのである。私はそんな事は分からなかったがその人とは古いつきあいのある兄はそれを察知したらしく、その人に「勢いで辞めるなんて言っちゃったんなら撤回したら」と促し、そして、その人は結局、会社に残る事になったのである。

 私は真理の事に関しては敏感だが、それ以外の部分はちょっと鈍感な所があるが兄は割合、他人の感情に対して敏感であるから、今回、その人の気持ちを察知して、話し合ってくれたのである。

 私は兄には感謝しなくてはならないと思ったし、何より、私が起こしたトラブルでそういう古い従業員が辞めなくて良かったと思った。
 この様に神様に全託して、そのままにしておれば物事は自ずと好転するのである。それを良くしよう、何とかしようと焦ったり、力むと却って収集がつかなくなるという事を今回、改めて、学ばせて頂いた次第である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-10-07 21:56 | 社会生活 | Trackback(1) | Comments(0)