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一切は自分の心の影

 昨日は児童虐待の事にちょっと触れた。戦後アメリカから押し付けられた憲法や教育が日本人のアイデンティティーを骨抜きにし、肉体の権利ばかり強調するものであるから、現在の様な状況を引き起こしたと書いた。
 しかし、私の友人に昨日の文章についての感想を求めたら、彼女は児童虐待というのは自分が虐待された経験を持つ親がするのじゃないかと言ってきた。確かにその通りである。
 虐待するのは人間の生命の尊さが分かっていないからであるが、それと同時に自分の中に心の傷があって、それで思わず、子供に当たってしまうという親も多いのである。多かれ少なかれ誰でもそういう経験はあるのではないか?
 
 従って、子供を虐待してしまうのは自分の中に自分自身が子供の頃に親から虐待を受けたという記憶が潜在意識にインプットされていれば、本人は本当はそうしたくなくても、思わず虐待してしまうのである。
 何故なら、人間はこれは良いことだから、やろうとかこれは悪いことだから、やめておこうという理屈で動けるものではなく、それが良いことだろうと悪いことだろうと自分の心の中にある事を自動的にしてしまうものだからである。それは潜在意識という所に深く刻まれていて、潜在意識というのは普段意識していない無意識部分であるがそれは表面の意識している現在意識の下層に存在していて、現在意識が意識全体の5%とすればその潜在意識は実に95%を占めるのである。
 だから、表面の意識でこれは良くないことだからやめようと思っていても、潜在意識に児童虐待という記憶がインプットされていれば、自分の意に反して、気が付いたら我が子に手を上げていたなんて事になるのである。

 だから、人間は信仰という事が大事なのである。信仰とは人間とは、この世界やこの宇宙の本質とは何かという事を見極める根本哲学である。そこで人間は本来完全円満の神の生命そのものであり、この世界は本当は神の智恵と愛と生命が充ち満ちている完全円満の世界で悪は本来ナイのであり、この悪と矛盾に満ちた現象世界は本当の実在世界ではなく、我々人類の認識が映っているだけの世界であるという信仰、哲学を持たなくてはならない。
 そうした正しい信仰、認識を持てば、やがてその人の心が変わり、潜在意識に人間は本来立派なものであるという考えが刻まれる。そうなると自動的にその人の行動が変わる。そして、自ずと人を愛さずにおれない、人を幸福にしたくて仕方がないという気持ちになるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-11-30 16:52 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

戦後の日本

 現在のニュースとかワイドショーを観ていると大方、いじめによる自殺とか親による我が子虐待の実態の事をやっている。

 これは明らかに戦後の教育の失敗の結果である。日本は戦争に負けて、アメリカの不当な内政干渉を受け、憲法を一方的に押し付けられ、教育もこれまた一方的に変えられた。
 その結果、日本は教育勅語という教育の根本哲学、人間としての立派な指標を失い、代わりに注入されたのは基本的人権を始めとする権利思想であった。その結果何が起こったかと言ったら、己の肉体の欲望の為なら他の命、近頃は我が子の命まで粗末にし、犠牲にしても厭わないという発想の蔓延である。

 何故なら、人間というものは単純で浅い見方をすれば、単なる肉体であり、その肉体を維持しようとする本能こそが人間の本当の願いであると思いがちであり、何も指針とか哲学を与えられないで権利が大事だと言う思想のみを植え付けられると己の肉体の快楽、快適さを求める事が一番大事であり、戦前の教育勅語に示された所の、親に孝行したり、夫婦相和したり、友達を大事にしたり、我が子を慈しむなんていう肉体に取ってはある面、しんどい事もある事は二の次三の次にしてしまうからである。

 アメリカ人も自由と人権をうたった憲法の元に暮らしているが、彼らには人権やらを超えた生活規範がある。それはキリスト教などの宗教である。宗教という人としての道があるから、彼らはその獣性をそれほどむき出しにしないで済んでいるのである。
 しかるに我が国にはこれと言った宗教は無い。神道があるじゃないかと言うかも知れないが、そんなのは正月に初詣に行く位が関の山であろう。要するに日本人は江戸時代からそうであるが、人々の間に宗教とか信仰などというものをする習慣は殆ど無いのである。しかし、明治維新後の学校教育で大事にされたのは明治天皇のお示しになった教育勅語と天照大神を祖神とした皇統を中心に据えた歴史教育である。それが戦前の日本人の精神的軸と生活規範となっていたのである。
 しかし、戦後はアメリカによってそれらの思想は廃され、アメリカ人が作った憲法と教育が押し付けられたのである。それはアメリカが日本を二度と軍事的脅威としない為の日本人弱体化計画である。
 その元に自由と権利ばかりをうたった憲法を押し付け、そして、教育においては日本人としての誇りを何一つ教えない教育を押し付けられ、それを実際に熱心にやったのが日教組であるが、そうした教育の元に戦後教育が為されて来たのである。そんな事をすれば、人間は肉体の欲望ばかりが解き放たれ、その国は獣の跋扈する地になってしまうのである。

 学校のいじめや家庭での虐待が頻繁に起こる現在の日本は正にその状態であると言えるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-11-29 13:07 | Trackback(2) | Comments(5)

生長の家とは何か

 私は生長の家の信徒である。生長の家とはそもそも谷口雅春という方が昭和五年、今から76年前に創始された。
 歴史的事実はそうなのであるが、それではそもそも生長の家とは何であろうか?生長の家とは一宗一派の宗教ではなく、邪教や外道は別にして、世界宗教と言われる様な数千年の歴史のある全ての宗教、宗派というものの教えの根本は一つであり、共通していて、その共通の神髄を現代語で分かり易く説いているのが生長の家である。
 その真理は人間は本来は完全円満の神の子であるという事、そして肉体を含む物質及び現象は本来存在せず、それは吾々人間の認識の影であるという事である。
 従って、人間は自己の本質と宇宙の本質が本来完全円満であるという事に目覚めればその認識が現象界に反映されて、地上天国が実現するというのである。それを悟り又は解脱と言うのであり、そして、その自覚を全人類に拡げて行く事が重要でそれを人類光明化運動、もしくは国際平和信仰運動と呼んでいる。
 
 そして、生長の家の説く、またもう一つの重要な真理が冒頭で申し上げた全ての正しい宗教の神髄は本来一つのものであるという事である。それを生長の家では万教帰一と呼んでいる。 この事が全宗教の信者に理解されればお互いの宗教を邪教などと言って、排斥し合う事も無くなり、お互いの役割を尊重し合い、尊敬し合える様な世界が到来し、そこに宗教争い、宗教戦争というものが無くなり、世界平和が到来するのである。
 生長の家というものはかくも素晴らしい教えである。従って、私は青年期にこれはどんな人にも伝道して良い、いや、是非しなくてはならないと思って、会社の同僚や友人、親戚、知人に伝道したものだった。

 それはともかくとして、生長の家とは一宗一派の教えではなく、その共通の神髄を説いているという事は先に述べさせて頂いたが、もっと踏み込んで考えれば、生長の家とは全ての全ての事である。
 即ち、そもそも生長の家とは何故、この様な名称であるかというと、生長の家の生とは縦に無限に伸びる時間というものを象徴しており、生長の家の長とは横に無限に伸びる空間というものを象徴している。そして、家というのは家庭の家とも言えるが、そもそもそれは広義には大宇宙を指している。生長の家というのは現象の時間、空間の出て来る本源の霊的実在大宇宙という事である。

 即ち、生長の家とは単なる日本に本部が存在する一宗教団体の事ではなく、その本質は大宇宙そのものの事であり、森羅万象全ての事である。だから、全ての人はそのままで生長の家の人であり、全ての家はそのままで生長の家である。そして、キリスト教も仏教もイスラム教も神道も全てが生長の家の展開である。日本国東京原宿にある宗教法人生長の家本部などは生長の家の運動の単なる地上の事務的執務機関の中枢に過ぎない。
 だから、生長の家とは何も特別の宗教や団体などというものではなく、全ての人類の営み、全宇宙の営みがそのまま生長の家という事になる。

 従って、生長の家とは全人類を救う運動ではなくて、全人類を拝む運動である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-11-27 13:23 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

勇気について(2)

 生長の家の信徒の間ではよくこんな事が言われる。それは生長の家の教えは素晴らしいがそれを実行するのは大変で難しい事であると。これは確かにその通り、難しいと言えば難しいがその反面、簡単と言えば、簡単なのである。

 私は子供の頃から生長の家に触れてきて、色々組織で活動したり、日常生活でも三正行と言って、神想観という瞑想と聖典読誦という生長の家のお経とか本を熟読する事、そして愛行という他の人に生長の家を伝道する愛を実践する事、これらの行をやって来たが、中々悟る事、生長の家の真理を実行する事が出来なかった。
 それで完全に行き詰まったのを宇治の生長の家の道場で榎本恵吾先生の薫陶を受けて、全ては自分という我(が)がやるのではない、自分の中の神様が自分で出て来ておやりになるのだという事に目覚めてから、生長の家の真理の実行に関しては全て神様にお任せして良いのだったと気付いたのだった。それから、とても気持ちが楽になり、自ずと悦びで真理の実行が出来る様になった。

 解脱の為には自分の心でつかんでいるもの、こと、それは自分の肉体であったり、財産であったり、地位、名誉であったり、家族の事であったりするがそれを全て解き放つ事、即ち、捨身をしなければならない。これがおそらく一番難しい真理の実行という事になると思う。
 しかし、それをするのも私という我(が)が頑張らなくてもいいのである。私が頑張って捨身しよう、心のつかみを放とうと頑張るから却って出来ないのである。全ては神に全託するのである。肉体や現象や名誉に執着する自分の心も神様がほどいてくださるのである。
 神様に全託する事である。そうすれば神様が自ずとお出ましになって、我らの迷いを悟らしめ、我らの執着をほぐし、我らは自ずと勇気を出して、真理を実行する事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-11-24 11:57 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

勇気について

 悟りとか解脱とかという言葉がある。これは信仰において一番重要な事であり、この境地を求めて古今東西の求道者は血の滲む様な努力、修行を行って来たのである。

 悟りというのは自己の本質、引いては世界、宇宙の本質とは何かという事を見極め、悟る事である。それが本当に出来れば、全てのものに執着する心を解き放つ事が出来る。それが解脱である。本当に解脱する事が出来れば、あらゆる心の縛りをほどく事が出来る。そうなれば、我々は真に自由になり、元々ある無限力を伸び伸びと意のままに駆使する事が出来る。我々の本質は神であり、無限であり、完全円満であるからである。それを妨げているのは他ならぬ自分自身であり、自分は完全円満でない、ただの物質である、出せば減るし、肉体の生命が尽きれば、その存在も無くなってしまうという迷いの心を持っていれば、自分の肉体を財産を地位を名誉を放すまい、何とか保ちたいと執着する。それが迷いであり、自縄自縛であり、苦しみと恐怖と不安の元である。

 従って我々は正しい信仰を持ち、己の本質は物質ではなく、神であり、完全円満であるという真理を自覚し、物質は、肉体は、現象はナイという事を悟らなくてはならない。そして、その悟りが本物であるならば、自分の全てを捧げ、放つ事が出来るのである。それが解脱という事であり、これが本当に出来ればこんな楽な、悦ばしい事は無い。しかし、その為には勇気を持たなくてはならないのである。自分が今、このままで完全円満な生命で今、このままで無限力であると真に自覚すれば、全ての心のつかみを放ち去る事が出来るのである。そして、その心のつかみを放つという事は勇気を出すという事である。今までこれが大事じゃ、私の肉体が大事じゃ、私の財産が大事じゃ、私の地位、名誉が大事じゃとこれを実在するとして何とか保とうとして放つまいとしていたのを全て、捨てるのである。これが心のつかみ、即ち自縄自縛をほどくという事だが、これは本当に勇気が要る。一筋縄では行かないのである。

 しかし、我々はいつかはそれを実行しなくてはならないのである。そうでないと自分が今、このままで完全円満な生命であるという自覚が本物になり得ないからである。大東亜戦争中の日本軍の特攻隊は国の為に自分の肉体を捧げる事でこの解脱を急速に行った方達である。そして、その死後はその魂は悟りを啓いて、天界に生まれ変わったのであるとは生長の家創始者、谷口雅春先生も仰られている。

 戦争は悲惨で異常な状態かも知れないがこうした非常事態においては特攻隊の方達の様に急速に悟りと解脱が進む事もあるのである。
 しかし、現代の様な平和な世の中ではそうした機会は中々無い。しかし、各自の人達の無限向上を願う魂は自ら色々な人生問題を作り出して魂の生長をしようとしているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-11-24 11:44 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

真の愛行とは(5)

 今回はちょっと生長の家の組織の活動をしている人を対象にして申し上げる内容になってしまうので、そうでない方はちょっとご勘弁下さい。

 生長の家の会議とか決起大会で誰か活動者が壇上で決意発表する時にその締めくくりとして「私はこれから人類光明化の為に身を粉にして全身全霊頑張ります。」などと発表するが、私はそれがどこまで実際、そんな事が出来るのだろうといつも疑問に思っていた。我々生長の家の組織の活動者は生長の家の組織活動ばかり朝から晩までやるわけではなく、仕事もやらなくてはならないし、家庭生活もあるし、趣味だってしたいだろうしといつもそんな事を考えていた。
 全てを生長の家の人類光明化運動に捧げますなんて実現不可能な嘘ではないかと思う反面、でも本当はそうしなくてはならないとも思うし、でもそんな事は自分にはとても出来ないとも思っていた。

 私は子供の頃から母親の影響で生長の家の信仰に触れていて、大学3年生の時から生長の家の青年の組織である生長の家青年会に入った。
 そして、池袋単位青年会委員長というお役を頂き、その後、光明実践委員という青年講師の資格も取らせて頂き、その後、中高生育成指導部長、それから教区青年会委員長、そして光実議長と青年会のお役は一通りやらせて頂いた。

 私は生長の家の教えは人類全体に伝えるという事が当たり前の生長の家信徒としての道であり、だから、組織に入って、伝道活動をするのは当然であると思っていたのだった。しかし、そういう正義感というか使命感のかたわら、やはり大学生の時代とか社会に出てからも色々生長の家の組織活動以外に自分のやりたい事が沢山あり、私はテニスとか野球とかスキーを大学の時に始めたのでそれをやりたくて仕方が無かった。
 だが、人類光明化運動を寸暇を惜しんで自分の時間と資金を捧げてやらなくてはならないと青年会の研修会などでよくたたき込まれたのでそうした自分の趣味とか遊びなどの生長の家の活動以外の事に時間と金を使う事が何か罪悪の様に感じられた時期が割合長く続いた。
 頭では人類光明化運動の為に全てを捧げなくてはならないと思いながら、感情的にそれ以外の自分のやりたい事をやりたいという衝動との狭間で随分苦しみ、人類光明化運動に捧げきれない自分自身を審き続け、どうにもならない状態になった事もある。

 しかし、その後、宇治の生長の家の道場で私の生涯の師、榎本恵吾先生の薫陶を受けて、「自分の中に神の国がある」という事に目覚めてから、自分の中のそのままの希望を生かすことがそのまま神の希望を生かす事であるという事に気が付き、それからは素直に自分の中の希望、やりたい事を伸び伸びと伸ばす生き方をするようになった。
 人類は自分が気張って救おうとしなくても既に神様が救っておられる。全ての罪も既に神様が消して下さっている。ああ、有り難いという事に気が付いてから、私に大安心と心の底から悦びが生まれ、そして何か脅迫的に義務感でやらされる活動、行動ではなくて内側からほとばしる真の悦びの感情、本当にこれがしたいという心で愛行が出来る様になったのである。
 自分の本当にやりたい事を自由に自分の個性を生かしてやって行き、心から悦ぶ事が真の生長の家の運動である。

 従って、私の愛行、人類光明化運動というのは生長の家の教化部に行って、組織の会議や研修会に出たり、何かの行事の参加促進をしている時だけではなく、今、そのまま一日、24時間全てが生長の家の活動である。趣味のテニスをしている時も、会社で仕事をしている時も、地元の仲間と野球をやっている時、英会話の仲間と共に学んでいる時、そしてたまにその仲間と飲みに行く時、全ての時間が人類光明化運動である。何故なら私は「人類光明化運動」そのものであるからである。
 そしてその自覚を得る事がそのまま人類光明化運動に全身全霊を捧げるという事であると思う。

堀 浩二 
 
by koujihori | 2006-11-20 22:35 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)

人は何故謝れないのか?

 日本教文社の本で「人は何故謝れないのか?」という本がある。これは生長の家の人が書いた訳ではないが、中々興味あるタイトルである。

 その内容はまだ読了した訳ではないから、完全には分からないが、パラパラと流し読みした所によるとどうも人間は何か悪いことを本当にしてしまって自分にその責任があると思うと却って中々謝れないものであるという事の様である。
 アメリカが大東亜戦争末期において、日本に原子爆弾を二個も落とした事に関して謝罪した事はないし、これだけではなく、人類史上、残虐な事をしてしまった張本人が謝る事が出来た事は殆ど無いと思う。
 かつてエイズ薬禍で当時の厚生大臣の菅直人が厚生省の落ち度を認め、謝罪した事はあるが、私が思うに菅氏は直接の当事者ではないから謝れたのではないかと思う。人間は本当に自分が恐ろしい事をしてしまった場合、その責任を認める事が恐ろしいから大抵、謝る事が出来ないのである。
 だから、クラスメートをいじめて自殺させてしまったとか少年同士のリンチで殺してしまったなんていう事件があった場合、大抵はその加害者本人は被害者の家族に謝りに来ないのである。

 しかし、罪を犯したという記憶は本人の潜在意識に刻まれていて、それがずっと後になって本人に自己処罰を与える。それが何らかの病気であったり、悲惨な運命にあったり、例え死ぬまでそういう事にならなかったとしても死後やその次の生まれ変わりの人生でそうした自己処罰の為の悲惨な運命をその本人にもたらす。

 だから、キリストは万人の贖罪をその一身に背負って、万人の身代わりとなって十字架に掛かった訳である。従って、キリスト教ではキリスト教に入信してキリストに帰依すれば罪は赦されると説くのである。

 生長の家ではまた一歩踏み込んで、罪というものは本来存在しないと説くのである。
 誠にも罪というものは存在しない。今、このままで。それが実相である。人間が色々現象世界で罪を犯す様に見えるのは人類が人間とはそもそも罪のあるものだという認識が映っているに過ぎない。
 生長の家の教えを素直に受けて、罪ナシと悟れば、今このままで自分が一度も罪を犯した事がなかったという実相が自分の眼前に浮かび上がるのである。

 罪が本来ナイという事は具体的に言ったらどういう事かと言ったら、自分が過去に犯した罪は神様が消して下さるという事である。神に全面的にお任せするのである。
 私はかつて12年位前に車を運転していて自分の不注意から当時20歳位の女性の運転するバイクと衝突事故を起こした事がある。女性はひざの靱帯を断裂し、もうスポーツなどは出来ない体になってしまった。
 私は相手の家に何回も謝りに行き、生長の家の本なども数年間送り続けた。しかし、どうしても自分の罪の意識が消える事は無かった。

 しかし、先日、ある機会で偶然、同じように膝の靱帯を断裂した他の女性に会って、話を聞く機会があったが、その人はこの前、膝の靱帯の手術をして、大した傷も残らず完治してスポーツなども自由に出来る様になったというのである。
 医学が進歩して10年位前から靱帯断裂の手術の仕方が変わり、現在は内視鏡を使った手術により、手術跡は殆ど残らずに、手術後もスポーツなどの激しい運動も可能な様になったのだそうである。
 私が事故を起こしたのは約12年前でその時は手術すればひどい傷跡が残り、手術してもまた断裂する可能性が高いので私の事故の相手の女性は手術しないと言っていたのである。
 でも、その後、数年で医学が進歩して膝の靱帯の断裂も完治する様になったとごく最近、私は知ったのだった。だから、私の事故の相手もおそらく進歩した医学の恩恵を受けて今は完治しているかも知れない。

 この様に自分の犯した罪は神により、癒され、消されるのである。それを本当に自覚すれば、具体的に現象的に自分の罪が消える時が来る。その事が分かれば、人間は素直に自分の犯した過ちを心から反省し、謝罪する事が出来ると思う。

堀 浩二
by koujihori | 2006-11-16 12:15 | 信仰 | Trackback | Comments(3)

真の愛行とは(4)

 生長の家では愛行という事の尊さと大切さが強調されている。今の世相を見るにつけ、その多くの人が自分可愛さという事を第一にして行動しているようである。だから、世の中が乱れるのである。
 愛行とは自分の利己主義で動くのではなく、自分の事は二の次にして人の幸福の為を第一に考えて行動する事である。だから、現在の乱れた世相ではこの愛行という事が非常に重要になってくるし、世界平和も自国の事ばかりを第一に考えているから軍拡競争になり、北朝鮮が核兵器を持ったら、それに対抗して我が日本国も核兵器を持つべきだなんて考えも出て来る。でも我が国が核兵器を持ったら、韓国や台湾などでも自分達もという事で核の連鎖が起こるであろう。

 話は横道にそれてしまったがこの様に自分より相手の為を思って行動する事が言うまでもなく大変重要な事であり、そしてこの愛行こそが生長の家の人間神の子の悟りを啓く為の重要な要素という事になる。

 さて、先日、生長の家講習会が横浜アリーナで生長の家副総裁の谷口雅宣先生のご指導により行われたが、そこで先生はある参加者からの「人間が神の子で善であるならば何故悪事を犯すのか」という質問に対し、「人間は何か他からの強制ではなく自分の意志で自発的に進んで善を為してこそ、それを本当の善行というのである。だから、自分の意志で悪を犯す自由も与えられている。」というお答えであった。

 生長の家は「こうでなくてはならぬ」というとらわれを解放する教えである。人間は人がやるから、こうしなくてはいけないからという理由で仕方なしに善をしている様ではまだその善の行い、愛行は本物ではないのである。それは自分は本当はそうしたくないのだが、外側から強迫され、強制されて仕方なくやる愛行である。それは「願無き行は仏の魔事なり。」という教え通り、本当の愛行ではない。

 我々はそのままで何ものにも外側から強制されなくても内側から人に尽くしたい、愛を与えたいという思いがあふれ出てくるのである。何故なら我々は内側に善なる愛なる無限の神がおられるからである。
 それは常に内側から人をただ愛したい、人にただ与えたいという愛念が溢れて来るのである。それが自ずとほとばしりいづるのが真の「悦び」というものである。こうでなくてはならぬという冷たい義務観念ではなくて、そのままでいて、内側から自ずと湧き出て来る神の愛の心を活かす愛行はそのまま悦びである。そうした愛行こそが真の愛行である。

堀 浩二
by koujihori | 2006-11-14 08:56 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

丑三つ時は最も暗い(2)

 私は朝風呂に良く入る。というのは夜はビールを飲んでテレビを見ながらひっくり返っているとそのまま寝てしまうか、そうでなくてもかったるくて夜は風呂に入る気がしないからである。

 そこで今朝も朝風呂に入ったが、そこで私は重大な真理を知らされた。それは風呂の天井の蛍光灯がスイッチを入れた後、数分間チカチカ光ってそれがなかなか収まらなかったのである。多分、蛍光灯が故障しているからだと思うが、完全にパッとつかないでその手前でしばらく力無くチカチカしていた。その間、風呂場内は全体がチカチカ光って、ちょっと不快な落ち着かない感じであった。
 私はその間、ずうっとそのチカチカ光る蛍光灯を浴槽に入りながら、見つめていた。そうしたら今までチカチカ力無く光っていた蛍光灯がとうとう光が完全に消えたのである。しかし、そう思ったらその直後、パッと今までとは比較にならない様な明るい光となり、それきり、正常に本来の蛍光灯の明るい光が安定的に灯り、部屋は明るく快適な空間となった。

 私はその時、はっと思った。スイッチを入れた数分間、蛍光灯は力無くチカチカしていたが、完全にその光が消えて、真っ暗となった直後、パッと正常に光が灯り、きちんとついたというのはこれは人生と同じだと思ったのである。

 努力し続けたことが本当に開花したり、長年の苦労が報われる時、又はものごとが本当に良くなる時というのはこの様に本当に良くなる直前が一層、悪くなる時なのである。
 それはいくら努力しても何となくうまく行かないで冴えない状態、おもわしくない状態がしばらく続き、それどころか一層、一番悪くなる時が来る。大抵の人はこの時にもう駄目だと思って、ものごとを投げてしまう。
 しかし、実はこの一番悪くなる時というのは本当に良くなる時の直前なのである。何故なら、この蛍光灯の様に本当にパッと明るくなる為には一旦、真っ暗にならなければならないからである。テニスや野球などでも一番、効果的な打撃を加える時は一旦、バックスイングと言って、ラケットやバットを引かなくてはならない。ラケットやバットを後ろに引くという事で初めて、その戻る反動の力で効果的なスイングが出来る。

 それと同じで一番ものごとが絶望的で悪くなる時というのは本当の飛躍のそれは実にその為のテニスや野球でいうバックスイングなのである。蛍光灯も本当に明るくつく為には一旦、真っ暗にならなくてはならない。

 誠にも人生というのはそういうものなのである。私は子供の頃から長年生長の家を触れて、どうにかやって来たが、それに行き詰まって、本当に真っ暗闇になって、もう駄目だと思った直後に最高の悦びの悟りを得る事が出来た。それ以来、約十年、色々紆余曲折はあったがずうっと悦びは続いている。

 今、世の中ではいじめの問題とか履修漏れの問題とかで生徒ばかりか先生も自ら生命を絶つなんていうニュースを良く耳にするが、人生を投げる前にもうちょっと辛抱して、頑張ってもらいたいと思う。必ず道は開けるのである。
 何故なら、人生というのは全て自分の心が作るものであり、如何なる人生問題であろうともそれは具体的に存在するものではなく、自分自身が作った自分自身の生長の為の問題であるから、必ず解決出来るからである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-11-09 22:12 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

出来るということ

 私は英会話を十年以上やっている。最初は生長の家副総裁の谷口雅宣先生が生長の家全国大会という大会で青年向けに「青年はこれからは英語を勉強することを勧める」と仰ったのがきっかけで始めた。

 始めは会社帰りに行ける場所にある英会話学校に週一回通っていたが、その内、英検一級受験クラスにも通う様になった。
 私は一応、英会話の先生の言っている事位は何とか分かる様になったが、それは外国人の先生があくまで日本人の生徒用にゆっくり分かり易く話してくれるから分かるのであって、実際のアメリカ人がお互い、雑談している話などは端で聞いてて殆ど分からなかったので自分の英会話の力は実際には役に立つレベルになっていなかった。
 英検一級レベルと言ったら、外人同士の会話とかも分かる位のレベルであるから、いつまで経ってもそれが分かる様にならない自分はもう駄目ではないかと思った。

 私の知人で英会話というのは誰でも出来るわけではなく、才能が必要なんだという持論を持っている人がいる。私はそれを聞いた時はそんなバカな、アメリカ人やイギリス人は誰でも皆、英語をしゃべっているじゃないかと思っていたが、その後、それも一理あると思う様になった。
 才能というのは要するに能力の事である。我々は何をするにも能力が必要である。歩く能力の無い者は歩く事は出来ないし、当然、話す能力の無い者は話す事は出来ないのである。
 それならアメリカ人やイギリス人は何故、皆誰でも英語を話せるかと言ったら、それはアメリカ人やイギリス人の全てに英語を話す能力、即ち才能があるのである。
 という事は人間は全ての人間が英語を話す才能があるのである。要するに私の知人の言っている英会話の出来る人はその才能のある人だけだと言う論理は確かに正しいが、それは全ての人にその能力が宿っているという事なのである。

 しかし、日本人で英会話を勉強している人で出来る人と出来ない人に差がつくのは何故かと言ったら、それはその人が自分にはその能力があると自覚しているかしていないかの差、これ一語に尽きるのである。
 ここでも何回も言っているが、人間は本来無限の能力があるがそれを自覚していれば使えるし、自覚していなければ使う事は出来ない。それは恰も百万円の宝石がコートの内側に縫いつけられているとして、それを知っている人はそれを使えるがそれを知らされていない人は現にその百万円の宝石が縫いつけられたコートを着ていてもそれを取り出して使う事が出来ない様なものである。

 要するに何かを出来るという事はそれを出来ると自覚しているか、していないかの差なのである。我々は神の子であるから始めから無限の力を内在させている。誰でも何でも出来るのである。それもたった今である。それを自覚する者はたった今、その力を使う事が出来るのである。

 でもそれを自覚していない人でもそれを使わなくては死んでしまうという絶体絶命の窮地に立たされれば自ずとその力を使う様になる。それが火事場の馬鹿力というものである。アメリカに仕事で赴任した様な人で、大して英会話が出来なかった人が周りがアメリカ人ばかりで英語を話さなかったらどうにもならないという窮地に追い込まれれば、その人は英語を話す様になるのである。それはもう後がないという背水の陣をしいた事からその人の中から本来の神の子無限力の力が出て来たのである。

 今、既に無限の力があるというなら何も努力もしないのか、しなくても流ちょうにすぐ英語が話せる様になるのかと疑問に思う人がいるかも知れない。しかし、今、既に出来る力があると本当に自覚すれば、以前より増してより英会話を勉強するようになるのである。何故なら、今、分かると思えば、どんどんCNNの放送を本気で聞くようになるし、英字新聞などもどんどん読む様になるからである。それは今、出来ると思うからこそそうするのであって、どうせ今の私には分からないと思っている人は英字新聞などどんどん読もうとはしないし、CNNも真剣に聞こうとはしないのである。何故なら前述した様に自分にはその能力があると自覚すればそれを使う様になるし、自覚しなければ使わないからである。その能力をどんどん使うという事は結果的にどんどん練習するという事である。そうして行く内に語彙はどんどん増えて、単語も沢山新たに毎日覚えて行くだろうし、そうして行く内にアメリカ人やイギリス人に引けを取らない様な英語力がついて行くのである。

 お陰様で私はその事が分かってから前より大部、外国人が実際、普通に喋っている事が理解出来る様になったし、英字新聞なども読める様になった。

堀 浩二
by koujihori | 2006-11-07 12:06 | 潜在能力 | Trackback(1) | Comments(0)