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天国からの手紙

 昨日、フジテレビ放映の江原啓之「天国からの手紙」を観た。結論から最初に言うと大変良かった。

 現在、スピリチュアルブームということで「オーラの泉」という番組なども出来、これは昨日の番組に出演していた霊能力者の江原啓之氏と美輪明宏氏が芸能人やスポーツ選手をゲストに招いて、色々とその人の前世などを言い当て、どう生きたらいいかとかというアドバイスをするのである。死後の世界とか先祖の供養の大切さなどは他にあの細木数子氏なども盛んにテレビで言っており、私はこういう事は人間は肉体ではなく、死んでも死なない生命であるという事を世間に広める為にいい傾向だと思っている。

 さて、冒頭で述べた昨日の番組「天国からの手紙」は病気や事故やその他、悲惨な殺人事件で死んだ人の霊を江原啓之氏が呼び出し、そして霊視し、その霊が残された家族に対して、何を言いたいのかという事を家族の代わりに聞いて、それを家族に伝えるという内容のものだった。

 そして、各ケースに共通しているのは皆、成仏出来ないで死んだ今でも家族の周りにまとわりついたり、家に留まったりしているのである。それはどうしても家族に伝えたい事があるからの様であった。
 若くして幼い子供を残して、病気で死んだり、また、悲惨な事件に巻き込まれて死んだり、殺されたりすると、残された家族の悲しみとくやしさと絶望は尋常なものではない。しかし、そうしているとその死んだ霊がその家族の事が心配で成仏出来ないのである。

 娘を異常者に殺された母親など、事件の判決が出たら自分も死ぬつもりでいたそうである。しかし、それでは却って娘は浮かばれてはいなかった。江原氏が死んだ家族の霊が何を家族に訴えたがっているのかを伝え、江原氏のアドバイスにより、残された家族がそれぞれの一見不幸に見える事件や事故や死を乗り越えて、そこで示される人生の教訓を受け取って、力強く前向きに生きていくと決意するとそれまで成仏出来ていなかった霊達が皆、安心して成仏して霊界に移行して行くのである。

 江原氏はこう言った。本当の供養というのは単に墓参りに行くとかという形式だけではなくて、残された家族が亡くなった霊に心配をかけない生き方をする事だと。即ち、死んだ事をいつまでもくよくよ悲しまず、家族の死を乗り越え、それを大切な教訓として、生き生きと人生を生き、本当に幸せになる事が本当の供養だと言う事である。
 これは本当に私もそう思った。また細木数子氏も本当の親孝行は子供が生き生きとして幸せになる事だと言っていたが、何か双方、共通するものを感じる。

堀 浩二
by koujihori | 2006-12-27 09:26 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)

 現在の日本はいじめと虐待の問題が言われている。そして、何か犯罪の内容も昔に比べて、凶悪になっていると思う。先生はいじめられている子供を守ろうとはせず、一緒にいじめに加わる事もあるようだし、産業界も何か目先の利益追求で弱肉強食の傾向がより強くなり、弱い立場の人間が切り捨てられるような非情な世界になっている感じである。
 いざなぎ景気以上の好景気などと言うが、そんなのは大企業ばかりが潤い、中小、零細企業の犠牲の上に成り立っている虚構の代物ではないか?町の商店街は寂れる一方だし、その他、建設業界では聞くところによるといいのは大企業だけで中小企業、零細企業はもう殆ど壊滅状態だそうである。
 また、一般的に日本の若者全体も性質は悪質になって来ている様な気がする。犯罪が悪質になって来ているというばかりでなく、良く言われるニートなど自分の一生を投げ出した様な若者が多く出て来て、30歳過ぎても、何もしないで家でぶらぶらして、それを親が養っているという有様である。

 暗い事ばかり書いてしまって、申し訳ないが、私はこれは日本社会全体に「夢」が無くなった事が大きいと思う。二十年位前までの我が国には現在と比べて、遙かに活気があった。多くの若者は希望と夢を描いて、進学、就職、そして結婚し、幸せな家庭を築こうという気概がその当時はまだあった。現在の若者はその「夢」とか「希望」を抱いてる者は非常に少ないのではないか?

 高度成長時代の日本は目標があった。より豊かな未来を心に描いて、若者達は皆、一様に夢を描いていたと思う。それが現在の若者はそれを描く者が殆ど少なくなった。そして、若者達は精神的に漂流し、人生設計も行わず、経済的に豊かな親にいい年になっても養ってもらって、ただ刹那的に物質的な欲望を満たしていればいいと虚無的な生活を送っているのである。

 どうしてそうなってしまったのか?それは現在の日本に唯物論が蔓延しているからである。人間は神の尊い生命を宿した素晴らしい存在であるという理想が無く、人間は唯の物質の塊でつまらない存在であると思っているのである。だから、自分を、そして自分の人生を尊び、大切にする事も知らず、他人の生命や人生も同様に大切に出来ないから、いじめの仕方が陰湿、残酷になる。そして、その相手を死に至らしめ、平気で他人の人生を奪って、にやにやしているのである。

 日本人は戦争に負けた事により、その反動により今までの日本というものを全て悪であると否定してしまった。そして、国の理想、日本人であることの誇りをあらかた、捨ててしまって、その代わり、自虐観念を植え付けられた。
 そこに入って来たのは唯物論である。理想を失った人間が陥る先は人間はただの物質の塊であり、その肉体の欲望を満足させる事で事足れりという虚無主義である。
 そのなれの果てが今の日本人の姿である。企業は目先の利益のみを追求し、弱者を平気で切り捨て、教師は教育者としての人格の高潔さを放棄し、いじめられている生徒を自分が楯になって守ろうともしない。そして、若者は夢を失い、人生に目的も持たず、毎日、無為にただ自分の勝手な欲望のままに生活し、精神的漂流を続けている。

 私は今こそ、日本がそして、特に若者に取って必要で大事な事は「夢」や「理想」を持つという事であると思う。しかし、人間はただの物質の塊に過ぎないという唯物論からは「夢」「理想」即ち、「公の為に自分の個性と力を生かして、お役に立ちたい」という願いはどうしても出て来ないのである。

 人間はただの物質ではなくて、一人一人が完全円満なる無限に尊い神の生命を宿し、それぞれがその人でなくてはならない素晴らしい存在であり、使命を持っているという真理が人々の間に芽生えなければいけないと思う。

堀 浩二
by koujihori | 2006-12-25 10:16 | Trackback | Comments(4)

人間の力などは大したものではない

 世の中にはよく、宗教は弱い人がやるんだ、自分だけの力では生きられないで、他のすがる何かに頼らなければ、生きられない弱い人がやるんだという事を言う人がいる。

 そして、宗教というものは一度入ると抜けられないイメージがあり、そんなこんなで宗教というものを毛嫌いする傾向があるようである。何を隠そう、私もそうであった。だから、私は昔、自宅に宗教の勧誘の人なんかが来るとにべもなく冷たく断ったものである。

 しかし、よくよく考えてみると本当の信仰というのは決して、弱い人間がやるのではない。却って無限に強い人間がやるのである。ただ、自分は力がある、自分は頭がいい、自分には健康上も、経済上も何も問題がないと思っている人は却って、真の信仰に目覚める事は難しい。
 この事をキリストは「富める者が神の国に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しい。」と仰ったのである。自分は肉体であって、その肉体人間として、適当に能力もあるし、健康も問題無いし、その他家庭生活、社会生活も大した問題なく、過ごせていれば、それでいいと満足して、真の信仰に振り向こうという気にならないものである。

 そんな人が宗教している人を見て、宗教に頼るのなんて、弱い人間のやる事だと言うのだと思う。しかし、実は人間の力など大したものではないのである。人間は近年、慢心して、クローン技術なども考えだし、生命さえも自由に操作出来ると勘違いしている。そして、人間の欲望と金儲けの為なら地球環境を自由に自分達の都合のいいように破壊してもいいと思っている。しかし、そんなものではないのである。人間は自然環境の一部であり、生態系の一部に過ぎない、そして、いくらクローン技術だなんだと言った所でそれは本来の自然の生命体を勝手にいたずらしているだけの事で、人間の力で生命体を本当に作り出すなんて事は出来ないのである。
 この様に慢心して、自然を破壊し、生命を冒涜すれば、自然の一部である人間も生存する事は出来ないのである。

 繰り返して言うが、人間の力など所詮、大したものではない。人間は自分の力では絶対に一瞬たりとも生きる事が出来ないのである。人間を生かしているのは大宇宙を完全円満な形で内側から生かしている神である。
 我々は如何なる努力をしても、念力を使っても自分の力で生まれて来る事は出来なかったのである。自分の力で努力して、肺臓や心臓を動かし、夜眠ること、食事が当たり前に食べられる事等々の当たり前の生理作用は出来ないのである。

 我々は内側から完全円満なる神にただ生かされているのである。そして、その完全円満なる神は全宇宙に充ち満ちていて、無限の叡智そのものであるから、我々一人一人はおろか、全宇宙の全ての生きとし、生けるものを調和ある姿で生かしておられるのである。それが宇宙の真の姿である。それを生長の家では実相世界と呼んでいる。
 この現象世界は我々の認識が単に映っているだけの世界であるから真に存在する世界ではない。本当の世界の影の様なものである。我々は正しい信仰を持って、真に存在する完全円満なる実相世界、実相の大宇宙を悟れば、現象の世界にもその通り、調和した世界が出て来る。その真理を悟る事が真の信仰を持つという事である。
 従って、この真理を悟ったものは大宇宙を自分のものとする事が出来るのである。だから真の信仰を持ったものほど、強いものは無いと言えるのである。

 現在の自分に絶望し、現象的ににっちもさっちも行かなくなった人は肉体人間の力に見切りをつけ、真の信仰に入るチャンスにある人であるから、こういう人の方が神に近いのである。それをキリストは「悦べ、悲しめる者よ。神の国は汝のものなり。」と言われたのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-12-22 14:53 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

天国への階段(2)

 「天国への階段」という話がある。それは天国というものが今、ここにあるのではなくて、天国というものは自分の遙か上空の高さにあり、そこに到るには天国への階段を一歩一歩、注意深く昇っていかなくてはならないという考え方である。その階段を自分が努力して、注意深く必死に足を踏み外さない様にして、一つ一つ昇って行くと段々天国の入口が見えて来るが、後、一歩という所でちょっとした気の緩みから足を踏み外して、奈落の底に墜ちてしまうという話である。

 これと同様に宗教をやる人の中には自分が神の国に入る為に日々、善行を積み重ね、宗教的修行に励み、決して罪を犯さない様に注意深く、暮らしていけば、やがて、神の国に到達出来るだろうと思って、毎日、あくせく努力している人がいるが、こういう人に限って、後一歩の所でちょっとした肉体の誘惑や自分の激情に負けたりして、墜落してしまうのである。

 しかし、これはどうしてそうなるのであろうか?それはその人が本当の真理を悟っていないからである。天国即ち、本当に存在する完全円満の実相世界というのは自分があれこれ、切磋琢磨して、そのお陰でやっと到る事が出来る所にあるのではなく、今、このままで我ら一人一人の中にあるのである。それは今、ここがそのままで天国、神の国、完全円満なる実相世界であるという事である。これから、天国に到るのではないのである。今、既にここが天国であり、神の国である。それが観えないのは自分の眼が曇っているのである。それを観る為の行が生長の家の神想観である。

 我々はよく自分はあんな失敗をしたから、人生に失敗したとか、あんな罪を犯したから、自分は幸せになれない、天国に到る資格が無いなどと言うが、それは皆、間違いである。それは皆、自分と神の国、天国というものを分離したものと考えているからである。
 そういう考えの人は自分を天国に到らせる為に自分を良くしようとするのであるが、そう考える事が既に自分と神の国を分離させる考えである。だから、我々は今、このままで神の国にいて、全ての罪が神により、消され、完全円満な存在として赦され、祝福されているのに拘わらず、勝手に自己限定して、自分はまだ駄目だ、まだ罪があると思って、一所懸命、良くなろう、罪を消そう、罪を犯さないようにしようとあくせくするのである。しかし、結局、その心の通り、自分に罪を起こさせ、病気を引き起こし、堕落せしめるのである。それが後一歩の所で天国への階段から落ちるという事である。

 自分はまだ神の国にいない、まだ駄目だ、まだ罪がある、良くなろう、罪を消そうという心は今の自分は悪であり、罪人であり、失敗者であると認める心であるから、その心通り、本当は今、このままで神に祝福され、愛され、全ての罪が消されているのに、罪ある姿、失敗する姿、病気ある姿が現れて来るのである。何故ならばこの現象世界は我々の認識が映っている世界であるからである。

 ちょっとしたうっかりミスで奈落の底に墜ちてしまうなんて事は神様の世界には無いのである。神様は我らの過ちを赦し、罪を消して下さるのである。だから、有り難いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-12-19 17:53 | 信仰 | Trackback | Comments(3)

そのままでよい(5)

 私はここ最近、会社で様々な問題を抱えていた。ここで具体的に述べる事はちょっと出来ないが、人事の面、給与の件、その他様々で非常に難しい決断を迫られる問題があった。

 私の会社は50人そこそこの中小企業だが、大手の会社の下請けではなく、独自のアイデアと技術力で独り立ち出来ている会社である。創業者は私の父で私は28歳の時に父の会社に入った。そして、現在は総務関係の責任者を務めている。
 そこで私は色々な経営的な面で従業員達と会社のヘッド(父と兄だが)の間に入って、問題を抱える事がある。

 それらはあっちを立てれば、こっちが立たずという様な事もあり、非常に難しい決断を迫られるのである。機械や物が相手ではなく、人間が相手であるからである。
 私の役目は会社に色々な個性の人間がいるが、出来るだけ、その良い所を生かして、その力を発揮してもらって、良い会社にして行く所にあると思う。
 しかし、従業員はもちろん人間であるから、それぞれの思いがある。それを損なわない様にして、かつ全体の為に戦力となってもらう為には中々一筋縄では行かない。そんな場合はただ肉体の頭脳智だけに頼っていてはとても乗り切る事が出来ないのである。

 私はここ数ヶ月間抱えていたそうした諸問題をどうしたらいいかと考えるに、全てを神様にお任せしたのである。
 この世界は単に我々の認識が映っているだけの世界であり、真に存在する世界ではない。だから、如何なる問題みたいに見えるものであっても、それは神様の目から観れば、たった今、ナイのである。だから、これを自分が心でつかんでこれから解決しようとする必要は無い。
 否、却って、我々が「これは問題だ」と心でつかんで、これを解決しようとすると、心で問題を描く事になるから、問題は解決しないのである。
 問題は存在しないのである。だから、我々はただ心を静かにして、我らの内側におわします全知全能、無限なる神から自ずと湧き出てくるアイデアに耳を澄ませば良いのである。

 私は何か問題を抱えていて、自分の頭ではどうにも解決が出来ない様な事が現象的に現れて来ても、それを神様に全託する気持ちで就寝するのである。そうすると翌朝、目が覚めて、意識がぼーっとしていると自ずから何となく、こうすればいいというアイデアが内側からぽっと思いつくのである。
 そして、今回もそうして、ここ数ヶ月間抱えていた会社内の非常にデリケートで難しい人事面の問題がそのアイデアを素直に実行した事により、嘘のようにすんなりと解決したのである。誠にも問題はたった今、本当には存在しないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-12-18 13:12 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

その時の事はその時の自分に任せる

 皆さんも良く経験される事も多いと思うが、ものごとというのは「案ずるより生むが易し」と言うことで事前にあれこれ心配したりする事があっても、実際、経験して見ると大した事が無かったという事が多い。また、誰かに何か変な事を言われ、その時、とっさに自分が相手に言った行動、取った行動があったとして、でも後から振り返ると「あの時、こう反論すれば良かった。ああ言い返してやれば良かったのに。」などと一人で考えてだんだんはらわたが煮えくり返って来たなんて事がある人もいるのではないかと思う。

 生長の家の教えには「取り越し苦労する無かれ」というものがあるが、この「取り越し苦労」というのは、現在ではなくて、将来の事を心配する心である。人間は「今」に生きておれば、「取り越し苦労」する事も無いのである。だから、生長の家には「今を全力で生きるべし」という教えもある。
 
 我々は将来の事や過去の事に心を引っ掛からせるとろくな事を考えないのである。我々の叡智は「今」にしか働き得ないのであり、我々の力は「今」にしか行使出来ないのである。 今を生きないで過去とか将来に引っ掛かるのは我(が)の心であり、迷いであり、そんな所から「取り越し苦労」や「後悔」というものが出て来るのである。
 そして、これから悪くなりはしないかとかあの時、ああすれば良かったのではないかとかあれこれ悩むのである。それは我々の本当の心が動いているのではなく、にせものの我(が)の心が空回りしているのである。

 現象の奥に今、このままで完全円満な世界がある。それが本当の世界であり、うわべの現象世界は自分の認識が単に映っているだけのにせものの世界である。
 そして、その完全円満の実相世界に住んでいるのはやはり完全円満の神の子である人間ばかりである。従って、現象の奥の本当の自分は今、このままで完全円満、無限力、無限叡智なる存在である。
 だから、我々は生活して行くのに将来どうしたらいいかとあれこれ頭を悩ますのではなく、今の自分自身の判断に全面的に任せれば良いのである。「いや、私は実相は神の子かも知れないが、現象の私、現象の心、潜在意識はまだ清まり切っていないから、私の判断は信用なりません。」なんて言ってはならない。我々は現象はどうあろうともたった今、神である。清まり切っていない潜在意識は本来ナイのである。そしてそれは実に今の事である。今、我々は神であり、今、現象は、そして肉体は、そして潜在意識はナイのである。
 生長の家創始者、谷口雅春先生は現象は貧しくとも今、本当の自分は無限供給が与えられているとお悟りになって、初めて生長の家をお始めになる事が出来たのである。雅春先生が自分の実相は神の子、無限力だが、現象はまだ不健康で貧しいと思って、それに引っ掛かっていたら、永久に生長の家はこの世界に出現する事は無かったのである。

 真にも今、我々は神の子であり、無限供給であり、無限智である。従って、全ての生活万般において、我々がどうすべきか、どう判断すべきかという事は全くもって、「今」その時の自分の判断に全面的に信頼して、進めていけば良いのである。そうして行けば、我々がどんなに難局を迎え様とも、それを切り開く絶妙な智恵が我々の中から浮かび上がってそれを乗り切る事が出来るのである。
 それを「あの時、こうすれば良かった」とか「将来、どうしようか。」なんて今を生きないで頭で悩んでいると恐怖心が出て来たりして、間違った判断をして、手痛い失敗をしてしまうのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-12-15 09:55 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

善行について

 生長の家副総裁、谷口雅宣先生が言われた事であるが、善の行いというのは何かと言ったら、自分で進んでやる良い行いの事である。

 ゴミを拾ったり、地球環境の為に良い事をやるというのも何か外側からの圧力で仕方なしにやらされる行いだったら、それは奴隷の重労働や賦役と同じであり、本当の善行ではない。
 外側から何か強迫者により強制されるばかりでなく、自分自身の罪の意識、自己処罰の観念で善行をしてもやはり価値は無い。それは自分の内側からの神の生命の悦びの振動から来る悦びの善の行いではなくて、自分という存在の外側から来る恐怖心で強迫的にやらされる行である。
 
 自分を罪あるものとしてそこから来る自己処罰観念を誤魔化す為に善行しても仕方のない事である。今、このままで自分に罪ナシと観じ、伸び伸びとした心、悦びの心で進んで良い事をするようでなくてはならぬ。
 罪の意識とは大抵は恐怖心から来るのである。恐怖心とは神を信じられない心、即ち神に任せられない心である。自分を保身する心である。それは自分をそのままでは罪ある者、神から祝福されない存在で罰を受けるべき存在であると思い込み、その贖罪観念から来る恐怖心である。即ち罪滅ぼししないと罪の報いが来るという恐怖心である。
 神を信じ、自分が今、完全円満であるという事を信じ、そして、その考えの元、自分を捧げ、捨身する心になれば、恐怖心は消える。そうすると自己処罰観念は消え、それによる強迫的な善のまねごとをしなくなるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-12-14 13:08 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

無限力ということ

 私は33歳の時から今年で14年間、英会話練習をやっている。最初は英会話テープを繰り返し聴く事から始め、その後、英会話学校に週一回通い始めた。

 英会話学校は週一回だけだったが同じクラスのクラスメートの女性から誘われて、英語検定一級受験クラスにも通い出した。英検一級というのはとてもレベルが高く、アメリカ人同士が普通に話している話の内容が理解出来て、英字新聞などもどんどん読める位のレベルが必要である。

 日本人で大人になってから英会話を始める人はざらにいるが、それが本当にアメリカ人やイギリス人レベルになる事はまず無いと言っていいと思う。
 ヒアリング練習やリーディング練習をしていればある程度の英語は聴き取れるようになるし、英文も読める様にはなる。しかし、それはせいぜい、英検2級か準1級レベルである。英検一級レベルの様に通常の早い英語のネイティブスピーカー同士の会話を聴き取る様になる事は日本だけに居て、大人になってから週一回英会話学校に通ってる程度ではまず不可能である。
 私は33歳の時から英会話を始めて、殆ど毎日英会話のテープを聴く練習をしていて、英会話学校の外国人先生の日本人の生徒の為にゆっくり分かり易く話す英語位は聴き取れる様になったが英検一級のテストのヒアリングの時に流れる英語は殆ど分からなかった。
 要するに実際の外国人の話す早いスピードの英語を聴き取る事は殆ど出来なかったのである。10年以上毎日、ヒアリングの練習をしているにもかかわらず。

 しかし、私が信仰する生長の家では人間は神の子無限力であると教えている。従って、我々の中には無限の力があるのであり、それは自分で限定しない限り、実際発揮する事が出来るのである。
 私はそれを信ずるが故に英検一級にも挑戦しようと思ったが、いつまで経っても上達しない自分にある時、殆ど絶望した事がある。まだ、数ヶ月前の事であるが、私はその直後、あることにひらめいた。というのは自分はまだ駄目だ、まだ下手だ、だから練習してこれから上手くなるんだと思いながら、練習や勉強していたのではなかったかと。
 我々は神の子無限力であるが、それはそれを自覚して、それを実際使った時のみ、その力が出て来るのであって、以前の私の様に自分はまだ駄目だ、まだ下手だ、だから練習して自分をましなものにするんだという考えであれば、力を発揮する事は出来ないのである。
 それは裏を返せば、自分は駄目である、その駄目な自分を外側からいじくってよくして行きましょうという考えであるから、その私の「今の私は駄目である」という考え通り、いくら練習してもすればするほど駄目になって行くのは必定であったのである。

 生長の家創始者谷口雅春先生は自分は神の子無限力、無限供給、無限健康であるという事をお悟りになったが、それは現象の事ではなく実相(現象の奥にある霊的実在)の事であって、現象はまだ不完全、不健康、財力も無いと思っておられたのである。
 だから、生長の家を始めたいがまだ資金不足だからお金が貯まったら生長の家を始めましょうと思って、サラリーマンをしながらせっせと貯金しておられたのである。しかし、お金が貯まったと思ったら丁度泥棒に殆どの財産を盗まれて、それが一度ならず、二度もあったのである。
 しかし、それで却って、先生の目が啓け、「そうだ。現象はナイ!実相のみがある!貧しい現象、資金不足の現象はたった今、ナイのであった。今、たった今、無限供給の我が実相のみがここにあるのであった。だから今、立つべし!」とお悟りになり、敢然と立ち上がり、すぐ生長の家を始められたのであった。
 その先生のお悟りと行動が無かったら現在、生長の家はこの世に存在しないのである。

 このように我らは今、たった今、完全なのである。たった今、無限力なのである。私はそれを自覚し、たった今、私は英語が分かる、聴き取れる、読めると自覚したのであった。そうしたら次の瞬間から、外国人同士の英会話は完全とは言わないが大部分かる様になったのである。
 その様になったら、以前よりどんどん英字新聞なども読む様になり、AFNなどの英語の放送も聴く様になった。そうすると、以前より、より外国人同士の話す英会話を聴く練習もする様になったのだった。以前の私は外国人同士の話す早い英会話はどうせ分からないと思って殆どこの種の英語を聴く練習をしていなかったのだった。

 我らは今、このままで神の子であり、完全円満、無限力であり、それは将来そうなるというのではなく、今、たった今、そうなのである。それを自覚して行動に移した時のみ、その完全円満さが現象世界に展開される。
 今、完全円満、無限力、無限健康であるという事を自覚して、立ち上がり、その通り行動する事が本当の訓練である。何故なら、今、完全で無限力であると自覚しない限り、自分の力を使う事は本当には出来ないからである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-12-12 10:59 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

神様の導き(2)

 前回、述べた様に私は自分の中に神の国があると自覚しているから、自分の内側からのたまに催して来て、これは神様の導きに違いないと直感的に感じる事に導かれて毎日生活している。

 その中で自分の本当のやりたい事は自分の中の神様が欲してい給う事であると信じるから、私は自分のやりたいテニスとか英会話などをやっており、そうする中でそれがお互い良い作用をし合い、ひいては私の信仰の深化や私が生長の家の集まりでする講話をする時の良いヒントになるとはやはり、前回書かせて頂いた通りである。

 その導きというのは何も自分の中から浮かび上がって来るばかりではなく、師の言葉や何気ない友人の一言とかからも受ける事がある。誠にもこの事、この人のこの言葉が無かったら、私はどうしてよいか分からなかっただろうと思う事が沢山あるのである。
 例えば、私はテニスをやっているが、テニスにはダブルスとシングルスがあり、普段はクラブなどでダブルスをする機会が多いのであるが私はどちらかと言うとシングルスに強くなりたいのである。そこでたまにシングルスの草テニス大会に出るが、そこでどうしても試合に勝てず、どうしたらいいかと思案していたら、偶然、その対戦相手と雑談した時に相手が発した言葉が自分に取って素晴らしい上達のヒントを与えてくれたことがあった。
 また英会話に関しても、これまたある知人から偶然、聞いた英会話に関する考え方がその時の私の抱えていた問題を解決する丁度良いヒントになったりした事もあった。
 そして前述の様に英会話で学んだ事が私の真理の悟りの深化に非常に役立ったりして、それがまた私が携わる人類光明化運動にも素晴らしい力を発揮する事につながる。

 こうした事を考察して行くと神様はあるお考えがあって私を導き、人類光明化運動を前進させているとしか考えられないのである。だから、私が過去に歩んで来た道は表面的には色々、大変な事、苦しい事、うまく行かない事、失敗みたいに見える事などあったがそれも全て神様に導かれて来たものであったとしか思えない。

 誠にもこの世界には無駄な事、そして表面的にはどんな風に見えようとも本当に悪いことは存在しないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-12-07 09:41 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

神様の導き

 私は普段、普通に生活していて、たまに神様の導きを感じる事がある。
 そもそも、この現象世界は真に実在する世界ではなく、我々の認識が映っているだけの世界であるから、我々は常に自分自身の心とか考え方というものを自分の周りの人や環境や境遇等に投影してそれを見ているのである。
 従って、我々は自分の心の状態、考え方というものを常に自分以外の人、それは家族であったり、同僚であったり、その他全ての自分に関わりを持つ人達、それらを通して、実際、具体的に経験する事が出来るのである。
 よって、他の人の自分に対する扱いとか姿を見て、自分自身の心を反省する事が出来るのである。それを昔からことわざで「人の振り見て我が振り直せ」と言うのであり、また生長の家の教えではそれを観世音菩薩の導きであると説くのである。
 観世音菩薩とは世の全ての人の心の思いを観じてそれをその通り実現して下さる菩薩様の事を言い、だから人間はその導きによって、自己の心を反省出来るのである。

 生長の家ではまた、「全て心に目あるものは見よ。心に耳あるものは聞け。全ての森羅万象は神様のお導きなのである。」という教えもある。それは一切の森羅万象は前述の様に神様が大切な事を我らに教えて下さっているのであるから、心に目あり、耳あるものはそれをよく見て、聞いて反省または学べと言うのである。

 私は自分の中に神の国があると自覚していて、内側から常に神様の導きがあるということを信じている。従って、私が真に欲する事は我が内の神が欲する事であり、だから、私は普段、頭でこれをしなくてはならない、これをしてはならないと規定しないで理屈抜きでこれが本当の事だ、これが内側からの神様の導きだという事を直感して、動いている。
 その感じは大抵、これをするのが悦びだ、嬉しい、心地よいという感じがする事を神様の導きだと思っており、それに反して、これをやるのは何か強迫的な感じ、いやな感じ、心地よくない感じがするものはこれはにせもののの実在しないことから来るものとしてそれを無視している。
 私の生涯の師、榎本恵吾先生は「神様の性質とは心地よい感じのするもの、懐かしい感じのするもの、温かい感じのするものである。」とお説き下さっていた。

 それで私は自分の希望する事をそのまま伸び伸びと行動、実現化しているのである。テニスもそうだし、英会話もそうである。そうして行くと自分の行っている事がそれぞれ有効に作用し合って、テニスで学んだ事が英会話に役立ったり、それがまた私の長年の悩み、不如意を解決する大きなヒントになったり、そして、またまたそれが私の信仰を大いに深化させ、また生長の家の集まりで、生長の家の講話をする時の良いヒントになったりするのである。

堀 浩二
by koujihori | 2006-12-07 09:25 | 信仰 | Trackback | Comments(0)