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心のレンズの歪み

 生長の家で説く真理には根本的に二つある。それは唯神実相と唯心所現である。唯神実相を縦の真理とも言い、唯心所現を横の真理とも言う。唯神実相とはこの現象世界は真に存在する世界ではなく、その奥の本当の宇宙には唯、完全円満の神が無限に拡がっているのが実相(本当の姿)であるという事であり、唯心所現とは現象世界とは我々人間の心が唯、現れている世界、即ち心の影の世界であるという事である。
 そして、我々人間の心が縦の真理、即ち唯神実相を悟れば、その心の通り、この現象世界にその唯神実相の完全円満の世界が投影されるのであり、世界平和が実現する為には、全人類に完全円満の唯神実相のみを感ずる歪みの無い心を持ってもらう事が大切であるということで生長の家の真理を全人類に伝えましょうというのが生長の家の人類光明化運動である。

 そういう訳で生長の家を勉強している人は自分の境遇とか肉体の病気を良くする為には自分の心を歪みのない正しい心、それを正念と言うが、そうした心になる事が必要という事でその為に一所懸命、行をやったり、祈ったりするのである。
 しかし、そういう考え方は本来のものではない。ここでも何回も申し上げているが生長の家の信仰で自分の問題とか現象を良くしよう、その為に自己の心を清めよう、歪みのない様にしようというのでは現象の問題とか病気をアルと認める事になるから、そんな事ではいくらやっても本当に良くなる事はない。

 生長の家の根本真理は実相独在という事である。それを前述した唯神実相、縦の真理と言う。それは本当に存在するのは完全円満の神のみであって、それは無限であるから全宇宙に拡がっており、我々人間はその神の全徳を受け継ぎ、それを表現する神の子であるという事である。
 従って、今、そのままで全く問題はナイのである。それなのに問題をアルと思って、その問題を消す為に自己の心を訓練で良くして行こうという発想では本当に自己の心の歪みが治る事はない。
 自己の心のレンズの歪みが本当に治るという事は自分の心のレンズが歪んでいるから本来の完全円満のものが歪んで感じられているだけであり、今、そのままで自己の心のレンズが歪んでいようが正しいものであろうがここに完全円満の神の国が存在していたという事を悟る事である。
 即ち自分及び自分の周りで起こっているトラブル、問題は自分一人の心のレンズが歪んでいる為にそう自分に感じられているだけであって、今、そのままで最初から何ら問題はナイのである。

例えば、父親を憎んでいる息子がいるとして、その憎しみはどこから来るかと言ったら、自分はその父親から愛されていないという思いから来るのである。それでは何故、そう思う様になったかと言ったら、それは幼い時から父親にガミガミ叱られたり、又は冷たくされたりという経験があるからそう思うのである。
 しかし、例えばその息子が重大な病気になるとか事故に遭うとかして、大変な事態になった時に初めて、その父親が息子の事を本当に心配して、駆け付けたりするのを目の当たりにするとその息子に初めて父親の愛情が伝わったりするが、これなども父親の愛情は始めからあったのを単に息子の心のレンズが歪んで、今そのままで愛情溢れる父親が愛情のない父親に息子に感じられていたのである。何も息子の念力の力で父親が冷たい父親から愛情溢れる父親になった訳ではない。
 
 同様に全ての悲惨な出来事は単に我々の心のレンズが歪んでいるから我々人間にそう感じられているのであり、元々完全円満な神の世界は始めからここにあったのである。
 その事を悟る事が実相独在の真理を悟るという事であり、それが分かれば自ずと心のレンズも正されるのである。それを現象をアルと思って、その為にその現象の悪を良くしようと思って、心のレンズを正しいものにしようというのは間違っている。本当に存在するものは完全円満の神の世界と神の子だけであって、現象など存在せず、それは単に自分の心が本来、完全円満の実在世界をどう感じるかという心の通りに自分に感じられているだけの世界なのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-04-27 10:06 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)

英語は絶対、勉強するな

 「英語は絶対、勉強するな。」という面白いタイトルの本がサンマーク出版から出ている。著者は鄭 讃容(チョン・チャン・ヨン)という韓国人である。私は英語を毎日勉強しているので最初、この本のタイトルを見た時、何が書いてあるのかと興味津々であった。
 そうしたら概略、この様な事が書いてあった。それは「今までの様な英語の勉強をしていたら、絶対に英語力が上がる事は無い。今までの単語とか文法を勉強するという様なやり方を捨てて、英会話のテープをどんどん聴き、それを書き取る練習をせよ。そして、分からない単語は英和辞書で引くのではなく、英英辞書で引いて憶えろ。」というものである。
  
 私はこの著者の言いたい事は「習うより慣れろ」という事であると解釈する。外国語もそれを勉強しようとするよりそれを実際に使って何かをするという方がぐんぐん出来る様になるのである。私の友人もそう言っていたし、評論家の竹村健一氏も同じ事を言っていた。
 それは何かを勉強しようという意識は自分はまだそれが出来ないという意識であり、そう思っている以上はいくら、それに努力した所で自分はまだ出来ないという意識に縛られて自己の中の神から与えられた無限力を本当に引き出す事にはならないのである。それに対し、その語学、例えば英語なら英語で実際、外国で生活するとか、アメリカの大学で英語でどんどん授業を受けるとかしてそれを実際に使っていけば、自分はまだ出来ないなんて事を思う余裕は無くなり、自ずとどんどんその英語を使って行くからぐんぐん出来る様になるのである。それは取りも直さず、自分は英語は既に出来ると思う心である。そう思えばこそ英語力はどんどん上がって行くのである。

 生長の家でも同じ事が言える。何か病気とかその他の人生上の苦難から生長の家の門を叩く人は多い。それで生長の家の先生から、祈りなさい、感謝しなさい、先祖供養しなさいと言われるがそれですぐ良くなる事もあるが、そうならない人もいる。
 それで一所懸命生長の家の本を繰り返し読み、練成会を受け、行もやったりするがやればやるほどどつぼにはまり、どうにもならないなんて事になるのである。それは病気その他の問題を生長の家で治そう、良くしようとして心でつかんでいるからである。この世は「唯心所現」という思ったら思った通りになるという法則が働くから病気を良くしようと心でそれをつかむと良くしようとするつもりがますます悪くなるのである。
 そんな時、自分の病気の事を忘れて、そんなものはどうでもいいからただひたすら他の人の幸福の為のお役に立たせて頂こうと一所懸命、生長の家の組織活動にいそしむとある日、気が付いて見たら、自分をあれほど悩ませていた病気が消えていたなんて事があるのである。
 生長の家とは人間神の子、無限力、無限健康、完全円満の教えであるが、それを自分の病気を治す為の手段として、信仰して行こう、勉強しようとしても永遠にその生長の家の神髄は分からないのである。分かろう、治ろうという心を捨て、どんどん神様の心を生きる、即ち自分よりも他の人に幸せになってもらいたいという菩薩の心になって、生長の家の愛行をやって行く所に人間神の子無限力の生長の家の神髄を体感、体得する事が出来るのである。

堀 浩二

Never study English.

Some book which has a interesting title "Never study English" is published by Sunmark publisher. The author of the book is a Korean named 鄭 讃容. As I study English everyday,I was interested in the title of the book when I saw the title of the book. The outline of the book is that if you continue a old style way of studying of English such as you only memorize English words or you only study Englsih grammar,you never become to be good at English, to become good English speaker you should abondon such a old style way, and you should hear a English conversation tape and do a practice of writing down the contents on a paper and reserch a English word which you don't know not with English to Japanese dictionary but with English to English dictionary.

I comprehend the idea of the author as you should not study something but be accostomed to something when you learn something. When you try to master some foreighn language, you can become to be good at that not by tring to study the foreighn language but using the language at real life, for example living in the foreighn country or studying some subject by the foreighn language. My friend said like that, Mr.Kenichi Takemura,a critic said that too.

The idea of trying to study something is that you are not yet good at that,therefore if you have a such a idea,you would be bound with the idea that you are not good at that yet. So you cann't exercize your infinitive ability which is given by God in your inside even if you struggle to bring out your ability. To the contrary,if you live in a foreign country where English is spoken,for example USA or study some subject with English in a university in USA, you could become to be good at English in short time. Because you don't have a time to think that you are not good at English, and you would be forced to use English everyday.

 Seicho-no-ie has the same situaition as the mastering of English conversation has. You visit a training centor of Seicho-no-ie when you would have some trouble which you cann't solve by yourself,for example grave disease and so on. So you would be taught to pray or thank or hold a memorial service for your ancestor by a teacher of Seicho-no-ie. By the teaching,you may be able to solve your problem soon. But you may not be able to solve your problem soon.

So, to solve your problem,you attempt to read a lod of book of Seicho-no-ie more and more, do religious austerities of Seicho-no-ie repeatedly. But more you are going to do these things, more you become worse. Because you are going to become better by trainings of Seicho-no-ie. You grab your problem by your mind when you are going to solve your problem with Seicho-no-ie. There is a law of mind which is that what you imagine appear, in this universe. So if you are going to cure your disease or solve your problem with Seicho-no-ie, your matters would become worse. Because to be going to solve with Seicho-no-ie is to grab your matters with your mind.
But if you would abondon your mind to solve your matters with Seicho-no-ie and only devote yourself to other's happiness and practice an activity of a organization of Seicho-no-ie, your problem would disappear.

Seicho-no-ie teachs that human is a son of God who has an infinitive power, infinitive health and an perfect life, but if you are going to comprehend the doctrine of Seicho-no-ie or to be enlighten to solve your problem with the doctrine of Seicho-no-ie, you couldn't understand the essence of Seicho-no-ie for ever.

You should abondon the idea to be going to understand the truth of Seicho-no-ie and to be cured with Seicho-no-ie. And you should practice the mind of God to hope other's happiness more than yours and while you devote yourself to others only to make others happy with such a mind, your problem for example disease and so on would disappear.

Kohji Hori
by koujihori | 2007-04-24 09:28 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相の顕れ方は人様々である。

 人間は神の子であり、今、そのままで完全円満である。それは勿論、この肉体の事ではなくて、その肉体の奥の霊的生命の事である。そして、この人生はその完全円満なる我々一人一人の神の生命を表現する為にある。表現する為にはそれを先ず自覚して、それを現し出す訓練をしなくてはならない。その為の学びと訓練の場がこの我々一人一人の人生であるのでこの人生を生長の家では人生学校と言うのである。そして、我々の人生学校は一回こっきりではない。我々の実相である神の生命は無限に完全円満であるから、その無限を現し出す為の学習と訓練は一回や二回の人生経験では成し遂げる事が出来ない。我々は肉体は滅んでも何回も何回も生まれ変わって、人生経験を重ね、そして、生長するのである。

 しかし、我々の実相である本当の生命は人生学校での修行や学習を経なくても今、このままで完全円満である。たった今である。宇宙の始めからそうなのである。だから釈迦は自分は永遠の昔から悟りを啓いていたと仰られたのである。
 だから、我々は表面は如何なる状態でも今、完全円満であり、無限力であり、悟っているのである。それを生長の家では人間神の子と言うのである。それを自覚するのが悟りであり、人間神の子の自覚である。しかし、その無限の素晴らしさの表現の仕方というのは人間の我(が)の目論見通りには行かないのである。
 「私は神の子無限力であり、それは今だから、今、力を発揮して、自分で望んだ通りの良い結果が出せるはずだ。」などと力んで見た所で、どうしても勇気が出なくて出来ない事もあるし、結果や現象が自分の思いとおり運んでくれないこともあるし、病気とか色々な問題が相変わらず見えている事もある。
 そうするとどうしてこんなに信仰しているのに結果が出て来ないんだ、病気が治らないんだと焦ったり、嘆いたりする事もあるかも知れない。しかし、我々の実相の顕れ方は神様が丁度良い具合に配慮して下さっているのであり、それを人間の我(が)の考えから、こうでなくてはならぬなんて縛ったり、規定してはならないのである。
 人間の実相は実相即ち神が御自分で出て来る事により出て来るのである。従ってその顕現の仕方は我(が)の思い通りになるのではなく、神様のご判断により、その人に取って最も良い時期に最も良い出方をするのである。
 例えば、人間神の子無限力を信じて頑張って勉強したが、自分の目指す学校の入学試験に落ちてしまい、仕方なく第二志望の学校に入学したとして、こんな時、自分は神の子無限力のはずなのにそれを信じて頑張ったのに試験に落ちてしまったなんて嘆いたとしても、結果的にその学校ではなくてその第二志望の学校に進んだ事がその人の個性を伸ばし本当に幸福になるのに良かったなんて事があるのである。
 それは実相顕現は神の配慮から為されるものであり、我(が)の目論見通りにされるものではないからである。
 
 従ってどの様な人でも今そのままで最も良い実相顕現の仕方を神様のお力と配慮によりされているのである。自分に何か問題があるのはその問題の中で全力を尽くす事が自分の学習即ち生長に取って、一番、必要であるからそうなっているのである。それを自分の勝手な我(が)の判断から、生長の家をこれだけやったら、これだけ信じたら当然、こうなるべきで、自分も他人もこういう姿であるべきだなんて規定してはならないのである。

 だから、どの人間も否定してはならない。それぞれは表面はどの様であっても今、完全円満の尊い神の生命であり、その生命がその生命ならではの自己顕現の仕方をしているのであるから、それを認め、拝むのでなくてはならない。

堀 浩二
by koujihori | 2007-04-23 09:47 | 信仰 | Trackback(3) | Comments(0)

人は分かってくれない。

 我々は誰でも一所懸命自分の人生を生きている。誰もいい加減に生きている人など居ないのである。それは人間の本当の生命は完全円満の神の子であり、その神の子の生命が自ずと自己表現しようとするからである。これは何回も述べた。

 しかし、人間は割合、苦労しているのは自分だけで他人は自分と比べて、苦労してない、のほほんと楽をしていると思いがちである。それは主に自分の事ばかり考えて他人を思いやる傾向が足りないからだと思われるが、ただ人間はその本能のままに生きればそう思いがちなのである。
 それは自己と他とが表面的には別れて存在する様に自分には認識されるからであり、その認識はどこから来るかと言えば、この現象世界、物質世界こそが本当にある具体的な世界であると認識する様に人間の感覚器官というのは造られているからである。そうでないとこの現象世界で生活する事が出来ないからである。
 従って、人間はその感覚器官だけに頼った本能的な生き方しかしていないと自分と他人とは別個のもの、そして自分が増える事は他人を奪う事、又は犯す事、他人が増える事は自分から奪われる事、又は犯される事という様な唯物的思考に陥るのである。だから、原始的な人間ほど自分と他を区別した考え方しか出来ず、他への思いやりなんて事は常識的にはする格好を見せるが本当には出来ないのである。
 従って、人間というのは単なる物質ではない、物質を超えた霊的実在であり、全ての生命は大生命なる神の生命に於いて一体であるという信仰がどうしても必要になって来るのである。その為に宗教というものがあるのであり、これ無くば、人間は物質的本能のみで互いに相争う修羅場を現出させ、人類はとどのつまり恐竜の如く滅亡するしかない。

 話がちょっと飛躍してしまったが、要するに人間というものは肉体の本能的には自己の事ばかり考える様に出来ているのであるから、他人の苦労とか価値など分からないという事は割合ありがちである。だから、逆にそうした人達に自分の苦労とか働きが分かってもらえないなんて事を嘆く必要も無いのである。そんな事を考えずに自分に出来る事、他に与える事だけ考えていれば良いのである。
 
堀 浩二
by koujihori | 2007-04-20 10:31 | 社会生活 | Trackback | Comments(0)

「引き」ということ

 テニスとか野球ではラケットとかバットでボールを打つという事をする。そして、効果的にボールに打撃を与える為には「溜め」とか「引き」という事が不可欠なのである。それはテニスのフォアハンドストロークであったら、バックスイングと呼ばれるもので、一旦、ラケットを引き、肩もこれから振り出す方向と逆方向に回すのである。そうした「引き」を打撃の正に直前に行う事により、最も効果的にボールに力を伝える事が出来て、威力のあるボールを打ち返す事が出来るのである。
 
 同様にこの人生に於いて何か素晴らしい力を出す、又は表現するという時、どうしてもそれと似た事が起こって来る。人間は本来神の子であり、肉体の奥に肉体を超えた霊的な完全円満の不死不滅の神の生命がある。それが我々人間の本体であり、それを生長の家では実相と呼んでいる。
 その完全円満の神の生命なる実相は無限の存在であるからそのままだと大きすぎて何ものにも知覚される事はない。要するにあるやらないやら分からない状態であるのである。そこでその完全円満の神の生命はどうしても自己表現を欲するのである。
 例えば無限の才能を持って生まれた画家が居るとして、その才能を持ったままで何も絵を描かなければその画家が悦べない。そこで、その画家は自ずと縦横二次元に限定されたカンバスに自分の才能を自己表現しようとする。
 同様に我々人間一人一人もそれぞれ神から無限の才能、完全円満の生命を頂いているから、それを無限次元のままでは表現出来ないので画家が縦横の二次元のカンバスに表現する様に我々人間はこの現象世界という縦横厚みの三次元の空間そして時間を足した四次元に限定されたこの現象世界にその無限の可能性を表現しようとするのである。そして、その現象世界は人生学校でもあり、我々はこの人生学校に入学して画家が稚拙な段階から自己表現して行って、徐々にその腕を上げる様に我々も人生学校において魂の幼い状態から徐々に自己表現の練習を重ねて行って、徐々にその完全円満の才能とか人格を表現して行くのである。
 しかし、人間というのは自己表現する為に正に一旦、どうしようもない状態を自ら心の力で作り出して、そこから立ち直る、良くなる、真理を実行するという形を取って、実相顕現するのである。その一旦悪くなる段階を所謂、冒頭に述べた「引き」と言うのである。

 だから、この人生に於いて様々な問題がある、難儀がある、迷いがある、苦しみがあるというのはそれらは全て自らの無限の素晴らしさを自己表現する為にそこから「良くなる」「悟る」という形を取る為にあるのである。それは自己表現する為の正に「引き」の状態なのである。そして、その表現する内容の素晴らしい人、深い人ほど、その「引き」の状態である迷いや問題も他の人より深く、難儀である。
 だから、「丑三つ時は一番暗い」とか「良くなる直前というのは一層暗くなる」と生長の家で教えているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-04-19 10:43 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

神様がお出ましになるということ

 私は前回の文章「わたしたちの教科書」で自分の欠点が他人にどう思われているかが余りにも気になるというのは利己主義だからだと書いた。確かに自分の事ばっかり考えているから自分の欠点が肥大化して自分に感じられるのであり、それを他人がどう見てるかが気になって仕方が無くなるのである。

 ところで私は実は以前は正にその種の人間であったのである。自分がどう人に思われているか、自分の失敗を他人がどう見ているか、馬鹿にされていないだろうか、蔑まれているのではないかという事をかなり心配する性分であった。そして他人が自分よりも優れた才能を発揮していたりすると非常に嫉妬したものである。要するに私は他人に自分がどう思われているか、又は他人が自分より優れていたりすると非常に心配や嫉妬を感ずるたちの悪い人間であったのである。「あったのである」と過去形で書いているのはお陰様で最近はその性分を脱却出来たと実感するからである。
 利己主義で自分の事ばかり気にする、他人がどう自分を思っているか気になる、相手に勝っていないとくやしくて仕方が無いというのは利己主義であるからであるが、それはもっと根の深い所を探れば、その人の中の完全円満なる神、それは自立であり、自律であり、そのままで無限の勇気であるが、その素晴らしい神がその人に於いて、まだ顕現していないからである。
 
 人間は自分に自信があり、その自信を実行しているならば、結果とか現象とか相手からの反応、見返りなどどうでも良くなるものである。
 自分の中から神が出て来て、その神の営みのままに真理を実行しているという自信が出て来ると自分のやった事の結果とか相手がどう思うかとか自分がした事の結果が自分が相手より勝ったかどうかなんてそんな現象が一切気にならなくなるのである。
神とは勇気の事であり、捨身の事であり、思い切りの良さそのものの事であり、結果を一切気にしない心の事であり、相手からどう思われるかという事を一切思い煩わない心の事である。従って、神が自分の中から御自分で出て来れば、自ずとそうした勇気、潔い心が出て来るのである。
 神が御自分で出て来るというのは生長の家の人も耳慣れない表現であろうが要するに我々は元々、完全円満の神の子であり、完全円満であるから、その実相はじっとしておらず自己表現しようと自ら動き出す。それがこの地上に於ける吾ら一人一人の魂の人生学校での色々な試行錯誤となって現れる。そこで様々な経験、苦労を重ねる中で自己の生命の実相が完全円満な神の生命であったという事を様々な段階を経ながら発見して行くのである。それが人間の生長という事であり、生長の家で言う実相顕現という事である。それは元々完全円満である自己の生命が自分で出て来る、現れて行っている道程なのである。それを「神様が御自分で出て来る。」と表現するのである。それは私の師である榎本恵吾先生がお教え下さった事である。

 そしてその様に自己の中の神様が御自分で出て来て、自己の生命の実相が完全円満であると実感し、その営みのまにまに生きておれば、神は愛であり、捨身であり、勇気そのものであるから、自ずと他人が自分をどう思うかとか、他との競争での勝ち負けなどは一切、気にならなくなり、思い切って勇敢に自己を捧げて生きる事が出来るのである。

堀 浩二 

Appearing of God

I wrote that if you were selfish, you would become to mind how others see your fault or your failure too much in last writing named "Our text book". To be sure, as you mind yourself always, you feel your fault enormously and you become to mind how other person see you.

To be honest, I was a such a selfish person who mind myself too much. I always minded how others thinked of me and I was afraid of being insulted of my fault or failure by others. And when others perform better than me in some skill ,I became to be too much jealous. I was a such a not good charactor. But now, thanks to God, I am able to overcome such a evil charactor.
If you were too much selfish, you would become to mind how others think your faults or failures. But, the reason that you become selfish is that God which is perfect within you doesn't appear yet at you.

If you have a confidence that you are perfect and you act in accordance with your confidence, you become not to mind a phenomenon, a consequence, a reaction from others and a paying back from others.
If God of your inside appears and you become to have a confidence that you act in accordance with a guidence of God, you become not to mind a consequence which is produced by your action, a reaction from others and whether you overcome your opponent or not in consequence of competition with others.

God is a courage, a devotion, a not to mind a consequence and not to mind how others think of you. Therefore, if God of your inside appears automatically, you would become brave and not to mind yourself too much.

As real life of you is a son of God which is perfect, your real life cann't stay static, and that moves automatically to express its wonderful possibillity. The function appears as various efforts and trying of each school of life. At your school of life, you discover your real life as you go through a several expererience and hardships gradually. That's your growing and Seicho-no-ie teachs that such a growing is appearing of Truth of life. That is a process that your truth of life which is perfect from a scratch appears automatically. My best teacher Rev.Keigo Enomoto taught me the marvelous truth at once.

Thus, if God of your inside appear automatically and you realize that your real life is perfect and you live in accordance with a working of God, as God is infinite love, a devotion and a courage, you would become not to mind how others think of you and whether you overcome your opponent or not and to live bravely.

Kohji Hori
by koujihori | 2007-04-17 10:06 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

糟糠の妻(2)

 糟糠の妻の事は以前にも書いた事がある。(2005年12月16日)
 それにはこう書いた。
 
 〉糟糠の妻(そうこうのつま)という言葉があり、その意味は広辞苑には「[後漢書宋弘伝] 貧乏な時から連れ添って苦労を共にしてきた妻。「―は堂より下さず」(糟糠の妻は夫の立身出世の後にも家から追い出してはならない)」とある。
 このように中国の後漢書には「夫がまだ若くて社会的に芽が出ないで苦労している時に共に苦労してくれた妻は本当の魂の半身であって、それを夫が出世して、経済的にも恵まれて来てもその妻の有り難さに感謝して一生大事にして添い遂げよ」という教えが書いてある。
 

 生長の家では結婚というのは元々一つの魂が地上に生まれてくる時、男と女に別れ、その半身同士が地上で再び巡り会って、結ばれるものであると説いている。

 私はここで今まで何度も夫婦愛の事を書いて来たが、それをどう受け取るかは人様々である。そんなのは現実にはあり得ない、何をきれい事を言っているのかという人も居る。でも、人間は物質ではなく、完全円満の神の子であり、結婚というものがその完全円満の神の生命である我々の本体が最高の愛を地上で表現する為に地上に男と女の半身で別れて生まれてきて、再び巡り会って、為されるものであるというのが真理である。

 我々は自分のつれあい以外の異性の友人との付き合いをする機会もある。そうした付き合いは楽しいだろうし、そうした相手の中には魅力のある人もいるだろう。
 ところで人間は今、そのままで尊い完全円満の神の生命であり、我々が地上に生きているのはその神の生命の素晴らしさを表現する為である。従って、表面的にどの様な状況にあろうともその人はその神の生命を表現する為に常に修行しているのであり、懸命に生きているのである。だから、どの人も皆、尊い。しかし、我々はその過程の中で表面的には調子が良い時も悪い時もある。そして、本当の自分の半身即ち自分の夫や妻になる人は魂の結びつきが根底にあるのであるから、良い時も悪い時も支えてくれる。愛してくれる。しかし、その他の人は良い時は寄って来るが、悪い時は自分を捨てて行くのである。
 
 特に男は若い時は修業時代であり、芽が出ない、うだつが上がらないという事が一般的であろう。しかし、経験を重ね、男として花が咲いて来ると、経済的にも人間的にも豊かになったりして、そうすると妻以外の魅惑的な女が寄ってきたりする。そして、自分の妻に目をやれば、そんな魅惑的な女に比べれば、年老いているのである。
 そこで古くから自分がまだうだつが上がらない時代に共に泣き、支えてくれた糟糠の妻を捨てる、又は裏切る大馬鹿者が居るが、そんな人は世の中で一番大事なものを自ら捨てているのである。

堀 浩二

Plain wife

I have written about plain wife "Soukou-no-tsuma"in Japanese. I have written about that there is a phrase "soukou-no-tsuma". That meaning is written in a dictionary "Koujien". The Koujien says that you should not abondon your "Soukou-no-tsuma". It means that a wife whom you married when you were young, who cried with you when you were in hardship, and who went through a hardship with you is your real marriage pertner. So even if you would be able to succeed, and to become rich, you should continue to thank the wife and not abandon her.

 Seicho-no-ie teachs that your soul are devided to men body and women body separately when you are born to earth. And when you grow up, men and women meet again. And you marry to realize most sumpreme love. That's a pourpose of marriage.

I wrote about a love of parents repeatedly here, but as for how people think of my statement, it depends on each person. Someone said that my idea is too idealistic and that such a thing does not occur in reality.
But, human is not only matter but spiritural perfect son of God. And marriage is that man and woman to which are devided from one life of the perfect son of God when they were born meet again after growing and that they were bound each other.

You may have a experience that you keep company with the opposite sex friend sometimes. Such a contact would be nice. And among such opposite sex friends, maybe some attractive person would be.

By the way,real life of humankind is a respectful perfect life of God as it is. The pourpose of your life is expressing of a wonderfulness of the perfect life. Therefore even if your surface would not be in good condition, you continue to train yourself to express your real wonderful life, and you live hard. So every humankind is respectful. But your surface condition become not to be good sometimes. Your real marriage pertner help and support you in any time because you are bounded each other at your soul. But others would leave you when you were in bad conditions.

Especially, as for man, you are in term of training time when you are a young. At that time, you cann't perform your strength fully. But after you undergo a lot of experiences, you become rich in your charactor and economy. So maybe attractive woman besides your wife approachs you. At that time ,if you look at your wife, your wife look older than such a young attractive woman.
So some idiot abondon his wife who cried together when the guy underwent a hardship. But such a guy abondon most important treasure for himself.

Kohji Hori



 
by koujihori | 2007-04-12 10:03 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家の運動について

 今回は本当に生長の家の活動をしている人を対象とした文章になるのでそうでない方はご勘弁下さい。

 生長の家の活動をしている人の中には講習会など色々な生長の家の行事への動員目標を達成する事にとらわれて余りにも過激に参加促進とか推進会議とかに身をやつしたり、又は他の人にそれを要求する人がいる。そして、家庭の当たり前の団らんや人間としての個性を豊かにし、生長を促す趣味とかも持たず、そして家族からは不平が出、そうした家族は生長の家に反発を持つようになる。勿論、そうした活動をしている本人も家族同様、真には悦んでいないのである。

 そうした過激な活動をする人が口にするのは大抵「第一のものを第一にする。」という合い言葉だが、第一のものとはそんな参加促進とか会議の事ではなくて、神様の事であり、その神様は完全円満であり、その救いは既に全宇宙に行き渡っているという事であり、その事を素直に悦ぶという事である。
 しかし、その真理を理解せずに「第一の・・・」という言葉を合い言葉に自分の魂が真に悦ばない事を無理に自分に課するのは間違っている。そんな事を続ければ、その本人の光明化運動に対する嫌気が自分の中に蓄積され、悦びも何も無くなってしまうのである。そうすれば人間は本当に自分が心の底から悦べないものは継続する事が出来ないので、そうした人は病気とかその他何らかの障害を自らの潜在意識で作り出して、生長の家の活動を長く継続する事が出来なくなるのである。

 自分の中に完全円満、無限生長の神があり、その神が光明化運動をしたいと真に欲するならば、それは自ずとこうすべしという内側からの願いが自分の中に出て来るのである。それに従って、肉体の怠けたいという誘惑に打ち勝って、光明化運動をやって行けば、それは最初はつらくとも、内側からの真の神の悦びの創造に従っているのであるから、それは真の悦びと変わる。そして、自分が真に悦べば、家族が悦び、そして、その悦びの輪は地域に拡がり、どんどん光明化運動の輪が拡がって行くのである。それが真の光明化運動である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-04-10 09:21 | 信仰 | Trackback | Comments(7)

問題はナイ(2)

 以前、私の周囲には問題が山積していて、どうにもならない状態にあった事があった。
 それを解決するには私の周囲の人がきちんと動いてくれなくてはならないのだが、私の眼から見て、どうも問題のある人が多く、どうしたら良いかと思案していたのである。それでそれらの問題を解決する為、又は事態を良くする為に色々画策して、行動する事もあったが、どうも根本的な解決には中々ならなかった。

 あの人間も駄目だ、この人間も問題がある、どうにかしなくてはならない、いっそその相手に鉄槌を加えてやろうか、又は自分が直接、事態解決の為に実力行使しようかとあれこれ思っていた。そんな時、ふっと気が付いたのである。「そうだ。問題は無かった。問題人物は居なかった。」と。

生長の家ではこの現象界は本来存在せず、それは唯、自分の心の影に過ぎないと教えている。従って自分の周囲に見える現象の問題とか問題人物というのは具体的な存在ではなく、全て唯、自分一人の心がそこに映っているだけなのである。そして、その現象の奥には宇宙の始めから完全円満の世界と相手が存在しているのであり、それは自分がこれから良くしようとしなくても既に今、そのままで完全円満で何も問題が無いのである。
 私はその生長の家の根本真理をその時にありありと思い出した。「そうだ。あれもこれも問題だ。困った事だ。それはあの人がちゃんとやらないから、この人の性格に問題があるからだと何となく思っていたのは全て勝手に自分が心で想像して、その映像をそこに投影していたに過ぎない。私の周囲には問題など何もなく、問題人物など一人も存在せず、今、そのままで全ての人が完全円満であり、調和し、それぞれの使命を自覚し、きちんと仕事をして、皆、豊かに幸せに暮らしているのであった。その実相を私一人が拝めば良いだけであった。」と正にありありと実感する事が出来たのである。
 そうしたらその瞬間から問題など何も無かったという事が実際に実感され、周囲の人達にこんないい点があった、こんな長所があった、それを自分が見ていなかった、気が付いていなかっただけであったと気が付き、全ての問題が自動的にどんどん好転して行ったのである。

 自分の周囲に何か問題人物とか問題事項が見えていてもそれを一つ一つ良くしようと焦って、行動する必要は全然無いのである。
 それは単に実相を観る自分の眼が曇っているだけであり、相手や周囲の全ての実相は今、そのままで既に完全円満、無限供給であるのである。従って、相手を良くしようとしたり、問題を一つ一つ自力で解決しようとするのではなく、その既に完全円満な全ての人の実相と既に問題は全て解決済みのものごとの実相を拝めば良いのである。

堀 浩二
 
There is no problem.

There were a lot of problem around me in previous days. To solve these problem, it was necessary for persons who were around me to work very well. But from my view point, most of them had a problem in their personality. So I lost my way. And I tried something to solve problems. But I failed.

I thought that any person around me is not good and that any person has a fault and that I had to do something to solve problems. So I was about to blame a person who has a problem or to do a job which other person charge by myself.
But at that moment, I realized that there is no problem and that there is no person who has a problem in real world which exists behind phenomeon.

Seicho-no-ie teachs that there is no phenomenon and that phenomenons are only a reflection of your mind. Therefore persons who have a faults do not exist and problems do not exist around you. Those are only your reflections. And there are a perfect world and perfect persons behind phenomenons from the very beginning of cosmos. Those are already perfect existences which you do not have a necessity to make better. So those do not have any problem as it is.

I remembered the fandamental truth of Seicho-no-ie at that time. I realized trully that persons who have some problem were only a reflection of mine, and that it was OK as long as I would see the perfect truth of life of all persons behind phenomenons. All persons around me are already perfect and live in accordance and are aware of each mission and do each work very well and are living happily in real world behind phenomenons.

So from the moment I really felt that there was no problem. And I was able to find a good point of each person around me. I realized that I only didn't notice their good points. So all problems solved automatically.

You do not have to try to make your problems better even if you could see a problem around you.
If your view would not be clear, a world around you is not clear. That's why there are a lot of problems around you. True image of all persons and all existence are already perfect as it is. Therefore you should not try to make them better and to solve problems from scratch, you only see a true image which is already perfect behind phenomenon with your mind eye.

Kohji Hori
by koujihori | 2007-04-05 10:50 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

真の信仰とは(3)

 私の生涯の恩師、榎本恵吾先生が生前、練成会の座談会で錬成参加者のご指導をされていた時の事である。その中である練成会参加者の年配の女性が「私は今、体の具合が良くないですが、練成会の素晴らしい真理の話を聞いて、心は真理を分かったので、じきにこの体の具合の悪いのも時間が経つに従って消えると思います。ただ、今はまだ過去の迷いの念の自壊作用が残っていて私は完全に治っていないんです。」と発言した。その時、先生はその女性を含め、他の練成参加者に向かって、「皆さん、あんまり、自壊作用に引っ掛からない方がいいですよ。」と仰った。

 生長の家の中には何か病気とかその他の問題を抱えていると信仰でそれを良くしようとする人がいる。しかし、真の信仰は信仰で自分の問題を良くしようとか、早く良くならんかと期待するのではなく、現象は如何なる状態であっても、そんなものは我々の心の投影に過ぎないものであり、真に存在するものではなく、その現象の奥と言うか、内と言うか、そこにある神の国こそが本当の世界であり、それのみが真に実在するのであり、それは今、このままでここに存在するのであるという事を信ずるものである。
 従って、自壊作用も真実の存在ではなく、そんなものに引っ掛かってはならないのであり、今、このままここが神の国であり、今、自分はこのままで悟りを啓いた完全円満の神の子であり、そのままでよいのである。
 
 それでは何か問題みたいに見えるこの苦しい自分の病気とか貧乏とかの状態は何なのかと言ったら、それは自分に大切な事を教えてくれている尊い神の説法であり、有り難いのである。その神の説法の意味する事を理解し、心と行動を改めれば、即、それらの自分の問題は雲散霧消する。そして、本当に自分の居るそこがそのまま天国浄土であり、自壊作用も迷いも勿論、病気も今、即存在しないのであるという事が実感されるのである。
その事に目覚め、今、ここが天国浄土であるという事に目覚める事が真の信仰である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-04-04 13:58 | 信仰 | Trackback | Comments(2)