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今、悦んでよい

 榎本恵吾先生は御講話の中でよく、こう仰っていた。「皆さん!今、悦んでいいんですよ!どうせなら今、悦ばせてもらいましょうよ。親に感謝が出来てから、とか潜在意識を清めてから、とか供養が済んでからではないですよ。今、神の子であるということを素直に悦んでいいんですよ。神様の願いは皆さんに今、既に神様がお与えになっている無限の宝物を受け取る事を遠慮しないで欲しいという事なんですよ!」と。

我々はともすれば、この罪を償ってから、とか先祖供養を完全に済ませてから、とか祈りを深めてからでないと救われない、悦べないと思う傾向があるのである。しかし、それは一所懸命、神の国に近づくための階段を一歩一歩墜落しない様に注意深く登って行っている人の事なのである。それは天国に入る直前で足を滑らせて墜落する人である。何故かと言えば、自分はまだ不完全だから、一歩一歩善行を積み重ねて自分を完全にして行きましょうという考え方であるからである。その人は本当は神の国に既に住んでいるのであるから、どう思おうとそのままで既に救われ、完全円満であるのだが、自分はまだ救われていないという夢を仮に見ているのである。その人の現象の奥の本当の姿、即ち実相は今、このままで完全円満の神の生命として、既に神の国に住み、救われているのである。

 良い行いの積み重ねが神になる訳ではない。神が今、ここに自分の生命として顕れているのである。ここに吾として神がおわしますのである。何かの条件付けで神になる訳ではない。
 諸々の善行を間違いなく完璧にやれて神になれて、悦べるのではないのである。我々はこのままで今、神である。誤解の無い様に言えば「このまま」というのは現象ではない。現象は今、このままナイのである。このままとは現象の奥にある本当の自分である。だから、今悦んで良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-05-31 09:36 | 信仰 | Trackback | Comments(5)

徹底するということ

 昔から「二兎を追う者は一兎をも得ず」とか「一芸に秀でた物は百芸に通ず」という言葉がある。生長の家創始者、谷口雅春先生も「本当に価値あるものは浅い所に埋めてあるのではなくて、深い所に埋めてある。だから、容易に才能を掘り当てる事が出来ないという事は逆にその才能が非常に価値あるもので深い所に埋めてあるという事である。」と仰っている。

 ところで私の趣味はテニスである。大学の時に体育の授業で選択してから、面白くなって始めた。その後、社会人になって、生長の家の青年会の運動も忙しくなって来たので、しばらくやっていなかったが、十年前からまた腰を入れてやりだした。
 私は大学の時に既にテニスに関しては人並み以上に出来る様になったと思い込んでいて、十年前に再開した時はもっぱら、色々なテニス大会に腕試しに出る様になった。しかし、である。これが殆ど勝てなかったのである。考えてみれば、大学時代はテニスクラブやテニススクールに所属していたわけではなく、本屋で売っているレッスン書を読んで自分だけで研究して、自分だけで練習して、それで、うまくなったと思いこんでいたのである。
 自分のテニスは人並み以上という自信というか思い上がりは試合経験を重ねる中で段々と崩れてきた。
 しかし、私はあきらめずに自分なりに研究したり、練習したりしてやって来た。そうする中、試合に出続け、テニスクラブやテニススクールでコーチや上手い人の指導を受ける中で徐々に私のテニスの腕前も上がって来た。それはテクニック的な事や戦術的な事以上にメンタル的なものが多かった。試合中は絶対に弱気になったら駄目であるとか、集中すべき事には集中しなければならないという様な事、そして何より、自分の潜在能力を如何に引き出すかという事に関しての私の考え方が構築されていった事が大きい。テニスに限らず、スポーツというのはとても良い人間形成の為の訓練になると思う。ものごとの考え方や精神というものがてきめんに試合に出るからである。

 私はテニスを徹底的にやる事で自分の信仰面での人間神の子無限力の引き出し方に多少の間違いがあるのを修正する事が出来た。これは非常に大きな事である。私がたかがスポーツだからと適当にうわべだけで済ましたり、何時まで経ってもうまくならないと言って、途中で放棄したら、とても深い真理は分からなかったと思う。

 私は生長の家も同じだと思う。やるなら徹底してやるべきである。生長の家は外側から眺めてああだこうだ言っているだけでは決して、その本質は分かりはしない。徹底してやる中で初めて、その奥にある本質をつかむ事が出来るのである。
 私は生長の家の運動とか生長の家総裁・副総裁の仰っている事が分からなくなる時は逆に徹底して生長の家をやる。そうすると後から分かるという事が殆どである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-05-30 14:12 | 信仰 | Trackback(4) | Comments(4)

実相が出て来るということ

 私はあるスポーツのある運動動作が出来なくて、非常に困っていた事があって、それを克服する為に自分なりに研究と努力を重ねていたが、全然改善する兆しが無かった。しかし、先日、仲間とそのスポーツの練習をしていた時に、とっさにその運動動作をやれている自分を発見したのだった。
 その時、私は悟った。「ああ、今まで自分のここが駄目だ、ここが出来ないと心を引っ掛からせて、それを良くしよう、良くしようとしていたから、出来なかったのだ。良くしようと思う心は良くないと認める心であった。この世界は思ったら思った通りになる世界であるから良くないと認めれば、いくら努力しても良くならないのは当然であった。これから努力して良くなるのではない。自分は今、神の子無限力であるから、たった今出来るのだ」と。

 我々は何かの人生上の問題が出て来た時にそれを克服すべく努力をする。そして、生長の家を一所懸命やり、その中で祈ったり、愛行したり、訓練したりと一所懸命に努力する。そして、良くなる場合もある。しかし、それが中々その努力が実らずにますます悪くなるなんて事もある。 
 そんな時はその問題が教えてくれている事が我々の我(が)の目論見を超えて、非常に高度であるからである。単にその事が現象的に良くなる、肉体的に治るなんて物質的な事よりも、それを遙かに超えた高度な真理の悟り、即ち、肉体を超えた我々の本当の生命は自性完全円満(そのままでかんぜんえんまん)であるという悟りという素晴らしい宝物が隠されているのである。
 我々がいくら努力してもその成果が現れない時は我々の努力が無駄であるとか、その問題は解決出来ないどうにもならないことであるという事ではなくて、その問題の奥には我々の我(が)の予想を遙かに超えた素晴らしい神様からの贈り物が用意されているという事なのである。心配しなくても実相の素晴らしさは我(が)の目論見を超えて、その人の生長に取って最も良い時期に最も良い形で現れる。
 実相が出て来る時期は神様にお任せせよ。まだ出ないかなんて考えてはならぬ。実相は我々の魂の生長に最も良い時期に出て来る。
by koujihori | 2007-05-28 14:20 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(2)

真実の存在

 生長の家の聖経「甘露の法雨」には「すべて眞實の實在は、神と神より出でたる物のみなり」と書かれている。
 
 我々は何かの問題を抱え、そして生長の家に触れ、人間は本来完全円満であり、それを潜在意識に染み込ませれば、心の展開である現象にその完全円満さが出て来て、病気他、あらゆる人生上の問題が解決されるという事を学ぶ。
 それで、一所懸命、生長の家をやり、心を清め、行いを正しくして行く事により、その問題を何とか解決しようとする。それで治る場合もある。しかし、それで終わったら、信仰とか真理というものは単なる病気治しの道具の一つとしかその本人には認識されないであろう。それでは本当にその人の魂が救われた事にはならない。
 
 人生上の問題というのは単にその人を苦しめる為に現れたのではなくて、その人に真理を悟らしめ、正しい生き方をする様に神様が与えた一種のおもちゃに過ぎない。
 仏教の寓話にこんな例え話がある。ある家で遊んでいる幼児がいた。ところが、その家は火事になって今にも燃え落ちようとしていたのである。それを外側から人々が幼児に早く、その家から逃げて出て来いと盛んに呼びかけていたのであるが、幼児にはその真意が伝わらず、相変わらず、遊びに熱中して、正にその幼児の生命に危機が訪れようとしていた。その時にある賢い人がその幼児が大好きなあるおもちゃを外側から幼児に示して、「ここにお前の好きなおもちゃがあるよ。さあ、出て来なさい。」と言って、その幼児を燃えている家からおびき寄せて、その幼児の生命を救ったという事である。
 これはその幼児は言うまでもなく我々一人一人の事であり、今まさに燃え落ちようとしている家とは我々の迷った魂の事であり、そのおもちゃとは迷いから悟りに導くきっかけとなる我々の人生上の重大問題の事である。この話の様に我々の人生の目的は既に完全円満な自己の生命の実相を自覚して、それを実生活化するという事であり、人生上の問題というのはそうした悟りに導く為の神から示されたおもちゃなのである。

 従って、我々は現象を良くする事が人生の目的ではない。現象は今、このままでナイ、存在しないという事、そして、本当に存在するのは現象が如何なる状態であっても、その奥に宇宙の始めから完全円満の大宇宙のみが存在し、我々一人一人はその完全円満の神により生かされたやはり今そのままで完全円満の生命であったという事を悟る事が人生の目的である。
 信仰によって、徐々に良くなって行く現象はナイ。段々清まって行く潜在意識もナイ。今、このままで完全円満の神の生命しか無い。そして、それが御自分で出て来る事しか無い。何故なら我々の完全円満の生命は無限生長であるから、じっとしておらず、自ずと動き、現象界に見える形でその表現を無限にレベルを高めながら徐々に行っていくものであるからである。それが我々の無限生長である。
 その課程では現象的に悪くなる事もある。だから、信仰で現象を良くしようなんて思ってはならないのである。

堀 浩二

True existence

In a sutra of Seicho-no-ie,named "Kanro-no-houu",it is written that God and appearing of God are only existences.

When you get in some trouble, you would go to Seicho-no-ie, at that you learn that humankind is son of God and that if you could memorize the truth on your subconciousness, your trouble, for example some disease would be cured because all phenomenon around you are only reflection of your mind.
So you are going to solve your problem with studying Seicho-no-ie hard and clearing your mind and doing good thing. By such a efforts, you may solve your problem , but if you leave Seicho-no-ie as soon as you could solve your problem, you would become to think that Seicho-no-ie is only a means to cure disease. And your soul couldn't be saved trully.

A problem of your life appears not to give you a pain but to enlighten you and but to indicate you to live in a right way. The problem is only a toy which is used to indicate you to right way.
There is a stoty in Buddism. The story says that therre was a child who was playing in some house which was burning. People surrounding the house was shouting loudly to invite the child from the burning house. But the child couldn't understand the meaning of what people said. At that time,some wise guy said that here was the child's favorite toy, with the way, the wise guy succeed in inviting the child from the burning house.
The child is a metaphor of each you, the burning house is a metaphor of your lost soul,and the toy is a metaphor of your grave troublesome of your life.
The purpose of life is for you to be enlightened of a truth that your true life is a perfect life of God, and to realize the wonderfulness of your life on your life. Your grave troublesome of your life is only a toy which introduce you to be enlighten of the truth.

Therefore, the poupose of your life is not to make a phenomenon around you become better but to be enlightened of that perfect union only exist from the beginning and that your life is also perfect life of God and that there is no phenomenon and that phenomenon is only refllection of your mind.
There is no phenomenon which become better gradually by your faith. There is no unconciousness which become clean gradually by your faith. There is only two things in this space, one is a perfect life of God as it is and another is the appearing of perfect life of God.
A life of God is infinite power, that is not static but dynamic automatically infinitively, so, that expresses its wonderfulness on a phenomenon gradually. That is your infinite growing.
In the process, a phenomenon around you become worse sometimes, so you should not make a phenomenon around you become better by your faith.

Kohji Hori
by koujihori | 2007-05-24 09:58 | 信仰 | Trackback(6) | Comments(2)

全託

 私の生涯の師、榎本恵吾先生は講話で良くこう仰っていた。「皆さん!全託と言ったら本当に全託するんですよ!」と。

 生長の家では「神様に全託(全面的に託す)せよ。」と良く教えられる。しかし、それが中途半端なものであってはならない。神に全託するとは神に本当に全面的に何もかもお任せするという事である。ここだけは私がやらなくてはならぬなんて所がほんの少しでもあったらいけないのである。
 それこそが実相独在の信仰であり、完全円満の神の国が既にここに、我が内に、そして全宇宙に拡がっているという事への絶対安心的信仰である。
 
 その信仰あればこそ、完全円満の神が無限力を発揮して、肉体を内側から健康にし、能力を発揮せしめ、経済問題、家庭問題他、あらゆる問題を完全に解決し、全てを癒すのを実感する事が出来るのである。そうすれば、我々の心の投影である、この現象世界に我々の自覚が投影されて、完全円満の世界が映し出されるのである。
 しかしながら、その既に完全円満の世界を信じる事が出来ずに「私が」「オレが」と思って、我(が)が力むとそのままで既に完全円満で宇宙に無限に拡がっている神の無限力の発揮を自ら縛る事になる。本当の世界は実相世界しかないのであるから、いくら我々の自覚が未発達でその完全円満の神の国を自覚出来ず、自らの力を縛ってもその本当の世界はいささかも制限される事はないが、我々は我々の自覚という夢の世界で自らを限定し、縛る事により、その自縄自縛により、そのままで完全円満、無限の力が縛られて出て来ないという夢を仮に見るのである。そして、今、そのままで自由で無限供給、無限健康、無限能力の世界に居ながら、自己の自覚の上で自らを縛るという夢を勝手に見て、それを自分の周りの世界に自らの心の力で投影して勝手に苦しんでいるのである。

 神様を本当に信じるという事は神様に本当に全託する生活である。これっぽっちも「ここは私がやろう。」という部分があってはならないのである。それは我(が)が神様だけではまだ心配だ、悪くなりはしないかと思い煩って、「こうしなくてはならぬ」「ああしなくてはならぬ」と自らを良くしようとするのである。それが自己のそのままの力を縛る事になるのである。何故なら、自己のそのままの力即ち内なるそのままで完全円満、無限力の神の力を信頼しないでお任せしない事になるからである。
 神を信じるとは自己を良くしよう、物事を完全にしよう、完全に確認しよう、人からの自己の評判を決して落とさない様にしようという善をつかむ心を捨て、神に本当に全面的にお任せする事である。そうすれば、神は全知全能であるから必要に応じて、神の力が内側から働いて、全てが良くなり、癒され、解決するのである。
 それが実生活化すると自ずと捨身という生き方が出て来る。おのれをつかむ心を捨て、勇気を出して、おのれを捧げる生き方である。それが本当の全託の生活化である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-05-23 09:17 | 信仰 | Trackback(3) | Comments(1)

デジタルからアナログへ

 「デジタルからアナログへ」という生長の家副総裁、谷口雅宣先生の御講話が生長の家全国大会であった。デジタルというのは0か1かという考え方で、何でも白黒はっきり区別するという考え方であるのに対し、アナログというのはそうしたはっきりした分け方をしない中庸的な考え方である。
 そして、時代はアナログからデジタルへと進歩しているとされ、アナログよりデジタルの方がより進歩的であるというのが一般的概念であるが実際はそうではなくてその逆であると言うのが谷口雅宣先生の御指摘である。
 例として、人間は幼い頃から人間というものを肌の色で区別する感覚が本能的に備わっているそうであるが、実際、良識的に思考し、行動するならば、人間は本来、肌の色に関係なく、平等であり、表面の肌の色などで差別すべきでないと考え、それに基づいて行動する。本能的に肌の色で差別するというのがデジタル的思考であり、それを乗り越え、人間は本来、平等なものであると思考し、行動するのがアナログ的思考である。
 要するに、デジタル的思考というのは肉体的、本能的思考であり、アナログ的思考というのはそれを乗り越え、制御するという理性的思考である。どちらが本当の人間の心であるかと言えば、それは後者であるアナログ的思考であるという事になる。何故ならば、生長の家の教えに従えば、肉体、物質は本来無いものであり、霊的生命、神の生命のみが真に存在するものであるからである。肉体的本能は一重に霊的生命の理性の元に制御されるべきものであり、その霊的生命の理性の制御する心を我が内の神のそのままの心と言うのである。
 「そのままの心」とは肉体的本能のままの放縦の心ではない。その霊的神の生命の理性に制御された心であり、それが自律であり、自立の心である。そして、その制御された自律の心で訓練された心が大きな力となり、人間の品格となるのである。それこそが真の人間の姿である。
 
 しかしながら、大東亜戦争後の日本国憲法では民主主義は大いに採り入れられたもののその民主の民の実体が神の霊的生命であるときちんと定義されていない。生長の家創始者、谷口雅春先生はこれを「肉体民主主義」と一喝されている。
 要するに戦後、基本的人権を始め、大いに人間の人権が唱えられたが、その人間の本体を肉体又は物質としている為に肉体の本能的欲求を満たす事が一番大事な権利の様に錯覚されて来たのである。それが現在の日本人の現状である。
 国の理想も人間神の子の理想も無く、ただ唯物的に肉体の欲求、金儲けの欲望のみが一人歩きし、それを満たす事が、人間の権利であるかの様な風潮になっている。
 昨今の企業のモラルの低下、いじめ問題、そして、その責任をひたすら逃れる教師達、男女の性の乱れ、不倫、できちゃった結婚等々、これらは人間の本性が何であるかという事を見失っている事の証左である。
 自分に正直に、かつ自由に生きるという事を皆、勘違いしているのである。自分に正直に、かつ自由に生きるという事は肉体の本能の欲求の放縦のままに生きる事ではない。それに打ち勝ち、制御し、内部理想に基づいた生き方をする事が真の人格の自由の表出である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-05-17 23:54 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(2)

悩み

 2年前の5月1日の当ブログに次の様な文章を書いた。

 (ある仏教の寓話の一つにこういうのがある。それはある人が自分の家が狭くて狭くて仕方がないとこぼしていて、それがその人に取っては最大の悩みであったのだが、それを知り合いのあるお坊さんに相談したら、そのお坊さんは何とその人にその人が飼育している牛と馬を家に入れて、その家の中で飼育しろと指示したのである。
 当然、その人はただでさえ狭いのにこの上、牛とか馬を家に入れたらもっと狭くなりますと抵抗したが、結局、そのお坊さんの指示通り、牛と馬を家に入れて、しばらく暮らしていた。その内、またそのお坊さんが来て、お前、そろそろ牛と馬を外に出せということを指示して来たのでその人は言われるままに牛と馬を外に出したのである。そうしたら牛や馬で大変狭く感じていた家が本当に広々としたものに感じられ、ああ自分の家は広い家であったと認識を新たにしたというのである。)

 この事は何を教えてくれているかと言うと、悩みの種とか問題というのはそもそも具体的に存在せず、それは自分が勝手に心を引っ掛からせていただけであるという事である。テレビでも「私のこの鼻があと1センチ高かったら・・・、私のこの目があともう少し大きかったら・・・。」という美容整形を勧めるコマーシャルがあるが、人は大抵自分の容姿のどこかにコンプレックスを持っていて、これさえもっと良くなれば自分は完璧になれると思う傾向がある様である。
 でも、そうした人は整形して自分の欠点を治したとしても、またその内、他の欠点に引っ掛かって、また整形したくなるそうである。

 本当の世界は完全円満の神の国であるから、そもそも問題など本来無いのである。問題みたいに見えるものは自己の心が勝手に想像し、自ら現象世界に映し出しているだけなのである。自分の既に与えられた良い所に感謝せずに悪い所ばかり見て、心を引っ掛からせているのである。
 従って、そうした心でいる限り、一つの悩みが解決したとしても次々と悩みの対象が入れ替わって、尽きないし、言わば悩む対象は何でも良いのである。
 何故、そうなるかと言えば、感謝が足りないからである。悪い所ではなく、良い所のみを見て、感謝する心であれば、問題は消え、悩みも消える。感謝が大事である。今、生かされている事、恵まれている事、愛されている事への感謝である。それがものごとの良い所のみを見て、感謝する日時計主義となる。そういう心になれば、心に歪みが無くなるから、自分の心の投影された世界であるこの現象界から不完全な事象も消えてしまう。そうなれば悩む事も無くなるのである。

堀 浩二

Worry

I wrote an essay below at May fifth 2005

There is a story of Buddism. Some day, a guy complained about a smallness of his house. That complaint was his most worry. The guy talked to some monk about his complaint. So the monk commanded the guy to put a his cow and a his horse in his house and feed these animals in his house.
He was astonished by a order of the monk. And he insisted that if he feed these animals in his house, his house would become more narrow. But at last, he obeyed the order. After that he continued to feed these animals for a while. Some time the monk came to the guy's house and ordered him to put away those animals from the house. The guy put those animals from his house in order to the command of the monk. So the guy noticed that his house was spacious.

This story teachs that there is no concrete problem and that your mind only be stuck with the problem which seems existent.
There is some t.v. commercial that some girls murmur themselves that if their nose would be a little higher and that if their eyes would be a little bigger. It seems that most people have a inferiority complex for their looks. And they seem to think that if their faults would be cured, their looks could become perfect.
But it seems that if they could make their faults of looks better by a surgery, they would become to have an another complaint for their looks. So they want to take next surgeon again.
As real world which exists in the inside of the phenomenon is a perfect country of God, so there is no matter at all in fact. Something which look like a problem is merely what you only imagine in your mind. By your mind you project the image of the problems.
You don't thank happiness which is already given to you but complain about your tiny faults. And you are stuck with the faults. Therefore if you continue to have a such a mind which complain your faults, your troublesome would not disappear. Because your feeling of appreciation is scarse.
If you do not see a bad point of everything but see a good point of anything, and you thank the good point, your troublesome would disappear.Appriciation is very important. You should appreciate to being sustained, to being given a lot of welfares, to being loved by God. Such a lifestyle become a principle of sundial.
If you have a custom of seeing only good point, all the things which are unperfect would disappear. Because if your mind would become to see only goodness, the lenz of your mind become right. So all the unferfect thing would dissapear around you , because all the phenomenon around you is only image which you cast by your mind.

Kohji Hori
by koujihori | 2007-05-14 10:07 | 信仰 | Trackback | Comments(6)

どうして生長の家総裁・副総裁に中心帰一するのか(2)

 これだけ環境問題、地球温暖化問題というのが人類の危機として、クローズアップされて来て、生長の家の訴え続けて来た事が間違いなかったという事が明らかになって来ているにかかわらず、いまだにどうして生長の家が地球環境問題の事を言うのか分からないと言って、批判したり、生長の家から離れていく人がいる。

 地球環境問題は生長の家が訴えなくても社会とか政府とかマスコミが訴えているからそんな事は生長の家は余り言わなくていいとか又は、それらの今はやりの問題を受け売りしてそれにかこつけて信徒を集めようとしているなんて言い方をする人もいる。
 しかし、地球環境問題などいくら訴えた所で、信徒なんて増えない。それは組織の第一線で組織の数字とにらめっこしている私にはよく分かる。何故なら、地球環境問題を憂い、良くする為に生長の家の門をたたく人なんて居ないからである。
 生長の家が最初に地球環境問題、特に地球温暖化問題を訴え始めたのは現生長の家副総裁、谷口雅宣先生ではなくて、現総裁の谷口清超先生からである。それはもう10数年以上の前の事であり、二酸化炭素排出量の削減目標を定めた例の京都議定書が提唱された京都会議よりも数年以前の事である。
 その頃は地球温暖化問題なんて世間で殆ど認識されておらず、私自身も清超先生のお話を聞いて、初めて知ったのである。

 生長の家が地球環境問題を訴えるのはそれで世間にアッピールする為とか信徒を増やす為ではない。前述した様にそんな事で生長の家に来る人は居ないからである。生長の家が地球環境問題を訴えるのはこれ一重に無限の善なる神様の世界を如何に現象世界に現出させるかという事を真剣に推進しているからである。
 即ち、既に内なる無限完全円満なる神の国を自覚すればこそ、それを実現するにはどの様にしたらよいかという智恵とそれに基づいた行動が自ずと出て来るのであって、その活動が現在の生長の家の地球環境問題を解決する為の運動として展開されているのである。

 我々は組織に属していると当然、自分の上司というのがいる。それで上司がこうしなさいと自分に指示を出して来たとする。そういう時、自分の見地から見て、その上司の指示より自分の判断の方が正しいと感じる事がある。そうした時、意見を言うのは良い。しかし、それでも上司が当初の上司の指示どおりしなさいと指示した場合は部下である自分は「ハイ」と従うべきである。それは自分の見地より上司の見地の方がより、広い範囲を見渡していて、その上で指示を出しているからである。それなのに自分からの見地にこだわって、自分の意見に固執するのは我(が)というものである。その事は谷口清超先生が「神は生きている。」という御著書の中で明確に述べておられる。

堀 浩二
by koujihori | 2007-05-11 09:55 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(10)

生長の家とは何か(2)

 宗教とはそもそも何であろうか?今まで有史以来、宗教的天才と言われるのは釈迦とキリストそして、生長の家創始者である谷口雅春先生という事になると思うが、こうした天来の宗教的天才というのはそもそも宗教なんて作ろうなんて夢にも思わなかったのである。それぞれ血の滲む様な求道生活の中からついにインスピレーション的に感じた天才的悟りの悦びを嬉しくて周囲にお伝えになったに過ぎない。

 キリスト教や仏教は実に様々な宗派、宗門があるがそれは後世の人達が勝手に作り上げたものである。キリストは当時のユダヤ教に余りに多くの宗教的制約、束縛があるのをそれからの解放を盛んに唱えておられたという事であるし、釈迦も出家後、最初はバラモンの教えに従って、苦行したが、苦行は悟りの因ならずということでそのまま、当たり前の生活が悟りの生活であるとお悟りになったのである。
 谷口雅春先生も宗教法人生長の家を立ち上げようなんて考えてもおらず、御自分のお悟りを雑誌「生長の家」誌として発表し、知人に伝えている内に治病とかその他奇跡的な事が盛んに起こって来たので、見る見る内に広まって行き、信徒が増えて来て、恰も宗教教団の様になったに過ぎない。しかし、生長の家はそもそも宗教ではないのである。それは生長の家の四部経の中にある「聖使命菩薩讚偈」に「吾らは全ての宗派を超越し・・・」とはっきり示されているし、その解説を生長の家総裁、谷口清超先生が「菩薩は何を為すべきか」という本の中で「この教えは実に広大であって、従って、吾々の運動は決して、一宗一派に偏したものではないのであります。」と述べられている。

 宗教はナイと宣言したのが生長の家である。本当に実在する神様の世界、実相世界に宗教など無いのである。宗教とは人間を縛るものである。宗教とはこの神を信じねばならぬ、この会に入らねばならぬ、この行をしなければならぬという縛りである。
 生長の家は人間神の子の教えである。「そのままでよい」の教えである。自性完全円満(そのままでかんぜんえんまん)の全ての人類の生命をただ祝福する教えである。生長の家は人間を縛る教えではなくて、人間を解放する教えである。それなのに「生長の家をやらなくてはならぬ。」「生長の家に入らなくては又は入れなくてはならぬ。」「生長の家の行をしなくてはならぬ。」と生長の家に縛られる者は生長の家を知らざる者である。

堀 浩二 
by koujihori | 2007-05-09 15:16 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(11)

日時計主義

 現在、生長の家の出版社である日本教文社から「日時計日記」という日記帳が発売され、生長の家組織内でもこの「日時計日記」をつけようという運動が提唱されている。それはこの日記帳だけではく、Web版のものもあり、読者の中の生長の家信徒の方はよくご存知だと思う。

 そもそも生長の家が立教された今から77年前の昭和5年に創刊された月刊誌「生長の家」誌の中で生長の家創始者、谷口雅春先生はこの「日時計主義」というものを一番最初に提唱されたのである。
 この日時計というのは屋外の平地に置かれている時計の一種でその日時計の文字盤の中央に一本の棒が立っていて、太陽の光によりその中央の棒の影が丁度、文字盤に影を指して、それで何時であると分かるというものである。
 その日時計は太陽が光り輝く時のみ時間を示すのであるが、そこには「我は太陽の光り輝く時のみ時間を記録す。」と記されている。要するにこの日時計は明るい時のみ記録し、暗い時、曇った時は時を記録しないので、日時計主義とは明るい良い事のみ、記憶し、悪い、いやな事は記憶に留めない主義の事を言うのである。

 そもそも生長の家は立教当初はこの良い所のみ見て、悪い所を見ない運動としてスタートしたのである。それは言葉というものが全ての存在を造るという真理から、言葉の三大要素である思念、発声音、表情を良いものにするのが大切であるとの見地からこの日時計主義運動を根本として生長の家の運動はスタートしたのであり、それを現在の時点で再確認しましょうというのが現在の生長の家で行われている「日時計日記」運動である。

 さて、私自身は実は以前はその真反対の生き方をずうっとして来た。私は良い所は殆どというか全然見ないでことさら、悪い所ばかり凝視する生活をしていたのである。
 朝、目が覚めると、一番最初に思い出すのが前日の最もいやな思い出や自己の失敗で恥をかいた事である。そして、それに引っ掛かって、落ち込むのである。何故か?それは取りも直さず、私が悪い所を良くしようという心の持ち主であったからである。自分は色々良い所もあるが、汚点や欠点もあって、その欠点さえ無ければ、自分は完璧になれると思って、その自分の小さな欠点をことさら、凝視し、それを拡大鏡で見る様に見つめ、これを良くしようと引っ掛かっていたのである。

 しかし、悪い所を良くしようという心は感謝の無い心である。良い所を見て、感謝するのではなく、悪い所ばかり見て、不満に思っているからである。その良い所への感謝を忘れ、悪い所ばかり見て、良くしようという心は我(が)の心である。神様に生かされている事を忘れ、自分で何とかしなくてはならないと思っているからである。
 それは焦燥感となり、不安と恐怖の元となる。そして、この世界は「思ったら思った通りになる」という心の法則が支配しているから、感謝の無い、不平の心は心の平和、悦びが無いばかりでなく、その暗い心通りの暗い運命を造り出すのである。

 生長の家で強調されるのは「感謝」である。それは神に生かされているという悦びの表明である。その神にただ生かされている悦びが実生活化したものが「日時計主義」である。

堀 浩二

Principle of sundial

A book named "sundial diary"is published by Kyobunsya which is a publisher of Seicho-no-ie now. And an activity that let's write a "sundial diary" every day is being promoted among the members of Seicho-no-ie. There is a also "sundial diary"of Web site. I think members of Seicho-no-ie know this activity very well.

Rev.Masaharu Taniguchi who is a founder of Seicho-no-ie recommended "principle of sundial"which means that you should memorize only good memories in a magagine named Seicho-no-ie when Seicho-no-ie started in 1930.
Sundial is a kind of clock, which is nomally placed on a flat ground in outdoor. A pole stand in the centor of a sundial,and the pole indicates a time with a shadow of the pole when the sun shines.
So the Sundial show a time only when the sun shines. Some passage is written on the sundial. It says that I record none besides a time that the sun shines. Namely, as the sundial indicates only sunshine time, the principle of sundial is that you should memorize only good memory and that you never momorize evil memories.

Seicho-no-ie started as a movement of seeing only good side of every things and as not seeing evil side of anything. There is a truth that you create everything with your words which consist of your mind , your expession of your face and your voice. So, from the idea, you should clean your mind with good memory.

By the way, I had been living a life which was opposite to lifestyle of principle of sundial. I did hardly see good side of everything,and I had been watching only bad side of anything.
When I woke up in the morning, I remind my worst memory of the day before that I was ashamed with my my failure. So I was depressed by the bad memory all the day. Because I was a person who force bad thing to turn to be good. I thought that I had several good point but I had a also failure. So I thougt that if I could made my fault become better, I would become perfect. So I concentrate on my small fault and I only saw my small fault with microskope.

But, the mind to force bad point to turn to be good has no appreciation. Because the mind doesn't thank the goodness which is already given to you and always complains about the bad point. The mind which is to force something bad to turn to be better is egoistic. Because the mind forgets to be sustained by God, and thinks to have to make bad thing to be better by ego.
Such a mind become a cause of terror and fear. And there is a law of mind that what you imagine appear,so the dark mind which has no appreciation make dark fortune.

Seicho-no-ie emphasize "appreciation". That's a expression of a joyfulness that you are sustained by God. The joyfulness of your appreciation becomes a lifestyle of principle of sundial that you only memorize a good memories.

Kohji Hori
by koujihori | 2007-05-08 09:33 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(0)