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問題はナイ(3)

 我々はこの世界に生きていれば、様々な問題、課題に直面するのである。近頃の若者は会社に入っても、昔のように出世を求めず、平社員のままでいいから、気楽に与えられた仕事だけやって、後は自分だけの趣味とか楽しみをしておれば満足という人間が多いという。要するに出世して、管理職になっても下からは突き上げられるわ、会社からは締め付けられるわでその上、残業代もカットされ、責任だけ重くなるのは御免こうむるという事らしい。
 こうした状況の背景には管理者として、そこの部署の成績の責任を負わされたり、労働組合とかからの突き上げとかそれに対する会社側の人間としての説明責任とかなどのプレッシャーがなどがあり、中には鬱病になったりする人もある様である。
 
 私の会社でも勿論、それに類した状況はある。私は会社では総務関係の責任者であり、給与とか待遇の件で、従業員の不満を買う事もたまにある。そうした中で私も悩む事もある。しかし、私はそんな時は自分で問題を一人で抱えないで最終的には神様に全託してしまう。
 大事な事は何よりも問題を自分で握らないで神に全面的にお預けする事である。問題は既に神が解決済みであるのであり、我らは何をするにもこの信念と信仰が必要なのである。
  
 問題というものが真に実在し、それを自分が何とかしなくてはならないなんて思ったら、大変である。問題を自己が握って、思い煩うから鬱病とかノイローゼになるのである。
 思い煩うな。神に全託すれば良いのである。問題はそのままで既に解決済みである。それは現象は単なる我らの過去の念の残像に過ぎず、真に存在する世界は我が内なる大調和の神の国のみであるからである。その信仰の中から、自ずと事態を打開する智恵が湧きい出、それに従って、粛々とするべき事をやって行けば良いのである。

堀 浩二

There is no problem(3)

If you live in this world,you would face several problems. These days, I have heard that some young people have no desire to promote in their company, and only do a task which is ordered by their boss ,and are satisfied with only doing their hobby and so on.
Namely,it seems that if they promote in their company, they only be accused by their staff and be distressed by their company top,and be cut of overpayed salary and be undertakened of a heavier responsibility, so they dislike to promote in their company.

In my company, naturally, there is a same story. I am a reader of a gereral affairs department of my company, so I often be accused by employees of my company for a sarary and a treatment and become blue by being accused by them.
But I always not hold my problem by myself but depend on God for all my problems at last. It is most important thing that you should not hold your problems by yourself but ask God for all your problems.
You need a faith that all problems already are solved by God in real world which exists behind a phenomenon world.

If you would imagine that there is a problem which really exist, and that you have to solve the problem by yourselg,you would have a great trouble. As you imagine your problem and grip your problem by yourself, and be worried by yourself, you would become a depression consequently.

Never mind. It is OK for you to rely on God for everything. All problems are already solved by God. Because all phenomenon are only projection of your past mind,and true existing world is a country of God which is perfect harmonious world in your inside. If you have such a wonderful faith, you would be hinted with great wisdom of God. you have only to do a duty in accordance with the great wisdom step by step. So you would be able to solve a problem which you have.

Kohji Hori
by koujihori | 2007-06-28 16:58 | 信仰 | Trackback | Comments(13)

人間に取って必要なこと

 ここ数年、企業ぐるみでの色々な不正が問題になる事が多いが、現在、マスコミが盛んに取り上げている事件は食品加工会社のミートホープ社の件だろう。何でも牛肉の挽肉と称して、豚肉とかその他、原価の安い肉を混ぜて、不正に金儲けしていたらしい。それも最近の事ではなくて、30年前の創業以来という事である。その不正は元従業員の証言によると社長自ら率先して、指示していたそうである。

 私はこのニュースを聞いて、真理を知らない人間というものは本当に始末が悪いと思った。この社長だって勿論、その実相は神の子であるのだが、彼は真理を知らないが為にその表現方法が分からないのである。
 しかし、現在の日本ではこの社長に限らず、正しい行動の規範を持たず、その物質的欲望と金儲けの為に盲目的に行動している人間が如何に多いことかと思う。

 人間の道徳性の根本は「人間は物質ではなく、その本質は完全円満なる霊的生命であり、それは全宇宙に拡がる無限に完全円満なる神に生かされたものである」という真理の把握である。神という言葉が嫌いなら、それを何か大生命とか大自然と言っても良いし、英語ではサムシンググレート(Something Great)という呼び名もある。ともかくもそうしたものに対する思いというか確信が無ければ駄目である。それを信仰と呼んでいるのである。

 そうした正しい信仰が無ければ、人間は只の物質の塊であるという人間観を持たざるを得なくなる。それは物質即ち肉体の欲望を満たす事、その欲望を満足させる為の金儲けが第一という人生観にならざるを得ない。そして、その為には法律に触れなければ、また例え法律に触れてもそれが隠しおおせれば、何をやっても良いという事になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-06-26 10:54 | Trackback | Comments(4)

捨身ということ

 大東亜戦争末期、日本の旗色が大部悪くなって来た時、戦闘機に爆弾を積んで、敵艦に体当たり攻撃する神風特別攻撃隊というものが編成され、多くの若者達が国の為に自らその尊い生命を捧げて下さった。私は誰が何と言おうと戦後のこの日本の繁栄はこうした英霊のお陰であると思っている。
 生長の家創始者谷口雅春大聖師はこれらの特攻隊の方達はその死後、皆、神界に旅立たれたとお教え下さっている。即ち、それらの魂は解脱して、現在は大自在の境におられるのである。人間は神の子であり、完全円満の生命を神から与えられ、生かされているが、それを悟り、魂が解脱するのには火の出るような試練とトレーニングが必要である。現在の様な平和な時代はそれはゆっくりと何回も生まれ変わって段々とやって行くが、戦時の様な喫緊の時にはこの特攻隊の方達の様に急速に行われる事がある。

 ところで人間は何かを本当にやる為には自己を対象物に全く捧げなくてはならない。何か心に悩みがあるとか引っ掛かりがあるとその事が気になって、集中出来ないのである。そういう状態ではいくら時間を掛けて、練習しても上達する事は無く、却って下手になって行く。そして、自分の心配ばかりしているから、血液中に毒素が発生して、それが脳細胞を徐々に破壊して行き、そうなると能力はますます低下し、それが高じると不眠症とかノイローゼになるとは谷口雅春大聖師がお教えになっている事である。

 要するに我らが真に能力を発揮し、才能を開花する為には自己というものを全く、捧げなくてはならないのである。自分の財産とかそんなものはもとより名誉であるとか見栄であるとか評判とかはたまた自己の仕事のできばえという事までも悉く、捨てなくてはならない。捨身である。それにはかなり勇気が要る事であるが、それが出来なくては我らは実力を出す事は出来ぬ。
 自分の事が心配で自分の事ばかり考えている様では常に心配で、悩みは尽きず、ノイローゼになるのが落ちである。
 人間は自己を捧げなくてならない。自分の事を全面的に投げ出さなくてはならない。それが解脱であり、悟りである。それが出来た時、人間は真の自由と悦びを得る。そして、自由自在に能力を発揮し、他の人から悦ばれる人になる事が出来る。その為には神を全く信頼して、全託しなくてはならない。全宇宙に拡がる完全円満なる神に。だから人間は究極的には正しい信仰が必要なのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-06-25 15:16 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

今、出来る

 生長の家の根本真理は人間は神の子であるということである。神の子とは神の事であり、神とは宇宙に満ちる無限に完全円満な大生命であり、我々、人間はその神の全徳を受けているから今、そのままで完全円満であり、無限力である。信仰していれば将来そうなるというのではない。しかし、それは言うまでもなく現象の事ではない。現象は単なる我々人間の過去の念の残像に過ぎないものであり、良い時もあれば、悪い時もあり、常にゆらゆらと定まらないものである。そんなものは単に現れているだけで本来ナイのである。

 人間神の子無限力はその様に現象の奥の我らの本当の生命、霊的生命の事であるが、それは前述の様に将来、そうなるというのではなく、宇宙の始めからそうなのである。だから、「そのままでよい」のである。そのままとは現象の事ではなく、実相そのままである。そのままという事は何も無為無策でだらっとしているという事ではない。神に全託し、かつ今やるべき事を瞬時に判断して敏速にやっていく事でもある。何故ならば、「そのまま」とは神の生命の無限の躍動の事であり、神の生命は同時に無限の智恵、宇宙に満ちた最も的確な判断の出来る大智恵そのものであるからである。

ということで我らは現象的に如何なる状態であろうともそんなものは過去の念の残像に過ぎないものであり、たった今、完全円満、無限力である。そして、それを悟った人は現象がどうであろうとたった今、自分のやるべき事から目を背けず、立ち向かうのである。それが勇気であり、思い切りの良さという生き方となって現れる。

ところで私は仕事や生長の家の光明化運動や地元のつきあいである野球の活動や趣味のテニスとか英会話等々、実に様々な活動をさせて頂いている。その中で今の自分としては尻込みしたくなる、逃げたくなるような気持ちになる事が多々ある。
 例えば英会話だが、英会話はもうかれこれ独学時代も含めて15年も勉強している。最初は普通の英会話教室に通っていたが、そこのクラスメートから英検一級受験クラスに誘われてから現在、そのクラスに通い出した。約3年前の事である。常識的に自分で判断するならば私の英語力はとてもではないが英検一級なんてねらえる様なものでは無かったが、私は自分の無限力を信じて、そのクラスに入り、英検一級の試験にもチャレンジし始めた。
 最初はそのクラスの授業内容、そして実際の試験が途轍もなく、難しいものに感じたが、現在は授業は大部理解出来るようになって来たし、英検の試験も幾分歯が立つようになって来た。
 また、野球とかテニスとかは単なるスポーツと思うかも知れないがその時の私に取っては本当に命懸けの勇気を要する様な場面がいくつもあったし、現在もある。それらはその時の自分の現象の状態で挑戦するのは非常に困難な事に感じ、出来れば逃げ出したいと思う事が沢山あったのである。しかし、何故自分は逃げないで挑戦していったかと言えば、自分を神の子無限力であるという信念があったからであり、その神の子無限力というのは信仰や努力によって将来そうなるというのではなく、たった今、そうであるという事を信じていたからである。

 私はその信念に従って、色々な困難に感じる事に対しても逃げないで挑戦し続けて来たし、現在も続けている。それが人間神の子の信仰を把持し、かつそれを実行に移すという事である。人間神の子無限力というのは将来そうなるのであって、まだ私はそうではありませんなんて自己限定していたら、何時まで経ってもそれが顕現する事は無い。今、自分は完全円満、無限力の神の子であるという生き方をする中で現象は後からついて来て、神の子無限力が段階を経て、徐々に出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-06-22 09:21 | 潜在能力 | Trackback | Comments(2)

渋谷のスパのガス爆発事故について

 先日、東京渋谷のスパ(ジャグジーの様な簡易な入浴設備のある娯楽施設)でガス爆発事故が起こり、死者が3人も出た。何でもここは地下1kmから温泉を汲み上げていたそうだが、その温泉の中に天然ガスが含まれているそうでそれを分離する装置がついているそうである。そこで分離された天然ガス(メタンガス)は可燃性の危険ガスであるが、それの排気装置に不具合が出て、それが部屋に充満し、モーターか何かの電気配線から火花が出て、それで引火して爆発したらしい。
 こういう危険な可燃性ガスに関してはそれを漏れ出ないように、シーリングをしっかりするとか、モーターとかスイッチなど引火の可能性のある電気機器は防爆仕様にするとか、例え漏れ出たとしてもそれを検知する装置をつけるのはプラントメーカー(設備を作る会社)としては当たり前にやらなくてはならない事であるが、それがおざなりになっていたらしい。
 法律的には事故を防止する為に消防法とか電気事業法とか高圧ガス規制法等々の数多くの法律があり、通常のプラントでは国や行政の監督官庁が目を光らせているはずであるが、報道によるとこうした娯楽設備に対しての今回の様なガス漏れに関する行政の監督官庁というのが存在せず、安全をチェックする為の法律も存在しないそうである。今回はそうした法律の不備、行政の監督機能の不備による事故という見方もされている様だが、私は原因は他にもあると思う。

 昨年、ふじみ野市の市営プールで流れるプールの吸引口に女児が吸い込まれて死亡した事故もそうだったが、誰がその施設での安全管理の責任者かという事がはっきりせず、各関係者がお互いに責任のなすり合いをしているのである。
 このスパの経営者の女性の社長は設備の安全管理は全て、管理会社に委託しているから、自分達に責任は無い云々と主張し、管理会社は管理会社でガス漏れの防止、管理までは契約に入っていないと言い張っているし、他の関連会社もうちの責任ではないと言い張っている。皆、自分には責任は無いと今回の事故の責任をたらい回しにしているのであるが、これでは犠牲者の遺族はたまったものではないだろう。

 私は近頃の日本人は質が大部低下して来ていると感じている。先日もちょっと触れたが、電車で女性がレイプされていても見て見ぬふりを決め込むし、そして、車を運転していて信号待ちの先頭に居て、ちょっと他のことに気を取られて、信号が青に変わったのに気付かないでいても、後の車はまず、クラクションを鳴らして、信号が変わった事を教えてはくれない。10年前はこんな事は無かった。
 そして、近頃、学校でもいじめがひどく、いじめられている子が自殺するまでいじめるなんていうのは大人である教師が見て見ぬふりをしていたからに決まっている。子供が悪いのはそれは悪い事だときちんと勇気を出して、いさめる大人がいなくなったからである。
 要するに近頃の日本人はなるべく他と拘わる事を避けて、無難に自分の事ばかり考えて、そして、言われた事しかしない、自分から積極的に自分の頭で考えて、行動して、自らその責任を取るという気骨を失ってしまったのである。

 それは一種のでくの坊であり、奴隷であり、家畜である。大東亜戦争終結後、日本に入ってきた進駐軍は日本人を二度と立ち上がらせない為に自分の頭で考える、自立した人間を育てない様な骨抜き教育を導入させたそうである。それは民族の誇りを失わせ、人間をただの物質の塊であるという唯物思想を教育の場を通して、徹底していったのである。その浸透した姿が現在の日本人のこの現状である。

 人間に神の子の自覚があり、一切の責任は我が内にあるという一切者の自覚があれば、自分はこれは教えられていないから知りませんとか、これは私の分野でないから分かりませんとかそんな奴隷根性みたいな事は言わないはずである。人間神の子の自覚があれば、全ての責任は我が内にあるとして、自分の頭で考え、そして、自分の事だけでなく、一切を包括して考え、判断して、やるべき事を実行し、事を円滑に進めて行く事が出来るのである。このスパの経営者であれば、一番大事な事は金儲けの事ではなく施設の安全をきちんと考えるという事のはずであるし、また管理会社であれば、これは言われていないから知りませんではなくて、自分の管理を任された設備にこういう危険性があるからこうした事前の対処をしなくてはならないと自分の頭で考えて、スパの経営者に進言するという事も一切者の自覚があれば出来たはずである。
 人間は神の子であり、それは一切者の自覚を持つものであり、人に言われた事しかしないようなでくの坊、奴隷ではなくて、自分の頭で考え、全体の事を視野に入れて行動し、自己責任を取れるものである。それを生長の家は声を大にして、訴え続けなければならない。

堀 浩二
by koujihori | 2007-06-21 09:47 | Trackback | Comments(2)

谷口雅春先生22年祭に参列させて頂いて

  15日の金曜日から17日の日曜日まで長崎にある生長の家総本山で開催された団体参拝練成会に参加して来た。

 私は生長の家相愛会の教区の組織における普及誌対策部という部門を担当させて頂いて以来、今年で三年連続でこの団参(団体参拝練成会)に参加させて頂いているが、毎年、非常に大きな収穫を得させて頂いている。

 ここは生長の家総裁谷口清超先生が「この総本山の境内の山川草木一本一本に至るまで全てが谷口雅春先生の説法が鳴り響いているのである。」と仰っていて、そこに行くだけで、その人に最も必要な教示や癒しが自ずと与えられる場所である。私などはこれからそこに出発する羽田空港からその事が感じられる。

 ところで私の教区がこの団参に行かせて頂くのは毎年、6月の中旬であり、丁度、生長の家創始者谷口雅春先生の御命日である6月17日に重なり、その日に行われる御命日の法要祭に毎回、参加させて頂けるのである。
 ところがこの日は朝から雨が降ったりやんだりの天気であり、13日から全期参加で来ている(私は15日からの短期参加である。)人によれば13日から毎日、雨が降っているとの事であった。それもそのはずで6月中旬と言えば、時期的に梅雨の時期であり、また長崎は特に雨が多い地域として知られている。
 このお祭りは総本山の境内の頂上にある奥津城(おくつき)と呼ばれる谷口雅春先生のお墓の前で行われるので屋外で営まれる。勿論、雨天に備えて、テントは設営されてはいるものの天候の良し悪しが非常に気になるところである。昨日はお祭りの30分前には雨がますます、激しくなり、これはいくら何でも今年は雨天での営みになるなと誰もが思ったと思う。実は去年はやはり朝から雨であったが、主催者である谷口雅宣先生、谷口純子先生がご到着する5分前に雨がピタッとやんだので、さすがに雅春先生や雅宣先生の徳は素晴らしいと思ったが、今年はこんなに激しく降っているからいくら何でも雨がやむ事はないだろうと思った。でも、これがやんだら本当にすごい事だとも思った。

 さて、私はお祭りが開催される10時より15分前の9時45分に会場に到着したが、その時は参列者の為にもテントが設営されているのだが、それが参列者が一杯でもう収容仕切れず、私が行った時は残されている席は最後部のテントの無い雨ざらしの席であった。しかし、私が到着した頃には丁度雨が殆どやみかけており、運営の方がその席を雨水を拭き取ってくれて、私と友人はその席に座った。そして、どんどん空が明るくなって来て、谷口雅宣先生、純子先生がご到着になられた9時55分には完全に雨がやみ、その後、10時からお祭りが始まり、宮司さんが祝詞を読まれている時からそこの真上の上空の雲がぽっかりと晴れ、太陽が燦然と光り輝き、暑さを感じるまでになったのである。
 私はこんな事ってあるのだろうかと思った。正に奇跡を体験する思いであった。しかし、総本山の職員達を見ているとこんな事はさも普通の事であるという感じで淡々と振る舞っていた。何でもこの谷口雅春先生の御法要祭は毎年、雨にたたられた事がないそうである。(ひとづての話なので正確ではないかも知れません。)

 天気とは単なる気圧とかの偶然の自然の流れで決まるのではなく、実は自然霊と呼ばれる霊によって司られていると言われる。所謂、龍神である。私はそれもある程度信じてはいたが、今回、本当にそれが真実であるという事を思い知らされた。とともに谷口雅春先生という方の御存在はこの龍神にも祝福されているという事、そして、生長の家の運動が現象界の人間だけでなく、この龍神を含めた霊界の高級霊からも祝福、応援されているという事を改めて認識したのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-06-18 10:43 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(12)

実相が出て来るということ(2)

 この間、電車の中で女性がレイプされたというニュースを聞いた。その時、その電車内には40人以上の人が同乗していたと言う。私は目の前で女性が暴漢にレイプされているのに誰も体を張って、止める事をしなかったのかと思うと情けないやら憤るやらであった。
 でも、その40人の人達の中には助けたいけど勇気がどうしても出なくて助けられなかったとくやんでいる人もいると思う。人間は皆、神の子で善であるから、不条理な事があるのにそれを見て見ぬふりをするというのは本当は出来ないはずである。勇気をもって、本来やるべき事が出来ないという事はその本人が一番情けなく感じるはずである。
 
 我々はこの様に良い事をしたくてもどうしても勇気が出なくて出来ない時がある。要するにどうしようもない時はどうしようもないのである。我(が)の力では実相は出て来ないからだ。しかし、そうした中でも必死に自分なりに全力を尽くす時、自分に力が発揮出来ないのは自分の心持ちや日頃の生き方に何が足りないか、何が間違っているかという事を如実に学ぶのである。それがより具体的に生長の家の真理を如何に生きるべきかという学びになる。
 
 人間は本当に追い込まれた極限状態は必死に生命が生きているものである。そうした時、本当に大事な事が何か学ぶ事が出来る。その学んだ事を踏まえて、日頃、心の余裕のある時に自分の出来る事から努力、訓練して行けば良いのである。そうした中で徐々に実相の素晴らしさが出て来る。それが実相が出て来るという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-06-14 09:51 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生長の家とは何か(3)

 人間の欲望には色々なものがあると言われる。金銭欲や名誉欲や権勢欲。そして、それらの中で一番強いと言われるのが権勢欲、支配欲である。全てがそうであるとは言わないが人は事業とかで成功して、金銭欲が満たされると今度は名誉欲や権勢欲を満たす為に政治家を目指す様である。

それはともかく、世界には色々な民族や宗教や国家があるが、一部の国家や宗教は自分達による世界制覇を究極の目的にしている様である。しかし、一定の限られた政府とか宗教が世界を統一し、席巻するという考えは到底、受け入れられない。彼らはあながち悪意は無いかも知れない。何故ならば、自分達の宗教や国のあり方が一番優れた良いものであると思う傾向が人にはあり、そういう考えを元に動けば、自分達が世界を制覇する事は良い事だと思う様になるであろうからである。

しかし、そうした考えは間違っているのである。神は無限であるから、その現れ、表現も無限の多様性と自由性があるのである。従って、その神の姿が顕現された状態とは色々な民族がそれぞれ独自の国とその文化と宗教を持っているというのが本当の姿である。そして、それぞれがお互いに反目し合う事無く、それぞれの個性と役割を尊重し合って、仲良くやっていかなくてはならない。その為にはそれぞれの宗教とか民族の文化の根底においては神において一つにつながっており、その共通した神の無限性がそれぞれの国や地域や民族において、個性ある姿で花開いているという事を認識しなければならない。
 そうした一体感あればこそ、お互いが皆、神の無限性をそれぞれの個性と役割に従って、表現したものであるとして、祝福し合い、拝み合う事が出来るのである。

 生長の家とは本来そういうものである。決して、全人類を生長の家教にする事が目的ではない。全ての宗教や民族の個性と役割を拝み、かつ生かすものである。だから、私は生長の家の運動を全人類を救う運動ではなくて、拝む運動であると言うのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-06-13 09:10 | 信仰 | Trackback | Comments(5)

実相を保つ?

 生長の家の33ある神示に「久遠生命の神示」というのがある。そこには「吾が臨れるは物のためではない。生命のためである。肉のためではない。霊のためである。これを覚るものは少ない。物の消滅に心を捉えられ、物が殖えたときに信仰を高め、物が減ったときに信仰を失い、身体が健康になったときに神を讃え、家族の誰かに病気が起こったと云っては信仰を失うが如きは神を信じているのではなくて物を信じているのである。物は結局、移り変わるものであるから、物の御利益の上に建てられた信仰はものの移り変わりによって壊れるのである。」とある。

 私は毎週土曜日の朝7時から8時30分まで近所のテニスコートでテニス仲間と早朝テニスをしている。毎回4~5人の仲間が集まって、ダブルスのゲームをやるのだが、その中で非常にマナーの悪い人物がいるのである。
 彼は挨拶は先ずしないし、ゲーム前の練習の時も球が少しでもそれるとそれを追わずに一歩も動こうともしない。そして、ダブルスでパートナーになるとこちらがミスショットをすると露骨に嫌な態度をするのである。その他、多々無礼な振る舞いがあり、以前も仲間内の年長者の人にちょっと注意されたが改まらず、私も彼と練習をしたり、ダブルスのパートナーになるのは嫌で仕方が無かった。

 さて、この間、こんな事があった。練習が済んで、最初のゲームをしようとした時、私はペットボトル入りのスポーツドリンクをキャップを開けて、飲んだ。そうしたら少し甘い味のついているはずのそのドリンクが全く味がしなかったので私はうっかり、他の人のスポーツドリンクを誤って、ラッパ飲みで少し飲んでしまった事に気がついた。
 殆どそっくりのペットボトル入りスポーツドリンクが同じベンチに置かれていたから気がつかなかったのである。私は「しまった。間違えた。申し訳ない。」と大きな声でその誰だか分からないペットボトルの持ち主に言った。そうしたら、その相手は例のマナーの悪い彼であったのである。男同士の仲間なんて、ジュースの回しのみなんて良くやったし、こちらも謝っているのだから、当然、そのままそのペットボトルを彼は飲むのかと思ったら、「ふざけんじゃねえ」と言いながら、「こんなものはもう飲めない。お前にくれてやる」と言わんばかりにそのペットボトルを私のテニスバッグに放り投げ、黙って新しいスポーツドリンクを買いに行った。

 私は一瞬何が起こったか分からず唖然としてしまった。そしてその日の第一試合はじゃんけんでその彼とダブルスを組んだのだが、私は唖然とした状態から、段々我に返ってきて、それと同時にすさまじい怒りが湧き上がってきた。そして、私はその怒りを抑えられず、その試合は全くやる気がせず、形だけ済ませて、試合が終わった直後、その相手に「お前、あのペットボトルは自分で持って帰れ!」と怒鳴りつけた。

 そして、今まで我慢していたこちらの思いをそれを機会に一気に相手にぶつけ、如何にその相手がテニスマナーが悪いか、それが如何に他の人に不快感を与えるかという事をストレートにまくしたてたのである。その相手は一言二言反論していたが、怒りのおさまらない私は次の試合は抜け、他の人がゲームをしているのをしばらく、横で見ていた。もうその日は帰ろうかとも思ったが、とにかく最後まで続けた。彼とはまた、最後の試合でパートナーとなったが、もうその頃は私も幾分、気分が静まり、試合もする事が出来たが、今度はその彼が私に気を遣ったか萎縮したのか、考えられないミスをしていた。

 それが土曜日の朝の事であったが、私は家に帰ったらすぐ家内にその事を言い、その相手の非難をまくし立てた。そうするとまた、その時の記憶が蘇り、その日は一日中不愉快な気分が抜けず、翌朝も目覚めが悪かった。

 私は人の光明面を見るという事が大事であると自覚し、それを日頃の訓練で少しずつやれて来て、かつ神様に全託するという訓練もして来て、大安心の状態を構築しつつあったのにその事で一挙に自分が築いて来たものが瓦解してしまった。ああ、また一から自分の心を整えなくてはならないなと思い、構築するのは時間が掛かるが、崩れるのは一瞬だなと思い、情けないやら、自分は転落しただのと思って少し落ち込んだのである。

 しかし、それは間違いである。現象とか心など所詮そんなものなのである。私は現象とか現象の自分の心をいつの間にか本当の自分、本当の自分の心と思っていたのだった。
 気をつけて、徐々に良くするのが実相ではない。本当の自分即ち実相をぶれないように注意深く保つのでもない。
 始めから完全円満の実相があり、それは人事処に応じて、自由自在の働きをするのである。それは無限力を発揮する事もあれば、駄目な時もある。現象の心も同様である。だから、そんな表れの波動の現象にとらわれてはならないのである。実相が現象に出て来て、それで悦ぶのではなく、このままで完全円満な実相を悦ぶのである。現象と心はその時々によって、ゆらゆらと揺れるものである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-06-11 10:01 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(4)

どうして生長の家、総裁・副総裁に中心帰一するのか(3)

 生長の家は1930年(昭和5年)に谷口雅春先生によって創始された。先生は元々、大本教の幹部であられたが、その後、バキューム・オイル・カンパニーという外資系の会社で翻訳係としてサラリーマン生活をされている時に生長の家の運動を始められた。

 先生はお若い時からの血の滲む様な求道生活の中でついに実相独在の生長の家の真理を悟られ、そして、「今、立て!」の内側からの神様の啓示により、生長の家を始められた。そして、雑誌「生長の家」を自費出版で千部出され、それを知人で脈のありそうな人に無償で進呈した所、それを読む人の中から治病他の奇跡的事象が現れて、燎原の火の如く、当時の日本に拡がっていったと言う。

 そして、一時は信徒数200万とも言われる様な所謂、日本の大教団となったのである。そして創始者の谷口雅春先生が昭和61年に逝去されて、その法燈を二代目の谷口清超先生がお継ぎになり、現在は三代目の谷口雅宣先生にその法燈は引き継がれている。

 生長の家は谷口雅春先生が創始された教えであり、生長の家の基本教典「生命の実相」も聖経「甘露の法雨」も神想観という生長の家独自の瞑想法も全て、谷口雅春先生が霊感的にお書きになり、あみ出されたものである。従って、生長の家の教えは谷口雅春先生の教えと表面的に見えるのは仕方がない事である。
 しかし、生長の家は神様の運動であって、決して谷口雅春先生個人の教えではない。そこが根本的に分かっていないとつまずくのである。

 私は生長の家を長くやり、色々な経験をし、そして、幸運にも偉大な師、榎本恵吾先生の薫陶を受ける事が出来、生長の家の教えを実際のものとして、自分の中に実感出来る様になった。
 従って、正直に言うと、生長の家の真理を今更、誰かに指導される必要は自分はもうないと何となく思っていたのである。しかし、私は先日、拙宅で開催している誌友会に出講して来られた地方講師の先生にある事を指導された。
 その時は内心ムッとしたが、それがその時の私に取って、本当にかけがえのない指導であったという事が後から分かったのである。それはその地方講師の人個人がした指導ではなくて、その講師を通じて、生長の家の神様が私に適切な指導をして下さったのである。
 我々はどんなに生長の家の組織の中で偉くなって、人から先生とか何とか言われる立場に立ったとしても、生長の家の運動の中では一人一人が生長の家の大神の広大なる運動の導きと教示を受ける一求道者であり、一活動者に過ぎない。そして、それは同時に如何に一昨日とか昨日に光明実践委員とか地方講師になりたての信徒であっても、ひとたび、誌友会とか練成会などの神に祈りを捧げて始まる生長の家の行事で講師として派遣された以上はそれはもう生長の家の大神の働きが働いて、その場の師となるのである。
 従って、生長の家総裁・副総裁はもちろん、誰でもなれる訳ではなく、それにふさわしい方がなられるのであるが、その生長の家総裁・副総裁となられたら、もうその人の個人的力量以上の生長の家の大神の運動の元の元がその方を通じて、展開されるのである。それを我ら生長の家信徒は師として仰ぎ、ハイと従うのは当たり前の事である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-06-08 14:12 | 信仰 | Trackback(4) | Comments(22)