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捨てるということ

 あるテニス経験者が言っていたが、テニスと言うのは上手くなろう、上手くなろうとせっつくと却って上手くなれないスポーツだと言う事である。

 我々は本当にこの世界で力を発揮する為には全てを捨てなければならないのである。物質的利益や金儲けを捨て、名誉を捨て、地位を捨て、肉体を捨て、物質を捨て、そして、おのれの能力獲得、悟りという事さえも捨てなければならない。一切を捨てる所に却って、生きる道があるのである。本当の我々は今、そのままで完全円満であり、無限力である。それは言い換えればそのままで良いという事であり、そのままで良いとは良くしよう、良くなろうという心を全て捨てて、空っぽになるという事である。その空っぽになった時、全ての執着は消え、そして、何も心にとらわれが無いから、注意すべき点に集中出来る様になり、するべき事に集中して、訓練する事も出来る。その時、本来の無限力が素晴らしく発揮する事が出来るのである。

 我々は全ての全てを捨てた時、我らの真の面目、即ち「自性完全円満(そのままでかんぜんえんまん)」の実相が自ずと浮かび上がるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-07-29 19:31 | 潜在能力 | Trackback(1) | Comments(5)

人生は学校である

  生長の家ではこの人生は我々の内在する素晴らしい生命の実相の完全円満さを表現する為の場であると同時にそれはその表現の為の訓練の場であるとも教えている。そして、その訓練というのは実は我(が)がやるのではなくて、我々に内在する完全円満の生命の実相がその無限性の為に悦びで躍動するのであるがその自ずからなる躍動が人生学校における我々の実相顕現の為の訓練となるのである。
 
 ところでその訓練をする為には我々は全力を出さなくてはならない。全力とは命掛けの事である。命掛けの訓練とはそうせざるを得ない状況に自らの身を置くという事である。それが背水の陣を敷くという事である。
 背水の陣を敷いて、これを全力で命掛けでやらなくては死んでしまうという状況にならなければ、真の実相顕現の訓練というものは出来ない。その為には自ら自分の人生に課題とか問題を作るのである。その自らの心で作った人生問題でもって、自分に背水の陣を敷かせて、全力で人生勉強の訓練とか学びを我々はするのである。

 我々は人生を生きていて、生き通しの命であるから何回も生まれ変わるが、そこで自分が心がまだ幼くて迷っていた時に色々の間違った行動とか思いをし、恐怖もする。
 そして、自ら心の世界に不幸とか問題の種を作るのである。そして、その結果を今生で刈り取る人もいれば、来世で刈り取る人もいる。我々のあらゆる人生上の問題とか課題とか試練というのはこういう風にして出て来るのである。
 しかし、それは神の子である我々が自ら実相顕現する為に自ら作り上げた課題なのである。だから、我々の人生はいかなる失敗があったかに見えてもそれは一つも無駄なものは無く、全ての全てが我々の実相顕現の為の命がけの訓練の為の貴重な練習台なのである。
 だから、我々の人生はどんなものであっても百点満点なのである。我々はともすれば自分の人生に起きてきた過酷な運命とか試練とかを呪い、何故、自分だけがこんな目に遭うのだと言ってみたり、また生長の家を勉強し始めると自分の心が定まらなくて悪い事を思ったり、やったりしているからこんな事態を引き起こしたなんて自分を責めたり、落ち込んだりするが、我々の自分の与えられた課題は我々一人一人のかけがえのない個性と素晴らしさを訓練する為の最も素晴らしい学びなのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-07-28 22:02 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)

問題はナイ(4)

 私の恩師の榎本恵吾先生がよく「問題とか悩みというのは神様が解決して下さるんですよ。信仰というのは自分で支えるものではなくて、タオルがタオル掛けに全く全託して、しなだれ掛かっていて、そのタオル掛けに全面的に支えられている様に、我々の信仰も神様に全面的に支えられているのですよ。」と仰っておられた。

 生長の家で病気とかその他の問題が治った人の体験を聞くと、生長の家の信仰で自分の病気とか問題を消そう、消そうとしている間は中々、それが良くならなかったが、そんな自分の事は捨てて、ひたすら他の人に悦んでもらおう、又は生長の家の運動などのお努めを心を込めてさせて頂こうと決意してそれを実行したら、気がついてみたら自分の問題が消えて、病気なども治っていたというものが割合多い。

 全ての問題、悩み、憂いというのは神様が解決して下さるのである。それが実相独在という事である。そして、全託という事である。この問題、この病気を自分が消そう、良くしようとして何かをするという事は本来無い病気とか問題をしっかり自分の心でつかむ事になるから、却って消えず、それが現れて来るのである。

 問題はナイのである。

堀 浩二


There is no problem in real world.

 My great teacher Keigo Enomoto said that God solves all your problems and that your faith is sustained by God like a story that towel is sustained by hunger.

People who had a experience that their problems was solved by a faith of Seicho-No-Ie said that while they were going to solve their problem with Seicho-No-Ie, their problem didn't be solved, but their problems became to be solved by forgeting their problems and starting to do any tasks for others and to begin a movement of Seicho-No-Ie eagerly.

All problems, troublesomes and worry would be solved by god. It means that there is only truce of life and that you depend on god for all things. If you are going to do some tasks to elase your problem and to cure your disease, such a your fonduct would be equals to grab your problems with your mind, so your problems would not dissappear.

There is no problem in real world.

Kohji Hori
by koujihori | 2007-07-27 12:27 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

罪の意識

 生長の家では罪本来無しと説く。しかし、神性の開発されて来ている人ほど罪の意識が強いのである。特に宗教など真剣にやっている人は罪の意識が強く、キリスト教の人などはそれが顕著の様である。罪の意識があれば、その人は苦しく、そして自分の運命は自分で作るからそういう人は罪あるものは罰せられるべしと勝手に自己処罰して、自己を悲惨な運命に導く。

 悪い奴ほど良く眠ると言われるがその人の善なる神性がずっと奥深く埋もれている人は罪の意識など殆ど感じないから悪い事、残酷な事をやって全く平気な訳である。生長の家の聖典「生命の実相」には「無限の善であるその人の生命の実相が迷いと言う心のごもくたがまだうずたかく積まれているその奥に深く埋もれている場合は罪の意識というものは全く芽生えないが、その心のごもくた、すなわち迷いが段々少なくなってきて、その人の神の子の自覚が段々表面に出て来るとその神の子の自覚即ち生命の実相、神性は無限の光であるから、その光の熱でその人の心のごもくたに多少、火が付く。そうすると不完全燃焼の様にもうもうと煙を上げるがそれが本人に取っては苦しくて仕方が無い。それがいわゆる罪の意識である。」と説かれている。 即ち罪の意識が芽生えてきたというのは悪い事ではなく、その人の奥の光り輝く生命の実相、それは罪無し、完全円満という自覚、悟りでもあるがそれが芽生えて来る始めはその上に積もっている心のごもくたにちょっと火が付いて不完全燃焼を起こしてその煙が罪の意識として感じられて本人は苦しくて、心がさいなまれて仕方が無いという事になるのである。

 しかし、その煙もうもうの時期を乗り切れば、その煙もうもうがめらめらと燃え上がる大きな炎となり、最後はただ光一元の輝き、ただただ悦びの解脱の境地、即ち罪このままナイの自覚になり、嬉しくて仕方がないという状態になるのである。それこそ本来罪の無い光り輝く我々の生命の実相そのものが表面に出て来た状態である。しかし、それがまだ完全に出て来ていない場合はその本来罪無しの生命の実相の光が心のごもくたを不完全燃焼させて煙を出し、それが却って、罪の意識となって本人を苦しめるのである。
 
 我々はこの人生を生きておれば、様々なやらなくてはならない使命とか役割とか任務というのがある。それは生長の家の光明化運動に携わっている人で重要な役職とかについている人に取ってはなおさらだろう。それで悦びの運動という事が提唱される訳である。
 しかし、悦びの運動というものは一筋縄で出来るものではない。やはり、最初はせっかくの休日は遊びたいとか休みたいとかそんな誘惑に打ち勝って、家庭訪問をやったり、会議に出たりしなくてはならないのである。
 それはこれをしなくてはならない、やらなければ罪であるという動機に動かされているのである。そこにははっきり言って、心の底からの悦びは無いと思う。しかし、使命だからやらなくてはならないと思って自己に鞭打ってやるのである。それはその人の神性が内側から芽生えてきたからである。
 しかし、まだ罪の意識の煙がもうもうとしていて、本人は苦しいのである。しかし、そうした状態は永久には続かない。そうした中でもひたすら神を信じ、愛行を続ける人はもうこれ以上苦しくて耐えられないというぎりぎりの時点をぽっと過ぎるとこつねんと煙が消え、ただ悦びの光のみの世界に出るのである。そして、ただ嬉しくて悦びで行き届いた愛行が出来る様になる。それは自分ではなくて神が全ての仕事を既に完成して下さっているという安心感というか悟りである。そこから嬉しくなって色々な活動が元気一杯でやりたくなるのである。

 この様に罪の意識というのはその本来罪無しという悦びの光がもうすぐ出て来る時に出て来るのである。
 
堀 浩二
by koujihori | 2007-07-26 21:53 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

中心帰一

 生長の家では中心帰一が大事であると良く言われる。それは生長の家総裁・副総裁に中心帰一するのが生長の家信徒たるもの一番大事であるとか言う事である。それは組織の下部でも言われ、相愛会だったら、相愛会連合会長に中心帰一しなくてはならないとか、青年会は青年会委員長に中心帰一しなくてはならない等々。

 そして、それが家庭であれば家庭の中心は父であるから、家庭ではお父さんに中心帰一しなさいとか会社では社長に中心帰一しなさいとか言われる訳である。中心帰一が何故大事で尊いかと言えば、それは宇宙の根本真理であるからである。大宇宙では太陽系に太陽という中心があり、極微の世界では原子では原子核という中心がある。要するに物事には中心があるというのが神様の根本設計であって、その中心帰一のしっかりと出来ている組織やグループは神の栄えがそこに現れて来て繁栄し、幸福になるという訳である。

 だから、中心帰一しなさい、生長の家の信徒なら総裁・副総裁に中心帰一しなさいと言われ、私もその事の重要性はかなり強調して来た方である。
 さて、それでは肝心の私はどうかと言ったら、生長の家信徒としては生長の家総裁・副総裁に中心帰一出来ているとは思うが、こと自分の職場ではどうかと言えば、?マークがついてしまう方であった。かと言って、無理にそうするというのは私には出来かねる事であった。
中心帰一というものは大事ですべきものであるが、それは無理に自分に嘘をついてまでするものではないのである。中心帰一というものは宇宙の真理、本来の実相であるから、それは我(が)でするものではなくて、それが自ずと出て来る事により自ずと為されるのが本来の姿である。私は無理矢理、上司に中心帰一するのではなくて、そのままの心になって、当たり前の仕事をこなす中から、自ずと職場でも中心帰一出来る様になったのである。

 要するに生長の家総裁・副総裁に中心帰一しなくてはならないから闇雲に無理矢理中心帰一するのではなくて、そのままの心になって、ひたすら神の御心のごとく、生長の家の愛行に徹する時、自ずと湧き起こって来る中心帰一の心でなくてはならない。
 
 中心帰一というのは何も形式でも無理にしたくもないのにするのではない。そのままの心になって、神に全託する心の中から自ずと出て来る生き方である。中心帰一こそは我々の中にある宇宙の真理であるからである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-07-25 22:47 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

結果は問題ではない。(2)

 私の恩師である榎本恵吾先生は講話でよく「皆さん!悦ぶ事が先ですよ!先祖供養を完璧に済ませてからとか、行をやってからとか、罪滅ぼしをしてから、この問題が片付いてからではないですよ!今、生かされている事を遠慮しないで今、悦ぶんですよ。その事が先ですよ!」と仰っていた。

 我々はともすれば、自分の問題、病気とかその他の不幸を生長の家をやる事で消そうとする。そして、色々これをやったら問題が消えるだろうと思う事を一所懸命やって、問題が解決したら悦ぼうと思っているが実はそれは逆なのである。

 我々が神の子で完全円満であるというのは将来の事ではなくて今の事なのである。それを先ず先に悦ぶ事が大事なのである。その悦びの中から「今起て!」の行動が出てくるのである。行動したら、神が出てきて、その結果、悦べるのではないのである。今、神であり、今、完全であるという事を遠慮無く無条件に悦ぶのである。そこから勇気とか、思い切って行動するとか、愛するとか、与えるとかあらゆる徳の生き方、即ち生長の家の生き方が出てくる。

 そうすると後から気がついてみると病気が消えてた、又は自分のコンプレックスが消えてた、その他、これが問題だ、これさえ消えれば自分は悦べると勝手に自己限定していた問題が跡形もなく消えているのである。

 問題を消してから悦ぶのではない。今、神の子として神に生かされている事を悦ぶ事が先である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-07-24 22:28 | 信仰 | Trackback | Comments(11)

実相を観るということ

 生長の家では他の人の実相を観なさいと教えられる。表面では悪い姿、迷った姿に見えていてもその奥には迷いもない、善なるその人の完全円満なる姿があるから、表面の悪い姿、現象に目を閉じて、その奥にある神の子なる実相を拝むべしと言うのである。そうすればその素晴らしさが現象的にも出て来ますよと生長の家では説いている。

 それは正にその通りであるが、そもそも相手の実相を拝むという事はその人間は現象的にはその人の真理の学びや悟りが進んでいなくて、まだ迷っていて、悪いのをその奥の実相は完全円満であるから、それをこちらが拝んでやるという事ではないのである。ましてや悪い相手をこちらの祈りによって良くしてやるという事でもない。
 
 その人間の実相を観るとはその人の過去の駄目な悪い部分、至らない部分もその人が悪いからそうしたのではなくてやむにやまれぬ事情があったからそうしたという事が分かり、その人は一度もひどい悪い人間では無かったと分かる事である。それが分かった時、真の意味で相手に感謝が出来る。親にも感謝が出来るのである。
 要するにその人が最初から一度も不完全であった事は無かったのであって、それをこちらの観が歪んでいた為に元々完全円満であった相手を不完全とこちらが勝手に勘違いしていただけである。

 即ち学びが進んでいないその人の現象はナイと一刀両断する事である。その人は未だかつて不完全であった事、愛の無かった事など一度も無い、始めの始めから完全円満であり、愛深かったのであるという事が具体的に分かる事がその人の実相を拝むという事である。相手が不完全と見えていたのは相手が不完全だったからではない。こちらの観が歪んで不完全に映っていただけである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-07-23 11:30 | 信仰 | Trackback | Comments(8)

結果は問題ではない。

 私は生長の家を幼い時から勉強して来た。それで人間には無限力があるという事を教えられ、それを信じて、訓練して行けば、出て来ると知ったので自分の生活においてそれを発揮しようと努力して来た。
 入学試験の時もそうであった。私はそれほど勉強が出来る方では無かったが「人間神の子やれば出来る」の信念に従って、勉強し、ある程度の成果は出せた。その後、自分はそれほどスポーツが得意な方では無かったので、これも頑張ろうと思い、テニスとか野球を大学に入って始めて、野球では所属していた野球同好会がエントリーしているリーグで打点王にもなった事がある。

 しかし、ここでも何回か書かせて頂いたが段々それが我(が)の信仰になって行って、神様から生かされて出来るという事を忘れ、自分が偉くて、自分の力で出来ているんだと思い上がりが出て来て、ついにはつぶれてしまった。しかし、私は幸運にも偉大な榎本恵吾先生に薫陶を頂いてただ生かされているという事に気づく事が出来、感謝と悦びに満たされた生活を現在はお陰様で送らせて頂いているのである。

 それはさておき、その事が観念的な悟りから実際の生活上の悟りになるのには一筋縄では行かず、榎本先生に薫陶を頂いてからこの10年間はその為の訓練の連続であるが、その中で気づいたのは私は何事も結果を強引にすぐ出そうとする性質が強かったと思う。例えばテニスならとにかく相手に強引に球を打ち返すという事、そして野球なら強引にヒッティングするという事、そして私は生長の家の誌友会で講話もするのだが、とにかく参加者が感銘する様ないい話をしよう、しようとするとかそうした結果を良くする事をすぐに我(が)で強引に求める様な所があった。そんな強引なやり方では段々と調子を崩し、テニスではフォームを崩し、かつ効果的な球は打ち返す事が出来ない様になり、講話でも力ばかり入って自然な話が出来ない様になっていった。
 
 結果の良し悪しを問題にしてすぐ良くしようとするのはこれは我(が)である。結果とは現象に過ぎないのであるからそれは良い時も悪い時もあるのである。そんなものは問題にしないで今、やるべき事、集中すべき事にとにかく心を込めて、かつ大胆にやる事が大事であったのである。例えば、テニスのストロークや野球のバッティングなら早めに十分にバックスイングするとか、英会話のヒアリングなら一つ一つの英語に集中して聞くとか、その他その時に必要なプロセスを心を込めてやるとその結果としてヒットを打てたり、英語でも外国人の話す早い英語が聞き取れたりするのである。
 
 それが集中して訓練するという事にもなるし、そうする事が神を生きるという事であるし、神を生きるという事は今、ここ完全円満の神がここに生き、自分を生かしてくれているという事を実感出来るという事であるし、それは今、このままで成功出来るという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-07-21 10:15 | 信仰 | Trackback(5) | Comments(3)

これからの日本に取って必要なこと

 ある本によれば何でも戦後の自民党主導の日本の政治というのは実はアメリカの指示が背後にあって、日本の国内で行われる政策決定に一番の影響を与えてきたのは他でもないアメリカ政府の意図なのだそうである。

 この話が本当なら日本は大東亜戦争で対米戦に敗戦してから、戦後、軍事的にだけではなく、精神的にアメリカに侵略され続けていると言って過言ではない。昭和26年にサンフランシスコ条約によって、日本は独立を回復したと表面では言われているが裏ではアメリカの属国であったと言う事になる。
 郵政民営化選挙と言われた二年前の衆院選は小泉自民党が圧倒的な勝利を収めた。その結果、郵政民営化が衆参両院で可決されてしまったが、郵政民営化というのはアメリカが毎年日本に突きつけて来る年次改革要望書の中の重要項目に含まれていたそうでこれに郵政省に個人的恨みを持っていたと言われる小泉首相の個人的願望と一致しただけのものなのであるという見方がある。
 また、2003年にアメリカが起こしたイラク戦争もまともな頭で考えれば明らかなアメリカの侵略行為であるにも拘わらず、当時の小泉自民党はいち早くこの戦争に支持を表明した。これは現在の日本の首相が自らの国としての意志を持たず、宗主国アメリカの言いなりになっている事の証左であると私は思う。

 要するに戦後の日本は敗戦により自信を失い、魂を骨抜きにされ、民族としての核を大人が失ってしまって、他国の不当な内政干渉や言いがかりに対して何も言えなくなっているのである。たから子供達に自信を持って教育を施す事が出来ず、子供達が荒れ放題になっているのである。
 大人達、国の代表者が他国の顔色をうかがい、それの言いなりなっている様な国の子供がどうしてまともに正義と真理を愛し、それに基づいて行動する人間になれると言うのであろうか。
 そして、何を求めるかと言えば目先の利益しかないという事になり、人の為とか社会の為という理想を失い、金儲けその他の物質的欲望にしか価値を見いだせない人間が多くを占める様になってしまったのである。

 そして、現在の日本はバブル崩壊後、経済の面でも陰りが見られ、目標を失い、方向を見いだせず、北朝鮮はもとより、中国、韓国からもなめられ、そして、頼みのアメリカもおちぶれた日本を相手にせずに、これからは中国を東洋の盟主として交渉相手にして行く方針と言われている。
 このままで行けば、日本はアメリカの経済の利益、軍事上の都合の為に散々、利用されて、しゃぶられ尽くしてしまうだろう。しかし、この事実を日本の殆どの国民は自覚していない。これはどうしてそうなるかと言えば、日本人に真の自立心が芽生えていないからである。
 こうしたアメリカからの精神的侵略を受け続け、事実上属国状態になっている現在の日本を真に独立させる為には日本の政治家が真の自立心、独立心を持つ以外に無い。脅されても何をされても決して屈しない途轍もない強い覚悟と自覚が必要なのである。
 それは正に命懸けの覚悟である。それには単なる愛国者であるという事だけではどうしても不十分である。日本の愛国的保守論壇と言われるそうそうたる方達は皆、立派な愛国的考えをお持ちであり、それぞれに尊敬出来る方達であるが、彼らはアメリカからにらまれたらぐうの音も出ないのだそうである。
 要するに真に日本国を愛し、その本来の素晴らしい実相を現し、世界中の国から尊敬される国にする為には国をリードする政治家又は思想家達は単なる愛国心を超えた宇宙の真理に目覚めなくてはならないのである。何故ならば他国から不当な内政干渉を受けない為には魂の自覚において真の意味で自立しなくてはならないからである。
 真の意味で自立すると言う事は自分は今、そのままで完全円満な神の生命そのものであるという真理に目覚め、その自覚の元に行動するという事以外無い。神こそは自立であり自律である。自律とは他の何者にも依存せず、自ら律する所の神の径(みち)である。それを自律神経とも言うがそこに故障を起こす事を自律神経失調症という。これは自らの体の働きを律する神経に故障が起きる事であるが、自らの体を律する神経に故障が起きるという事は自ら立てない、生きる事が出来ないという事を意味する。
 現在の日本の政治家を始めとする多くの人達というのはそんな情けない状態になっているのである。だから、アメリカにも中国にも韓国にもなめられ、散々利用され、搾取される事になっているのである。

 これからの日本に必要な事は単なる愛国心を超えた人間神の子完全円満の自覚を持った真の自立心を持った人間が政治の世界その他、国の重要な部分に輩出して来る事が欠かせないのである。そうして立派な自立した国になる事で初めて他国から尊敬と信頼を得る事が出来る。そういう意味で生長の家の信仰の神髄をつかみ得た多くの若い人達(生長の家という団体の薫陶を受けた人に限らない、同様の神髄をつかみ得た人達)が沢山輩出して国の重要な部分を担ってくれる事を切に願うものである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-07-19 10:41 | Trackback(4) | Comments(8)

悪はナイ(3)

 以前もここで書いたが自分に何か悩みがあるとして、それが容姿の悩みであれば、もう少し自分の鼻が高かったらとか、そんな事で悩んでいても、それで整形手術を受けて、鼻を高くしても、今度は他の部分が気になって来るのである。

 要するに具体的悪や欠点などというものは存在せず、自分の中のコンプレックス即ち自分の観に歪みがあるとこの世界に具体的な自分の属する組織や他人の悪とか自分の容姿の欠点とかというものがその投影として現れ、それがさも具体的な悪や欠点の様に自分に感じられるだけなのである。
 ではその自分の観の歪みとは何かと言えば、自分の存在そのものに自信が無いという事である。自分をたった今、肉体を超えた完全円満の霊的存在である神の生命であると言う認識が無く、自分は肉体的存在であり、不完全であるという迷いを心の歪みと言い、その歪みを通して万物を見れば、それは歪み通りの不完全な、病気も、悪も、罪も、戦争もあるものに自分に感じられるのである。しかし、それは単に自分の念の歪みにより、今、そのままで本来完全円満な霊的生命である自分自身そしてその延長であるこの世界が不完全な問題ある世界に感じられているだけである。

 自分がたった今、完全円満の霊的神の生命であると自覚すれば、その念の投影である所の現象世界からあらゆる悪とか悪人とか問題とか肉体のコンプレックスみたいなものは消え、それらは今、そのままで良い人であり、きtんとした組織であり、自分の容姿なんかにも自信が持てる。

 悪や罪や問題はたった今、ナイのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-07-17 12:25 | 信仰 | Trackback | Comments(12)