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実相は自分で出て来る(2)

 私の人生は悦びに満ちているが、決してそれは甘いものではなかった。数々の失敗があり、恥もかき、人を傷つけた事も傷つけられた事もあったし、対立もあった。しかし、それらは全て私の中の神様、即ち実相が顕現する為の初期過程であった。

 私の知っている人で仙人の様な人がいる。この人は大変個性的な人でかつ、かなりの悟りを得た人である。この人が言うに人生というのはどんどん失敗してどんどん体験を得る事が大事だと言う事である。良い事をしましょう、道を踏み外さない様に生長の家の生き方をやって、失敗しないようにしましょう、幸せになりましょうなんてものではなくて、どんどん失敗して苦労してその経験の中から自ずと本来の生き方が出て来る様でなくてはならないと言うのである。

 私はその通りだと思った。先日、私は地元のPTA主催のソフトボール大会に出場した。私は野球に関してはバッティングはまあまあだが守備が上手くないので打つ専門のDHという枠で出場した。そこでホームランを含め、三打数二安打と言う成績で、チームは敗れたが、自分としては満足の行く結果だった。
 ところで私の地区の知り合いに前々からなんだかんだと私に難癖をつけて来る人物がいるのだが、そのソフトボール大会が終わった後の打ち上げの宴会でその人物と私はトラブルを起こした。
 その人物は地域のスポーツ指導員をしていて、野球経験があり、私の息子の同級生の父親であるのだが、その人物はその宴会の席上、皆の前でいきなり「お前は何も(野球の事が)分からない癖に試合中、偉そうな事を言うな。」と私に切り出したのである。
 私は生長の家を学び、人間の能力の可能性、その引き出し方を日夜研究し、様々な機会の中でその実践もして、その信念も深めている。そうした立場から試合中に他の選手に精神面の色々なアドバイスをするのだが、それが野球経験者であるこの人物には気に入らなかったらしい。
 私は今までこの人物に嫌みや意地の悪い軽口を何かにつけて言われていたが、それまでは笑って流していた。しかし、この時ばかりは私も堪忍袋の緒がさすがに切れて、「あんたは野球経験者で野球に詳しいかも知れないが自分は野球の事は詳しくなくても野球以外の事で様々な経験を積んでおり、そこから色々、人にアドバイス出来る事もあるんだ。」と切り返した。その後も言い合いが続いたが、私は非常に不愉快な思いを楽しいはずの宴会でしたのである。

 この様に私の人生は人と対立したり、嫌みを言われたり、恥をかいたり、面白くない事が起こる事もある。しかし、それは元を辿れば全て私自身が自ら蒔いている種を私が刈り取っているだけの事である。他人を人前で公然と批判してその相手に恥をかかせたりするのは私が過去にそういう同じ様な事を他の人にやっていたからである。それが帰って来ただけの事であり、実際に私に嫌な事を言う嫌な人がいるのではなく、全て、私の心が描き出した映像に過ぎないのである。

 私は生長の家の生き方を何としてもやらなくてはならないなどと自分自身を縛ってはいない。腹が立ったら怒鳴る事もあるし、相手の批判をする事もある。それは決して生長の家の生き方ではないが、しかし、我(が)が自分の運命を良くする為に自分の業を清めようなどとして、心からそう思わないのに相手に「有り難うございます」とか言ったり、にこにこしたりするのは間違っているのである。

 生長の家副総裁、谷口雅宣先生が良く次の様に仰る。「善とは悪も為す自由の中から自らの自由意志で自ら選択して良い事を行う事であるのである。」と。

 実相が出て来るという事は実相が自分で出て来るという事である。それはそのままの心で、現象的に見れば、道に外れた事をして、その結果失敗して、そうした失敗経験を重ねながら、自ずと本当にこういう生き方が良いと心の底から反省というか思い知って、自らの自由意志で正しい事、聖典「生命の実相」第七巻、生活編に書いてある様な模範的な生き方を選び取る様になるという事である。

 私はその宴会で自分が嫌な思い、痛い思いをしたお陰でそれまでの自分が会社等で如何にぞんざいな口の利き方を人にしていたか、上司を相手の立場も考えずに公然と会議で批判していたかという事を痛感し、二度とそうした無礼な事をしない様に心の底から思ったのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-08-31 13:10 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(6)

潜在意識を清めようとする。

 生長の家信徒の人はこの現象界、そして自分の肉体、運命は自分の心で造ると教えられる。従って、心を清めなさい。潜在意識を清めなさいと指導され、自分もその様にしようと心掛ける。しかし、現実は雑念が次々と湧いて来たり、とらわれたり、恐怖したり、我(が)が出たりして、心が千々に乱れるのである。

 そうするとこれではいけないと思い、また心を整えようとする。しかし、私の師、榎本恵吾先生はこう一喝された。「潜在意識はナイ!」と。

 生長の家では現象はナイと教えられる。そして心もナイとも教えられる。心がナイという事は潜在意識もナイという事である。だから、潜在意識を清めるも何も無いのである。

 潜在意識はナイのである。だから、それを少しずつ清めていって、将来はその潜在意識の現れである自分の肉体の病気を治す為に注意深く、自己の念を整え、清めて行かなくてはならないなんて思うのはそれは天国は今、ここに無いと思って、その天国に至る為に転落しない様にその天国への階段を注意深く一歩一歩登って行っている人である。そんな人はちょっとした気のゆるみで足を滑らせ、転落するのである。

 潜在意識はナイのである。現象はナイのである。そして、我々は今、たった今、完全円満、無限力であるのである。だから、現象が如何なる状態でも潜在意識が如何なる状態でも肉体が如何なる状態でも、今、無限力であり、完全円満なのである。それを自覚して今、立つのである。今、悦ぶのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-08-30 12:27 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(2)

自己の行いは自己の業の消えゆく姿である。

 我々はこの様に生きよう、生長の家の生き方を実行しようと思っても、そう思えば思うほどそれが実行出来ず、却って逆の事を思ったり、してしまう事がある。今に集中しようと思っても、気がついたら何か考え事をしていたとか、取越苦労しないようにしようと思っても心配したり、他人の悪を見まいと誓っても、気がつくとあの時、あいつはこう言いやがったとか、こうしやがったと思い出して、憤慨したり。
 
 自己の行いというのは確かに大切であり、それが身口意の三業の一つであり、それがまた我らの未来の運命を造って行くが、行いとか行動というのは自己の過去の念の具象化であり、結果であるとも言えるのである。だから、変な雑念とかが出て来たら、これで消えると思って、それを何とかしようとつかまなければよい。それを何とかしようと焦ったり、自分は雑念が浮かんで来てしまう駄目な者だと思う事が新たな身口意の悪業を造るのである。
 自己の悪い行いは現象であり、心の世界にあったものが形の世界に出て来た、言わば結果である。従って、自分が何か悪い事をしてしまったという事は自己の迷いが消え行く姿であるとして感謝したら良いのである。それを自分は駄目な自分だ、こんな事をしてとか思えば、それがまた心の悪業になるのである。悪い行いが出て来たのは自己が悪い訳ではない。自分の中の業が表面に出て来ただけである。そして、それは実相が自分で出て来る過程でもある。
 
 私は生長の家の生き方をやり切れず、心を今に集中させていなかった事が祟って、奈落の底に落ちたのである。しかし、その事が因となり、私の生涯の師、榎本恵吾先生の元で生長の家の神髄を与えられるという誠に尊い神縁を得る事が出来、そして、私の実相が出て来たのである。自己の心がコントロール出来なくて、失敗してもそれがそのまま私の実相が出て来る道程であったのである。だから「そのまま」で良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-08-29 12:23 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

臨機応変さ

 生長の家では善にもとらわれるなという言葉がある。どんなに善い事でもそれを何としてもこうでなくてはならぬと固執するとそれは却って悪になるというのである。

 私は会社の昼休みは卓球をやっている。そこで会社の人と卓球の試合を毎日するのである。私は卓球は子供の頃から慣れ親しんでおり、もう20年以上も毎日会社の昼休みでやっているので卓球に関してはある程度自信がある。
 その調子には波があり、同じ相手に勝ち続ける事もあるがその人に逆にどうにも勝てなくなる時もある。その度にこうしたらよいと工夫して行くのであるが、ある人と試合する中でフォアハンドのスマッシュを思い切り打つという事を一つのテーマにしていた。しかし、その相手は変なフォームから変な緩い山なりの球を返して来て、それがアウトしそうなのにいつもぎりぎりに入るのである。
 それでそれを自分の決めた通りにフォアハンドのスマッシュを思い切り打つのだがそれをアウトしてしまう事が多かったのである。相手は変則なフォームで体勢を崩しながら緩い山なりの球を返して来たり、かと思うと普通は強く打たない様な低くてスピードのある球をいきなり強打して来て、それが決まったりする様な事が多かった。
 最初はこの相手に勝ち続けたが、相手は中々ミスをしない様になり、それでこちらは自分のテーマのフォアを強く打つという事ばかり固執する中、すっかり気持ちが空回りして試合に負けてしまう事が多くなった。そうなると自分としてはこんなはずはないと思って、強引に勝っていこうとするがそうなるとますますミスが多発して勝てないのであった。

 その時、私は気付いた。これは私が自分のやり方にこだわって、相手にうまく合わせた試合をしていなかったと。自己の独りよがりではなく、相手に合わせる事である。状況に応じて臨機応変でなくてはならない。それが分かった時、相手に応じた動きが出来る様になってまた試合に勝ちだした。

 我々、特に生長の家信徒は生長の家の本に書いてある生き方、特に聖典「生命の実相」第七巻「生活編」に書いてある所のこうすべし、こう生きるべしという事を生活の指針にしようとする。しかし、どんなに良い模範的生き方でもそれにとらわれては生命の自由を失って行き詰まるのである。

 本当の善は絶対善として我々の中の無限の神にあるのである。その事を自覚する事が何よりも大事である。形に表れた数々の具体的生き方、やり方はその我らの中の無限の絶対善から必要に応じて臨機応変に出て来た一つの形式である。
 世の中には本に書いてある様な標準的又は理想的な事は一つもなく、こちらの予測不可能な又はこちらの考えを超えた事がいくらでも起こって来るのである。それなのに自分の中にマニュアル的考え、生き方、やり方しか無ければ、その時、その場でどんどん変わる状況、相手に対応する事はとても出来ない。
 だから、大事な事は形式にとらわれるのではなく、その時々の状況や相手に応じて変幻自在にその時何をやり、何を言うべきかを自分の中からの直接的判断、インスピレーションで決定しなくてはならないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-08-24 13:09 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

無限の宝庫を開く鍵

 人間は神の子である。神は完全円満、無限力であるからその全徳を継承している神の子人間は神そのものであり、今、このままで完全円満、無限力である。しかし、それは現象の事ではない。現象は見ての通り、不完全であり、有限である。現象は本当の実相人間の表現であり、映しである。

 我らが自己の実相を自覚するに従って、我らの念の映しである現象にそれが現れて来る。従って、我らは自己の生命の実相の完全円満さ、無限力を悟る事が何よりも重要な事である。人生の目的は正にそれであるし、また人生は同時にその無限力を表現する場、即ちキャンバスである。

 人間は自己に無限の宝があるという事を知れば、それを自由に使う事が出来る。また逆に知らなければいくら持っていてもそれを使う事は全然出来ない。それはあたかも自分のコートの内側に百万円のダイヤが縫いつけられている人がいるとして、本人がそれを知っていれば自由にその百万円を使い、好きな物が買えるのに対し、それを知らなければ、それを使えず、一個のパンも買えずに飢え死にしてしまうかも知れないのである。

 生長の家ではその事を教えられ、人間は神の子ですよ、無限力ですよと教えられる。しかし、それは実相の事であって、現象の私はまだまだ駄目ですなんて言っている人はこの現に百万円のダイヤを持ちながらもそれを使えないで飢え死にする人と大差は無いのである。

 我らが無限力、無限健康であるというのは将来の事ではなくて、今、正に今の事なのである。そこの所が重要な事である。でも実相はそうでも現象はまだ駄目だよと言うかも知れない。しかし、現象はナイとやはり、我らは教えられているのである。現象はナイのであり、今、ここに完全円満、無限力の神の生命である真の自己が存在しているだけである。

 私は英会話とテニスを真剣にやる中でその事を実感する事が出来た。それまでは現在の自分をまだまだ不完全と見て、それを完全にする為に良くする為にせっせと練習や勉強を続けて来たのである。しかし、十年以上やっていても一向にうだつが上がらないのであった。しかし、ある時、自分は今、テニスが出来る、今、英語が出来ると言うことに気がついたのである。その瞬間以降、私は自由にその力を使う事が出来るようになって、テニスにしろ英語にしろ、ぐんと実力が上がったのである。

 我々は今、出来るのである。このままで出来るのである。練習してこれから出来る様にまたは完全になるのではなく、今、出来る生命が動き出して、それが結果的に練習になるのである。無限力を開く鍵は今、出来るという事である。今、出来ると思えばこそ力を使える。これが真の訓練であり、練習である。
 今は未だ出来ないが、訓練で将来出来るようになるなんて思っていれば、本当にその力を使う事は無いから、その力も使われないで錆び付いたままである。全ての不幸、不如意の元は自分はまだ駄目だ、不完全だと思って、それを良くしようとする所から生じる。

堀 浩二
by koujihori | 2007-08-23 12:25 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る

 榎本恵吾先生が良く仰っていた事に「実相は自分で出て来る。我(が)は要らない」という言葉がある。これは生長の家の人に取っても耳慣れない表現だと思う。

 私はテニスをやっているが、テニスは技術的に難しく、現在はラケットとボールの製造技術が進んで、大部打ちやすくなったが昔の木の小さなラケットの時代はボールがまともに打てる様になるのにも最低3年は掛かると言われた。

 テニスのレッスン書でテイクバックはこう、グリップはこう、体重移動はこうと打ち方やフォームがあれこれ解説してあり、なるほど上手い人はその法則を守って、きれいなフォームで効果的なボールを打っている。私は家に卓球台があったので卓球に幼い内から慣れ親しんで来たお陰でテニスでもグラウンドストロークは自信があったが、サービスに関しては中々習得が難しく、色々レッスン書を読んだり、上手い人に習ったりして、打ち方とフォームを研究した。しかし、それを素振りとか練習で出来ても、実際の試合となると緊張して、からきし駄目であった、
 しかし、十年以上もやり続ける中、練習や素振りの時はフォームを意識してそれを反復練習する事が大事だが、実際の試合になったら一切のフォームを忘れて、自分の内側からの本能の趣くままにやるのが良いという事を発見した。

 それはあれこれこうしなければならないと一々考えながらやるのは自分をまだ不完全と見ている事の裏返しであり、今、自分は既にこの事が出来る、サービスもこれからではなくて今出来ると自分自身を見なせば、自分の中の既に備わっている神の無限力に全面的に委ねる事が出来、その通りの力が出て来るのである。
 私はその事に気がついてからあれほど苦労していたサービスが自信を持って打てるようになり、その連鎖反応で試合も勝てる様になったのである。

 その様に自分の中の本能的動き、判断に全面的に任せてプレイする中から、経験的により良い打ち方やフォームが自ずと出て来る様になって、どんどん上達するのである。それは本当にとっさの本能的に出て来る事もあれば意識的にこうしようと瞬時に判断して出て来る事もある。要するに頭で本に書いてある様な正しいフォームで打とうとか一々考えなくても、自分の中から自ずと効果的な打ち方が出来、それが経験を重ねるに従ってどんどんより良いものになって行く。一々頭でこうすべしと考えて、自分の体を外側から動かそうとするのではなく、内側に既にある無限に全面的に任せるのである。それが我(が)が要らないという事なのである。
 もちろん、その過程ではコーチに習って反復練習した事が大いに役立つのであるが。

 この様に我々の実相の無限力は自分で出て来るのである。何故ならば現象は無く、今、ここに我らの無限生命が息づき、そして、その無限生命は無限の躍動と生長を自ずとするからである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-08-22 13:04 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

問題はナイ(5)

 私の生涯の恩師、榎本恵吾先生は「問題はナイ!」とお説き下さっていた。我々は何か問題を抱え、それを良くする為に色々努力し、研究し、考え、そして生長の家の信仰なども一所懸命やろうとする。しかし、そうする中で我々はいつしか問題というものがあたかも存在するものの様に感じる様になるのである。それでそれを解決する為にあれこれ努力や研究を続け、生長の家の行などもその為にこれでもか、これでもかとやる様になる。それで「私はこれだけ先祖供養してるのに子供の病気が治りません。どうしてこれだけやっているのに良くならないんでしょうか?」などと言うのである。

 こういう問題がある、こういう悩みがある、こういう迷いがあると人は言う。そして、それを解決する為に日々努力する、生長の家の行をするというのは間違っている。真理は「問題はナイ!」の一言である。現象はナイからである。現象はナイから問題もナイのである。
 問題がナイからそれを解決する必要は無いのである。悩みはナイからそれを取り除く為に考える事は無いのである。そして、我々はあれこれ行を積んでからではなく、たった今、神の無限の生かす力により、完全円満、不悩不苦の存在としてここに生かされているのである。それが歌われているのが生長の家の招神歌である。

 それが分かればたった今、何の問題も悩みも無く、はつらつと精力的に今やるべき事に向かって活動する事が出来る。そしてあたかも問題や病気の様に見えていたものは単に自分が「この問題を良くしよう。」として心でつかんでいたものが映っていただけのものであるという事が分かるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-08-21 13:05 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

丑三つ時は一層暗い。

 先日、良い所を伸ばすという文章を書いた。その時、私の趣味であるテニスの才能が私に無いから他の私の良い所を伸ばす事にするとも受け取れる書き方をしたが、私は何もテニスの才能が無い訳ではないと思う。

 ただ自分の苦手な部分、技に引っ掛かってそれを良くしようとしないで既に出来ている所を悦ぶ事が大事だと言う事なのである。それで私は相変わらずテニスの向上努力は続けて来た。
 私は自宅から歩いて10分位の所にあるテニスクラブに所属していて、その気になれば一年365日いつでも好きな時間にテニスをする事が出来る。そこで私は暇さえあればそこのテニスコートに行ってテニスの試合を他のクラブ員とするが、もうそこに入って4年ほど経つが、最初は緊張して殆ど試合にならなかった。
 気心の知れた友達同士で試合するのとは違って、そこはクラブであるから毎回、余り知らない相手ばかり、それも由緒あるクラブであるから、どの人もテニスが上手く、また私よりも年長者ばかりなので新参者で若輩者な上にテニスの技術も確固としたものが無かった私に取って、そこに行くこと自体が決意と勇気の要る事であったのである。
 しかし、それでも挑戦し続ける中、ある程度はそこで試合が出来る様になったが、そこでするダブルスの試合は殆ど勝てなかった。

 だが、数ヶ月前に私の苦手なサービスを良くしよう、上手くなろうという心を捨てて、楽に悦んでプレイ出来る様になり、その後、自分なりの能力の引き出し方、開発の仕方が段々分かる様になって、手前味噌で申し訳ないが、格段の進歩を最近遂げる事が出来た。
 以前はサービスを打つのが不安であったが、「自分は将来ではなくて今出来る」という生長の家の真理を確信してから、どんどん自信を持ってサービスが打てるようになり、その中でどう打ったらいいかという事が内側からどんどん分かってきて、そうなると私の得意のグラウンドストロークが生きてきて、ここ数週間はそこのクラブで上手い人を相手にしても殆ど負ける事が無くなった。

 ここまで来るのにここ半年は極端にテニスの調子が振るわなくなり、やり方も分からなくなり暗中模索の感があったが、ここ一ヶ月辺りそれが一挙に開花した感じである。やはり、一つの事を目指す中で開花する直前は最悪になると言うこと、そうした中でも諦めないで努力を持続する事の大切さを改めて思い知った。

堀 浩二
by koujihori | 2007-08-20 13:07 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

立ち向かう人は自分の心の影(2)

 生長の家の神示に「心の法則と平和への道の神示」というものがある。そこには「乱を忘れざる者はついに乱に逢う。乱を忘れざるが故に常に恐怖し、乱を忘れざるが故に武備をたくわえ、武備を蓄えるが故に近隣を威脅し、近隣を威脅するがために、近隣また恐怖して武備を増す。かくの如くして近隣兵を増すを見て、また自国は更に兵を加えて互いに虎視眈々として近隣相睥睨す・・・」とある。

 私は生長の家を幼い時から勉強してきて現象はナイ、悪はナイ、人類は全て神により生かされ、救われているという事を悟る事が出来た。それは十年前に榎本恵吾先生の薫陶によるのであるが、その悟りと自覚はまだまだ観念的なものであった。
 実生活では相手を悪と見て、それを懲らしめようとか、怒りつけようという心情をずうっと持ってきたと思う。会社でも地域でもこの人間は油断のならない人間である、この者は怠惰な者であるというレッテルを相手に貼り、常に警戒心を持って、接してきた様な部分があったと思う。

 しかし、遂にその私の観念的悟りが実際的、実生活的な悟りになる時がやって来たのである。私はこの半年間どうも、この事は絶対許せない、この人間は絶対勘弁ならんと思い、怒りをぶつける事が何回かあったが、先日、その究極と思われる体験をしたのである。私はその相手を絶対に赦せないと思った。しかし、その怒りがほぼ頂点に達した直後、相手のその無礼極まりない態度こそが自分自身の他を心の底から信用しない、警戒し、攻撃しようとする心的態度そのものであるという事を直感的に自覚したのであった。その瞬間、私はこの世に悪人は一人も存在しないという事を正に実感したのである。
 真理は人間は神の子で皆、良い人ばかりなのである。それは将来そうなるのではなく、宇宙の初めから既に今、そうなのである。それなら現実の目の前の良からぬ事を考えていると思われる相手、ずるい事をして、言い逃れして誤魔化す事ばかりやる相手、そして、こちらに意地悪や不信感を向けてくる相手は何かと言ったら、それは皆、実は存在せず、それら全ての全ては皆一切自分自身の「この世に悪あり、悪人あり」という不信、疑いの念の映しに他ならないのである。「いや、そんな事言ったって、現実には泥棒も人殺しもうようよ居るんだから、みんな良い人だなんて気を緩めないで、警戒すべきだ。誰でも信用して、無警戒ではたちまち身ぐるみはがされるか殺されてしまうだろう。」と言うかも知れないが、殺されたり、身ぐるみはがされるのはそういう悪い事をする悪い相手が具体的に存在するからではなく、こちらに相手を攻撃してやろうという心があるからなのである。それは相手を悪い相手だと思って、恐怖するからである。(しかし、肉体の免疫作用が自然の防衛本能として備わっているように我々も当たり前に家の戸締まりをし、国も適当な防衛力を持つべきである。それは恐怖心によって武備を蓄えるのではなく、一個の生体としての当たり前の防衛本能である。)

 この世に悪い人間、悪はナイのである。それがあったり、それにこちらが傷つけられるとすればこちらに相手を害する心、疑う心があって、それが自分に返って来ているだけなのである。それが分かれば、相手は悪人の仮面を取って、善人の素顔を表すのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-08-17 21:58 | 信仰 | Trackback | Comments(2)

立ち向かう人は自分の心の影

 生長の家では一切の現象は観世音菩薩の導きであると教えている。他の人を始め、自分の周りに起こってくる一切の森羅万象即ち現象は自分の悟りを導く為の尊い先生、教師であると言うのである。

 生長の家では本当の存在は現象の奥にある霊的実在であると説き、それは永遠に滅びない所の完全円満なる生命であると説く。従ってどんな理不尽な事、悪い人間であってもそれは本当の実在ではなく、その奥に完全円満な世界、人間が存在しているのである。
現象はその完全円満の実相生命の単なる影であり、本物の存在ではない。その影である現象は我々人間の認識が映っている世界であるから、我々人間が本当の実相世界、実相人間の完全円満さを認識すればそれが現象にも出て来るのである。従って、自分の周囲に不完全な人間、嫌な人間が居たり、不愉快な事件が起こるという事はその嫌な人達が悪いという訳ではなく、自分自身が現象の奥の本当に存在する完全円満なる世界を観ていないという事の証拠な訳である。

 さて、冒頭で一切の現象は観世音菩薩の導きであると書いたが、我々が生長の家の教えの神髄である「現象ナシ」「実相独在」を観念的にではなく、実際的に如何に学ぶかと言ったら、この人生学校での現象の示す所によって学んで行くのである。
 生長の家で「人間は神の子で良い人ばかりだ」と教わる。しかし、自分の家庭や職場や学校に戻ってみるとおよそそうではない姿を現している人が沢山いるのである。そして、夫や妻や舅、姑やその他友達や同僚に変な事を言われたり、されたりして憤ったりする。そんな状態が続くと、その自分の不調和な心が肉体に現れて病気その他、色々の不幸がやって来る。
 しかし、その病気とかその原因となった意地悪な人達は実は存在せず、全て自分の心の影であると知る時、自分がかつて同じ様な事を他の人に何の気無しに言ったり、やったりして来たと言うことをその意地悪な人が如実に教えてくれていたのであるという事を悟るのである。
 そうした時、自分の心の姿勢を如実に反省する事が出来るし、その嫌な事をする相手は本当に悪い人間ではなくて、自分の生長を促してくれる観世音菩薩であった事が分かるのである。

 その時、人間神の子、完全円満、この世に一人も悪い人は居ないという生長の家の根本真理かつ神髄が頭だけの知識から実感としての悟りとなって成就するのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-08-16 13:08 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)