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迷いは放っておくべし

 生長の家では日時計主義というものがある。それは面白くない事、不愉快な事に心を引っ掛からせず、愉快な事、今既に与えられた良い事のみを観て、感謝するという生き方である。何故なら、本当に実在するものは有り難い、良い事ばかりであり、悪とか問題とかというものは本来実在しないものであるからである。

 それと同様に迷いというものが現れている場合がある。何か、仕事を進めて行く内にどうしたら良いか二者選択を迫られたり、又はやり方がどうにも分からなくなったりする事がある。私はテニスをやっていて、やり方、打ち方に関して、よく迷う事がある。それは主に自分が不得意だと思っている技に関して迷うのである。それは不得意だ、苦手だと思うから、それを良くしようと頑張り、そして、失敗を恐れるから、出来るだけ完全なものにしようとするのである。そこに迷いが生じる。
 しかし、我々は今、完全円満であり、無限力である。それは実相の事で現象はそうじゃないよと言うかも知れない。確かにそうである。しかし、我々は現象はナイと教えられているのである。だから、未発達な現象、不完全な現象はナイのである。従って、それを良くしよう、ましなものにしよう、上手くなろうとする必要は無い。それを自分の不完全、未発達をつかんで、それを良くしよう、上手くなろうと頑張る所に迷いが生じる。迷いが生じたら、それを悟ろう、分かろうとますますもがく、そうするとますます迷い、そして、ついにはつぶれてしまうのである。

 迷いは放っておくべし。そんなものはモヤの様なものであり、放っておけば良いのである。下手な自分、未発達な自分は、不完全な自分はナイのである。無限力の自分だけが存在するのである。
 だから自分の出来てる所、良い所だけ見て、悦ぶのが良いのである。自分の悪い部分を良くしようとするな。そうした心から生じるのが迷いである。迷いは本来の実在ではなく、モヤの様なものであるから、放っておけば良い。その内、神様がそんなモヤは消して下さる。そして、良い所を悦んでどんどんやって行く内に良い部分が伸びて、今まで分からなかった部分も本来のやり方が自ずと分かり、うまく行くのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-09-28 13:00 | 潜在能力 | Trackback | Comments(4)

人は分かってくれない(2)

 以前にも取り上げた生長の家の「使命邁進の神示」を再びここに書く。

 「人がどう思うかも知れぬと、そんなことばかり気にかけてゐるやうなことでは心の苦しみは絶えぬものだ。自分がどの位愛したか、自分がどんな仕事をしたか、そればかり考えるが好い。肉体の人間は誤解するものだとあれほど言ひきかしてある。肉体は念の集積で出来たレンズ又はプリズムであるから、人によって其の『眼鏡』は違ふから、どんな光線でもみんな屈折して見えるし、人によって屈折の仕方も違うのだ。(中略)誰が何と思っても、それは迷いで屈折して色々に観るのであるから、ただ神に知られることだけを求めて人に知られようなどと思わぬが好い。・・・」

人は分かってくれないのである。神示にある様に肉体は念の集積で出来たプリズムであるから、人によって一つの光線の屈折の仕方が違うので、一つの事でも十人十色でとらえ方が異なるのである。だから、自分の真実など他人には殆ど分かってもらえないのである。だから、人に認められようなんて一切考える必要は無い。従って、人にどう思われているかなんて全然気にしなくて良いのである。ただ、人に与える事だけ考えておれば良いのである。

 私は十年位前、地元の自治会で市民運動会の運営部長みたいな事を三年間やった。それは役員を集めたり、買い出ししたり、打ち合わせ会議や前日、当日の準備等々色々の仕事をボランティアでやるのである。でも、その翌年に運動会の功労賞に選ばれたのは私ではなくて、他の人であった。その人は運動会の当日、スタート係を毎年やり、さわやかな感じのスポーツマン的お父さんであったから好印象があったのだろう。しかし、私の心中、複雑なものがあった。オレはこれだけ日陰で頑張っているのに何で運動会当日だけ目立つ人であるあの人に功労賞が授与されるんだと。

 また、私はやはり十年くらい前から地元のPTAのソフトボール大会の時の縁で地元のお父さん達で作った野球チームのまとめ役をやっている。それは毎週日曜早朝に地元の早朝野球リーグでの試合か他チームの審判等をやり、その他の週は練習をやり、その他、年二回は市民大会にも出て、その為の抽選会とか、試合日程連絡、人集め等の活動をやるのだが、こうした活動を毎年、ほぼ3月頃から10月頃まで半年以上に渡ってやるのである。
 そして、野球の試合には私は毎試合行くが、選手としては殆ど出場せずに監督という肩書きでベンチ入りして、選手の成績をスコアブックにつけるのである。人数が集まらない時は色々な人に相談して必死になる。試合や審判のある時は日曜の朝4時30起きである。私は殆どの試合や審判に行くから、シーズン中は殆ど毎週日曜4時30分起きである。しかも前述の様に自分がプレイを楽しむ訳ではないのである。試合が無い週は朝6時30分から練習であるが、それも私は毎回行く。
 しかし、である。私のそういった地道な献身的活動は殆ど他人から評価される事は無い。

 私は本当に一時、嫌気がさしたのである。しかし、私はこの「使命邁進の神示」を思い出したのである。肉体の人間など誤解するものである。だから、人からの評価なんて本当にどうでも良いのである。そんな事を考えずに自分が神に恥じない生活をしておれば良いのである。神の評価のみが絶対のものである。そして、我々は他人に対して、認められようとしないでただ与えておれば良いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-09-27 13:07 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

そのままでよい(7)

 「そのままでよい。」これが私が榎本恵吾先生から学んだ最大の教えである。そして、それは生長の家の神髄でもある。「そのまま」とは「実相そのまま」という事である。そして、我々は実相そのものであるから、我々はそのままでよいのである。何も工夫も力みも励みも要らない。今、そのままで神の子、完全円満、無限力、無限健康であるのである。それをこの生き方をしたら、この心持ちを保ったら、心が清まって、良くなれる、健康になれる、この問題が解決出来ると考えるのは自分と神が分離しているのである。これこれこういう条件の事をやったら、自分は今は神ではないが、将来、神の様に素晴らしくなれると思っているからである。それはちょっとの差の様であるが両者には無限の隔たりがあるのである。

 さて、我々は信仰生活を続け、極めて行く段階で、色々な事を経験し、学び、それまでの自分の心持ちを反省する。即ち、人を恨んでいたり、既に与えられた良い部分に感謝せず、不足の部分ばかり見て、不平不満であったりするとそれ相応の心の不安が出て来て、運命的にも病気になったり、その他、面白くない事が起こって来て、それでああ、自分は感謝が足りなかった、これからは既に与えられた良い事に努めて、感謝しようなんて反省するのである。
 だが、反省するのはいいがとらわれてはならないのである。生長の家では善でもとらわれたら悪になると教えている。即ち、感謝、感謝と念を押しながら生きていても、目の前に明らかに間違った事をしている人間が出て来た場合はそんな感謝、感謝なんて事にとらわれていれば、その人間に注意する事も出来ないのである。

 全ての生長の家の生き方はそれはそのケースバイケースで尊い。しかし、こういう生き方をしていれば、将来、素晴らしくなれる、病気も治るなんて事を考えて、その一つ一つの生き方にとらわれてはならないのである。

 我々が神の子、無限力であるという事は将来の事ではなく、今の事である。だから、今、そのままで我々は神であり、完全円満であり、そのままでよいのである。そのそのままの中から人事処に応じて、自由自在に生長の家の生き方を駆使して行けば良い。

堀 浩二
by koujihori | 2007-09-26 12:58 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

悪い所を良くしようとしないで既に良い所を悦ぶ

 鬱病とは気持ちがふさぎ込んで覇気ややる気が無くなり、夜も眠れなくなり、食欲も無くなる病気であるが、鬱病の鬱(うつ)は人を討つのうつの事であり、鬱病とは人を討つ心の現れであるのである。
 要するに他人を自分の尺度で審き、討つ心が蓄積すると鬱病になるのである。だから、こういう人は自分の心を反省し、恨んでいる人がいるならば、赦さなくてはならない。

 さて、その心は別の言い方をすれば、本人が痛く真面目でものごとをゆるがせに出来ないという性格から来るのである。それは完璧を目指して、自分の不得意な部分を克服しようとしたり、問題があったら、それを解決しなくてはならないと頑張る心である。問題をゆるがせに出来ないと思うから、不愉快な出来事、不愉快な人物にも引っ掛かり、それを心で責め、討つのである。
 しかし、問題とか、その他面白くない事、不愉快な事というのは過去の念の残像であり、そんなものは取るに足らないものなのである。だから、そうした問題や不完全な部分や未発達な部分、不愉快な出来事等々はもやの様なものであり、本来、実在しないものであるから放っておけば良いのである。放っておけばその内、消える。それは神様が消して下さるのである。
 それを生長の家では日時計主義と呼んでいるのである。日時計主義とは不愉快な出来事の記憶を出来るだけ思い出さない様にして、良い事のみを記憶にとどめるという生き方であるが、その様に悪いもの、問題、自分の短所等に引っ掛かってそれを良くしようなんて思わないでそんなものは非実在として、放っておいて、今、既に与えられた長所とか良い面のみを悦んでいけば、それがそのまま日時計主義になる。

 そうしていけば、今、すぐに自分が天国浄土にいる事を実感する事が出来る。この問題を解決してから、この短所を克服してからなんて完璧にこだわっていれば、例え、一つの問題を解決し得ても、その悪い所を良くしようという心が問題を次から次へと造りだし、悩みは尽きないという事になるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-09-25 13:02 | 信仰 | Trackback | Comments(4)

放つ

 現在、一番巷で話題になっているのは安倍首相の突然の辞任劇だろう。安倍さんはどうも精神的に相当参っている様で、これはもう首相職を続けるのは無理だったのである。首相就任以来わずか一年の間にこれだけの閣僚のスキャンダルとか年金問題等の問題、そしてそれを受けての選挙の大敗が続けば、余程の心臓に毛の生えている様な人物か悟りを啓いた人物でなければ、とてもではないが精神的に持ちこたえられないと私は思う。
 安倍さんは拉致問題に関しては本当に一所懸命尽くしてくれたと思うし、首相就任後も戦後レジームからの脱却を目指し、憲法改正、教育基本法改正等を目指して、純粋に日本国の為に頑張ろうという立派な愛国者だと思う。しかし、純粋故に物事を適当に流す術を心得ていなかったのだと思う。

 “放つ”という事が大切である。几帳面な真面目な人ほど、ものごとをちゃんと完璧にやろうとする。落ちは無いか、間違いは無いかと。

  “放つ”という事は神に全託するという事であり、捨身という事である。そして、それは神への絶対の信頼の行動化である。
 この宇宙が完全円満、無限なる神により、隅々まで完全に運行されている事を信じれば、神に全託する事が出来るのである。神に任せず、自分がちゃんとやれているか確認したい、自分が完璧にやらなくてはならぬという心は神を信じておらず、それは今、そのままではうまく行かないと思う心であるから、どんどん不安に、かつ弱くなって行き、そして、この世界は思ったら思った通りになる世界であるから、うまくやろう、完璧にやろうとして、却って、全てがうまく行かなくなるのである。
 そして、完全に間違いなく自分がやらなくてはいけないなどと思っていると、何回もメモを確認したり、他人に確認したりして、自分の記憶力や判断力を使う事が不安になって、それを使わなくなるから、自分の能力も訓練されず、どんどん落ちて行く。
 だから、心からものごとを放して、捨身にならなくてはならない。自分がちゃんとやろう、やらなくてはならないという心を捨てて、神に本当に全面的にお任せする気持ちにならなくてはならない。そうでないと本当に能力を発揮できず、自信を失い、全てはうまく行かなくなるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-09-21 12:29 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(4)

生長の家とは何か(6)

 生長の家では「既に受けたり」と祈れと教えられる。「何々しよう」という意志の力より、「既にそうである」という創造の心の力の方が強いと言うのである。映画マトリックスでもモーフィアスがネオに言った言葉に「早く動こうと思うな。自分は早いと知れ。」という言葉がある。

私のテニスや英会話の経験から分かった事だが、自分の不完全さ、下手さを認めて、それを良くする為の練習とか工夫というものはいくらやっても、何も実りが無く、何時まで経っても下手なままでなのである。しかし、私は努力をひたすら続ける中で「自分は今、上手い、今、無限力である。」と直感的に気がついてからは試合などでもすぐ上手く出来る様になり、かつ、その中でこうした方がいいというやり方が自ずとどんどん分かってきて、更に上達していった。
 そして、自分は既に出来ると自覚しているが故に毎日、素振りとかの反復練習を自ずとしたくなり、また英会話もAFNなどの本当のナチュラルイングリッシュの放送を自ずと聴きたくなって、毎日、聴いているのである。その中で自ずとどんどんアメリカ人同士の早い英語が聴き取れる様になっている。

 吉田國太郎先生も榎本恵吾先生も生長の家は先ず、神の子の自覚が先であって、それから自ずと神の子らしい生長の家の生き方が出て来るというのでなければ駄目だと仰っている。それはどういう事かと言うと、先ず自分は既に完全であると思う事が大事であり、自分はまだ不完全だが、練習や行によって完全になろうという事では本末転倒であると言う事なのである。そんな練習や行ではやればやるほど、自分はまだ不完全だ、まだ不完全だという念を自分に刻み込む事になり、ついにはつぶれてしまうのである。

 生長の家の根本真理は人間は神の子であり、完全円満であるという事である。そして、それは将来の事ではなく、今の事なのである。それが「今、立て!」の教えである。だから、現象がどうでも、肉体にまだ自壊作用が現れていても、そんなものはナイとして、相手にせず、我慢せず、今、神に生かされている事を悦ぶのである。それが生長の家の信仰である。

 今、そのままで既に完全円満であるという信仰と悦びが先で、後から生長の家の生き方である「思い切りよく勇敢に生きる」とか「今に全力を出す」とか「取り越し苦労をしない」とかと言った聖典「生命の実相・生活編」に出て来る様な生き方が自ずと出て来るのであって、生長の家の生き方をしたから、潜在意識が清まって、完全になり、悦べるのではないのである。それを既に今、完全円満であるという信仰と悦びも無いのに無理矢理、自分や他人に「生命の実相・生活編」の生き方を強いたり、それが出来ないと言って人を審いたり、自分を嘆いたりするのは間違っている。
 
堀 浩二
by koujihori | 2007-09-20 13:24 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(0)

実相が顕現する時

 生長の家では人間の本当の姿即ち実相は神の子であり、この現象の奥には完全円満な実相世界が拡がっており、実相人間はその実相世界に住んでおり、実相人間及び実相世界は完全円満なもので、永遠に滅びないものであると教えている。

 そして、この現象世界はその霊的実相人間及び実相世界を表現する為の世界であり、その為には我々人間は心を清めて、その自己の実相の完全円満さを見つめ、そしてそれを現し出す為の訓練及び修行をしなければならないと説く。

 それで生長の家の人は毎日、神想観をやり、聖経を読み、愛行をして、自己の実相を顕現させようとする。そして、祈りが聞かれ、お陰が出た時は悦んだり、また求道生活の中で「自分は悟った。」と悦んだりする。しかし、それもまた次の瞬間、迷いが出て来たりして、そうすると「これは過去の恐怖心や迷いの自壊作用だ。」とか自分で思って、この自壊作用が無くなるまで我慢しようとか思うのである。そして、生長の家の人は何時しか自分の悩みや問題や肉体に出ている過去の迷いの自壊作用というものが完全に消えて、「これでやっと自分の実相顕現が成った。」と悦べる日が何時か来るだろうと思って、その日を目指して一所懸命信仰するのである。
 しかし、これで完全に実相顕現が成就して、自分は何の悩みも無くなったなんて時は永遠に来ないのである。

 迷いの自壊作用とか段々良くなる肉体や現象というものはナイのである。それは現象としては現れているかも知れないが実相から見て、今そのままでナイのである。だから、そんなものに引っ掛かってはならないのである。今、ここ完全円満の吾れしかナイのである。それは既に今、このままで完成しているのである。もう既に成就しているのである。だから、悦ぶべし。今、悦ぶべし。そして、その完成と成就は更に完成し、更に成就するのである。それが無限生長という事であり、我々の人生であり、今、ここ天国浄土であるという事である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-09-19 13:07 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(0)

実相が出て来るということ(3)

 生長の家では現象の奥の人間の本当の姿、即ち実相は神の子であり、完全円満、無限力であると説く。神の子とは神の事であり、要するに人間は神なのである。その神は無限であるから、宇宙の隅々まで拡がったものである。その神の無限生命に生かされているのが我々一人一人の人間の生命である。我々の生命は神の無限生命に直接生かされているが故に我々個人個人の一生命は宇宙に拡がる神の無限生命と一体であり、我らは神の子であると同時に神そのものである。その神に生かされているという事実が我らが神そのものという事である。それは我らの無意識に行われる生理作用とも顕れ、かつ我々の「こうしよう。」と意識した心ともなって顕れる。だから、我々は自分で生きているようで、神に生かされているのであり、神そのものであるのである。

 さて、人間とはかくも素晴らしいものであり、この人生はその素晴らしさを表現する為の場である。それと共にそれを表現する為の訓練の場でもある。だから、我らの人生は悦びの表現の場であると共に自己を知り、その素晴らしさを現し出す為の人生学校とも言えるのである。学校であるから、多少困難な問題も出て来る。

 それではその自己の生命の実相の素晴らしさを現し出すにはどうしたら良いであろうか?それは生長の家の聖典「生命の実相」の第七巻「生活編」と第八巻「観行編」に書かれているが、人間は自分を神の子であると知識的に知ったら、それを神想観という瞑想法でその自己の生命の実相の素晴らしさをじいっと観ずる訓練をして、それを自己の潜在意識の奥底まで徹底させて、かつその後はその自己の生命の実相の素晴らしさ、完全円満さを実際の生活に行動化しなければならないと説く。
 だから、順番的に先ず①自己の生命の実相を知識的に悟る②次にそれをじいっと心の眼で観ずる③そして、それを行動化する、という事になる。良く生命の実相の第七巻ばかりを取り上げて、生長の家の生活法をやかましく言う生長の家の人がいるが、それは間違いであくまで先ず心の中の生命の実相の悟りが先で、そこから自ずとその生活化が出てこなければならないとはかの生長の家の迦葉尊者と言われた吉田國太郎先生もその流れを汲む榎本恵吾先生も口を揃えておられる。

 ともかく、根本的に言うと我々は自己の中の無限の宝を使う(生活化して無限力を出す)には良く生長の家の中で出て来る話である「コートの内側に無限億円のダイヤを縫いつけられている事を知っている人はそれを自由に使える」の例えの通り、自分の生命の実相の完全円満の存在に実際に気がつけば良いのである。気がつきさえすれば、それを使うなと言われても人は自ずとその宝、即ち無限力を使い、そして人生の難局を勇気を出して、立ち向かって行き、切り開く事が出来るのである。その自己の生命の実相の完全円満さに実際、気がつく為に生長の家の三正行(神想観、聖経読誦、愛行)と言う行がこれから生長の家の真理を究めようという求道者に示されているのである。その求道生活の中で自己の生命の実相の完全円満さを実感する時が来る。それは必ず来るのである。何故ならば我らの本当の姿は神の子完全円満であり、それは無限の悟りでもあるから、その悟りは必ず自ずと目を覚ます時が来るからである。
 
 それまでは生長の家の道は必ずしも甘いものではない。生長の家をやっている人でやらない人、生長の家などそもそも知らない人より悪くなったり、苦しくなったりするのはその為である。しかし、それらはあくまで人生学校で出て来る課題に過ぎないのであり、そうした困難の中で諦めないで努力を継続し、自己の生命の実相の可能性を掘り続ける者は必ず、その宝庫を掘り当てる事が出来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-09-18 13:16 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

国の防衛について(2)

 先日、国の防衛の事について書いた。現在、我が国には核兵器を持つべきかどうかという議論が出て来ている。その引き金は言うまでもなく隣国北朝鮮が核実験を断行した事による脅威である。

 当たり前に考えれば、北朝鮮の様な危険な国が核兵器なんて大量破壊兵器を持ったのだから、それに対抗する為には日本も是非、核兵器を持たなくてはならないと思うだろう。だから、私もどうしたら良いか毎日、私なりに考えていたのである。そんな時に谷口雅宣先生のブログで「日本はアメリカとの安保条約の下にあり、事実上核の傘の中にあるから、日本が独自で核兵器を持つ必要は無く、また、それでも核を持つという事はアメリカとの信頼関係にも影響が出るだろう。」という御文章を読み、なるほどそうだと思ったのである。

 また谷口清超先生もかなり前に「自己防衛本能的な必要最小限の通常兵器があれば、核兵器を持つ必要はない。」と書かれていたので、雅宣先生のお考えを知った時もああ、そういう事なんだと思った。
 でも、私としては一抹の不安がまだ残っていたのも事実である。しかし、最近は私はこう思う様になったのである。
 
 物事の真理というのは宇宙を覆っており、この真理は個人ベースでは適用出来るが国ベースでは適用出来ないなんて事は無いのである。個人なら悪い事はしてはならないが国は政治的に、かつ外交的になら悪い事をしていいなんて隔ては無い。他国を侵略すれば、必ずその国はそれ相応の報いを宇宙の法則から受けるのである。
 宇宙の真理は現象はナイという事である。従って、悪もナイのであり、本当に問題のある人物、迷っている人物、悪人というものはイナイ。それは皆、自分の心の影である。従って、相手を諭す事も、やっつける必要も無いのであり、よって国防もやたらと恐怖して、どんどん武備を増す必要は無くて、当たり前の免疫本能としての防衛力のみ持っておれば良い。従って、大量破壊兵器など持つ必要は無いのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-09-14 13:02 | 信仰 | Trackback(1) | Comments(0)

雑念

 私は今年になってから、何故か対人関係で不愉快な思いをする事が多かった。それは大抵、相手が私に対して無礼な物言いや行動をして来る事に端を発し、それに対して私がその場で怒りをぶつける事もあれば、我慢する事もある。しかし、双方とも後々それを思い出しては憤懣やるかたない思いに駆られるのである。
 どういう事が具体的にあったかはこのブログではいくつかは書いて来たから毎日読んで下さっている方はご記憶があると思う。

 私はその度に悪人はイナイ、それは自分の心の影であると思った。しかし、憤慨している時はその憎い相手が具体的に実在すると思って憤っているのであり、その相手にどう復讐してやろうかなんて何となく考えた事もある。

 しかし、この間のソフトボール大会後の宴会で、ある人物から無礼な物言いを受けた事件辺りからどうもこれは何かが私の中に起こって来ているという事が分かり出して来た。というのはその私が憤慨した相手の非難を他の人にぶちまけたい気持ちに駆られたのだが、その他の人というのは丁度半年くらい前に私がある事で憤慨した人でその非難を家で家内にしたりしていたからである。
 要するに私に非礼な事をして来る様な悪い無礼な人物というのは私の中で入れ替わり立ち替わりしているだけで実はそんな悪い人物、嫌な事件というのは存在せず、私の中で私が勝手に自分で撮影して編集して映写している映画に過ぎないのではないかと気づき始めたのである。要するに私の中にあった色々な迷い、恐怖心等々が表面に浮き出てきて、それが不愉快な事件、無礼な人物、そして、それを思い出しては憤懣やる方無い気持ちになる心となって、出て来たに過ぎないのではないかと悟ったのである。

 生長の家聖典「生命の実相」に書かれていたと記憶しているが、谷口雅春先生は「神想観(生長の家式瞑想)の時に色々と雑念が浮かび上がって来る事があるが、そんな事を気にする必要は無い。それは自分の潜在意識の底に溜まっていた迷いが浮かび上がって来ただけである。」と仰っている。

 同様に我々の普段の生活の時も今に集中しようと思っても、気がつくと考え事をしていたり、過去の不愉快な事を思い出して、憤慨したり、先の事を取り越し苦労したりする事がある。しかし、それらは雑念であり、過去の迷いの消える姿なのである。それをああまた自分は悪い事を思ってしまった、悪い運命の原因を作ってしまったと思って、何とか心を整えようと思ったり、自分はまた良くない心を起こしてしまった駄目な者であると嘆く必要は無いのである。
 そして色々と不愉快な事件が起こって来るのも不愉快な人間が出て来るのも自分の過去の迷いの消える姿であるから、即ち雑念の一種みたいなものであるから引っ掛かる必要は無いのである。我らは常に完全円満であり、無限健康、無限力の神の子であるのであり、それらの不愉快な事件、不愉快な心はその自分の完全円満がより顕れる為に長年沈殿して来た過去の迷いが表面に出て来る事により自消自滅しているのに過ぎないのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-09-13 13:07 | 信仰 | Trackback(2) | Comments(2)