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失敗は成功の元

 「失敗は成功の元」とは昔から良く言われる事である。我々は本当の事が分かる為には自分で先ず失敗して見て、こうしたらいかんのだと心の底から自分で実感する事により分かるのである。そのことについて生長の家の聖典「生命の実相」第22巻「聖語編」にはこうある。
 「他に行きつまらない道の方向を示すことはできるが、彼を行きつまらない道へ引っ張って行くことはできぬ。引っ張って行っても人間は救われるものではない。反対の方向へ行く者は行かしめよ。そこで彼は行きつまって、はじめてこの道は行きつまると悟って道がひらける。彼にとっては「行きつまる」ことそのことが救いの始めである。」

 この様に我々が本当の事が分かり、真理を悟るには他に導いてもらうのではなく、自分自ら経験して、失敗する事により悟るのであり、その事は映画「マトリックス」の登場人物モーフィアスの言葉「お前を真理への扉の前までは案内出来るが真理の扉を開くのはお前自身だ。」にも示されている。

 ところで最近の気候を感ずるにつけ、本当にちょっと異常である。昨日など昼間、外歩きしていて汗ばむほどだったし、その前の日では事務所で誰かがクーラーをつけていた。明日はもう11月だと言うのに、これはいくら何でも変だと思う。このままでは地球温暖化はもう後戻りが出来ない所まで行ってしまうという説もあるが、本当にこれは非常事態になって来ているのではないか?

 話はちょっと変わるが、最近、メディアを一番騒がせていたのが例の亀田問題である。それからそのちょっと前は女優の沢尻エリカに対するバッシングである。そして、その前は朝青龍問題と、この所、「水に落ちた犬は叩け」ではないが、問題を起こした人物をマスコミが執拗なまでに叩くと行った風潮が激しい。持ち上げる時は散々、持ち上げておいて、一旦何か不祥事を起こすと正に手のひらを返すような叩き様である。これはそうしたバッシング記事を大衆が好きであるから、その為、雑誌の売上とかテレビの視聴率を上げる為にこうした事が起こるのである。
 バッシングされた本人は精神的な追い込まれ方が尋常ではない様で殆ど皆、ノイローゼ状態になる様であるが、マスコミはお構い無しである。
 また、お笑いタレントは殆どと言っていいほどの使い捨てである。現在は「ドンダケー」のイッコが流行っているが、その前は「欧米か!」のタカアンドトシ、そしてその前は「フォー!」のハードゲイ、そしてその前は「残念!」のギター侍等々。ほぼ一年の使い捨てである。マスコミ他テレビ局はこれは売れるとなると徹底的に使い、ちょっとブームが去るとぼろ雑巾の様に彼らを捨てる。彼らの中にはじっくり売り出して、育てていけば、息の長い芸人になる可能性のあるタレントがいくらでも居たはずである。

 これらはその騒がれる本人の人権とか尊厳などは殆ど無視して、単なる金儲けの道具としてしか人間を見ていない現代の大人達の風潮がある。そして、それが環境問題と直結していると思う。若いスポーツ選手やタレント達の人間としての尊厳や可能性を見ずにそれを愛深く育てようとしないで手っ取り早い金儲けの道具しようという発想は自然の動植物や天然資源を慈しむ事が出来ず、それを手っ取り早い金儲けや快楽の犠牲に供しようという唯物思想と通じるのである。しかし、こんな事を続けていれば、地球はもう持たないだろう。その時になって、人類は本当の事が分かり、全ての生きとし生けるものが単なる物質ではなくて、神の尊い生命であったと悟るのだろうか。

 しかし、生長の家副総裁、谷口雅宣先生の仰られている様にこの地球温暖化という地球の状態が人間に本当の生命の価値を教える観世音菩薩の説法であるのであるならば、この状態こそが人類が真に悟り、救われる為の最後のチャンスという事になろう。失敗は成功の元であり、それは我々個々の人生にも共通しているのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-10-31 13:11 | 環境問題 | Trackback(1) | Comments(0)

実相は自分で出て来る(7)

 我々は生きている。しかし、自分の力で生きようと思って、生きている人は実は誰もいないのである。何故なら、自分の力でこの世に生まれた人などいないからである。また、自分の力で心臓を動かしている人も呼吸をしている人もいない。我々は自分で生きられる所は一つもなく、全ての全てが完全円満の神に生かされているのである。

 それをそうじゃない、自分の力で生きていると思っている人はまだ真理を悟らず、迷っているのである。ところで、生長の家の人で自分は神の子、無限力、無限健康であると教えてもらったが、それをどうしたら、現実のものとして、実現させる事が出来るのかと考えている人はいるだろう。自分の実相を顕現させる為にあれこれ努力したりしてもそれが却って、うまく行かず、ますます悪くなるなんて事もある。

 要するに我(が)の努力という事で真理の実行、現実化しようとしても、却って、何ともし難いという事になるのである。私などは我(が)で真理の実践を一所懸命やって、我(が)の力で真理を現実化させようとしたが、ちょっとした間違いで奈落の底に落ちた事がある。しかし、その事で却って、私の目が開け、実相顕現する事が出来、健康を取り戻し、元気になれたのである。

 実相は我(が)の努力によらず自分で出て来るのである。それは我々の生命が自分の我(が)の努力によって、生まれたり、生きたり出来ず、全て、神の無限生命の生かしによって生かされている事と同様である。我々は必ず実相顕現するのである。それは実相自らの力で顕現する。迷っている人は必ず、悟り、病んでいる人は必ず、治り、出来ない事は必ず出来る様になる。それは我々の実相自らが自分で顕現する事により、必ずそうなるのである。そうならないのはその本人が自分は駄目だと思って、自己限定して、もう少しで芽が出そうなのにその直前で止めてみたり、または出そう出そうとして我(が)が頑張る事により、その事で無限生命を自ら縛ったりする事による。

 それなら、我々は何もしないで怠惰にしていればいいのかと言うとそうではない。自己の無限生命を信ずるが故に決して、困難に対して背を向けない熾烈な生き方が必ず出て来る。その中では失敗もあるし、絶望する事も愚弄されたりする事もある。しかし、そうした中でも自己の無限生命を信じて、初志貫徹する事が大事であり、その過程を通して、無限生命、無限健康、無限力が気がついて見たら、自ずと出て来ているものである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-10-29 13:13 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

本当の信仰

 生長の家の神示の一つ「久遠生命の神示」にはこうある。「吾が臨(きた)れるは物のためではない、生命のためである。肉のためではない、霊のためである。これを覚るものは少ない。物の生滅に心を捉えられ、物が殖えたときに信仰を高め、物が減ったときに信仰を失い、身体が健康になったときに神を讃え、家族の誰かに病気が起こったと云っては信仰を失うが如きは、神を信じているのではなく物を信じているのである。・・・」

榎本恵吾先生の御文章の中に「実相はそのままで完全円満であるからそれが表面に出て来ているかどうかなどは問題ではない。」というのがある。私はこの御文章を初めて拝読した時、それは違うんじゃないかと思った。というのは我々は実相は神の子完全円満、無限力であるが、それを現象世界に表現しなければ意味は無いし、その為にこの人生があるのじゃないかと思っていたからである。

 しかし、最近私はその意味が分かって来たのである。実相は今、ここに確かに息づいているのであり、それが何より素晴らしい事であり、有り難い事である。それが表面に出ている出ていないは問題ではないのである。その実相の素晴らしさが何時どのように表面に出て来るかは神の御心次第であり、それは我々に取って、最も良い時期に最も良い形で出て来るのである。
 私は神の子であるから、その実相は完全円満、無限力である。しかし、現象的に不如意、不完全、問題はいくつかある。私はその事に引っ掛かり、それを現象的に改善する事が出来るまでは本当には悦べないと何となく思っていたのであるが、それは間違いである事に最近、気がついたのである。
 現象など誰でも完璧という訳にはいかないのである。それなのに現象的に完璧になるのを待ち望んで、それまでは悦べないのなら、我々は永遠に悦ぶ事は出来ないのである。現象に実相が出て来ているかなどどうでも良いのである。我々は今、神の子、完全円満、無限力であるからだ。
 繰り返しになるがその完全円満さが現象に何時、出て来るのはそれこそ神の御心次第であり、それは我々に取って、最も良い時に、最も良い形で出て来るのであるから、神様に全託しておれば良いのである。
 その事が分かれば、現象がどうであろうと今、すぐ悦べるのである。そして、他人から何を言われようと平気になるのである。そうした心境になるのが本当の信仰である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-10-26 12:59 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る(6)

 実相は自分で出て来る。我(が)による工夫とか、励みによるのではない。私は以前、実相世界は完全円満であるが、この現象世界は自分の心が造るのであるから、自分の心がきちんとぶれなく、実相通りの立派な状態にしてなくてはならないと思っていたのである。だから、自分の心をコントロールしなければならないと常に思っていて、悪を思ったり、病気を思ったりしたらいけないと思っていた。
 それで常に戦々恐々としていたと言っても過言ではなかったのである。要するにそれは自分のさじ加減で自分及び自分を取り囲む世界がその通りになるのだから、そのさじ加減を少しでも間違えたり、失敗したりしてはいけないといつも緊張していたのである。しかし、結局、私は自分の心のコントロールに失敗し、奈落の底に落ちたのだった。コントロールに失敗したとは神を思って愛他的に生きるのではなく、利己的な事に心を引っ掛からせた為に転落したのである。

 しかし、転落したと思ったら、それは神の最大の導きであった。私は生長の家宇治別格本山に導かれ、そこで生涯最高の師、榎本恵吾先生に巡り会う事が出来た。そこで私は生長の家の神髄を先生から授けられ、実相顕現する事が出来たのである。
 私は実相世界は今、ここに無いと思って、自分が注意に注意を重ねて、自己を支える事によりやっと実相世界に近づけると思っていたのであり、しかし、それに失敗して転落した事により、今、そのままで自分が神の懐に抱かれていた事を悟ったのだった。要するに我々は自分の我(が)の努力や工夫によって神にしがみつこうとしなくても今、そのままで既に神に導かれ、抱かれていたのである。その事に気がつく事が実相完全円満を悟る事である。

 我々は自分でしがみつかなくても今、神の子であり、今、神の世界に住んでいて完全円満なのである。自分の心のさじ加減をちょっと間違えた位で本当に転落してしまうような存在ではないのである。それは実相顕現というのは自分の我(が)による心のコントロールの積み重ねによって成就するのではなく、神により、為されるという事であり、それを榎本先生は「実相は自分で出て来る」という言葉で表現されたのである。
 だから、それはすぐに出そうとして出て来るものではなく、様々な段階を追って出て来るのである。その段階の中では私の様に転落したと感じる事もある。従って、実相顕現は神に全託して、すぐに現象を良くしようと頑張らないで気長に今、やるべき事に全力で取り組み、自分の課題として与えられた事から決して目を背けない正面から向かって行く事が大事である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-10-25 12:32 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

生かされている。

 私が生長の家宇治別格本山で榎本恵吾先生から受けた薫陶の中で大きなものの一つに「我々は生きるんじゃないんだ、生かされるんだ。」というのがある。

 ある人が榎本先生に相談した時であるが、その人はもう生きるのが嫌になったと先生に告白したのだそうである。そうしたら、先生はその人に「僕も嫌だよ。」と仰ったそうである。
 自分が生きると思うとそれは大変な事である。自分が呼吸するのも心臓を動かすのもその他、肉体のあらゆる機能を司るのに自分の力で意識してやっている人はいない。しかし、自分が生きていると勘違いしている人は自分の体も自分で生かさなくてはならないと実は心のどこかで思っているのである。
 私の知人はある時、心臓があると意識したとたん、その心臓がひとりでに動いているのが、信じられなくなり、心臓が止まるのではないかと心配になり、眠れなくなった人がいる。要するに人間というものは自分の肉体の事を思い出し、それに引っ掛かると肉体がうまく機能しなくなるという事だが、肉体があると思うという事は心が肉体という物質にとらわれているからそうなるので、肉体を忘れて今、目の前の事に集中する時、肉体という物質を忘れ、心が神に向かうので肉体も健全に動くという訳である。

 それはともかく、我々は自分の我(が)の力で生きているのではなく、神に生かされているのである。だから、神想観という生長の家の瞑想の時は「神の無限の生かす力に生かされている」と念ずるのであり、生長の家の招神歌(かみよびうた)でも「吾が生くるは吾が力ならず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)」と唱えるのである。

 だから、我々はこの人生を生きていくのに何の心配も要らないのである。自分という我(が)が生きるのであるならば、我々は常に心配し、心を緊張させていなくてはならないのである。常に自分の心臓を動かすためにあくせくし、呼吸も常に意識して行わなくてはならないだろう。実際そんな人は居ないが、肉体の生理機能ではなくて、病気になったりする事を恐怖し、自分で何とかしなくてはならないと思っている人はいるだろう。また肉体以外の事で人生上の問題も自分で解決し、自分で処理して行かなくてはならないと思っている人は沢山いるだろう。それで悪くなりはしないか、今のままで充分かどうかなんて常に気にして、不安になっているのである。しかし、そう思えば思うほど、恐怖心は募り、心配した通りの事が却って出て来る。

 しかし、我々は一切、自分が生きる必要は無く、全宇宙に拡がった完全円満、無限の智恵、愛、生命なる神に今、完全に生かされ、導かれているのである。その事を知れば、何の不安も恐怖も重荷に感ずる事も無く、人生全てがうまく行くものである。要するに神に生かされている事を悟れば、それが現象的にも出て来るのである。
 しかし、それは自分の心が悟ったから、生かされる様になったのではない。元々、生かされていたという事実に自分が気付いただけである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-10-24 12:32 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

自己の力を妨げるもの

 私は自分で言うのも何だが、生まれつき、真面目でものごとをゆるがせに出来ない性格であった。だから、何をするにも完璧を目指した。従って、生長の家を学び、人間神の子無限力という真理を知ってから、それを現象的に実現させようと懸命の努力をして来た。それは自分の悪い所を見つめ、それを良くする事にこだわり続ける事の連続だった。それは何をするにもそうであり、趣味のテニスなどでも、自分の出来ない技や不得意な部分があれば、そこに集中して、それを良くする事にこだわってばかりいた。

 しかし、そうしていた頃の私は人一倍努力しているみたいで却ってうだつが上がらず、常に自分の不完全な所に引っかかりそれを良くしようと悩んでばかりいたのである。しかし、私は生長の家を深くやって行く内に色々な日常的体験から、分かって来たのである。それは自分の本当の生命はこれからではなく今そのままで完全円満であり、無限力であるという事を。
 それは勿論、肉体や現象の事ではない。肉体や現象など有限のものであり、いくらでも欠点もあり、永遠のものではないからである。しかし、以前の私は実相は完全円満、無限力でもそれは今、そのままの自分の事ではないと思って、今の自分を不完全と観て、それを完全円満に少しでも近づける為に、良くする為にそれこそ懸命に努力していたのである。
 しかし、それは間違いであった。そうした事をしていたら却って、その力を縛る事になるという事に気がついたのであった。我々は今、完全円満であり、無限力である。だから、そのままで良いのである。それをそうじゃないと思って、良くしようとしてあれこれする事は却って、そのままで完全円満、無限力の力を縛る事になるのである。それは何故かと言うと、良くしようという心の根底には今はまだ不完全であるという思いがあるからである。自分を不完全と観る心が自分を縛っているのである。だから、その事に気がつくまで何時まで経ってもうだつが上がらなかったのである。

 おのれを今、このままで完全円満、無限力であると信じて、そのままでいるが良いのである。決して、今のままでは駄目だから良くしようとして、それに近づく為の努力をしてはならないのである。そのままの中から自ずと内側からの催しに従って、やりたくなる事を当たり前にやれば良いのである。
 それが自ずとそのまま全力の生き方になり、捨身の生き方になり、反復練習になるのである。何故ならば完全円満なる神は全ての全てであるからそれはそのままであれば自ずと全力かつ真摯な生き方となり、今そのままの神の生命である自分は無限の躍動であるから、自ずと反復練習したくなるからである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-10-23 13:03 | 潜在能力 | Trackback | Comments(0)

実相は自分で出て来る(5)

 実相は自分で出て来るのである。そして、その自分で出て来るという事が命懸けの訓練という現象で現れるのである。
 私はこの土日は本当にタイトでシビアなスケジュールだったのである。土曜日は朝は早朝テニスそしてその後は昼間に英会話学校に行って、夜は生長の家の誌友会という生長の家の信徒の会で講師として生長の家の真理の講話を一時間位行い、そして、翌日の日曜の朝は私が責任者をやっている野球チームの早朝練習をやり、その後、早朝野球リーグの閉会式に出席して、その後、午後1時から3時45分まで英検一級の一次試験を受けた。
 スケジュールが立て込んでいただけなら良いが、その一つ一つが私に取って、正に命懸けの覚悟を要求されるものであったので、金曜の夜くらいから気持ちがふさぎ込んでいた位である。
 
 生長の家の講師の人ならお分かりになると思うが、生長の家の講話を一時間位人前でしなくてはならないという状況は正に絶体絶命の境地に立たされる様な気がするのである。その時は何か特に不安で心が落ち着かなかった。
 そして、その翌日は午後から英検一級のテストを受けなければならなかった。これが本当に難しく、アメリカ人やイギリス人が普通に彼らのペースで話す英語を聞き取る能力と英字新聞をどんどん読める能力を要求されるのである。
 そんな事が2日間に立て続けに予定されていたので本当に気が重くなった。しかし、私はこれらは自分がやるのではない、自分の中の神様がやって下さると信じ、神様に全託する事にしたのである。

 そうしたら、テニスの時は私がテニスを始めて20年来の課題だったサーブのある技術が自ずとこうしたらよいというのが試合中に分かったのである。これは今までうまくなろうと思って、いくら研究したりしてもどうしても出来なかった技なのである。
 またその日の夜の講話でも最初は緊張し、何を話したらいいかちょっと分からなくなりかけ、非常に不安になったが、ひたすらおのれを信じて話をしていたら、その講話が実に内側から神様が導いて下さり、自分でも驚くようにスラスラと見事な真理の言葉が出て来て、計った様にその日のテーマの結論が結語として導かれたのである。また野球の練習の時も今までどうしても出来なくて非常に困っていた事がやはり、あきらめないでやって行く内に段々出来る様になったりして、とても嬉しかった。
 そして、その後の英検のテストだが、これはおそらく合格という訳にはいかないと思うが、前回に比べて、長足の進歩を実感する事が出来たのである。

 「実相は自分で出て来る。」という榎本恵吾先生から薫陶を受けた生長の家の神髄をこの時ほど実感した事は無い。実相は神様に全託しておれば、神様が引き出して下さるとも言えるし、実相即ち神様が自分でお出ましになるとも言えるのである。しかしながら、それはのんべんだらりと何の緊張感も真摯さもなくてダラッとしているという意味ではない。実相が自分で出て来るとはそれが自ずからなる訓練と全力の傾注という形で出て来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-10-22 17:13 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

捨身

 能力を発揮するには捨身即ち自分の身を捨てる事である。仕事やその他の色々な手続きでも失敗や間違いを恐れて、必要以上に確認して見たりする様では駄目なのである。失敗や挫折を恐れず、体当たりするつもりでないと能力というものは出て来ないのである。大体、完璧を求めすぎて、自分の記憶を信用せずに確認してばかりいる様では記憶力を使う事が無いから記憶力も退化して行く。それで失敗を恐れているから確認し過ぎて、却って失敗をするはめになるのである。
 
 人間は自分を不完全と見て、これから能力を上げて行こうというものではなくて、今、このままで完全円満、無限力であるのである。それは勿論、現象の事ではなくて、現象の奥の本当の生命、実相の事である。そして、それを妨げているのは自分の我(が)による自縄自縛のみである。その自縄自縛とは「そのままで完全円満の我が内の神に生かされた自分」を信じずに「私という我(が)がやらなくてはならない」という我(が)である。私が完全に間違いの無い様に確認しながら、やらなくてはならないなんて思う心である。その心が「そのままで完全円満の我が内の神に生かされた自分」の生命の無限の働きを自ら縛るのである。
  
 その縛りを解くものは内なる神に本当に全託する事である。本当に全託するとは自らの身を本当に捨てる事である。自らの身を本当に捨てるとは何も自殺する事ではない。この身はこのままでいて、かつ、この身を何とか保とう、自分の仕事や対面やその他自分にまつわる全ての事を保とう、良くしようという心を全て捨てる事である。それが自縄自縛を解くという事である。その時、今、「そのままで完全円満の我が内の神に生かされた自分」が生き生きとかつ適宜に動き出し、全てを整えるのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-10-19 12:29 | 潜在能力 | Trackback | Comments(2)

困難に向かって行く

 「困難に戯れろ」とは生長の家の教えである。困難というものが我らを苦しめる我らとは別の具体的なものであるならば、困難はただ不幸で嫌なものであるが、困難というのは自己の完全円満の実相生命を磨き出す為に自己が自ら心の力で造り上げた練習台であるから、困難に苦しむのではなくて、困難に戯れろというのである。

 さて、我々人間は肉体ではなくて、その奥にある所の完全円満なる神の生命そのものであるとは生長の家の根本真理である。この人生はその完全円満さの素晴らしさを表現する為のものであるが、表現する為には訓練をしなければならない。しかもその訓練はいい加減なものではなくて、全力即ち命懸けの姿勢を要求されるのである。しかしながら、その為にはもう後がないという様な背水の陣を敷かなくてはどうしても全力を出す事は出来ないのである。その為に我らの人生には色々の困難が出て来るのである。それは人によって異なるがある人は不治と言われる病であったり、夫婦不調和であったり、経済苦であったりする。それらはそのままであればその人は絶体絶命の状態であるから、それを何とかしようとして全力を出すのである。

 そうした場合は本当に真剣に人生に向き合わざるを得ないが、ともすれば避けて通れる困難もあり、そうした自分に課せられた困難、問題を出来るだけ回避しようとする人もいる。
 例えば何かの試験やスポーツの試合などの試練を避けたり、仕事などでも目標などを特に定めないで適当にやってみたり、又はある人に会わなくてはならないのにその人が苦手だと言う事で会うのを避けてみたり、今勤めている職場で何か苦しいことがあると簡単にその職場を辞めてしまったりとその他、自分に取っての課題があるのにそれに敢えて向かって行こうとするのを避けて、逃げてばかりいる人がいる。
 しかし、そういう人は自分の魂の向上、能力の向上の機会をみずからつみ取っているのである。何故、逃げるかと言えば、自分は本当は無限力の神の生命であるという事を知らないからである。

 現象はどうであろうと自分が今、実相の生命においては完全円満、無限力であるという事を信じて、どんな困難にも逃げないで立ち向かって行く者はその困難を切り開く事が出来るのである。また、やって見て、その時、どうしてもそれが出来なかったとしてもそこで大切な事を教えられ、その中で自分の真の姿、即ち無限力に直かに触れる事が出来るのである。何故ならば、課題から逃げないで向かって行く姿勢の根底には自分の無限力を信ずる信念があるからである。 それによって、例え、その困難の状況において、満足の行く結果を出せなかったとしても、その後の普段の生活において、その時に直に感じた無限力を易しい所からじっくりと鍛えだして行く事が出来、その後、どんどん実力が上がって行くのである。その結果、自分としてはこの事は困難だ逃げ出したいと思う事に対しても自ずと悠々と楽々と出来る時が来るのである。

堀 浩二
by koujihori | 2007-10-18 12:29 | 信仰 | Trackback | Comments(0)

マゾヒズム

 生長の家の聖典「生命の実相」の中に書かれているが、人類を不幸に追い込んでいるものは人類自身が持っている所の被虐嗜好(マゾヒズム)であるというのである。自分が不幸になったり、虐待されるのは表面の心では嫌だが、潜在意識にそれを歓迎する心があって、その為に色々な病気とかその他の人生苦を自分の人生に実現させるのだと言う。

 それは別の言い方をすれば、自分の事ばかり考えているのである。要するに利己主義であり、我が儘である。自分の事ばかり考える心は他人に求める心である。それは常に不満の心であり、自分の不幸を嘆き、他人に同情してもらいたい心である。それが自分が他の何かから苦しめられる事を喜ぶ心であり、不幸や苦痛を呼ぶ心である。
 自分の事ばかり考える心は自分の対面や自分の都合や自分の利益の事ばかり考える心であり、それは即ち自分を良くしたいという心である。それはとどのつまり自分を不完全と観る心であり、その自分を生かしている神を信頼しない心である。

堀 浩二
by koujihori | 2007-10-17 14:43 | 信仰 | Trackback | Comments(0)